51伝 終わりの恋
「父上――!」
森の中から、森と同じ深緑色の外套を羽織り、黒髪を靡かせて少女が現れた。その隣では少女と同じ外套のフードを脱ぎながら歩く少年がいる。
二人が着ているのは守人の服だ。
森の外からの人間を一切受け入れない禁断の森のみで生きる一族。それが守人だ。
だが、その中で異例の『余所者』が四人いた。彼らは、森の長と並ぶほどに強く、賢く、美しかった。
呼ばれた長は、ふわりと相好を崩した。若干十四で成長を止めてしまった長は、まだ幼い顔立ちだった。けれど、その存在が醸しだす威厳は他者を圧倒してしまう。他森の者でさえ侮ることはしない。この長が使う枝分かれした二股の武器は、どれだけ磨き上げられた刃物でもあっという間に絡め取り、圧し折ってしまうのだ。
「何だ二人とも。もう終わったのか?」
「ええ、父上。侵入者は全員退けたわ」
「怪我もない。父上の方も終わったのですね」
長は、実の息子が兄姉と慕い、自らも実子と遜色ないほど愛情を注ぐ二人の子ども達の報告を聞いて頷いた。
「ご苦労様。ああ、そうだ。夕食の後にお前らに話があるからそのつもりでな」
ぐしゃぐしゃと二人の頭を掻き混ぜた長が、痛々しそうに顔を歪めたことに、二人は気付かなかった。
桜良も晃嘉も、共に十六歳。双方とうに片翼を喚び出す儀式を行っている年齢。昨今は相次いで二人の聖人が、一人の闇人が喚び出せはしたものの、本来なら成功することなど皆無に等しくなった儀式だ。それでも年頃になる前に必ず一度は行われる。天に還るための力を得る可能性が欠片でも残っているのなら、それを行わないのは怠惰だと、彼らの魂が知っているからだ。
けれど長は、二人に片翼との契約を許さなかった。そのせいで子ども達が力無き者と呼ばれても、子ども達の望みは大抵全て叶えてきた長が、それだけは決して。
何だろうと顔を見合わせた子ども達の耳に、騒がしい声が届いてくる。
「ヴェーウ! 全く、あんなことをして。後で困るのは貴方なのですよ?」
「あのね、あのね、ネーベル。べつにね、いいと思うよ?」
「ヴァルト! お前はいい奴だなぁ! 助けてくれるのか!?」
「あのね、ネーベルがヴェーウ怒ってるとね、僕は兄上と姉上をひとりじめできるんだよ!」
「やべぇ、こいつ腹黒い!」
家の中から出てきた少年は、兄と姉の姿を見つけた途端駆け出した。その後を、名をシュヴェーア、ネーベルと偽り森で暮らす、片翼を失いし者が続いた。
森の奥の神殿には目もくらむような宝物があるだの、全ての願い事が叶う薬があるだの、根も葉もない噂がまことしなやかに流れているため、森に侵入する不届き者は後を絶たない。それらを撃退し、森を守るのが守人としての務めだ。
武勇伝をせがむ小さな弟に面白おかしく語って聞かせる兄と姉。二人の聖人は、子ども達を微笑ましく見つめる顔から紡がれたとは思えぬ声音を長に向けた。
「……契約の許可を、出されるのですね」
長も二人を向かず、はしゃぎ合う三人の子ども達を眩しそうに見つめていた。
「もうこれ以上、双方の主を隠し通すことも出来ないだろう。……あの子達は力があり過ぎる」
「あいつらほどの力の持ち主が契約を行えば、力の奔流が世界に響く。そうなったら、奴らは絶対にここを見つけ出す。……あいつらは共にいられなくなる。だから今まで隠し通してきたんじゃないのかよ!」
音を立てて握り締められた拳を木に叩きつけたシャムスに、長は振り向き、そして静かに呟いた。
「時が来た。……ただ、それだけのことだ」
神は残酷だから。
それが、長の口癖だった。
「喚び出された片翼は、双方最上級の人型でした。今この世界中でも、人型を呼び出せたのは彼らが最後でしょう」
