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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第二章 始まりの町 終わりの仮面
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37伝 身代わりはおしまい





『生まれてこなければよかったの』


 浮き出た骨が軋む様さえ見えるほど痩せた腕が、子どもの首を絞める。軋むのは女の腕か、子どもの首か。


『あなたは、生まれてくるべきじゃなかった』


 お伽噺を語るように、寝物語を聞かせるように、約束を言い聞かせるように、女は繰り返し言葉を紡ぐ。子どもは何も言わない。泣きもしなければ喚きもしない。ただ透明な紅瞳で女を見上げている。



 そんなことないよ、そんなこと言っちゃ嫌だよ。

 そう言いたいのに声が出ない。

 はくりと呼吸の成り損ないを吐き出した私の肩に誰かが触れて視界が回る。肩を引いた相手は見ずとも分かった。


 予想通り、苺ジャム色の綺麗な瞳がそこにはあった。いつもと違うのは、そこに感情の色が灯っていることだ。綺麗だと思った。たとえそこにあるのが腹立たしさ故の怒りでも、何の感情も移さない瞳より何倍も美しいと思った。



「あれは過去だ。既に起こったものを見ていても無駄だ。捨て置けばいずれ覚める」

「…………こっちこそ無駄だよ」


 あれほど出なかった声がするりと飛び出す。どこか不貞腐れたような、いじけた声だった。





 人を強制的に夢の中に引きずり込んだアラインに対する文句は出てこなかった。出せなかったのだ。これ以上何かを口に出したら、きっと、目の前の子どもと同じになる。

 子どもが泣き叫ぶ。耳まで真っ赤にして全身で泣き喚く。ぎゃあぎゃあと、泣いたってどうにもならないことを泣き叫んでいるうるさい子どもだ。


『おとうさん! おかあさぁん!』


 涙を撒き散らし、声を裏返らせ、ぎゅっと握りしめたスカートを皺にして、己の感情をただただ泣き喚いて世界に撒き散らしている。

 子どもは、幾度も幾度も、一度言えば分るようなことをうるさく言い募った。泣けば済むと思っているのか。泣けば誰かが助けてくれると甘えているのか。ぎゃあぎゃあと泣き叫んで駄々をこねる。

 幾度もうるさく吐き出される言葉を正常に聞き取ったアラインは、予想だにしていなかった言葉を聞いたと言わんばかりに目を丸くした。そんな顔も出来るのだと驚く。そんな顔が見れたこと。それだけは、少し、嬉しかった。


「六花、お前」


 呆然と紡がれていく言葉を最後まで聞きたくなかった。なのに、こんな時に限って彼はお得意の話無精を発揮してはくれない。



「ずっと、寂しかったのか?」



『さびしい』


 また一つ世界に広がった雫は、私の瞳から溢れ出していた。







『さびしい』


 寂しい、寂しい、寂しい。

 この世界に誰もいないことが寂しくて堪らない。

 誰も知らないことが、私を知っている人が誰もいないことが。どこにも行ったことのない事実が、どの地でも過ごした記憶が事実がないことが。知った人が、帰る場所が、迎えてくれる人が。何もないことが、どこにもいないことが、寂しくて、寂しくて、堪らない。


 どこかにいてくれるなら、これがただの異国ならば。どれだけかかっても頑張れた。それがどれだけ過酷でも、誰に不可能と言われようと。無一文でも着のみ着のままでも、這いずって、這い蹲って、血反吐を吐いたって頑張れる。

 どんなことにも耐えぬいて、大好きな家族の元に、大切な家に帰るのだ。


 何があっても家に帰れば大丈夫だった。どんなに疲れていても、どんなに嫌なことがあっても。お母さんが笑っておかえりと言ってくれたら、そっくりな顔の二人の弟が、まだまだ幼い妹が、おかえりと言ってくれたら。ただいまと帰宅した兄におかえりと言ったら、ただいまと帰宅した父におかえりと言ったら。焦げていても美味しくても、みんなで揃ってご飯を食べていろんな話をして、遊んで、お風呂に入って、おやすみと言ったら。

 私は大丈夫だったのだ。



 何があっても大丈夫だと思える場所が一つでもあれば、そこを目指して頑張れる。どれだけ疲れてもいい。どれだけ苦しくたっていい。帰れさえすれば何があったって大丈夫になるのだ。


 だけど、私の絶対が、この世界のどこにもない。


 私が生まれた場所が、過ごした時間が、どこを探しても見つからない。当たり前だ。だって私はこの世界で存在したのではない。この世界で生まれなかった命だ。私の精神も血肉も、何一つとしてこの世界で育まれたものではない。

