3伝 自立歩行の終わり
「あっという間にぼろ雑巾になったのはアラインの所為だと思う!」
さん付けすら飛んでいく。そんな私を責められるものなら来い。返り討ちにしてくれる! もちろん腕では勝てないけれど! たぶん口でも勝てないけれど! なんかもう全部で勝てない自信はあるけれど!
服の裾は解れて泥だらけ。擦り傷切り傷、打ち身に棘。火傷がないだけましなのか。
ぶつかって蹲ろうが転んで倒れようが、一切頓着せず引きずっていくアラインは、まさに鬼の所業。鬼畜とはこの事である。
別にお姫様扱いなんて望んでない。傅いてくれとも言わない、むしろ怖い。深層のご令嬢のように泥の一つつかないよう輿に乗せてくれなくていいのだ。
とりあえず、人として扱ってほしい。それだけだ。
「大丈夫かとか優しい言葉はいらないけど、気づかず引きずっていくって何!? 興味津々になれとは言わないけど、せめて意識の欠片くらい寄越してくれても罰は当たらないんじゃないの!?」
ついでにいうと、足は挫いた。それでも速度を緩めず歩いていくアラインに、堪忍袋の緒が切れるのも仕方がないと思う。
おろおろと周りをまわっていたトロイは、泥だらけの私の裾を引いた。
「え、えっと、六花さん、師匠とくっついてるってことは、帰った後も一緒なんですよね? だったら一緒に遊びませんか!? 師匠も、信じられない奇跡のように気が向いたら、三秒くらいは付き合ってくれることもあるかもしれないけど、絶対無理な気がします!」
「安心できる要素が皆無ですね!」
弟子から見た師匠像が気になりすぎる。
私の怒りが反れたことに気付いたのか、トロイはぐっと気合を入れて、弟子から見た師匠の実態を語ってくれた。
「僕、師匠が怒ったところも、笑ったところも、三食連続で食べてるところも、三時間以上寝てるところも見たことありません! 基本的に全部どうでもよくて、面倒だなって思ってる人です!」
「何で胸張ったの!? ……トロイ、お師匠さん好き?」
子どもはきょとんとした。
「大好きです」
彼の好みが今一分からない。まあ、好きならそれでいいんだろう。嫌いよりよっぽどいい、はず。
それに、まあ、悪い人ではないと、思う。見ず知らずの私に押し潰されても怒らないし、傷つけようという意図を持って傷つけてはこなかった。傷つける意図がなかったのに盛大にぼろ雑巾にしてくれた件と生活態度は、是非とも改善して頂きたい。
それでも、私の目の前できゅっと握りしめた拳を振り、きらきらと語るトロイは、師匠が大好きなのだろう。大きな目が輝いていて可愛い。
「師匠は凄いんですよ! 史上最年少で聖騎士になったんですよ! 凄いでしょう!? すっごく強くて格好いいんです!」
「その強くて格好いいお師匠さんの力によって、ぼろ雑巾と化した惨状がこちらです」
素敵なお師匠さんなんだね。そう言おうと思っていた台詞は直前に変更となった。
ひっくり返った亀再び。
引きずられながら親指でアラインを示せば、師匠を褒め称えていた弟子でさえ目を逸らした。
今まで立ち止まってくれていたから油断した。遠慮なんて欠片も存在しない、むしろ私の存在すら存在しないんじゃないかと思われる歩みが再開される。背中がどんどん湿気ていく。湿気るどころか、私の背中で森の落ち葉掃除をしている。
あいや待たれいとマントの裾を引くと、視線だけ斜めに動かして見下ろしてきた。せめて首も動かしてください。ふくろうなんて頭全部動かしてくるよ、ぐるぐるだよ。呑気に眺めてたらサンドイッチ奪われたよ。夜行性じゃなかったんですか?
ふくろうのくりくりとした丸い大きな目は、サンドイッチへの好奇心を前面に押し出していた。それなのに、目の前の紅瞳はどうだろう。引きずった私への申し訳なさは勿論、殴り掛かったことに対する怒りすら沸いていない。私が喋らなかったら、彼の中で私の存在がさらさらと流れていってしまいそうだ。興味ないんですね、分かります。
まるで砂や水だ。でも、本当に砂や水ならこんな怒り沸くものか。彼は怒りをぶつけてもどうにもならない自然じゃない、人間だ! ……聖人だ!
