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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第一章 始まりの森 終わりの夢
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4伝 はじめての歴史





 昔々、まだ世界が出来たばかりの頃。

 神様は、世界に命を創り出しました。それは木となり花となり、虫となり獣となり、それぞれがそれぞれとして育っていきました。神様はとても満足でした。命を大切に大切に愛し、産まれた命達は消えることを知らず、どんどん増えていきました。

 しかしそのうち命は増えすぎて、世界に溢れ出しました。

 神様は困ってしまい、考えました。どうすれば増える命を止めることが出来るのか。


 神様が命を消せば、世界に芽生えた全ての命が途絶えてしまいます。根こそぎ消滅してしまうのです。神様は考えました。ただ消すのではなく、増やすのではなく、二つを上手く調和させていくことは出来ないかと考えて、長い時間悩み続けました。

 そして神様は、二つの存在を産み出しました。


 一つは、終わり。

 一つは、始まり。


 後に生まれた人間は、二つに名前をつけました。


 聖と魔。

 光と闇。

 天使と悪魔。

 生と死。


 始まりには好意を、終わりには拒絶を。

 でも、二つは、ただそれだけだったのです。





 静かに語ってくれる、声変わりはまだ遠い子ども特有の高い声。内容が内容だったから、なんだか絵本を読み聞かせしてもらってるみたいだ。


「始まりが聖人、終わりが闇人です。だから、この世界には聖人と闇人と人間、三種類の人類がいるんですよ」


 鞄から小さめの書き物帳を取り出したトロイは、教科書のように読み上げる。騎士学院の宿題だったのだそうだ。世界の成り立ちを纏めて提出せよ。なんとも素晴らしい宿題だ。見たことも会ったこともないトロイの先生、どうもありがとうございます。おかげさまで全然関係ない私が恩恵に預かっています。



「じゃあ、最初に私に人間かって聞いたのは、猿と間違えたからじゃないんだね?」

「六花さん、猿に間違われたことあるんですか?」

「猿はないかな」

「何ならあるんですか?」

「…………鶏、とか?」

「…………異世界の鶏って人型なんですか?」


 青褪めたトロイに、私は神妙な顔で頷いた。

 すごい誤解です。



 あれは、私がまだトロイより小さかった頃。近くの野原までお弁当持ってピクニックに行った時のことだ。

 まだよちよち歩きだった弟と、よちよちもできない妹はお父さんとお母さんといた。だから私は、お兄ちゃんと二人で探検に出かけた。勝手知ったるいつもの場所だけど、小さかった私達には大冒険だった。


 近くの家ではその日鶏をしめようとしていた。そして該当の鶏が逃げ出したのだ。しかも、首を落とした後に。鶏は首を落としてもしばらく生きてるし、てってこてってこ走っていくからちょっとうっかりしていて逃がしてしまったのだそうだ。


 その時、運悪く茂みにいたのが、私とお兄ちゃんだった。

 あれは本当に怖かった。どんぐりを拾っていたら、知らないおじさんが血塗れの鉈を片手に『へっへっへっ……そこにいやがったか……もう逃がさないぜ……早くつるし上げて血をぬかねぇと、うまくねぇからなぁ』と薄ら笑いを浮かべて近寄ってくるし、腰を抜かした視線の先を首なし鶏が駆け抜けていくし。

 私より先に『ぴぎゃ――!』と悲鳴を上げて泣きじゃくったお兄ちゃんの声で飛んできたお父さんに、今度はおじさんが腰を抜かした。鶏が剣を持って仕返しに来たと思ったのだそうだ。

 あれ? この場合、鶏に間違われたのはお父さん?


 お父さんは、泣きじゃくりながらも私を抱きしめておじさんから庇っていたお兄ちゃんを『えらい子だ』と褒めて、泣きじゃくりながら石を握っていた私を『つよい子だ』と褒めてくれた。そして、おじさんが怖がらせたお詫びにとくれた卵を持って、お母さん達の所に戻った。お母さんは、私とお兄ちゃんの下着と服を代えてくれた。