召喚が活発だった時代でさえ、百年に一度喚び出されるかどうかも分からないほどに貴重な最上級。下級中級上級最上級と分けられる中、人型を取れるのは最上級のみ。その召喚者の名は、必ず歴史に刻まれる。
「俺達の片翼は、晃嘉と逃げる時に失くしちまった。それを晃嘉はずっと気にしてたが、奴らは晃嘉の役に立てたことを喜んでたから、気に病む必要なんて全然無いのにな。あいつらの願いは晃嘉が笑って生きられることで、その祈りが桜良と出会わせてくれたんだ」
長椅子の背凭れに寄りかかって背後の肖像画を見上げ、目を細めたシャムスは、袖をまくりあげ剥き出した右腕を撫でた。そこにあるのは、縦に傷跡が走る刺青だった。エーデルの左腕にもあるそれは、彼らの契約の証だ。中心の玉は、砕けていた。
現在、世界に最上級の片翼は一体もいない。双龍の二人は昔、そして二人の王はその全てを共に失い消えたからだ。
停滞していた宿命が再び始まった日、現れた二匹の召喚獣だった。
『ラーヒ・ドゥルスト。ラーヒと呼べ』
『フェア・ヴァィフルングよん。フェリーって呼んでね! ダーリン』
長の予想通り、二人の主が喚び出した力の本流は世界に響いた。それに気付いた者達は、歓喜した。
『ここにいるのか。我らの王が』
『ここにいるのか。我らの皇が』
十年間止まっていた時が、動き出した。そのことに、二人の子どもはまだ気付いていなかった。
喚び出した二匹の守護獣を従え、二人はいつものように侵略者討伐へ向かった。いつものように息をするより簡単に終わらせられるはずだった。
しかし、そこにいたのは、新たな動乱の始まりだった。
侵入者を排除し、帰ろうとした二人の元に、新たな侵入者が現れた。黒いフードを深く被るその姿に、二人は仕舞いかけていた武器を構え直す。
己の力で形成した武器は好きなように形を変えられる。侵入者に見た目で威圧を与えるよう、桜良は大鎌を、晃嘉は大鉄槌を構えていた。人間ならば、見た目にそぐわぬ力で巨大な武器を振り回す二人に脅え、姿を見ただけで逃げたすことすらある。だから、二人はこの形を好んで使った。余計な手間が省けていいと、いつものように武器を構える。
桜良の守護獣ラーヒは人型を取らず巨大な狼のまま、闇人を見据えた。
「闇人は神の領域に手を出すつもりか?」
「森の民と争うほど暇ではない…………我らは主の御前に挨拶に伺ったまで」
闇人の群れは、揃えた指先で音も無くただ一人を指した。
「そこにおられるではないか。……最上級召喚獣ラーヒ・ドゥルスト。そなたの背に」
ラーヒは、震える己の主を振り返った。
「……主?」
幾人もの闇人の声が重なり、木霊する。耳障りなほどに大きな音となり、その声は彼らの頭の中に直接流れ込んできた。
「我らの王、キルシェ・ドゥンケル・ケーニヒが」
桜良は武器を握り締め、影に向かって走った。大鎌を振り下ろし、影と溶け込んだ闇人を振り払い、叫んだ。
「私は王になりたいと思ったことは一度も無い! 姉上がなりたいと仰るのならばそれでいい。お前達は地界に帰れ、二度と私の前に現れるな!」
「貴方は我らが王。神がそう定めた」
「うるさい!」
切り裂かれた闇人は、渦巻き、桜良を取り囲んだ。影となり溶け、交わり、世界を闇で包み込んだ。荒い息をつき地面に膝をついた桜良の周りを囲み、闇を降らせた。
「私はもう、あの場所には戻らない」
「そこにいる者に心を捕らわれておいでか」
追いついてきた闇は、拒絶する桜良を取り囲み、更なる絶望を突きつけた。
「共にあることなど、出来ぬというのに」
幾人もの闇人の言葉に、身体を震わせたのは晃嘉のほうだった。信じられない、信じたくないと重なった視線は、双方恐怖に濡れていた。
「晃嘉……?」
「お前が、王……?」
恐れは、終わりを含んでいた。
