40伝 手始めの崩壊
薄暗い部屋の中で奇妙な水の音がしていた。いくら広い貴族の寝室といえど、部屋の中に噴水があるはずもないのに。
女は夫の書斎から聞こえる音に首を傾げた。とっくに人々が寝静まっている時間なので、静かな水音は耳を澄ませずとも女の耳に届いた。
女は若かった。若く、美しかった。
己の容姿に満足していたし、今の暮らしにも満足していた。美しい自分にはそれに見合った財力がある家が相応しいと、予てより公言して憚らなかった女は、その通りの家柄の男の元に嫁いだ。
「あなた、いらっしゃいますの?」
寝巻きの上に一枚羽織り、女は寝室の隣部屋の扉をノックした。返事はない。
「失礼しますわね」
仕事をしながら眠ってしまったのだろうと、女は扉を開いた。薄暗い部屋の中の様子はよく分からない。そっと扉を閉めて、手に持っていた小さなランプを前に掲げた。
「ひっ!?」
喉から勝手に息が漏れた。鼻はひくひくと動き、嗅ぎたくもない臭いを勝手に嗅ぎつける。目の前に広がる情景に女は腰を抜かした。部屋中に飛び散っているのは影ではなかった。
鉄臭い、赤黒い、血液。
誰の? 決まっている。部屋には一人しかいなかった。
「あ、あなたっ……?」
部屋の中央に置かれているテーブルの上に夫はいた。血液が平らに磨かれた卓上を滑り落ち、床に落ちた盆に溜まっていく。ああ、水音はこれだったのかと女は気付いた。
かたんと静かな音がして女の心臓は凍りつく。
窓際の月明かりとは対照的な影にその人物は立っていた。闇に溶けるような黒色の着物だ。聖人は決して着物など着ない。それは、闇人の文化なのだから。
風変わりな人間なら着ることはあるかもしれない。だが、女には目の前に立つ男が人間だとは到底思えなかった。仮面で覆われてその顔のほとんどを見ることが出来ないにも拘らずだ。
叫びたくとも声が出ない。女は、男の手に握られた武器から血が滴るのを呆然と見ていた。身体は震えて凍り付いていく。
こんなはずではなかったのだ。女の実家はただの商家だった。高位の貴族である夫に見初められた時は嬉しかった。どうしてこんなにも美しい自分が、ただ貴族であるというだけの存在よりも低い暮らしをしなければならない。そう思っていた女にとって、夫との結婚は、正に夢のような暮らしだった。夫が大任であるという仕事を賜ってきた時は、ああ、これで更に地位が上がると共に喜んだものだ。それは、ついこの間の事だったのに。
侵入者の男は、ゆっくりと女に近づいてきた。
「ねえ、鍵を持っていない?」
男は片手に持っていた武器を軽く振り、血を飛ばした。女には見たこともない武器だった。別れた枝のような棒状の武器だ。
脅える女に構わず、男の動作はゆっくりとしたものだった。
「口を開かないし、教会への賛美がうるさいからうっかり殺しちゃったんだ。ねえ、あんたは鍵の場所を知らない?」
鍵……。
女は震える声で繰り返した。
「そう、鍵。あんたの旦那が受け取った、守の宮の鍵。ここの住人全部殺した後のんびり探してもいいのだけど、それも手間なんだ」
守の宮は、三百年前に壊れかけた世界を支えるために作られた宮だ。神脈の流れの真上に設置され、それぞれ厳重な警護と封印が為されている。世界中に点在し、誰も手を出すことはない。当たり前だ。手を出せば、世界が崩壊してしまうのだから。
その宮の一つ。そこの鍵の責任者に夫は選ばれたのだ。腕の立つ人だったから。
老年に差し掛かった今は多少衰えたとはいえ、王族の指南役に選ばれたことがあるほどの人だった。
「か、鍵を渡せば、助けて、くれる、の?」
もう鉄錆びの臭いも気にならない。女にとって気になるのは、己の命が助かるかどうかだ。
「知ってるの? どこ?」
「絵の、後ろ、に、ある、金庫の、中」
「そう。開けてよ」