 まあ、その、怖かったから。

 突発的豪雨に見まわれた私とお兄ちゃんを抱っこしてくれていたお父さんの服もきっと大惨事だったけど、お父さんは何も言わずに私達の頭を撫でてくれた。






 命の『始まり』から創り出された『終わり』。

 終焉を司るもの。始まりで溢れた命を終わらせるもの。

 『始まり』は終わらせた命を始めるもの。生を司るもの。


 人間。動物。植物。神が創り賜うたその全て。それらを統括するもの。



 生み出された始まりと終わりは、いつしか二つの種族となった。いつしかというには少し語弊がある。始まりと終わりは、神の望みのままに二つの種族となった。その統率者は最も神に近しい者とされて崇められた。

 だが、神は考えた。至上とは唯一無二であることだと。至上なる種族は二つもあってはならない。そもそも二つは真逆の存在。相容れることは決してないのだ。

 そう神に定められた二つの種族は、互いを滅ぼさんと全てを懸けて争った。終わりを知った始まりは、始まりを知った終わりは、己だけで世界を統治できると宣言したのだ。

 命の頂点である二つの種族の争いは、全ての命を巻き込んだ。


 始まりは、光を司るものとして、神の名の元にお前達を神の御許へ導くと言った。

 終わりは、闇を司るものとして、お前の命と引き換えに望みを叶えてやると囁いた。



 二つの強大な種族による争いは世界を大きく欠けさせた。人間は同じ種族である互いですらも対立し、争いは広がり続けた。友と殺し合い、恋人を裏切り、家族を奪った。誰もが争い続けた。それを煽り、聖人と闇人は戦い続けた。

 始まりと終わりは、それぞれの種族を統治し己が種族を確立させ、敵対する種族を滅ぼさんとした。


 争いは、いつの間にか名前すら付けられぬ大戦となり、全ての命が消失寸前となった。けれど、誰もが当たり前だと知っていた戦争だった。


 そうして終に世界が割れたその時、神は決断した。神は、二つの種族を違う位置に堕とすことにしたのだ。

 後に聖人と呼ばれる始まりの一族を地上に堕とし、後に闇人と呼ばれる終わりの一族を更に深い地の底に堕とした。

 そうして事態は、一時終息を得た。





 聞こえる声は、私とトロイの二人分。でも、聞こえる足音はそのどちらでもない一人のものだ。ざく、ざくと落ち葉を踏みしめ、枯れ木を砕く音はよどみなく聞こえてくる。舗装されていないどころか、獣道ですらない場所を、一度も足を取られることなく進むだけでもびっくりなのに、その肩に十五歳と八歳を担いでいるとなると話は変わる。びっくりから、びっくり! な感じになる。

 アラインがびっくり! なおかげで、私は挫いた足を酷使しないで済んでいるわけだ。どうもありがとう、すっごい助かる。でも、一つだけ言っていいなら、肩が尖って地味に痛い。出来ればもうちょっとお肉の鎧をまとって頂けると嬉しかった。





「聖人も闇人もこの世で最も神に近しい種族なんです。今は地上に堕とされて、地上の中心を聖人が、地界の中心を闇人が神に代わって治めてます。背中の痕は羽があった名残なんです。昔は力に溢れて寿命も長かったんですけど、今は人間とそんなに変わらないんですよ。髪や瞳の色が人では見ない色であったり、ちょっと力があったりとか、そんな感じです」

「はい、トロイ先生。そこに顔がいいのは入りますか!」


 アラインもトロイも非常に整った顔をしている。だから、冗談半分本気半分で聞いてみたら、トロイはぱっと顔を輝かせた。


「入ります! かつて天に生きた者の名残なんです! ですよね! 師匠かっこいいですよね! 師匠美人ですよね! 師匠凄いですよね!」


 生まれながらに美形。素晴らしい。羨ましい。恨めしい。

 私もお父さんは美形だったのにその血は受け継げなかった。悲しい、切ない、お母さん大好き。



 たわいない話を交えつつ世界の成り立ちを聞いている間も、景色は一向に変わらない。私達がいた場所は、かなり奥まった場所だったみたいだ。一向に速度が変わらないアラインの歩みでも未だに森が終わらない。


 聞けば聞くほど、ここは生まれ育った世界じゃないと分かる。

 私にとって神様とは、宗教の形を作るものだった。神様を基盤に宗教ができていって、人々の信仰の柱となる。いるかもしれないし、いないとは言い切れない。人が作り出した、人の中にいる存在。それが私の神様だ。

 けれど、この世界の神様は実際に存在しているのだという。誰も見たことがないのは一緒なのに、神様は間違いなくいて、神様が住んでいる世界があるのも普通で、人間じゃない人がいるのも普通で。国の歴史どころか世界の歴史を知っていることが当たり前で。



