47伝 子どもの終師匠様
ずっと四つん這いで痛くなった腰を抑える。まだぴっちぴちの十五歳だけど、同じ体勢で這い蹲っていたら腰くらい痛くなるのだと、自分に言い訳しながら伸びをする。
あれからも何度か額が痛いを繰り返しているけれど、お互い一向に改善の兆しは見られない。いや、それでも一応努力の形跡は見える。ここは、掌は浸かるほどになったけれど潜るには程遠い水域であるし、私のほうは諸手上げての大歓迎が遠巻きに大歓迎している感じになったそうだ。たぶんそれ、大歓迎の気持ちには変わりないけど相手をどん引きさせるのもどうかと思うから、大歓迎の種類を変えただけだと思う。
掌で掬い取った水を指の隙間から落としていく。そこには何も残らない。トロイどころか、水滴も、濡れた跡すらも。乾いた砂を掬い取るよりも、本当に何も。
それでも、何もないはずがない。そんなこと、あってなるものか。
水を掻き分け、掬い取り、それを探す。自分が今どんな形の服を着ているか分からない。
水とは違うけれど、水としか表現できないそこに雫が落ちていく。ぱた、ぱた、と、軽い音で落ちては小さな波紋を延々と広げていく。
両手を水に浸け、底を探る。触れる感触は土とは違う。硬質で冷たい、鉄扉。握りしめた拳を叩きつけて蹲る。歯を食いしばっているのに、嗚咽が漏れ出ていく。
馬鹿げてる。こんなの、馬鹿げてる。
視界がぐるりと回る。またかと、思った。
「これ以上は無意味だ」
目の前の紅瞳は揺れもしない。
一向に改善の兆しが見られないこの行為に、アラインは早々に見切りをつけた。自分が常に気を張って集中していればいいことだと、私よりよっぽど馬鹿なことを言うのだ。
「嫌だよ」
「お前の尊厳を失わせることはしないと誓う」
そうじゃない。私はあまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出したくなった。
違う、違うんだよアライン。
いつのまにか筒抜けになっている私の頭の中が見えているはずなのに。全部、全部聞こえているはずなのに、ちっとも理解できないんだね。
私のとりとめのない思考を全部拾って、その優秀な頭に無意味に記憶して。身体の大小が変わらないよう常に気を張り続けて。そうして、あの馬鹿げた視線を受けて、馬鹿げた言葉を浴びて。
いつ気を休めるの。いつ身体を休めるの。
そんな時間をこれから過ごそうとしているのに、私のせいだと、お前がこの世界に現れたからだと、お前も何かを負えと。そう言わないこの人が。そんなこと、欠片も浮かべていない紅瞳で私を見るこの優しい人が、あれだけ彼を慕う子どもを身の内に漂わせることもできないなんて、そんな馬鹿げた話があるか。
「お前は俺を馴染ませようと努力した。俺は自ら提案していながら事を為せない。責任は俺にある。俺が負うのは当然だ」
塞ぎ方は分からないし、塞ごうとも思わない思考を全部聞きとっているはずなのに、まるで異世界の言葉を聞いているような顔をする。それが、何より、悔しい。
「お前は」
「……私は」
「すぐに、泣く」
あんなに広大な心を、あんなに透き通った空気の心を、どうしてそこまで空っぽにしなければいけないんだ。深呼吸で吸い込んだ空気は何の匂いもしなかった。お菓子の匂いも、花の匂いも、淀みも、穢れも。澄んだ空気で構成された世界に、どうして何も、誰も。好きな物だけじゃなくて、嫌いな物すらないくらい何も、なんに、も。
こんな、こんなちょっとした会話でさえ、私が応えて初めて会話を続けるなんて、馬鹿だ。そのまま繋げればいいのに、お前はすぐに泣くって、そのまま一息で繋げればいいのに。なんで、私が応えなければ会話すら許されていないかのように。
「身体の大小を整わせる権限を俺に握られているのは不快だろうが、お前の不利になるようなことはしないと誓う。だから」
