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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章 始まりの絆 終わりの恋
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52伝 はじめてのひとり



 何度か角を曲がった先では、双龍の側近達が壁に溶け込むように待機していた。こうして誰も来ないよう人払いをしていたにも拘らず、ファナティカーは当たり前のようにあの部屋の傍まで来た。さすがに不敬だからという理由なのか、中に入りはしなかったけれど、どうせならこないでほしかったとトロイは思う。

 聖人は人間の意に沿う必要はないけれど、神の意思を矢面に立たせた教会の人間を蔑ろにするわけにはいかない。それでも、こないでほしかった。今は、明日も、永遠に。




「師匠! 待ってください、師匠!」


 小さな手に力いっぱい掴まれて、アラインはようやく呼ばれていることに気がついた。


「……トロイか。何だ」


 悪気のない無視をされ続けていたトロイは、やっと振り向いた師に唇を噛み締めた。今までは振り向いてくれなかったことが当たり前だったのに、いつからこんなことができるようになったのか。返事なんて返ってくることが稀だったのに、いつから返事を待つようになったのか。

 そんなこと、決まっている。

 いつも見上げていた真珠色の髪を半分染め上げた漆黒。彼にこの色を宿した人が、彼の色を受け入れた人が来てからだ。


「あんなこと言って、六花さんがいなくなっちゃったらどうするんですか!」


 他人のことも、自分のことですらどうでもいいかのように生きてきた師が笑った。六花が来てから、明らかに師は変わった。急速に、急激に。きっと、良い方向に。


「このままじゃ、本当に六花さん帰っちゃいますよ!?」

「だからどうした」

「どうしたって……師匠!」


 トロイは見上げた師の顔に息を呑んだ。そこにあったのは、出会った頃のような、完璧なまでの無表情だった。全ての感情を根こそぎ殺ぎ落としたかのような、いっそ冷酷とまで呼べるであろうその表情に、トロイは泣きたくなった。

 ほんの数日前まで、出会った頃から何年も。師はこの瞳をしていた。だがほんのさっきまで、師は笑っていたのだ。声を上げて、彼は笑っていたのに。この数日で、一生分の笑顔を使い尽くしたのではないかと思うほど自然に、穏やかに。微笑んでいたのに。


「トロイ」

「……はい」

「あいつはこの世界の人間じゃない。忘れたのか」


 師とこんな問答をしたのは初めてだ。初めてがこんな内容なのが惜しまれる。いや、こんな内容だからこそ、彼をこうして話をさせてくれる人に変えてくれた人のことだから、初めてが訪れたのだ。

 トロイは、薄く開いた唇から息を吸い込み、ぐっと留めた。


「忘れては、おりません」


 忘れるわけがない。そもそもこの世界の人間ではないから、六花はアラインの傍にいられたのだ。先入観も(しがらみ)もなく、知らず、そしてこの世界での(よすが)を何一つとして持たない六花にしかできないことだった。

 アラインを拒絶する理由のない六花。振り払う理由を見つけさせない六花の片翼であるアライン。

 二人でなければ成り立たない出会いだった。そして、その出会いは確かに意味を持ったはずだったのに。

 六花がいるからアラインが変わる。なら、いなくなったらどうなるのか。あの時感じた不安が、いま、現実になろうとしている。トロイは噛み締めた唇を解き放った。


「ですが、失礼を承知で申し上げます。駄目です、いけません師匠。師匠が手放さなくてはいけなかったもの、師匠が持ってはこられなかったもの全部、六花さんの中にあるんです。それを六花さんが持ってきてくれたんです。それを持って、師匠に会いに来てくれたんです。だから、師匠は六花さんを手放しちゃ駄目です!」

「そうだろうな」


 否定されるか無視をされるかの二択だと思っていた言葉に、ひどくあっさりとした肯定が返ってきて、トロイはぽかんと師を見上げた。


「だが、あいつが俺から得るものは何もない。俺達は片翼である以外の、何か名のつく関係を持っていない。ならば、片翼であることを止めれば、あいつは俺と何の関係もない存在だ」