 私を愛し、育んでくれた人は誰もいない。私が愛し、慕った人も時間すら存在しない。

 私の探すものを誰も知らない。どれだけ探しても、存在していない人を見つけ出すことなんてできない。

 愛する人を誰も知らない。その事実だけで打ちのめされる。死別でもないのにこんなに遠い別離があるなんてひどすぎるではないか。



 

 私はぐしゃりと握りしめた髪ごと顔面を覆い、溺れるように言葉を垂れ流す。


「大丈夫。だってお母さん笑ってた。昔はいろいろあったみたいだけど今は凄い楽しいって毎日笑ってるから、いろいろあったって大丈夫なんだよ。だから、大丈夫なんだよ」

『さびしい』

「お母さんは最後は自分で選んだって。自分で今の世界を選んだんだよ」

『さびしい』

「だから、大丈夫なんだよ。いろいろあったって笑えるんだよ。大丈夫なんだよ」

『さびしい』

「うるさい!」


 足元に纏わりついて言い募る自分を怒鳴りつける。幼い自分は癇癪を起したみたいに顔を真っ赤にして私の足を殴ってきた。裾を引いて、こっちを見ろと怒鳴る。


『さびしい!』

「大丈夫」

『さびしい!』

「大丈夫」


 子どもは涙と鼻水まみれの顔を猿みたいにぐしゃぐしゃにして、大きく息を吸った。それなのに、零れ落ちた言葉はひどく小さい。


『あいたい……』


 ぎりっと歯を食いしばる。こめかみ辺りがぎゅっと押し付けられたように熱を持ち、鼻の奥が痛くなる。こんなの違う。おたふく風邪みたいに、ものもらいみたいに、子どもの病が移っただけだ。そうだ、これは病だ。私を蝕み、歩けなくさせる病魔だ。

 癒してくれる相手もいないのに。無条件に看てくれる人が、看てもらっても何の罪悪感を感じず、いつもと違う状況に甘えて浮かれられる人がいないのに、病魔を呼び寄せるなんて馬鹿にも程がある。



 顔を覆った掌の隙間から幾筋も幾筋も雫が零れ落ちていく。もう私の掌では覆いきれなかった。溢れだした涙は掌の中でいっぱいになって溢れだす。自分の涙で溺れてしまう。けれど、この手も、涙も、行き場なんてないのだ。


 アラインがどんな顔をしているのか分からない。腹立たしさを増しているのだろうか。呆れているだろうか。それとも元の無表情に戻っているのだろうか。

 顔を上げることができないので分からない。何度も嗚咽を飲みこみ、溢れだす涙を押し込めようと唇を噛み締めても、子どもがぎゃんぎゃんと泣き叫ぶ。叫ぶたびに私の努力は全く無意味なものになってしまう。







「…………で」


 どう足掻いても、もう取り繕うことはできないと分かった。ならばせめてと言葉を絞り出す。思い出すのは新緑色をした小さな子どもだ。


「…………トロイには、言わないで」


 寂しいなんて、あの子には言わないで。


 違うのだ。寂しいのは、悲しいのは、苦しいのは、この世界が嫌いだからでも、トロイが、アラインが、双龍が、彼らが疎ましいわけでもない。

 ただ恋しいのだ。家族が、家が、故郷が。見知った世界が、思い出が恋しくて堪らない。けれど、それを口にしてしまえばあの小さな子は気にしてしまうかもしれない。

 優しい人がいたのに、優しくしてくれる人がいたのに。一緒に笑ってくれる子どもが、温かい人がいたのに。寂しがってしまう私がいけないのだ。

 だから、あの子には言わないで。私が弱いせいで、あの子を悲しませたりしたくない。せめてそれくらいは意地を張っていたかった



 

 どうして自分だったのだ。まるで幼い子どもみたいに寂しい寂しいと泣き喚いてしまうような自分がどうして。


 でも仕方がない。どんなに訳が分からずとも私はこの世界に来てしまった。誰が悪いわけでもないことを傍にいるという理由だけで責めるのはひどい。彼らの所為ではないことを気に病ませるのも嫌だ。

 だったらもう、笑っているしかないじゃないか。お母さんのように、大好きなあの笑顔を。そうしたら、自分も皆も楽じゃないか。

 そう思ったのに、今の自分は何だ。



 私は何度もしゃくり上げながら惨めさを噛み締めた。涙をしまうことすらできていない。それどころか、夢の中にまで出しゃばって気づきたくもなかったことを必死に吐露しているのだからどうしようもない。