もう駄目だと、頭のどこかで警鐘が鳴った。もう終わってしまったのだと、始まってしまったのだと、鐘は教えていた。認めたくない二人は必死に耳を塞ぐが、世界はそれを許さない。
「そやつは聖人の皇 エリシュオン・ハィリヒ・カイザーなのだから」
血の雨が世界を満たす。頭の中に直接響く声を残し、闇人達は消えていった。壊れたように全てを切り裂く子どもらの胸に、ただ一言を突き刺して。
「交わることなど、赦されぬ」
「黙れぇ――――――!」
動くものが誰もいなくなるまで、二人の子どもは剣を振るい続けた。少女は生を終わらせ、少年は死を始めた。
しかし、崩壊は止まらない。既に終わりは訪れて、崩壊は始まってしまったのだ。
それは幼い夢の終わり。終わったのは、この世で最も尊く最も幸福な夢。それは物語の始まり。始まったのは、この世で最も純粋で最も残酷な物語。
その後は図らずも。神の手の内をまるで転がり落ちるが如く。
兄を殺し。
姉を殺し。
互いの心が壊れる前に。互いが互いを殺す前に。
死に物狂いで掴みとった、最初で最後の停戦の使者という名の希望は、教会が惨殺したことで永久に途絶え。
『今日こそ奴らを根絶やしに!』
『奴らの皇の首を取れぇ!』
降り注ぐ血の雨の中、子ども達は選択した。
『……エリシュオン皇帝、その命、貰い受ける』
『望むところだ、キルシェ王帝…………貴殿の首を、頂こう』
望むことすら赦されない祈りを抱え、泣けない涙を流しながら。
『『さあ、終焉の始まりだ』』
誰もが知っている最後の皇と王の。
誰も知らない、死に逝く恋の物語。
かちゃりと、カップが下ろされる。
部屋の中は静まり返っていた。息すら苦しくて一言も発せられない私達に、二人は同じ苦笑を浮かべた。
「後はお前らが知ってる通りだ。戦闘中に神の使徒が世界の崩壊を告げてきた。十年にも渡る皇と王の不在が、それを引き起こす引き金になったと言った。二つの種族は、地上では最も神に近い種族だ。その頂点に立つ二人は、世界を安定させる役割も持っていた。二人が玉座に戻った時は、もう遅かった。だから、あいつらはその身ごと世界に捧げて礎にしたんだ」
ぐらりと世界が揺れた。
どこかで悲鳴が上がる。この閉ざされた最奥の間にまで響くほどの悲鳴だ。トロイはもうずっと私にしがみついている。また一つ小さな揺れ。まるで眩暈のような揺れだ。けれどまた、城中で絶叫が上がった。
この世界での地震は、世界の均衡が崩れている事を示している。世界の調律が整っているのなら、世界は決して揺るぎはしないのだという。
私の故郷でも地震はあるし、母の故郷は地震大国と呼ばれていると告げた時の彼らの驚きようは凄かった。
お前の世界の神もさることながら、始祖神はどうしたのだと問われた。けれど私にはどの神様か分からなかった。
私の世界にだって、色んな宗教があった。それに、お母さんの世界の神様はもっともっと、たくさんいると聞いた。仏、釈迦、イエス、アッラー、万物八百万の神々。国によって民族によって神様がいる。更に、お母さんの国では、長く使った物にまで神様が宿るという。それを伝えても、世界を創りたもうた万物を司る唯一の神を聞かれる。
どう答えたらいいか分からない。だって私は、神様って本当にいるのって、まだ、この期に及んでそんなことを考えているのだ。
小さな揺れくらいなら平然としていられる私に、双龍の二人は苦笑した。だって私には、他に動揺すべきことが多すぎて地震にまで頭が回らない。
ぎゅっと力を篭めた腕が、鈍く痛んだ。力を入れすぎて痣になりそうだった。
「……あの人が言っていたことは、本当ですか」