男が近づいてこようとしたのを見て、女は転げるように駆け出した。夫の血に足を滑らせたけれど、どうでもよかった。壁に縋りつくようにたどり着き、絵を引き摺り落とす。現れた頑丈な金庫を震える指で解除していく。後ろに男が立っていることが分かる。体の震えと、いつの間にかついていた夫の血で滑って上手くいかない。女は泣きながら、助けて、助けてと繰り返した。ああ、自分が一体何をしたというのだ。
「ねえ」
突如、男が話しかけてきた。
「一人で見る楽園と、二人で堕ちる地獄。あんたはどっちを選ぶ?」
重たい音をたてて開いた金庫の中から金目の物を床にぶちまけ、女は一番奥に入っていた鍵を鷲掴んだ。それを男の前に両手で掲げる。
ありがとうと男は受け取った。
「で、どうなの?」
二人で堕ちる地獄は、夫と共に死ぬという事を指しているのだろうか。
女は震える瞳で男の背後にいる夫を見た。酷い形相で天井を仰いで死んでいる。目は見開かれ、舌は突き出されている。唾液と血液が混じりあい、顔を汚している。
あんな醜い、惨めな死に方は、絶対に嫌だ。
へたりと腰が抜けて血の海に座り込む。
「ふ、二人で堕ちるなんて、馬鹿のすることよ。あたしは絶対に嫌よ。折角いい暮らしが出来たのに、あんな男の所為でそれが終わりになるなんてっ」
「そうだね。馬鹿だね」
男の肯定を得て、女はまくし立てた。
「嫌よ、死にたくないのよ! 助けて! 殺さないで! 嫌よ! あたしは絶対に助かるのよ! 一緒に死ぬなんて馬鹿馬鹿しいわ! そんな夢見がちなこと子供のすることよ!」
「ほんとそうだよね。仮令一人でも、そこにはこの世の至上の地位があったのに」
「あたしは違う! 違うのよ! そんな馬鹿なことしない!」
「ほんと、笑えるね」
「そ、そうよ! 馬鹿よ、現実が見えてないだけの子供よ! 馬鹿だわ! でもあたしは違う、違うのよ! これからがあるの! 自己満足で一緒に死ぬなんてしないわ! あたしはあたしの為に生きるのよ、死なないわ、嫌よ、違うの! あたしは違うの!」
死にたくない。あんな惨めに、終わりたくない。
涙でぐちゃぐちゃになった女の顔を無造作に見下ろし、男は笑った。だから女は安堵した。仮面で瞳は見えない。露わになっている口元が口角を上げている。
「奥様!? 如何なさいました、奥様!?」
どんどんと扉が激しく叩かれる。声を聞きつけて使用人が駆けつけたのだ。助かったと、女は心底安堵して男を見上げた。そして、目を見開いた。
男は、武器を振り上げていた。
「な、なんで……!?」
男の口元には未だ笑みが形作られている。女は唐突に気が付いた。笑顔に見えたこれは、笑顔などではない。
かちりと歯が鳴る。身体の震えて立ち上がることもできない。
紡がれる男の声音は、氷の様だった。
「あんたは一人で地獄に堕ちるといいよ」
「い、いや……たすけっ」
「ばいばい」
淡々とした言葉が振り、女の視界は真っ赤に染まった。ごきりと鈍い音と共に、女の鼓動はあっさりと止まった。
男は飛び散った血液を煩わしそうに振り散らした。動かなくなった女の頭をつま先でごつりと蹴る。口元からどろりと零れたそれは人の心から溢れた汚物に見えた。
男はつまらない物を見たというように女から視線を外した。
鳴り続けていた扉は、ついに壊される事になったらしい。木の裂ける音が聞こえてくる。男は、もうそこであった事など全て忘れたかのように背を向けた。
闇よりも深い黒の着物を翻し、窓から飛び降りる。赤い血液だけが空気に取り残されたかのように散っていく。
だが、それもすぐに夜の闇に紛れ、誰の目にも見えなくなった。
高く丸みを帯びた天井は数え切れぬほどのモザイクタイルで埋め尽くされていた。青と白を基調とした花とも星ともとれる幾何学模様が薄らと光っている。
圧巻だ。
ファナティカーは天井を見上げて足を止める。幾度見ても見惚れてしまう。飽きるとこなく一日中眺めていられるだろう。これが神の部屋でも祈りを捧げる特別な部屋でもなく、ただの会議室なのだから聖人とは恐ろしい。