 これ以上話すことはないと背を向けた師に、トロイは叫んだ。


「師匠っ、師匠はそれでいいんですか!?」


 返事は、無かった。






 しゃん、しゃん、と、錫杖の音が鳴り響く。数え切れぬほどの錫杖が奏でる音は一寸の乱れもなく揃い、まるでそれ自体が一つの足音のように歩を進める。

 夜の中を、黒と赤が声もなく進む。上から下まで開いた前合わせの服を帯びで止める特徴的な服を着ている。彼らは鎧から武具に至るまで黒と赤の意匠で揃えていた。


 日が昇る前よりも深い底、月影国で生きる闇人達だ。



 地上で生きる命にとっては地である場所を空として、常世の夜を生きる彼らの肌は白い。聖人も透けるような肌を持つが、闇人のそれは白いというよりは青さが勝る。夜でありながら月も星もない地底の底を国として生き続ける彼らは、決して陽を嫌うわけではないし、陽もまた彼らを拒絶しないが、彼らは滅多なことでは地上に出てくることはなかった。

 地界よりもさらに深く、瘴気渦巻く闇の底から生まれ出る命の理から外れた魔を始末し、陽を必要とせず、自ら光を放つ不思議な木や植物を光源とし、闇人以外の目に触れることなく時を過ごす。

 そんな彼らは、群れを成して地上を目指していた。戦闘もしていないのに赤を覗かせた武具を纏った兵士、頭の天辺から爪先まで着飾り長い裾を引く面々が、闇の中でも光沢を失わない輿を囲んで進んでいく。

 輿の中では、一人の青年が座っている。輿の中にありながら背をまっすぐに伸ばし、足を崩すことはない。左手は鞘に収められた緩やかに反った片刃の剣を握り、真正面に立てている。

 闇人が好んで使う、黒鋼の刀だ。黒鋼は地界でしか取れない上に、地上の命は誰も使いたがらない。


 青年は細長い箱を前に座っていた。幾重にも塗り重ねられた漆黒の箱を縛っている赤い紐。この光景を見れば、聖人も人間も教会も激怒するだろうと青年は分かっていた。だが、中身を砕かず百年間預かり続けただけでも感謝してほしいものだと思っている。

 青年の長い長い黒髪は一つに結い上げられて尚、輿の中を流れるほどだった。その黒髪をほとんど揺らすことなく、青年は視線を空へと向けた。植物がある場所だけが闇を退ける空の先に、地がある。


 青年の名は火綾(かりょう)

 王帝亡き地界を三百年間治める、闇人頭だ。


 闇人は地上に現れず、地上の命もまた地界を訪れない。ここは閉じた地だ。

 しかし、幾度となくこの地に姿を現しては騒乱を巻き起こす存在があった。


 列の前方が騒がしくなる。だが、火綾の紅瞳は空を見つめ続けている。植物が作り出す星の間を何かが貫いた。空から生える根はまるで生き物のように猛りながら、行進する闇人の列の中でのた打ち回る。


「来たか、エグザム」


 地空から降る無数の背徳者達に素早く視線を走らせる。だが、目的の人物を見つけられない。鞘ごと刀を握ったまま、闇の中に溶け込むかのような着物をひるがえす男を探す。

 数秒瞳を伏せた火綾が弾かれたように列の後方を向くのと轟音が響くのは同時だった。前方を囮とした奇襲部隊の中にその男を見つけ、口角を吊り上げた。

 狂乱は闇人にとって望むところだ。だが、騒ぐ血を抑え、高揚を瞳の中に抑え込む。輿の屋根に飛び乗った火綾の上で、龍のように轟く根が檻を作り上げる。

 その根を足場に、紅い狐面の男がこちらを見ていた。


「いい加減、名を教えないか。流石に二百年も付き合えば、お前が旧知の友のように思えてきてなぁ」


 男は何も喋らない。かたりと首を傾けて仮面を鳴らす。じわりと滲みだしてきたのは真珠色の模様だ。紅い仮面に真珠色の線が走り、狐ができていく。


「何だ、つまらん。それに、くれてはやれないんだよ。クレアシオンがなければ、エンデが月影に帰還しない。エンデが月影に帰還したならば、お前の名と引き換えに喜んでくれてやったものを」