「おか、おかあさんは、笑って、いつも、笑って、たの、楽しそうで。だから、そうできるんだよ、ちゃんと、そうできるって知ってるから、私もっ……」

「お前は馬鹿か?」


 しゃくり上げていた私は、風のように流れ落ちてきた言葉を理解し損ねた。

 思わず顔を上げる。きょとんとした頬を溜っていた涙が伝い落ちていく。拭ってくれる人もハンカチを差し出してくれる人もいないという事実を突きつけられたけれど、ぽかんとした衝撃が大きくて、寂しさが追いやられた隅っこでうろちょろしている。





「お前は馬鹿か?」


 ご丁寧にもう一度繰り返してくれたおかげで今度はしっかり受け止めることができた。それを処理できたかはまた別の話だが。

 見上げた顔は、別に罵倒したという風でもなければ呆れもしていなかった。じゃあ何故馬鹿呼ばわりされたのか。私は首を傾げた。確かに馬鹿だが、それは今ここで繰り返し教えてもらうべき事柄だろうか。

 首を傾げながらも止まらない涙をぼろぼろ流す私を見下ろして、アラインは少し考えた。


「俺は父親の顔も知らないし、母親はあれの後に自害したから、親との普通の関係も関わりもよく分からないが」


 あれと軽く顎で示された先にある光景に、私は眉を寄せた。ぼやけた視界でも何が行われているかは分かる。

 けれどアラインはそれに関して特に反応は示さず、私へ視線を戻した。


「お前の母親が異界渡りの後に定住したのは分かった。けれど、母親が常に笑っていたという事と今のお前が笑うというのは同じなのか?」

「……ごめん、何が言いたいか分かんない」


 馬鹿と呆れられるか、それとも怒られるかと思いきや、アラインは何も言わずまた少し考える。言葉を探しているのだと気づいた瞬間、こんな状況なのに少し嬉しかった。やっぱり優しいと思う。だって、わざわざ言葉を選ぶ手間を厭わず、馬鹿の為に探してくれるのだ。

 思わず笑ってしまった私を、不思議そうに揺れた紅瞳が見下ろす。








「会話をしてこなかったツケがこんな場所で出るとは思わなかった……」


 アラインは、今まで伝える努力も分かる努力もしてこなかったから、分かり合おうとする一連の流れがうまくいかない。相手の立場に立ち、相手の気持ちを考えるということをしたことがないのだ。幸か不幸か頭の出来がよかったので、仕事関係でも深い説明を必要としなかったし、特に困ることなくやってこられたのだ。単独の仕事が多かったので余計に誰かと分かり合う必要がなかった。

 あれで理解できないかと見下ろした相手は、水色を真っ赤に染めてぼろぼろと涙を流し続けている。何がおかしいのか笑いながら。笑っているのに泣いている。こんな奇妙な生き物は知らない。これがこんなに奇妙なのは、異界の民だから、始祖の民だから、片翼だからか、六花だからか。

 アラインには分からない。

 何を選んで伝えれば六花が理解できるのか分からないアラインは、全て一から話すことにした。






「お前が十五歳ということは、少なくともお前の母親が定住して十五年以上の時間が経っているということだろう」

「そうだね?」

「だったら、この地に訪れて十五年どころか十日も過ぎていないお前が母親と同じ行動を取ろうとして成り立つものなのか? お前にはお前の母親が出会った者と同一の人間も父親もいない。違う条件下で同じ行動をとってうまくやれるものなのか? 母親が培った経験も人間関係もない状態で同一の行動をとったとして、それらは同じ効果を発揮するのか? お前は母親じゃない。なら、母親が笑っていようがいまいが関係ないんじゃないのか? そもそも、お前の母親は誰かが笑っていたから、またはそれでうまくやれたという経験に基づいて笑うべきだと判断して笑っていたのか? そうでないのなら、自然発生した笑顔と故意に作り上げた笑顔は同じ効果を持つのか? お前の母親は一度も故郷を恋しがらなかったというのはお前が知っている範囲だけの情報であって、お前の知らない場所で泣いたという可能性は考えられないものなのか? お前がトロイに秘めてほしいと要望したように、お前の母親がお前に見せなかった可能性は有り得ないものなのか? だったらお前を馬鹿呼ばわりしたことは訂正する。しかし、泣くという行為を耐えて何になるんだ? 故郷を失えば寂しがるという感情はお前達には普通なんだろう? なら、何故わざわざ労力を使って隠すんだ? 泣くことで不利益を被るのか? 泣かないことが負担となり結果的に任務遂行において良好な状態を維持できず妨げとなることはないのか?」