「……違う」
「俺と固着が続くのは不快だろうが」
「違う」
「……お前の精神内で本体ではないにしても、俺ばかりがお前の知人と会うのは不愉快で」
「違う」
「俺がお前の精神に入るのが」
「違う」
私を何だと思っているのか。
自分を、何だと思っているのか。
「違う」
言葉と心で繰り返してようやく、アラインは見当外れの回答を口にするのを止めた。
何かを言おうと開かれた唇が、結局何の音も発さず閉ざされる。何を言おうとしたの。何が言いたいの。分からない。私にアラインの声は聞こえない。でも、聞こえたって、分かってくれないじゃないか。全部包み隠さず届いたって、分からないじゃないか。
馬鹿みたいだと鼻を啜った私を、アラインが抱きしめた。そのまま体重をかけて伸し掛かってきて、背中からベッドに倒れ込む。
まったく予想だにしていなかった行動に赤くなる暇はない。動揺が脳に直結するより先にそれに気づいたからだ。
扉の向こうから人の声がする。アラインはもう一枚ハンカチよりは大きく、タオルよりは小さな白い布を作り出して私と自分両方を覆って扉に紅瞳を向けていた。
「こ、困ります、ロイセガン殿!」
「まあまあ、遊戯中は無礼講。異性の部屋じゃなきゃ入ってもよしとしたもんだろ。ちょっと覗かせてくれ。どこ探してもいないんだよ、お前の師匠」
扉の向こうからそんな問答が聞こえてくる。
「弟子の僕がいるのに、師匠の部屋への侵入者を防げなかったなんて、師匠に合わせる顔がありません!」
「侵入者ってお前」
「どこからどう考えても侵入者ざます! トロイを困らせるなど、我の師の風下にもおけぬ行いざます!」
「せめて下にくらいは置いとけ!」
風上どころか風下にも置いてもらえなかったロイさんのやけくそのような声が響く。
「あーもー! とりあえずいるかどうかだけ確認させろ! 俺が確認しなきゃ、この部屋に他の連中が雪崩れ込むぞ!」
「うっ……あ、困ります! 扉の前に立つ僕を寄せたら困ります! 取っ手に手を掛けたら困ります! あ、半分も回したら、あ、全部回したら、扉が今まさに開こうとしていて、ロイセガン殿の足が今まさに踏み出そうとしていて、あ、困ります、ロイセガン殿困ります!」
「やけに子細が語られる困りますざますね」
トロイの必死な困ります報告の通り、扉が開く音がした。衣擦れと装飾品が揺れ、足が踏み出して床を軋ませる音が続く。そして、部屋の空気が動く音。
人の気配で揺れる空間と呼吸音に、心臓がどっどっと鳴り始める。私の頭が押し付けられている上に乗っかる人の薄い胸は、しんっと静まり返っていた。でも、少しひやりとする胸の中では、とくとくと静かで安定した音がしている。結局黙っていても私がうるさいのは事実で、アラインは黙っていたら静かで。
それでもたぶん、身体の中にあるものは一緒で。見たことないし、人間と聖人って身体の中身が違うかどうかは分からないけど、たぶん血が流れて心臓があって、血が目に見えるような状況になったらそれはきっと傷で、傷になったら痛くて。
「おー、いないな。え、じゃあ、本当にどこ行ったんだ? 今までも積極的に姿を現したりはしなかったけど、ここまで姿を見ないことなかったぞ。それに、お前まーた置いていかれたか」
「こ、今回は違います」
「そうかぁ?」
「点数奪われた僕はもう襲われませんから、お邪魔にならないようにと……」
「点数奪われてる時点で置いていかれてないか?」
もごもご言っているトロイは自分でも無理があると分かっているのか、「ともかく、今回は違います」とそれだけはきっぱり言って無理やり話を終わらせた。
出来るならそういった話は、もう用がないこの部屋から出てからどうこうして頂きたかったけれど、ロイさんは扉に凭れでもしたのか何かをぎっと軋ませて動く気配がない。私よりよっぽどそういう読みに長けているアラインがぴくりとも動かないので、私も動くべきじゃないと分かる。分かるのだけど、お願いだから早く出ていってほしい。
