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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第二章 始まりの町 終わりの仮面
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33伝 自己暗示の終わり






 柔らかな布の合間を滑り落ちていく。必死にもがいても何一つ掴めなかった身体は、左右の布に絡まりもせず落ちていった。落下独特の、身体全体を走り抜けていく冷たい衝撃に身は竦むのに、全身に当たるものが柔らかく温かな布で混乱する。


 なすすべもなく落下していた身体が、突然何かに引っかかった。足場とつっかえができてもすぐには上下が分からない。必死にもがく。もがいて絡まって、ようやく上と思える方向に頭を向けることができた頃、回った目はなんとか落ち着いていた。



 でも、さっきまで詰まっていた呼吸はそうもいかない。げほげほと噎せて、首を押さえる。身体の支えが欲しくて背を預けた場所は、柔らかな布とは違い壁のように硬かった。

 喉を押さえ、浅く忙しない呼吸を深くゆっくりとしたものに落ち着かせる。目尻にたまった涙を擦り、私はやっと顔を上げた。

 薄暗い中で、星のように綺麗な青い蝶が揺れている。服の隙間から訪れるわずかな光を貪欲に取り込み、まるで自ら光を放っているかのように光沢のある青を周囲に降らせていた。


 見覚えのあるそれは、さっき一瞬だけ私を乗せていたものだ。真っ赤に染まった視界がくるりと色を変え、青が飛び込んできて混乱した。ただでさえ脳に酸素が足りていない状況で混乱した身体は、不安定なブランコに乗り続けられなかったのである。当然落ちた。真っ逆さまだった。




 アラインと私の場所が入れ替わっている。

 鈍くばらばらな思考で、なんとか事態を把握する。場所だけではない。大きさも、服も、文字通り立場も変わっていた。

 幾度も噎せて張り付く喉と口内を宥め、目を擦る。青い蝶からまっさかさまに落下した現状で、一体自分は何に引っかかっているのだろう。


『……それ以上落ちるなよ』

「うわ!」


 頭の中で響いた声に思わず頭を押さえる。世界から隔離されたかのようにしんっとしていたので、脳内を揺らす感触に飛びあがってしまった。

 よろめきながらも思わず立ち上がる。布越しに手をかけた物に気付き、アラインの言葉に合点がいく。

 私はしみじみ頷いた。


「ありがとう。もうちょっとでお互いに大惨事でした!」

『…………早く登れ』

「そうしたいのはやまやまなんだけど、ちょっと呼吸落ち着くまで待ってぇ」


 情けない声を上げて、誰も見ていないと分かっているのにへらへら笑う。

 私がもたれていたのはベルトだった。そして、土台にしているのは外から押さえてきたアラインの手だ。これがなければ下まで落下していた。地面まで落ちれば死んでいたかもしれないけど、その前に地獄も見ただろう。


 アラインが落ちても大惨事とならないようきつめに締めていたはずなのに、間にはまり込んでベルトに凭れられるくらい隙間が出来てしまっているとはどういうことだ。

 私は打ちのめされそうな事実に気付いて、ははっと軽い声を上げた。きっとさっきの二帝焼きの分だけ私のお腹が膨れていたんだろう。そうであれ。




 手が離されないことを確認して、それに甘えて座り込む。

 一つ、嘘をついた。

 ごめんねと胸の中で謝って、唇を噛み締める。

 呼吸はすでに落ち着いていた。落ち着いていないのは心臓だ。どきどきなんて可愛らしいものではない。どっどっどっと息が切れた馬のように、ぐつぐつ沸騰するやかんの湯のように、ひっきりなしに鳴り続けている心臓を胸の上から抑え込む。

 早く、早く治まれ。そしたら、ボタンを手掛かり足掛かりとして首飾りまで登るんだ。そうして、何事もなかったのかのようにへらへら笑うんだ。

 そう言い聞かせているのに心臓はちっとも鳴り止まないし、手足は今になって酷く震える。



 悪戯をして頭をひっぱたかれたことはある。お尻を打たれたことだってある。

 だけど、殴られたことなんてない。怒った人を怖いと思ったことはあるけれど、その手が怖いと、暴力が恐ろしいと、知っていたのに知らなかった。


 震える膝に擦りつけていた額をそのままに、そっと頬に触れる。ちょっと触っただけでずきりと痛む。

 怒る相手は誰だって怖い。それが年上の男の人なら尚更。けれど、その拳が恐ろしいなんて、こんなに痛いだなんて、知らなかったのだ。


 薄い肉から感じる骨の硬さ。頬骨と指骨が抉れるように叩きつけられた。肌を越え、肉を越えたその奥の部位が打たれた衝撃を強烈な痛みと熱さで知った後に残ったのは、ただただ恐怖だった。



 男の人の手は、私を抱き上げるものだった。私の頭を撫でて、軽く頬を抓り、口の中に飴玉を放り込んでくれる手だった。舞うように剣を振り、重たい物を持ってくれ、転んだ私に差し伸べてくれる、優しい手だった。