「うぇ……頭に血が上る」


 担ぎ上げられて下を向いた頭に血が溜まっていく気がして、骨ばった肩に手を置いて上体を持ち上げる。トロイは小さいから、担ぎ上げられてもそれほど身体が折れ曲がってない。苦しくないのはよいことだ。恥ずかしそうに行儀よく縮こまっている。私はそろそろ顔色が悪くなってそうな頭を振って、息を吸う。ちょっとくらくらする。


「あの、この場合、頭に血が下がるじゃないですか?」

「そうかも」


 頭の中を圧迫していた血が下に流れていくのが分かる。ふぅと息を吐いて、体勢をそのまま保つ。持ちづらくなっちゃったかな。体重もぐっとかかっているはずだ。運んでもらっている身としては優等生でいたい。荷物として。学校の成績は悪くても、せめて荷物としては花丸を!

 どうなんだろうとちらりと見てみたけど、なんの反応もない上に速度も変わらなかった。足を抱えている手もびくともしない。この細腕のどこにこんな力があるんだろう。実はこれ、腕に見せかけた鉄とかじゃないのかな。


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 本当にあったら職場にも入荷してくれるかな? 一番偉い人からは「売れないから駄目」って言われそうな気もする。





「聖人は皇帝に、闇人は王帝に従い、それぞれの国を治めましたが、天から堕ちても戦は収まりませんでした。羽を失ったことにより力は弱り、他の命への干渉力は弱まりましたが、戦争は続きました。そして、戦は平衡線を保ったまま長い時が過ぎました。神に代って地上を治めた皇と王は、それぞれ任を守りながら、いずれ神の御許に還ろうとしていました。ですがそれは、自分達の種族でなければならなかったんです」


 再び大戦が起こったのは三百年前。長きに渡る膠着状態を破るきっかけとなったのは、双方に産まれた新たな命だった。



 聖人の皇の子、エリシュオン・ハィリヒ・カイザー第五皇子。

 闇人の王の子、キルシェ・ドゥンケル・ケーニヒ第二王女。



 創世至上最大の力を持って産まれた二つの命。それが双方を勢いづかせてしまった。



「二人は生まれたその瞬間から、神によって帝の位を継ぐと定められました。ですが、地上ではエリシュオン皇帝の兄である第二王子が、地界ではキルシェ王帝の姉である第一王女が、それぞれが内乱を起こした事により、二人の行方は十年途絶えてしまったんです。再び城に戻ったのは、両者とも十六歳だったといわれています」



 神様によって次代の帝と定められた子どもは、なんの因果か二人とも城を追われた。


 エリシュオンは聖人最高の知と武を唄われた重臣二人と共に。

 キルシェは追っ手全てを斬り捨てて。


 どちらも兄姉から放たれた追っ手に捕らえられる事はなかった。

 その後十年の沈黙を得て、二人はあるべき地位へと帰った。その強さに味方でさえも恐怖し、狂気のように二人を崇めたという。二人の帝は、地を割り、天を裂き、その叫びは世界を凍らせた。双方勝ち負けを繰り返し、王帝も皇帝も戦場で刃を交し、誰にも届かない高みで二人は戦い続けた。



「そのとき世界は安定を失っていました。皇と王の不在が長すぎたんです。神の定めた帝でないものが位についてもそれは空位と同義でした。争う世界自体が崩壊を始め、命の均衡が崩れ始めたことで戦局は膠着状態に陥るかと思われました。けれど、それでも争いは止まらなかったんです。寧ろ、聖人は闇人がいるから、闇人は聖人がいるから世界が崩壊するのだと余計に酷くなった。そして、神は教会に告げました」



 壊れかけた世界を救うには贄が必要だと神は言った。崩れいく世界を支える強い楔が。

 それになりえる力を持っていたのは二人だけだった。





 湿った風が森特有の香りを含んだ澄んだものへと変わっていく。だいぶ浅い位置にまで来たのだろう。これくらいだと涼しく爽やかで心も癒される。あんまり奥にいると、帰れなくなりそうでちょっと怖い。