突然の来訪へのどきどきも、時間が経てばお互いそれなりになんとも言えない格好で抱き合って隠れている方向へと移行してしまうのだ。意識するだけ無駄どころか、意識したらいろいろ終わることが分かっているし、そんな無駄な足掻きすらもアラインに筒抜けなんだなと思うと、もうほんと私はどうしたらいいんだろう。
「余計な世話かもしれないけどな、お前、俺のところ来るか? 一応規定は弟子一人だけど、特例がないわけじゃなし。特にお前の場合は事情が特殊だから、すんなり認められると思うぞ」
揶揄でも、皮肉でも、誰かへ向けたあてつけのような悪意でもない言葉に、息を飲んだのは私だけだった。ぱっと顔を上げて見上げた紅瞳は、動くなと、それだけを咎めて胸に押し付ける手の力を少し強めただけだ。
そして、トロイ自身は。
「ありがとうございます。ですが僕は、お許しを頂けなくなるその時まで、師匠のお傍にいたいのです」
いま、トロイはどんな顔をしているのだろう。白い布とアラインの胸に遮られて何も見えないけれど、ロイさんに答えたその声はまるで聖母のように穏やかなものだった。
「それに、二度も師を変えた見習いを引き取っては、ロイセガン殿にご迷惑をおかけしてしまいます」
「その二度の決別が普通の離別ならな。二度とも、まあ、普通じゃねぇな」
二度、と、彼らの言葉に瞬きする。トロイは、一度師が変わっている?
「ロイセガン殿。師匠は、本当にお優しいのです」
「そう見えたらいいんだけどなぁ」
頭でも掻いているのか、がりがりと爪が皮膚を掻く音がした。トロイの声音は穏やかなままだ。だから、ロイさんの表情はきっと、トロイがふくれっ面したり、顔を真っ赤にしなければならないようなものではないのだろう。
「そうなんです。だって師匠は元々、師を変更することを前提として、僕を引き取ってくださったんです」
「初耳だ」
「僕も、びっくりしました。僕を引き取ってくれた次の日、この部屋の扉に、沢山の騎士殿の名が連なった紙が差し込まれていました。それは、僕を弟子として引き受けるという旨の書状で、師匠は好きな騎士を選べと全部僕に渡したんです。びっくりしました。師匠は、ご自分が弟子を引き取ればこうなると仰いました。僕は、ただでさえ捨て子で後ろ盾がなくて、師匠の名乗りを上げてくださる方がいなかった上に、一度師弟関係が破綻しています。だから、師匠が師匠になってくださっただけでも奇跡だった僕の前に、たくさんの、中には聖騎士の方もいらっしゃるような書状があって、本当にびっくりしたんです。それなのに、師匠、なんて仰ったと思います?」
「……悪い、まったく想像もつかない」
両手を上げて降参したのか、少し大きな衣擦れの音がした。ついで、しゃらしゃらと何かが揺れたから、もしかしたら頭でも振ったのかも入れない。
「好きな師を選び、僕から師弟関係を切れ、と」
飲まれた息が二つ、苦笑が一つ。
それらの意味が分からない私の瞬き一つ、普通に乾燥を防ぐためと思われるアラインの瞬き一つ。
「そいつは、また。他者の評価に興味がないアライン・ザームらしいといえばらしいが、それにしても相当だぞ。何せ、師に見捨てられた弟子ほど虚しいものはないが、弟子に見限られた師ほど惨めなものはないからな。紅鬼としてじゃなく、聖騎士としての評価が二度と浮上できないほど地に堕ちる。事実、かつて師弟関係があった男の転落ぶりを見ていた奴自身それを知らんわけもないだろうに、よくもまあ」
よくは分からないけれど、相当有り得ない泥のかぶりかたを選択したらしいアラインを見上げる。白い布越しにどれだけ見えているかは分からないけれど、トロイ達を向いていた紅瞳が、私の視線を感じてかちらりとこっちを向く。