いつまでだって見ていたかったが、今の目的はそれではない。残念な顔を隠しもせず視線を外し、大人しく椅子に座った。
ファナティカーが座ったのは広い広い円卓だ。ずらりと並ぶ椅子の数はざっと数えて五十はくだらない。本当に広い部屋だ。ファナティカーは視線を前に固定した。
円卓の一番遠い位置には二人の青年が座っている。
一人はきちりと背筋を伸ばして一本の棒のようにまっすぐに、一人は大きく背凭れに凭れて両足を円卓上に乗せていた。部屋の中にはその三人しかいない。
「お久しゅうございますね、双龍の御二方」
編みこんだ長い金髪が地につかぬよう膝上に乗せたファナティカーの言葉に、青色はぴくりとも揺れなかった。
「そちらから申し出た面会を無視して子どもを甚振りに行くような輩とは生涯会いたくありませんでしたが」
「エーデル様は相変わらず手厳しくいらっしゃる! 三十二年ぶりにお会いする友ではありませんか。何度面会をお願い申し上げても断られ続けたので、ちょっとした意趣返しでですとも」
「今も昔も私が友と呼んでいるのはただ一人ですが、それは貴方ではありませんよ」
氷のような声音で言い切ったエーデルの横の椅子が大きな音を立てて軋む。頭の後ろに両手をあてて椅子を傾けて遊ばせていたシャムスが起き上がったのだ。
「てめぇとくそ面倒な腹の探り合いするほど時間の無駄もねぇ話だ。うちの議会とてめぇらの会議真っ最中に何の用だ。既に議会で回させてる俺らはともかく、てめぇは出といたほうがいいんじゃねぇのか。曲がりなりにも教会幹部の一人だろうが」
普段の豪快な笑顔は鳴りを潜め、抑揚も少ない。普段は太陽のように思える橙の明るい髪でさえ、まるで黎明の静けさを象徴しているかのようだ。
これ以上雑談に応じる気はないと、口でも態度でもあらわしている二人に、ファナティカーは肩を竦めた。
「帝亡き今、世界で最も神に近しい方々との謁見時間を少しでも長引かせたい卑小な人間心を察して頂けると嬉しいのですが……立ち去られてしまっては元も子もありませんね。本題に入ると致しましょう。エグザムが守の宮を襲撃しています。この十日間で三つ……先程新たに鍵が奪われたのと報告がありましたので近日中に四つとなる、と、言いたいところですが既に六つ奪われました」
守の宮は三百年前に作られ、世界中に存在する神殿だ。国の境など関係なく世界の上に点在し、世界を繋ぎ止めていた。
三百年前、争いに疲弊した世界を守る礎としてこの世で最も神に近い二人の帝が身を捧げた。聖人の皇も、闇人の王も、等しくその生を世界に捧げて終わった。
だが、何千年も続いた争いで疲弊した世界はそれだけでは収まらなかった。
だからその宮は作られた。
世界の安定を保つための楔として、神脈の流れる場所に設置された。宮の神殿では毎日神官によって祈祷が行われている。術者が神脈の流れを調節し、神官が神に祈りを捧げて世界を保っている。
宮が存在しない国は、世界中でシャイルンと月影だけだ。元より二つの種族は世界の安定の為に生まれた命だ。その二つが統治する国では宮がなくとも神脈が酷く暴れることはない。
だが、人間の国は違う。どれだけ規模が大きかろうとその他命の枠組みだ。だから宮には誰も手を出さなかった。出せなかったのだ。出すことによって世界が崩壊すると誰もが知っていた。どんな目的があろうとも足場である世界ごとなくなってしまっては意味がない。それに守の宮には常に厳重な警護と結界があった。何人も近づく事すら困難であったし、また誰も近づかなかった。
その不文律を、三百年間で初めてエグザムが破ったのだ。
「どれだけ警備を増やしてもあっさり皆殺しですので困っているのですよ。わたくしが出張ってもよいのですが、全ての守の宮に張り込むわけにもいきませんしね。守の宮が破壊されているなんて情報が表に出れば世界中が大混乱に陥ります。今はまだ情報を手元に止めておりますが、双龍の御二方のお耳には入れておかねばと思った次第でございます」