「神の膝元でならば情報の捜索は許されますし、教会は合いの子が力と幸せを得ることを全力で妨げようとする機関ですから、その為の労力は惜しみません。誰もいない場で貴女にだけ囁いたのであれば、貴女を誘き出す虚偽であったのでしょうが、仮にも双龍である私達の前でのたまったのならば事実でしょう」
「だって私、アラインと引っ付いてます」
縋るように、免罪符のように、言い訳そのものを。
お互いあれだけ辟易したこの現象を、帰れない言い訳に、帰らない言い訳に使う私は、卑怯でずるくて小賢しい。馬鹿のくせに、こんなことだけは簡単に考えられる自分が酷くみっともなくて堪らない。まっすぐに見てくれるアラインに対して、顔向けできないくらい恥ずかしい。
でも、どうしたらいいのか分からないのだ。
心の準備なんて全然できていない。言い訳がないと、自分の心すら定まらない。離れられないから、帰れないから、だから仕方がないと。そうじゃないと、耐えられない。
「六花、立て」
やけに静かにシャムスさんが言った。
言われるまま立ち上がる。言われたから、立ち上がる。何も考えず、どうして立てと言われたかも分からないことに疑問も持たず。アラインはちゃんと疑問を浮かべながら立ち上がろうとしていたのに。
「アラインはそのままです」
そのアラインを制止したエーデルさんが私の腕を引く。引かれて、一歩つんのめる。つんのめって、たたらを踏んで。
「六花」
呆然としたアラインの声に振り返って。
この世界に来てからずっと、呼吸音すら聞こえるほど近くにいた人が、三歩も遠い。たった三歩なのに。こんな距離、隣にいるのと変わらないのに。
それなのに、酷く遠く感じた。
一体、いつから。アラインは私を引きずらなくなっていたのだろう。手を引いて、私を振り向いてくれたから、いつから私達が離れていたのか分からない。それはきっと、嬉しいことのはずだったのに。
呆然としたアラインの手が僅かに浮いているのは、私に伸ばそうとしてくれていたと自惚れていいのだろうか。自惚れれば自惚れるほど、心の中に凝りが溜まっていくのが、悔しい。
アラインが私を見てくれることを、ただただ喜べたらどれだけよかっただろうか。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、アラインと離れてるって、分かったんですか?」
「色が混ざるほど寄り添っといて、固着が取れないほど互いを弾き合っているはずがないからな。それに気づかず過ごせるようになるなんて思わなかったぜ。すげぇな、お前」
私も、アラインが私を見てくれるようになるなんて思わなかった。それはたぶん凄いことで、尊いことで。とても、嬉しいことで。
それなのに、苦しい。痛くて堪らない。
仲良くないから引っ付いて、仲良くなれたから離れて。酷い矛盾だと思った。でも、前にそう思った時よりもっと、もっともっと思っている。
ああ、やっぱり私は馬鹿だ。そう、思い知る。
お母さんは言ったのに。自分で選べと。色んな要因があっても、どんな影響が他からあっても、自分で決めなさいと。ちゃんとそう教えてくれていたのに。馬鹿でもいいから、ちゃんと自分で考えなさいと言っていた意味が、ようやく、分かった。
どうしたって痛みを伴う選択を、考えないよう後回しにしたつけは必ず巡ってくる。逃げて考えないようにして、選ばない内に選択肢が決まっている方がよっぽど痛いのだと、私は教えてもらっていたのに。分かっていたつもりで、知っていただけで分かったつもりになって、理解できていないことに気づいていなかった。
「闇人が来るまで、まだ時間がありますから部屋で休んでいたほうがいいかもしれませんね。アラインは聖騎士ですから、闇人の出迎えには出てもらわねばなりませんが、それまでは」
「あの……」
「はい?」