 幼い子どもが必ず習得する必殺技「なんでなんで」攻撃を喰らった気分だ。

 面食らっていつの間にか涙は渇いていた。正直それどころではなくなった。とにかく長い上に質問量が多い。私は鼻を啜り、目元と頬を袖で拭って残った涙を吸収した。


「ア、アライン、どうしちゃったの? なんかいっぱい喋ってる」

「お前の所為だ」

「それはどうもすみません」


 謝ってから首を傾げた私に、アラインは嘆息した。


「お前につられると言っただろう」

「言ったね……え!? それってこんな顕著に出てくるもんなの!? なんか長く一緒にいる人は雰囲気が似てくるねとかそういう感じじゃなくて!?」

「片翼がそんな曖昧な繋がりなわけないだろう」

「ええ――……」


 そうだったのか。それだと本当に自分みたいになってしまったらどうしよう。それこそトロイに合わせる顔が無くなる。慌ててアラインの腕を掴む。足元ではまだ目にいっぱい涙を溜めた幼い私が、一緒になってアラインのズボンを引き、必死に首を振っている。いま、私と少女の心は一つだった。


「アライン、馬鹿になっちゃ嫌だよ!?」

「お前が馬鹿ではなくなるという選択肢はないのか」

「そう簡単に卒業できるようなら最初から馬鹿やってないんだよ?」

「さっきの問い一つくらいは答える気はないのかお前は」

「なんだか女学生並の話題変換だね」


 くるりと変わる話題に面食らったけれどすぐに立ち直る。ころころ変わる話題はどっちかというと去年まで女学生をやっていた私の得意技だ。ついでにいうと未だに明後日の方向に話題を飛ばす母と、特に気にせず追いつく父のおかげで荒れ狂う会話もなんのそのだ。



 ぽんぽんと打てば響く会話が心地いい。ほっと肩の力が抜けたらまた涙が滲んできて慌てて擦る。

 アラインの手が私の手首を掴んだ。他者の体温に過敏になっているのか一瞬ぎくりとしたけれど、やけに熱い体温に首を傾げる。なんだかさっきから首を傾げてばかりだ。傾げた拍子に涙が落ちていく。頬を滑り落ちる感触がくすぐったいなと思うくらいには冷静さが戻ってきた。


「泣くと不都合があるのか?」


 適当にへらへら笑って誤魔化そうと思ったのに、びっくりするくらいまっすぐな紅瞳に詰まる。分からないから分かろうとしている。分かろうとしてくれている人に対して、茶化して返すのは失礼だ。

 私は行き場のない指を絡ませて落ち着こうとした。けど、手首は未だに掴まれていて動かせない。諦めて足先をちょっと上げて、下ろした。


「だって……泣くと困らない?」

「誰が」

「アラインは出会ってからずっと、私がこのちっちゃい私みたいにぎゃんぎゃん泣いてたらどうする?」


 紅瞳が下を向く。小さな私はいっぱいに溜めた瞳からぼろぼろと涙を流すと、またさびしいさびしいと泣き始めてしまった。無言でそれを認めて視線を戻した紅瞳は、ぽつりと答える。


「…………口に手拭いを詰め込む」

「せめて飴玉くらいに(とど)めて頂けると嬉しいです」


 気絶させ続けると言われないだけマシなのだろうか。

 私は苦笑した。


「別にそれだけじゃないよ。私が、泣くより笑うほうが好きなの。泣いてる人より笑ってる人が好き……というか、いや、好きなんだけど、泣いてる人がいたらびっくりしておろおろしちゃうから、笑ってるほうが嬉しいし、好き。泣いてるより、楽しいこと見つけるほうが好き。ずっと楽しかったんだよ。楽しく、してくれた。楽しく頑張れる生き方をお母さんが教えてくれた。…………お母さんみたいにしたかったんじゃなくて、お母さんみたいになりたかったの。お母さん大好きだから。お母さんが笑ってくれるのが凄く好きで、私もそういたかった。そうしたら大丈夫になれる気がしてたの。お母さんは大丈夫だったから、お母さんといれば皆楽しそうだから、お母さんなら大丈夫だって、思った。お母さんならこうするかな、お母さんならどうするかなって、そればっかり考えてた」