姿形が一緒で、言葉が通じるなら、きっとお互いその気になったら心だって通わせられるはずの存在だ。そんな相手からの暴挙に怒るなという方が無理だ。
私は心を決めて、ぎゅっと握った拳をふかりといた地面に叩きつけた。
「もう一歩も歩けない!」
こんな我儘娘代名詞な台詞を言う日がこようとは。いや、まあ、「もう一問も解けない!」はしょっちゅう言ってきたけど。もう一問もどころか、しょっぱなから一問も解けなかったけど。お父さん助けて。宿題難しい。
私だってできるなら黙々とついていきたい。少々の怪我や疲れなら、倒れる寸前までは黙って歩く覚悟だ。これからお世話になろうという人に、何一つ返せるものがない自分が我儘などいえるものか。そう思っていた。今でも思っている。
この二人は悪い人には見えない。良い人と断言できるわけじゃないけど、特にアラインは大丈夫かこの人と思ってしまうけど、悪人には見えない。
信用していいのか、どこまでだったら信頼していいのか。その線引きを必死で行っている所だ。そんな相手に甘ったれた言葉なんて吐きたくない。
けれど、私には確信があった。
このままだと、森を抜ける前に死ぬ。ぜったい死ぬ。
予知や勘に特別才能があるというわけじゃないけど、この確信には自信があった。胸を張って言える。三脈を測るまでもない。
ずきずきと痛む足首がそう告げている。更に、お尻と、背中と、手首と、頭と、お腹と、太腿と、肩と、顔面も告げている。ほぼ全身が、本能まで含んだ私の全部が告げている。これを信用しないで何を信用するというのだ。これを信用できなかったら、気づいたときには、お前はもう死んでいるになる。
それに、今はまだぶつかったものが木で、落ちたものが小さな崖と川と穴と沼だったからよかったものの、これが岩や滝だったら助かる気がしない。
沈黙が落ちる。私の命を懸けた睨みあいは、アラインがくるりと背を向けたことで終わりを告げた。
「待って待って待って! ごめんなさい調子乗りました待ってください!」
「し、師匠、師匠師匠師匠! 流石にこれ以上は六花さんが死んじゃいます!」
普通に歩き始めた背中に二人掛かりで追い縋る。そして、二人掛かりで引きずられた。アラインさん、前世は農作業に活用されている牛か何かですか?
これが、渾身の力で引きずっていくならまだ分かる。ああ、頑張ってるんだな、そんなに私がお嫌ですかと納得もいく。でも、なんの不自由もなくすたすた歩いていくので、私とトロイもすたすた引きずられるのは納得いかない。
二人掛かりで必死に縋るからアラインのマントも泥と苔にまみれたけど、それを申し訳なく思ってたら私は死ぬ。
「せめて手を、手を繋いで頂けませんか!」
無い頭で必死に妥協案を考える。
アラインは別に私への嫌がらせで引きずっているわけじゃなさそうだから、たぶん、純粋に私に興味がなくてすったかすったか行ってしまうんだろう。だったら手を繋いでしまえば、相手が歩ける状態じゃないことに気づくくらいはできるんじゃないだろうか。
思わず手を繋ぎたくなるような愛らしさも、可愛らしさも、美しさもないし、手は泥だらけ草だらけ苔だらけで、清潔ですらないけども。
最早これに縋るしかないと微かな希望にかけた私に、トロイはなんともいえない悲しげな目を向けてきた。
「……六花さん、それ、腕が折れるかもしれませんよ」
「折れるの!?」
「……千切れるまでないと…………思い、ます、けど」
「千切れるの!?」
ここは手足との別離が盛んな世界らしい。再会の可能性はあるのだろうか。別離だけの世界なんて悲しすぎる。何事も希望って大事だと思う。
走り出した胸の鼓動を持て余す。この身の震えは切なさか。いいや、恐怖だ。この胸を満たす感情は、切なさでも甘酸っぱさでもなく、やるせ無さである。
ああ、もう、頭がふらふらする。倒れそうだ。色々なことが一気にあり過ぎた。限界は既に超えている。受けた物事を消化する暇もなく次から次へと衝撃が投入されれば、馴染ませるどころじゃない。
疲れは身体より頭にきたらしく、思考までもずしりと重い。周囲の音は耳の中で膜を張ったかのようにぶわぶわと妙に膨れて聞こえ始めた。
このまま意識を失ってしまいたい。ぐっすり眠れたらどれだけいいか。でも、このまま倒れたら二度と目覚めない可能性すらある。無表情で引きずるアラインにひき肉にされる、絶対にだ。よしんばひき肉にされなかったとしても、落ち葉や腐葉土でぼろ雑巾どころかただのゴミと化す可能性が高い。
そうなったら、「どうも六花・ゴーミと申します」と名乗ってやる。活劇名は「六花・ゴーミの大冒険」。これで決まりだ。どこにでもあるチリクズから、最後は立派な粗大ゴミに成長して故郷に帰ってくる感動巨編である。六花・ゴーミの活躍をお楽しみに!