俯いたまま顔を上げられない失礼な私に、エーデルさんは優しい声を向けてくれた。きっといつもの穏やかな笑みを浮かべてくれているのだろうなと思う。見なくても思い浮かぶのは、私がこの世界で過ごした時間があるからだ。だからこそ、振り向けない。トロイが、アライン、が、どんな顔をしているのか分からないから、振り向けない。何も知らないわけじゃない彼らがどんな顔をしていても、私はきっと、痛い。
「……片翼って、帰っても、大丈夫なものですか?」
この期に及んでまだ余所に理由を探している卑怯な私を、エーデルさんは責めなかった。
「もともと片翼という繋がりを持つ理由のない人間である貴女は大丈夫ですが、アラインは大丈夫ではありませんね。一度満たされた器は隙間を自覚します。知らなかったころには戻れない。常に欠けた身体と心を持て余すでしょう。夜も眠れず、食事もとれず……元々そうでしたが、その状態に戻ります」
責めはしなかったけれど、容赦もしてくれなかった。自分じゃどうしようもない理由が欲しくて問うて、包み隠さぬ容赦のない現実が返ってきた。聞きたくて、聞きたくなかった。でも、聞けてよかったと思った自分の馬鹿さ加減に、いっそ呆れる。選べない理由ができたと喜べたらよかったのに、アラインが苦しむことを知らずに、大丈夫だと言われる言葉を鵜呑みにして帰って、その事実を知らぬままいなくてよかったと、そっちをよかったと思ってしまったこの馬鹿を、誰か、どうにかしてほしい。
自分で選べもしないくせに、理由があっても苦しくて。それなのに全部知りたがる強欲で愚かで惨めで卑怯な私に、エーデルさんは続けた。
「ですが、それらは時が癒すでしょう。貴女の目の前にいる私達は片翼を失いし者ですよ。どうです? 私達はやつれ果てているでしょうか?」
そろりと視線を上げた先で、エーデルさんは優雅に、シャムスさんは豪快にお茶を飲み干した。
声が出なくて、振った首を答えにする。
「ま、そういうこった。変化は出るが、それはお前が背負うことじゃねぇ」
「ですから、貴女は貴女の願うままに生きればいいのですよ。貴方々は、それが許されているのですから……晃嘉と桜良は、願いのままに生きることすら許されなかった。あの子達は、ただ共にあれたらそれで良かった。けれど世界はそれを許さなかった。あの子達は選ばされたのですよ。崩壊する世界を見捨ててその終焉まで共にあるか、皇に、王になることで世界を支え決別するか」
結局それすらも間に合わず、肉体と魂、その全てを世界に捧げることで世界は在り続けた。皇と王の座の空席が長すぎた。それにより均衡を崩した世界の崩壊を止めるには、二人はあまりに幼すぎた。それはエーデルさん達も同じだったと言う。三百年前に関った全ての者がそうだった。神の定めた宿命から逃れるには、誰もが若すぎたのだ。
「あの……この地震は」
「まあ、世界が壊れかけた衝撃ってとこか」
「神の拘束を受けた晃嘉と桜良が、二人のまま貴女の前に現れたということは、もういろいろ限界なのでしょうね」
けろりと返された言葉に、私とトロイが息を飲む。思わず振り向いた紅瞳はじっと私を見ているだけだったけれど。
「じゃあ、この世界は……どう、なるんですか?」
「お前が気にする必要はない。冷たい言い方かもしれねぇが、お前がこの世界に残らないのなら関係ないことだ。知らないままでいたほうがいいさ」
冷たい訳ではないと、思う。きっとそれは正しいことだ。人はそんなにたくさんのことにかかずらってはいられない。自分が生きていく上で関係のないことにまで関れない。
「お前はどうしたいんだ? 残りてぇのか、帰りてぇのか」