 その風を受けながら、トロイの言葉を頭の中で繰り返す。

 贄がいた。世界を救うために差し出された二人が、いた。


「……皇と、王?」

「そうです。二人がその身を世界に捧げることで、世界は均衡を取り戻しました。だから世界は続き、今があるんです」



 帝を失った二つの種族は、このまま争い滅びるか、世界を守るために手を取り合うかを迫られた。前者を選択すれば世界にその身を捧げた忠誠を誓う帝への冒涜となり、世界と共に滅びの道を辿る。

 後者しか、道はなかった。



「互いの城に相手を迎え入れることを証とし、世界は平和を取り戻したんです」


 たとえ表面上でも。そうあるしか道はなかった。

 人間の国は世界の崩壊を自分達とは関係のないことだとしか受け止めなかった。誰かが何とかすると考えた。何故なら、己よりも力ある存在が世界にいると彼らは知っていたのだ。だから何もしなかった。それどころか動向には不穏なものすらあった。長い時は、人間から聖人闇人への敬意を薄めさせたのだ。

 いつしか人間こそが世界の頂点に立つのだという野望がひっそりと蔓延し始めるほどに。


 帝を失い、戦で疲弊した両種族を見て、今ならばと思わせてしまった。人間は、そう思ってしまったのだ。

 それは事実だったのかもしれない。長い戦争で疲れ果て、消耗し尽くした両種族は、個々の種族だけで世界中の人間の猛攻を止められはしなかっただろう。二つの種族は、神に最も近しい力を宿していた。だが、数だけ見れば圧倒的に人間が勝っていたのだ。泥沼になるのは目に見えていた。三種の人類が争えば、ただでさえ疲弊した世界が耐えうるはずもない。それでは、皇と王は何の為に犠牲となったのだ。

 聖人と闇人は、双方屈辱の血涙を流しながらも、苦渋の決断をした。


 そうして同盟は組まれた。


 両者の城には、双方の陛下の肖像画が並べて置かれることを同盟の証とした。それが最後の王と皇。王族、皇族の直系は、そこで共に途絶えることとなる。

 それが、この世界の誰もが知る、私の知らない、今から三百年前の物語だ。





「どんな人だったの? その二人」


 トロイは少し黙った。何故かちらりとアラインの後頭部に視線を向ける。聞いたらまずいことだったのだろうか。


「話せない事だったら無理に話さなくていいよ。いや、ほんと『聞かれたからには死んでもらおう!』とか、そういうのほんと困るんで!」


 慌てて付け足すと、予想外の声が答えを返してきた。


「双方第一子としては産まれず、しかし生まれた瞬間、第一継承権を持つものと神により定められた。国を追われて以降十年は行方知れずだった。その間に皇帝の直系は第二皇子の手により、王帝の直系は第一王女の手によって殺された」


 アラインが長い台詞を喋っている。静かでなんの抑揚も感じられない声だ。本当に、水が喋ったと思うほど抑揚がない。水のほうが感情を感じられると思ったほどだ。それでも長い台詞を喋ったことに驚いて振り返ったら、私より愕然としたトロイがいた。凍りついたように師匠の頭を見ている。大きな目が落ちそうだ。落ちたら師匠が拾ってあげてほしい。


「城に戻り即位した後も、その力は他の追随を許さなかった。誰よりも美しいと謳われ、双方への支持は今でも続く。捧げられた忠誠心は歴代の帝の中でも異様なほど高い」

「私の世界でも、私が生まれる前に三百年続いた酷い戦争があったんだって。でも、今では同盟して平和だよ。戦争を知ってる人達は、こんなに平和ならもっと早く同盟してたらよかったっていつも言ってた。聖人と闇人も、もっと早く同盟出来たらよかったね」


 今では争っていた二国は同盟関係にあるし、一度も破られていない。大陸で一、二を争う大国である二国が組んだ同盟で故郷は平和となった。

 だからそう言った。私は知らなかった。それが、戦争を知らない世代の、戦争を知らない馬鹿な子どもの残酷な言葉だとまだ知らなかったのだ。


「……そうですね。でも僕達の世界では、世界が壊れかけるそのときまで、二つの種族が手を取り合うことはなかったんです」

「世界が壊れるってどういうことかちょっと分からないけど……おおごとなんでしょ? だったら、戦ってる暇なんてなかったんじゃないの?」


 アラインの声は、どこまでも平坦だった。


「誰もが、望まなかった」


 どれだけ世界が混迷しても、どれだけ血が流れても。

 それほどに、両者の亀裂は深かったのだ。





 私が黙るとアラインも黙り込んでしまった。そうしていると喋っていたことが夢ではないかと思えてしまう。

 持ち上げた上体をひねって、その顔を覗き込む。能面のように無表情だった。陶磁器のように透き通った肌も、聖人の特徴なのだろうか。……そうであれ。この師弟固有のものだったなら羨ましすぎる。