大仰な動作で額を叩き、嘆きを露わにしたファナティカーにシャムスは眉を顰めもしなかった。
「知るかよ。三百年前、聖人闇人の介入を拒んで教会だけで管理すると豪語したんだ。てめぇのケツはてめぇで拭け。どうせ結界の鍵もくだらねぇ自慢の道具として権力者で山分けしてたんだろうよ。ここまで何もなかったのは狙う奴がいなかっただけで、やろうと思えば誰だって奪えただろうさ」
「そのようなつれないことを仰らないでくださいな。我々人間も何か一つは世界に介入させて頂かないと、民草の気持ちが収まらなかったではないですか」
「何が我々人間だ。てめぇは寿命を消されたわけでもねぇくせに三百年生き続けてやがる化け物だろうが。てめぇと同じ形の木偶人形が生きた人間を繰り人形とする。おぞましさで言うのならてめぇは魔物以上だぜ」
「シャムス様まで手厳しいことを……あまりいじめると泣いてしまいますよ。これはわたくしの欲ではなく教会の総意でございますのに」
長い裾も、動くたびにしゃらしゃら音を立てる装飾品も絡ませることなく、芝居がかった大仰な動作で天を仰ぐ。ファナティカーの嘆きに二人は何の反応も示さなかった。
「エグザムですか」
最初の会話以降黙りこくっていたエーデルが口を開く。
「あの集団の目的は知りませんし、今の段階では知り得ることも出来ません。ですが世界中で執拗に教会を壊して回っていると聞きますので、教会を嫌っているくらいは察することができますね。同感ですよ。私とて、貴方も教会も反吐が出るくらい嫌いです」
「双龍様からそのような言葉を聞かされれば、哀れな人間である教会の者達は喉を掻き切って自害してしまいますよ。まだお怒りなのですか? もう三百年も昔の話ではないですか」
がつんと乱暴な音が響き渡る。シャムスの厚い靴底が机に叩きつけられたのだ。椅子をぐるりと回して立ち上がったシャムスの横で、エーデルも無言で立ち上がる。
三百年間、未曽有の混乱を捌き切った二人の聖人はまるで氷と炎のように凄惨な沈黙を持ってファナティカーを見た。
ファナティカーは背中を駆けあがるものを止められなかった。
身体どころか命の更にその奥まで貫かれる恐怖はこの世の生き物の本能だ。聖人と闇人は命の頂点に立つ種族。その怒りに触れれば魂が恐怖する。ファナティカーとて例外ではない。ファナティカーは駆け上っていく冷たい恐怖に身を震わせた。ぞくぞくと凍える身体が心地よく、恍惚の表情でその怒りを受け止める。被虐趣味はないはずなのに、魂の底から竦みあがる恐怖が堪らない。
「シャイルンに支援要請したければ正式な手順に則りなさい。聖人は地上の統治種と定められた生き物ですが、人間の尻拭いをさせたければそれ相応の手順があるでしょう」
「ええ、ええ、それはもう重々に理解しておりますとも。我々教会は、神の御心のままに神の御言葉をお伝えするを役割とした、ただの小石ですとも。神の御言葉を賜る栄誉を頂けた事実は何にも代えがたい喜びですが、我々が両種族様を崇めお慕いしている事実は何ら覆ることなく真理としてこの胸に存在しております。聖人様のお手を煩わせてしまう己の不甲斐なさは、どれだけ恥じ入ろうと消えるものではございません」
口籠ることも詰まることもなく、つらつらと流れ出る言葉に双龍は眉根一つ動かさない。恥ずかしげもなく惜しみない賛美を垂れ流されることなど日常茶飯事だから、ではない。
確かに聞き飽きるほど聞いてきた。それは事実だ。
だが、いま二人の心がなんら揺さぶられることがないのは賛美など聞き飽きたからではない。
席を立った双龍は振り向きもせず部屋を出ていく。ファナティカーは深々と頭を下げて見送る。至福の時間が終わったことを心底残念に思いながら、扉が閉まっても、足音が消えるまでずっと頭を下げ続けた。