 握られている手とは反対の手で前髪をぐしゃりと握り潰す。俯いた先では幼い自分が泣いている。その上にぼろぼろと雫が落ちていく。


「……でも、違ったのかな。お母さんも泣いたのかな。寂しいって、泣いたのかな」


 ああ、嗚呼、お母さん。

 あなたも泣いたのでしょうか。私達の前では一粒の涙も見せたことはなかったあなたは、私達に見えない所で、選ばなかった片方が恋しくて泣いたのでしょうか。


「私は本当に馬鹿なんだよ。勉強嫌いだし苦手だし、すぐに逃げ出しちゃうから今でも苦手なまんまで。お母さんみたいに他の人を元気にするようなことできない、臆病で考えなしで、愚かなほうの馬鹿なんだよ。元気ならそれでいいってお父さんが言ってくれたのに甘えて、本当にそれしかない、馬鹿なんだよ。それくらいは分かってる。だから、お母さんになれたら大丈夫だって、思った」


 母が語る昔話はてんやわんやの大騒動。あっちでどんぱち、こっちでどんぱち。最後はみんな笑って終わっている。けれど、語られなかったどこかで流れた涙もあったのだろうか。


「なら、今までのお前は偽りか」

「いや、それはわりと素だけど」

「…………どっちだ」

「……結局根本なんて変わりようがないんだよ。ごめんね、お母さんならもっとちゃんと出来たんだと思う」

「お前は母親じゃないだろう」

「…………そうだね」

「お前の母親の有りようがお前の世界で有効だったのは分かったが、それがこの世界でも有効とは限らない。それなら、俺の片翼はお前ではなくお前の母親だったはずだ」

「はは……やめてよ。お母さんいなくなったらみんな泣いちゃうし、仕事ほっぽって死に物狂いで探し回っちゃうよ」

「それはお前でも同じじゃないのか?」


 きょとんと返された私はいまどんな顔をしてるんだろう。苦笑だろうか、痛みを堪えたぐしゃぐしゃの顔だろうか、堪えきれなかった不細工な泣き顔だろうか。


「……ごめん、アライン。私は間違った。たぶん、そうしようと思ってなかった最初から。お母さんはお母さんで頑張った。だから私も、私で頑張らなくちゃいけなかったんだ。この世界でもお母さんに頑張らせちゃいけなかったんだって、やっと分かった。私弱虫だから、お母さんの勢いを借りてばっかりだったけど、頑張るのは、頑張らなきゃいけないのは、私だ」


 鼻を啜って、涙でべちゃべちゃになった手を服の裾で拭う。

 綺麗にした手をアラインに差し出す。私は嘘をついた。私だって自己紹介したのに、私じゃなかったなんて詐欺だ。だから、ちゃんと最初からやり直そう。

 息を吸って、綺麗な紅瞳をまっすぐに見上げる。


「雑貨屋さんで販売員やってる、六花・須山・ホーネルトです」


 紅瞳がちょっと動く。それはどんな感情だったのか、知りたい。教えてほしい。そして、アラインにも知ってほしい。私は、六花です。六花と、いいます。

 あの時は取ってもらえなかった手が、重なった。


「アライン・ザーム、聖騎士だ」


 繋がった手は、お父さんより細く、シャムスさんより柔らかく、お兄ちゃんより白く、とても温かかった。





 雨のように降り注ぐ涙を顔面いっぱいに受けている幼い自分は、文句も言わずに私を見上げている。その涙が止まっていた。あれだけ泣き喚いていたのに、いまは一粒も流さず、黙したままじぃっと私を見上げている。

 その頬に触れると、濡れたイチゴダイフクみたいな感触だった。


「ごめんね、後はちゃんと自分で泣く」


 涙でべちゃべちゃになってしまった頬を撫でると、幼い私は嬉しそうにへにゃりと笑った。嬉しそうに笑っても花のような笑顔になれないのは仕方がない。だって自分なのだ。父は可愛いと言ってくれるのでそれで充分だ。ただ、父は母が変顔しても可愛いと言い切る人なのであまり安心はできなかったりする。


 私の代わりにぎゃんぎゃん泣き叫んでいた幼い少女はくるりと回ってアラインの足にしがみついた。そのままぎゅうっと抱きついて三秒、ぱっと離れてまたへにゃりと笑う。


「あ」


 幼い私が消えて、思わず声を上げる。

 瞬きの間に消えた幼い自分とアラインの足の間に透明の橋がかかっていたなんて見えなかった。全然見えなかった。






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