無表情で、淡々として、他人なんて興味ないとわんばかりの態度。それ以上に、他者からの興味が信じられないと心の底から信じている顔を見て、苦笑いが込み上げる。なんだかとってもアラインらしいと、そう思う。
出会ってまだ数日。でも、ああ、でも、世界はどうしてこの人にこんなに厳しいんだろうと悔しくなるくらい、優しいと思う人。
思わず零れた苦笑いに、紅瞳が大きくなって、それがなんだか可愛いと思った。お母さんがお父さんを可愛いと言っていた気持ちが、ちょっとだけ分かったような気がする。
「怖くて怖くて、勝手に脅えていた僕に、何でもないことのようにそう言ってくださった師匠を見て、ああ、この方に一生ついていけたらなって思ったんです。僕が出会った中で誰より優しい方だと、泣きたくなったんです。師匠はそれを優しさだと知らなくて、思ってもいないけれど、僕はそれを知る機会を与えて頂いたんです」
それはきっと、信頼とは少し違っていて。信用とも違う。盲目的な執着の上に成り立った思慕は、まるで宗教のようで。でも、敬虔なる信徒ともまた違う。恋のような憧憬は、たぶん愛だ。
種類が多過ぎて、経験が少ない私が言い当てるには少々……多大に難題だけれど、親愛とか、愛とか、尊敬とか、愛とか。結局は、大好きに戻ってくるような、そんな幼いからこそ絶対の想いだ。
「だから僕は、置いていかれるのが怖いんです。師匠はいつか、ここが嫌になるかもしれない。そしたら、その瞬間にはもう心は決まっていて、二度とここには戻ってこないでしょう。だから僕は、師匠がそう思ったその瞬間に一緒にいないと駄目なんです。お城が嫌になってもう二度と戻らないと決めたなら、僕も一緒に行くんです。師匠はきっと僕を連れに戻ってきてはくださらないから、師匠がそう思った時お傍にいなければ、僕は師匠を失ってしまうんです。…………ロイセガン殿、僕なんかには勿体ない申し出を、ありがとうございます。本当に、申し訳ないほどにありがたく思っています。けれど僕は、あの方を失うのが何より怖いんです。僕はもうずっと、あの方の弟子でありたいんです」
後半はロイさんに向けられた言葉ではなかった。彼の言葉は、いま私の上を覆っている人に向けられている。弟子から向けられた懇願に何の表情も浮かべていないように見えて、瞬きすら失われているのに気付く。微動だにしない睫毛を見上げていると、呼吸すら止まっていないかと心配になった。
「ロイセガン師、やはり野暮というものだったざます」
「そうみたいだな……おい、そんなしょんぼりするなよ」
「していないざます」
「うっそだぁ。俺、曲がりなりにもお前の師匠だし? ばればれよ?」
「我は、好敵手がよりよい環境で自身を磨くことは推奨しているざますが、より心地よい環境で過ごせるのならばそれでよいざます。少々、しょうっしょう、共に寝起きして勉学に励み修練に勤しむ夢を見ただけざます!」
「それ、すげぇがっかりしてる」
「絶望しているだけざます!」
「そんなにか!? おい、そんなにだったのか!? ジャスティン家大丈夫!?」
ばたばたと慌ただしい音がする。
「それではトロイ! 我はこれで失礼するざます!」
「あ、ちょっと待てって! トロイ程とは言わないけどな、お前少しは師匠敬ったほうがいいぞ!? 詳細を語るなら、師匠置いてくなってことだよ!? 分かってる? ねえ、分かってる!?」
ばたばたが終いにはどたばたになりながら遠ざかっていく。音は遠ざかっていくのに、騒がしさが途絶えないところを見ると……聞くと、結構な大騒動退場をしていったようだ。
それを見送っていたのか、少し経ってから衣擦れの音がした。
「……だから、どこかに行っちゃうなら、僕も連れていってくださいね」
侵入者なのか来客なのか今一定義づけが難しい二人が退出した部屋の中に、小さな声が落ちて、扉が閉まる音がした。