「ねえ、聖騎士ってなに?」


 沈黙にそわそわしてしまう。まだ出会ってすぐだし、沈黙を楽しめる関係性は築けていないのだ。元来お喋りな質なのもある。何か喋ってくれないかなと期待している私の横で、何故か私以上に期待に満ちたトロイがいた。

 二人分の視線がアラインの後頭部に突き刺さる。少しの沈黙の後に答えが返ってきた。


「……騎士の上位だ」

「まず、例えの騎士がどのくらいか分かりません」


 アラインはため息をついた。


「皇帝に仕え、国を護るが任となる。聖騎士はその上位だ」

「はあ」


 今一説明になってない気がするのは私が馬鹿で理解できないだけだろうか。お父さんと同じような職務なのかの判断すらできないのは、私が馬鹿だからだけじゃないはずだ。情報量が少なすぎる。今の情報で分かったことといえば。


「大変だってことはなんとなく分かった!」

「………………分かったのなら黙っていろ。うるさい」


 保っていた沈黙を破って答えてくれたのは、どうやら私がうるさかったからのようだ。うるさかった自覚は、結構ある。

 アラインはさっさと話題を打ち切って再び黙り込んだ。放り出されるのも困るし、ここは大人しくしていようと口に閂をかける。お母さんは、口に一直線の線を引き『お口にチャック!』と言っていた。ちなみに、チャックとは一本に纏められたボタンのようなものだと言っていたけど、今一想像できなかった。



 ざく、ざくと、少し湿った足音を聞きながら規則的に揺れる身体は、どうにも懐かしい思い出を掘り起こす。両親におんぶや抱っこをしてもらっているみたいだからだと苦笑した。体勢は全く違う上に、大きくなったので抱き上げられる機会も滅多になくなった。それでも、まるで昨日のことのように思い出せる。お父さんに、お母さんに、おぶわれ抱っこされ、誰かの歩く振動で眠ったあの日々を積み重ねて大きくなった。あの体温を糧として、私は成長してきたのだ。

 成長してきたはずなのに、どうしてだろう。人の温度と振動に揺られると、なんだか弱くなってしまう。まるで抱っこしてくれている人がいないとなんにもできない子どもみたいに、泣きだしそうになる。


 後ろ向きに木々を追い越していく。森を出ていっているはずなのに、何故だろう。更に奥へと進んでいるように思えて、ぎゅっと胸元を握り締めた。

 両親の、兄の、弟妹の顔が、通り過ぎる木の合間に浮かんでいく。唇が戦慄き、また鼻の奥に熱が集まり始めた。ちょっとした拍子に溢れ出ようとする熱を必死にこらえる。



 泣くな。泣いてどうなる。涙は理性で流すものじゃないけど、ちっちゃな子どもでもあるまいし。ここで泣いたところでトロイを動揺させるだけだ。そうして慰めてもらうのか。この小さな子どもから憐れみを乞うために、私は泣くのか。

 鼻を啜り、目の奥と鼻を通った熱を飲み下す。

 泣くな。幸いといっていいのかは分からないけど、私はこの状況に少々の知識がある。だから、異界渡りだと納得できた。すとんと、ああそうか、と。それを幸いだと思え。


 私の出自は少々特殊だ。

 特殊といっても、私じゃない。お母さんが少々特殊だったのだ。特殊な出自を持つ母のおかげで、これは異界渡りであると夢幻のようなことをすんなりと思い浮かべることができた。混乱を極めたまま体力と精神をすり減らしていく前に、納得はできなくても事態を把握できた事と、ひとまずは悪人に見えない人に出会えた事は、まごうことなく幸いだ。

 ひんやりと冷たい森の空気も幸いだった。思考と目元が冷えていく。森を出るまでに全て落ち着かせてしまおう。


 鼻を啜っていると、トロイが呆然と呟く。


「……話しかけても十回に十二回は答えない師匠が」

「謎の芸当仕出かさないでください!」

「…………今だけでひと月分は喋った」

「ひと月分!?」


 私の涙は家出した。不良だ。門限は守ってください。






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