壁の、柱の陰に、気配なく溶け込んでいた側仕えが音もなく前後左右を囲む。
エーデルもシャムスも足を止めることはない。一刻も早くあの部屋から離れたかった。
建物内の廊下は吹き抜けではなく外を見ることも風が流れることもない。天井も側面も会議室の天井のように色とりどりのモザイクタイルで彩られ、景色がなくとも飽きることがない作りになっている。美しく荘厳。これほどその言葉がふさわしい建物もそうそうないのだが、二人の心が癒されることはない。
『まだお怒りなのですか? もう三百年も昔の話ではないですか』
ああ、何て馬鹿馬鹿しい言葉だ。怒りなんて感じてはいない。最早そんな感情では成り立たない。激怒だって生ぬるい。
これは厭悪だ。ファナティカーを八つ裂きにし、教会を破壊し尽くしても止まれるかどうか分からないほどの厭悪が三百年間渦巻いている二人に、怒りとは笑わせる。
「エグザムねぇ。現れて二百年……さて、お前どう見る?」
「……三百年前の関係者にしては時期が少々ずれているのが気になります。リヴェルジアの真名が分からない事には何とも」
「だよなぁ」
滅多に城から出ない二人は会ったことがない、最も罪深い罪人と呼ばれている男。
何を恨んだ? どうして憎んだ? 何を呪って、何に憎悪を募らせる。今尚消せぬ衝動で何を成そうとしている?
考えたところで答えは出ない。二百年前という中途半端な時期に現れたのも謎を深める。
彼は、誰だ?
思考の海に沈みかけた視界の端で一人の側仕えが集団に合流し、そっとザズに耳打ちする。ザズは一つ頷き、控えめな動作でエーデルとシャムスの斜め後ろに近寄った。ちらりと視線を向けることで発言を促す。
「トロイ・ラーセンが面会を申し出ておりますが如何致しましょう」
「おう、どうした?」
「アライン・ザームとその片翼が目覚めぬとの事ですが……」
「ああ? あ――……、絆形成中はよく寝るからなぁ。早くても朝まで起きねぇんじゃないか?」
シャムスは撫でつけていた前髪をがしがしと掻き毟って崩すと勢いよく己の太腿を叩いた。すぱぁんと気持ちよく伸びた音が通り過ぎていく。
「よっし! 面倒な会食は無視しようぜ! そんでもって、アラインと六花を見物しつつ、トロイと飯食おう」
「乗りました。会食は最後に顔を出す程度でいいでしょう。いつまでも私達が前面に出る必要がある訳でもありませんし。ザズ、そのように伝えてください」
「畏まりました」
豪快に笑ったシャムスとにこりと微笑んだエーデルは、足の向きを移動させる。枝分かれした廊下の一本を躊躇いなく選び、足取り軽く歩いていった。
男が一人立っていた。
青年は頭から被っていた長い外套をその場で捨てた。大量の返り血を浴びた布が水のように濡れた音で地面に落ちる。
自分が捨てた物など顧みることはなく男は進んだ。顔の上部を仮面で隠し、漆黒の闇に淡い桃色の桜が散った着物を翻す。それは女物であったが、彼は特に気にした風もない。
青年の足元には幾人も跪いていた。年の頃はバラバラで、一見青年より年上に見える者も、まだ年端もいかぬと呼ばれる年齢の子供もいた。彼らは大量に散らばる死体の血で服が汚れる事を欠片も厭うてはいない。
「如何されますか」
深く頭を下げた男を見もせずに、呼ばれた仮面の青年は指に絡めていた鍵を振った。
「僕は宮を壊してくるから、お前らはいつも通り好きにしなよ」
どうでもよさそうに言い放って青年は歩き始めた。青年の部下達は深く下げていた頭を上げ、宮の中へ消えていく青年の道を妨げる者を狩るために駆け出した。教会兵と激しい攻防が開始されている彼らを、青年は一度も振り向かない。
青年は振り下ろされた教会兵の剣を奇妙な形をした棒状の武器で受け止めた。二股に分かれた枝のような鉄棒の間で剣を止められた教会兵は、はっと気づいた。すぐに剣を引こうとしたがもう遅い。青年はぱっと腕を入れ替えて持ち手と棒の先を掴み、一息で剣を捩じ切った。