荒波が打ち付ける岩の上で拳を掲げる六花・ゴーミを思い浮かべながらアラインを見上げる。人ひとりを平然と引きずる力を持ったアライン自体は何故か恐ろしくなかった。何を考えているか分からない尋常ではない力を持った相手。それなのに、殴りかかろうと思って、実際殴りかかったくらいは怖くない。六花・ゴーミは強いのだ。でも頭ふらふらする。
だんだん朦朧としてきた私に、見上げてないほうがひどく心配してくれた。
「大丈夫ですか!? えーと……僕が背負いますから、どうぞ乗ってください! 僕だって聖人です! 人間より力はあります! たぶん!」
さっきは下につかないよう気をつけていたマントや自分の膝が汚れるのも構わず、トロイは私の前にしゃがみ込んだ。優しい。
その優しく小さな背中を見下ろして悩む。乗ろう、乗るまいではない。どう言葉を選べば彼を傷つけずに断れるかだ。
聖人がどういう者かは分からないけど、見た目にそぐわない力を苦も無く発揮しているアラインを見るに、凄い力を持った人だということは分かった。けど、如何せん背丈が足りない。幾ら力足りようと、どう足掻いても身長差は埋められないのだ。幼い子どもの身体で私を背負えたとしても、そんな力で引きずられればやはりひき肉一直線だ。
気を失ってしまいたい。
そう願うも、引くもひき肉、抗うもひき肉だ。どうすりゃいいのだ。
「…………うるさい」
ふらふらと思考が空回りしていると、トロイじゃない声がしたと同時に、曲がった杭を回されたような硬い衝撃がお腹を襲った。
「うげふっ!」
「うるさい」
無造作に回ってきた腕が、がしりと私のお腹を捕縛する。ぶんっと耳鳴りがしそうな勢いのまま振り回された。朝ごはんが消化される前にうげろっぱする。
強制的に視界が回って、景色が伸びて見えた。伸びた景色の残像を追おうにも、脳が揺れて役に立たない。ぶおんと空気が固形物のように聞こえた後、やけに固く尖ったものにお腹が押された。うげろっぱ三秒前。
二、一、と秒針が動いている間に、同じようにとん、とんっと、等間隔で揺さぶられてやっと分かった。アラインの肩に担ぎ上げられたのだ。
呆然と地面を見つめ、薄い背中を見つめ、綺麗な銀真珠色した後頭部を見つめてる。痩せて尖った肩の衝撃がアラインのマントを貫いてお腹を圧迫している。肩の防具かと思いきや、ただの肩だった。つまり、尖りすぎで、痩せすぎだ。
「え、あれ? 師匠?」
「日が暮れる」
やけに近くで声がする。首を傾げて隣りを見ると、私とは反対の肩にトロイが担ぎ上げられていた。大きな瞳が呆然と師匠の背中を見つめている。じわじわと状況を理解したのか、段々染まっていく頬が可愛らしい。
「師匠に抱っこしてもらえるなんて、初めてです……」
両手で顔を覆い、耳まで赤くしたトロイに、私は微笑んだ。
いつ伝えればいいのだろう。
これは抱っこじゃなくてただの荷担ぎだ、と。