 大きな力を出せると知っている。重たい物を持てると知っている。


 その上で、優しく触れてくれていたのだと、知っている。


 知っているのに、酷い衝撃だった。衝撃を受けた自分が惨めに思えて、歯を食いしばる。なんで殴られた側がこんな思いしなくちゃいけないんだろうと思うと、もっと惨めに思えてならなかった。


 がたがたと震える身体を何度も何度も叱咤しているのに、奮起にもならない。

 ずきん、ずきんと波紋のように広がる痛みに、じわりと滲んでくるものを膝に押し付けて拭い去る。駄目だ。泣くな。泣いたら立てなくなるじゃないか。


 沸騰しそうなのに、凍えてしまいそうな身体で必死に立ち上がる。がくがくと笑う手足を何がおかしいんだとぶつけ合う。怖くない。怖くなんてない。だって、こんなの、平気だ。お母さんだっていろいろあった。でも、今はちゃんと笑ってた。

 だから、怖くなんてない。

 大丈夫だ。

 この世界に来てから何度も繰り返した言葉を自分に言い聞かせる。よし、大丈夫。単純で馬鹿な頭はそう思い込んで気合が入った。

 入ったのに。


『分かった』

「へ?」


 教会の男と喋っているアラインが、口とは全く違う会話を響かせてきた。

 驚いてシャツのボタンについていた手が滑り落ちる。まだしっかり踏ん張りきれなかった不甲斐ない足は、自分の身体すら支えられずに布の海にもつれ込んだ。それでも手は離されたりしなかった。離されてしまえば真っ逆さまなので本当にありがたい。

 布越しに伝わる人の体温にほっとする自分は、きっととても単純だ。ついさっきは自分を殴り飛ばした硬さに脅えていたのに、今は自分を支える温かい硬さに安堵するなんて。

 自嘲する私に、アラインは告げた。その口調には、苛立たしさが混ざりこんでいるように聞こえた。


『何が友達になりたいだ。俺に何かを晒すつもりは欠片もないくせに』

「私なんで怒られてるの!?」

『無意識だったのは自己防衛か馬鹿か……馬鹿だな。馬鹿だ』

「私なんで罵られてるの!?」


 馬鹿なのは認める。自他ともに認める周知の事実だ。

 しかし、言っている相手が相手だ。急に饒舌になったアラインに目を丸くする。思わず大声を出してしまい、頬がずきりと痛んだ。慌てて痛む場所を押さえたら、触れたせいでもっとずきりと痛む。私は馬鹿か。馬鹿だよ。知ってるよ。

 痛みと混乱でぐるぐるしている間にも、耳からは教会の男ががなる声が聞こえてくる。



 この世の理に反した生き物は死ぬべきで、規範に反している存在に罰を下すのは教会兵としての責務で、アラインが忌み子である以上生まれた時点で罪人であり、アラインと片翼の私はこの世にあらわれた時点で罪人でありよって死ぬべきであり死なぬのならば教会兵である自分が手を下すべきでありそれがこの世の理であり摂理であり神に仕えるこの世全ての生き物の責務である。



 そんなことを、痛みに呻く声を挟みながらがなり続ける。彼の中では既に私も罪人だそうだ。この世界への参加はかなり新参者ですが、同等に扱って頂いてありがとうございます。

 偶に挟まっている淡々とした声がアラインのものだ。男が叫ぶ内容を否定もしなければ肯定もしない。ただ、淡々と事実を告げる。男は聖騎士の片翼を殺害しようとした。ならばその罪はシャイルンが裁く事となる。

 そんなことを何の感情も交えず告げているというのに、私の頭の中に響く声は僅かに苛立ちを含んでいた。


『お父さん』


 びくりと身体が跳ねる。


『お母さん』


 今度は跳ねなかった。跳ねないように、した。


「……お、お父さんとお母さんに紹介してくれるの? 私のことを、初めての友達だよって!? いやぁ、光栄ですね!」

『父は俺が生まれてすぐに死んだ。母は俺を殺そうとして失敗した後、自害した』

「…………ごめん」


 泣きながら小さな子どもの首を絞める女性を思い出す。ぼろぼろぼろぼろ、真珠のような大粒の涙をこぼしていた。降り注ぐ涙の雨を受けながら、抵抗一つしなかった子どもの手を、思い出す。

 知らなかったとはいえ、迂闊に口にしていい話題ではなかった。それも、ただ自分が触れてほしくなかった話題変えの為に使っていいわけがなかったのに。


 動揺して、言ってはいけないことを言ってしまったと自分でも分かる。謝罪を口にしてすぐ両手で塞ぐ。

 動揺しているときに喋ってもろくなことにならない。頭のいい人は本心を隠してうまく言いくるめることができるのだろうが、そんな芸当私にはできない。頭空っぽのまま考えなしに思考を垂れ流しして、人を傷つける言葉を吐きたくない。いくら反射で会話できる私でも、一度くらいは濾過させている。濾過機能が壊れた言葉は、相手を傷つける可能性がある。相手だけじゃなくて、自分すらも。