そのまま怯んだ教会兵の首に棒を叩きこむ。教会兵の末期の呻き声よりも、首の骨が折れた音のほうがよほど鮮明だ。
青年は武器を一振りして血と破片を払い、まっすぐに宮の中枢を目指して歩いた。
やがて、強固な封が為された扉の前にたどり着く。そこには一人の神官長がいた。随分高齢だ。恐らく長くこの地を任されてきた男なのだろう。未曽有の人災とも呼べるこの事態に合って尚、逃げだそうとせず任を務めようとしていた。
「貴方はご自分が何を為されているのか、本当にご存知なのですか。ここは守の宮なのですぞ。ここを破壊すれば、壊れるのは世界自体。それを分かって尚、進むと仰るか」
「分かっていなければこんな辺鄙な場所に用なんてないよ」
神官長は眉を寄せた。目の前に立つ男の表情は仮面により伺う事は出来ない。
「愚かな……ここを神の膝元と知っての所業か!」
青年が動いた。ゆらりとした動きで神官長が判断した時には、首元に冷たい凶器が当てられていた。ぬるりとした感触が首元を撫でる。それは既に命を散らせた人間の血だ。
「神の膝元? 分かってるよ、だから壊すんだ。世界の崩壊? 最高じゃないか」
「何てことをっ……神に反逆すると!? そのようにおぞましいことを……」
凶器が神官長の喉元を圧迫する。
「何がいけないの。神が、神如きが、僕を止められるものなら止めてみなよ」
顔は見えずとも声は分かる。冷たい憎悪の声だ。
男は扉の奥を見据えた。
「指を咥えて見てるがいい。お前が愛した世界は僕が滅ぼしてやる」
その言葉は神官長に向けて放たれたものではなかった。
そう気づいた神官長は恐怖に震えた。青年の殺気は恐ろしい。だが何より、目の前に神に反旗を翻した命が存在していることが恐ろしくてならなかった。
世界の絶対であらせられる創造主。この世は神のものである。この世で産まれた生きとし生けるもの全てが神のものなのだ。世界が出来て幾候、神に抗った者はいない。抗いという行動を思いつく前に地獄に堕ちた。当たり前だ。自らを生み出した父なる神に刃を向けるなどあってはならない。その思考に陥ることすらなんという罪なのだ。
「赦されない……」
神官長の震えを知り、青年は口元を歪めた。ざわりと緑色の髪が不自然に揺れる。
「ああ、怖い? そう、ごめんね。だったら終わらせてあげるよ」
恐れが酷く身体を蝕み、視線が合わない。神に抗うなど在り得ない。恐ろしい。おぞましい。
神官長は噛み合わない歯を鳴らし、誰かの血が弧を描いた様を見た。
それが最後の映像だったと気づくこともなく、絶命した。
粘着質な水の中に老人の身体が倒れても、青年は何の感情も表しはしなかった。
封をされた扉に近づき、先日奪った鍵を差し込む。扉を開きながら鍵を奪った際にいた女の台詞が蘇ってきた。二人で滅びるなどごめんだと言った。一人でも生き残ることが正しくて、共に堕ちることは馬鹿だと言い切った。
青年は目の前に広がる大きな水晶石を見上げた。石は強固な守りによってその力を保っていた。だが、青年はその封を無いも同然に石に近寄った。
共に堕ちる事は馬鹿の所業だ。自分だけでも生き残って幸せになればいい。それは正しいのだろう。
なのに己は堕ちようとしている。後を追っていこうとしている。否、本当ならば、この身など当に堕ちているのだ。
「三百年も経ってしまった。ねえ、神様。もういいでしょう? もういいよね?」
ひたりと手を這わした部分から音をたてて亀裂が走る。気脈が乱れ、地が暴れ出す。
これくらいで崩壊を始めてしまう世界なんて、もう終わってもいいでしょう?
「あんたはそろそろ、あの人達を殺した報いを受けるべきだ」
透明な音をたてて巨大な水晶石は砕け散った。先ほど殺した男の言葉が蘇る。
赦されないと、神に刃を向けるものよ呪われろ、と。
青年はそれで構わなかった。
世界は彼を赦さない。
だが、それでいい。
彼もまた、何も赦すことはないのだから。