 リヴェルジアは無言で武器を構える。二股に分かれた珍しい武器に、火綾は目を細める。


「お前の獲物がそれでさえなければ、物事はもっと簡単だったのにな」


 この武器に長けた一族を火綾は知ってはいる。だが、一人は森から出ては来ず、一人はとうの昔に死んでいる。

 ならばこの男はどこの誰だ。閉ざされた森長一族が伝承している武器を扱っておきながら、身元不明とはどういうことだろう。

 かたり、かたりと仮面が鳴る。作り物のはずの仮面の鼻に皺が寄り、あるはずのない牙が剥き出しになった。

 火綾は無言で刀を抜く。黒い刀身が闇に溶け込む。

 呼応したわけでもあるまいに、狐面はかたかたと鳴り、まるで咆哮を上げるかのように根が弾け伸びる。

 リヴェルジアは語らない。だが、火綾は男の声を知っている。

 初めて邂逅した二百年前からずっと、一つの言葉だけは発していたからだ。

 そして、今日もまた、二百年間繰り返された言葉が降る。


「死ね」


 呪詛のように吐き出された言葉と同時に振りかぶられた特徴的な武器に、刀を絡め取られぬよう回しながら、火綾は注意深く仮面の奥を探った。だが、どれだけ探ろうが、瞳の色すら見つけられない。

 組み合いながら、ふと思い出す。

 これだけ執拗に火綾を殺そうと地界に姿を現す男は、同じ地上を生きるはずの双龍の前に姿を現したことはないという噂は本当なのだろうか。

 一度聞いてみるべきだろうが、火綾にそのつもりはなく、双龍も答えることはないだろう。

 何故なら、目の前の男が火綾を殺したがっているように、火綾もまた双龍を殺したくて堪らない。三百年前の戦中、散々辛酸を舐めさせられた二人の聖人を思い出しただけで髪が浮き上がるほどの殺気が渦巻く。せめて一人だけでも殺せていたら、死んでいった数多の闇人の無念を少しは晴らせたのだろうか。せめて、片割れを殺された残り物の嘆きくらいは聞かないと、顔を見るだけで殺してしまいそうだ。


「リヴェルジア、俺と組んで双龍を殺さないか?」


 聖人と闇人を執拗に、そして人間すら容赦なく殺して回る男に持ちかけた提案は、周囲全てが針のように尖った根で覆われたことで跳ねつけられた事を知る。


「ああ、つまらない。つまらんな、リヴェルジア。俺とて世界の崩壊は望むところではないが、少なくとも、皇帝亡きいま聖人の象徴と成った奴らの死体を見ずして死ねないな!」


 嬉々として口角を吊り上げた闇人頭が刀を振り抜くのと、世界が揺れたのは同時だった。


「何?」


 あり得るはずのない振動に火綾の眉が寄る。天すら地となる地界では、世界の全てが揺れ狂う。それに、些細な揺れであろうと、世界が揺れること自体が狂喜の沙汰だ。

 赤と黒が悲鳴を上げる中、火綾は違和感を受けた。目の前の男が、男が率いる集団が、動揺していない。

 かたりと仮面が揺れる。かたり、かたりと、仮面が語る。


「……リヴェルジア、お前、何をした?」


 仮面の色がぐるりと裏返り、真っ二つに割れる。黒と白に分かれた狐が、にたりと笑ったように見えた。


「神脈を乱した」


 堪えきれぬ笑い声が狐から湧き出ていく。邂逅して二百年。初めて交わした会話と呼べる出来事に、感動が挟まる余地はなかった。


「……お前、それがどういうことか分かっているのか」

「分かっているさ。誰より、分かってる」


 神脈の乱れは世界の終わり。世界が壊れれば何もかもが終わりになる。男が憎むものも破壊されるだろうが、男自身は勿論、全て何一つとして残らぬ惨劇となる。

 だが、火綾の言葉の真意はそこにない。聖人の誰かがこの場にいたのなら、全く同じであり真逆の真意を叫んだだろう。


「王帝の意を無にすることは許さんぞ」


 三百年前、『誰より』尊い御身でありながら、世界のために全てを擲って散った王帝の意思を無に帰すことこそ、闇人が何より許せぬ所業だ。聖人もまた、『誰より』尊い御身でありながら、世界のために全てを擲って散った皇帝の意を何より重んじる。


 黒に桜が散る女物の着物の裾を、まるで蝶の羽のように大きく広げたリヴェルジアは揺れる世界に根を突き立てる。


「闇人も聖人も人間も、この世に生きとし生ける命全て」


 歌うように怨嗟を紡ぐ。呪うように言葉を紡ぐ。

 二百年目にして初めて、狐が語ったものは。


「二人に殉じて死ぬべきだ」


 壮絶な呪い歌だった。









 ぐずぐずとみっともなく鼻を濡らし、人様のベッドを占領する。

 小さな子どもでも知っているはずの泣きやみ方を忘れてしまった私の涙は、ようやく止まったと思っても、身動ぎした拍子に身体に触れる温もりが何もなくてまた溢れだす。どうしよう。こんなんじゃ私、どうしたらいいのだろう。誰かに触ってない事なんて当たり前だったはずなのに、それがこんなにも寂しくて悲しくなってしまったら、どうやって生きていけばいいのだろう。