分からない。だって私にはこれを、この気持ちを、感情を、未練と呼んでいいのかすら分からないのだ。生まれた世界を失うなんて、本気で考えたこともない。子ども特有のもしも話に精が出ていた年頃には、そんなことを夢想したりもしたけれど、本当に失う可能性があるなんて思ったこともなかったのに。
この世界での未来なんて考えたこともなかった。あの世界で過ごす以外の未来なんて想像もしなかった。
この世界に来るまでは。この世界で誰かと話すまでは。
アラインと、出会うまでは。
「……俺は」
感情すら定まらない今の状態では、言葉として発することのできるものは何もなかった。だって言葉にする感情が分からないのだ。ぐるぐるぐるぐる、いろんな言葉と感情が頭や胸の中を回っている間に、アラインがぽつんと波紋のように言葉を発した。
もう固着はとれているはずなのに、あの時より余程強い力で、引き寄せられるように私の視線が固定される。ずっと逸らされなかった紅瞳は、こんな時でもまっすぐに私を見ていた。
「今まで片翼がいなくても問題なかった。だから、お前は帰れ。……お前がいなくても、俺は問題ない。お前は、いらない」
一瞬何を言われているのか分からなかった。呆然と立ち尽くす私の前で、アラインはシャムスさん達に向けて一礼して背を向けた。そのまま歩き出す。
「し、師匠、待って、待ってください師匠!」
私が引き摺られることは無かった。アラインは止まらず、私は追いかけない。だから、私達の間はどんどん離れていった。
その背を小さな子どもが追いかける。何度も何度も交互に私とアラインを見ながら、泣き出しそうな声で追いかけていく。一度も振り向かずに遠ざかる背中が部屋を出て、廊下を曲がって、視界から消えた瞬間、私の頬を何かが滑り落ちた。
みっともなくて服の裾で擦り取るけれど、次から次へと溢れ出て止まらない。必死に何度も何度も擦る。でも、幾ら拭ったところで、涙どころか湧き出るみっともない感情はちっとも消えてくれなかった。
アラインが苦しくないならいいと思った。そこに私がいなくても、アラインが楽しいならいいと。アラインに大切なものがあって、アラインがそれを知って、アラインが笑ってくれるならそれだけで嬉しいと思っていたし、実際、本当に嬉しかった。
だけど。
「……そっかぁ、いらないかぁ」
少しは仲良くなれたかもって思ってたのは、私の思い上がりだったのかなぁ。
今まで感じたこともないほど痛む胸を持て余す。こんな痛み、知らない。転んで擦りむいた膝も、低い棚にぶつけた額も、悪戯して引っ叩かれたお尻も、包丁で切った指も、ボールが当たった顔面も、壊したお腹も、熱が出た頭も、睫毛が入った瞳も、さかむけになった指も、冬の寒い朝にきんっと痛んだ鼻も、乾燥して切れてしまった唇も、全部ひっくるめたって届かない。
まるで半身が捥がれたような、息も出来ないほどのこれを痛みと呼んでいいのだろうか。
お母さん、お父さん。
そう呼んで泣き叫びたいのに、口に出した瞬間この世界との縁が途切れてしまいそうで怖い。助けてほしいのに助けを呼ぶのも怖くて。帰れないのが悲しくて帰るのも悲しくて。
立っていられなくて蹲った。ぼたぼたと落ちる滴が綺麗な絨毯を濡らしていく様を見ながら下唇を噛み締める。
『お前は、いらない』
別に、アラインの傷になることを望んでいるわけじゃない。そんなこと一度だって望んだことはない。
でも、だったら、なんだったのだろう。この時間は何だったのだろう。
私は何のためにここにいて、なんでこんなに泣いてるんだろう。なんでこの世界に来て、なんで来てすぐじゃなくていま。
私をまっすぐに見てくれた紅瞳との別れが寂しさではなく痛みとなるまで待っていてくれたのだとしたら、痛みが糧となるまでは待ってくれなかったのだとしたら、神様とはずいぶんな性格をしているらしい。