『何がおうどんだ。お前が泣き叫んで呼んでいたのは両親だろう』


 そうだ、さっき自分でも気づいた。けれど答えない。答えるわけにはいかない。

 私は両手で口を押えたまま俯いた。だって、お母さんは。


『なら、次の、い、は恐ろしいか? それともおぞましいか』

「ちがっ……!」


 続いた言葉に思わず顔が上がる。飛び出た言葉をひっつかんで飲みこむつもりはなかった。動揺して言ってはいけない言葉が咄嗟に判断できずとも、言わなければいけない言葉は気づけたからだ。


 なのに、否定の言葉は途切れた。

 私が飲みこんだわけでも、アラインが遮ったわけでもない。

 世界が揺れた。小さな私が巨大なアラインの動きをそう感じたのではない。確かにアラインは動いていた。

 でも、動いていたのはそれだけじゃない。


 世界が、揺れた。






 お母さんの故郷は地震大国と呼ばれるほど、火山も、ぷれーとも、活動が活発だと聞いた。私の故郷で地震は滅多になかったから、凄いなぁと他人事のように聞いていた。



 不動であるはずの地面が揺れる感覚に震えが走り抜ける。私は目の前のボタンにしがみつこうと震える手を伸ばす。

 でも、その手はボタンに辿りつけなかった。アラインが、腹に当てた手を添わせたまま首飾りまで跳ねあげたのだ。落下した時とは逆向きに感じる浮遊感。しっかり足場はあるのに、私の身体は強制的に引き上げられた。これが、お母さんの言っていた『えるべるたー』なるものなのか? 自動昇降器具とお父さんが言ってたけど、これ、凄い怖い。こんなものを日常的に乗り降りしていたお母さんは凄い。



 目の前でじゃらりと暴れる銀鎖に全力でしがみつく。鎖がこれだけ派手に動いているのは、アラインがその場を飛びのいたからだ。

 私は、恥も外聞もなく、まるで虫のように全力で鎖に抱きついた。鎖と一緒に服の間を跳ね回る。つまり、既にアラインの補助はない。

 悲鳴を上げる余裕もなく死に物狂いでしがみついた私を振り落とさず、銀鎖は大人しく腕の中に納まってくれた。優しい。銀鎖に優しさを感じる日が来るとは思わなかった。


 ぎゅっと閉じていた瞳に、ちかりと光を感じて思わず開く。外套が翻り、アラインが開けた穴から世界が見えた。

 そのことを、酷く後悔するなんて知らなかったのだ。








 真っ赤な色が広がっていた。

 炎ではない。そんな鮮やかなものではない。もっとどす黒く、粘着質な液体が世界を染め上げていた。

 あれだけいた能面が姿を消している。否、何十人もずらりと並んでいた者達がわずかの間に姿を消したりするはずがない。彼らはいた。ちゃんと世界に存在している。

 地面を貫いて生え出た大量の木の根に串刺しにされた状態で。




 水色の瞳は限界まで見開かれ、世界を知ろうとしていた。知りたかったのではない。むしろ、知りたくなんてなかった。それでも知ろうとしていたのは、目の前の地獄とも呼べる光景を信じたくなかったからだ。


 私は、掻き抱くように銀鎖に縋りついた。アラインのもの私のものか、どちらのものか分からない体温が移り、温かいそれに縋りつかなければ叫びだしてしまいそうだ。


 これは、なんだろう。なんなんだろう。

 能面達はぴくりとも動かず、足を、腕を、肩を、腹を、顔面を、根に貫かれている。少なくとも手足を貫かれて吊り上げられた者は生きているはずだ。なのに、動かない。動かないのに血が溢れだす。それは、人形ではなくこれが生き物だった証だ。作り物の紛い物じゃなくて、ちゃんと生きた人間だったのだと嫌でも思い知らされた。


 血以外は生き物には到底見えなかった。ぴくりとも動かず、表情は痛みにも驚愕にも歪まない。能面のようにのっぺりとしたままだ。

 人を吊り上げて血の海を作り上げた根のほうが生きているかのようだった。見た目は木々そのものだ。樹皮に包まれたしなかやさを持ちながらも、土を石を持ち上げてでも根を張り天を目指す。しかし、この場にある木の根はどこかおかしかった。

 猫がその身をしならせるように、蛇がうねりながら進んでいくかのように、異様な柔らかさで蠢いている。石を、壁を砕き、まるでその一部と言わんばかりに人を貫いた。


 世界を染め上げた色は自分が流したわけじゃないはずなのに、私の血の気は失せて身体中の体温が消えていく。がちがちとぶつかり合う歯は、恐怖か寒さか。凍える己を温めようと、恐怖に怖じる己を奮起させようと、火打石のように打ち付けているのならいいなと、凍りつく思考の隅で笑う。笑う。


 わらえ、ない。


「……おかあ、さん」


 なれない、できない。私、できないよ、お母さん。

 お母さんに、なれない。


 私はぐしゃりと顔を歪めて、失敗した笑顔を嗤おうとした。

 けれど、それすらも出来なかった私の顔に浮かんでいたものはきっと、世界で一番情けないものだった。





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