 ……嘘だ。本当は分かってる。誰かに触れないのが寂しいんじゃない。ここにアラインがいないのが寂しくて痛いんだと、分かってる。


 シーツを巻き込んでぎゅうぎゅう丸まっても全然安心できない。力が入りすぎた関節は痛くなるし、手足は痺れてくるけど、寂しくて寂しくてとても伸ばしていられない。


 固着が取れたのだから、一緒に眠る必要はないし、そもそも一緒にいる理由がない。分かってる。

 元の世界では毎日の当たり前のことだったはずなのに、一人の部屋で眠ることが寂しい。この世界に来るまで知らなかったはずの人がここにいないことが、こんなにも。

 ぎゅっと抱きかかえた枕に顔を埋めた。


「帰れる。帰ろうと思えば……」


 そもそもこの世界に来たのは私の意思ではないし、アラインの都合ですらなかった。いきなり呼び出されて、帰れないと言われた。その衝撃は多分一生忘れない。びっくりしただなんて、そんな言葉では表せない。本当に衝撃だったのだ。


「……でも楽しかったな」


 とても、楽しかった。温かかった。見上げた頭も、見下ろした小さな頭も。どれもとても嬉しかった。近しい存在の暖かさを、有り難味を、思い知った。

 今まで知らなかった人を、その温かさを知った、そして失うのだ。



 枕を抱えたまま、視線だけで天井を見上げる。寝返りを打っても誰にも当たらないし、引っ張られない。当たり前の事で感じる違和感を知りたくなくて、身動ぎ一つ躊躇う。

 この世界に来て初めて寒さを感じて、じっと身体を丸めた。


 始めは、訳が分からなかった。異世界だなんて言われても、片翼だなんて言われても。訳が分からなくて、ぐるぐるして。知ってる世界と違うことに時々無性に泣きたくて。

 それでも平気でいられたのは、小さなあなたがいてくれたからなのに。


 アラインに私が必要なかったら、私がこの世界にいる意味のアラインが私をいらないって本当に思っていたら、私はどうしたらいいんだろう。


 私がこの世界にいるのは、アラインの片翼としてだ。その為にここにいる。それ以外の何かを築けるだけの時間はなかった。トロイはアラインの片翼の私に懐いてくれた。ロイさんはアラインの片翼の私を逃がしてくれた。グランはアラインの片翼の私を運んでくれたし、そのお師匠さんはアラインの片翼の私を無視してくれた。シャムスさんとエーデルさんも、アラインの片翼の私に親切にしてくれた。

 私と直接何か名前がつく関係だった人なんて、アラインだけなのに。その関係すら、誰かが決めたものだったけど、それ以外の関係になりたいと、友達になりたいと思った人だったのに。

 その本人がいらないと言うのなら、私の存在はこの世界で無意味なものになる。関係ない人にどう思われても、なんと言われても耐えられる。大事なものがあれば頑張れる。だけど、一度笑い合ってしまえば、もう駄目なのだ。その相手に邪魔だと思われるのは、耐えられない。大事なものになってしまった人に不要だと言われるのは、痛い。


「いらないは、痛いよ、ばか」


 一番初めは、綺麗な紅瞳だなって思った。でも、まるで砂のような目だと、子ども連れのくせに誰のこともどうでもいいような無機質な瞳だと思った。次はちょっと待てこのやろうって思った。

 次は、笑ってほしいと、もっと一緒にいたいと、思った。思ってしまった。

 帰りたい。一緒にいたい。同じくらい強い、正反対の願い。


 誰もいないシーツの海に視線を戻し、ぐっと唇を噛む。思い出すのは、双龍が話してくれた昔話だ。昔、悲しい想いをした二人がいた。死ぬほどつらい選択をした少年と少女がいた。願った唯一を、欲することすら赦されなかった恋人達がいた。

 私はきっと、選んだ望みが手に入る。でも。


「ねぇ、桜良、晃嘉……私は我儘なのかな」


 どっちかなんて、選べないよ。


「会わなきゃよかったなんて思いたくないよっ……」


 ぐしゃぐしゃに握りしめたシーツに固く閉じた瞳を押し付け、溢れ出たもの全部を染みこませる。なのに、涙も泣き言も、いつまでたっても枯れてくれなかった。







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