32伝 はじめての恐怖
何かを考える余裕なんてなかった。戦闘に慣れていない十五の小娘に出来ることなどたかが知れている。
身体を捻ったのはただの本能だ。己を害すものから少しでも距離を取ろうとした。それなのに、私の腕は本来庇うべき頭には向かわなかった。自己防衛の本能が腕に指示を伝達するより早く、両腕と掌で胸元を覆って蹲る。
肩を突き出し、男から何よりも遠い場所へと覆い隠した胸が熱い。
『お前っ……!』
アラインでも焦るんだなと、そんな呑気な思考が浮かんで思わず笑ってしまったのは、現状と恐怖が感情に追いついてこなかったからだ。
肉と肉がぶつかり合うにはあまりに肉が薄すぎる。握りしめられた拳と頬骨が、がつんとぶつかり合う。上から下に叩きつけられた拳の勢いのまま、斜め後ろへと弾かれた身体に覚悟した衝撃は訪れない。
男の拳が開かれて、背を打ち付ける寸前の私の首を掴んで引きずり上げた。爪先でしか体重を支えられず、呼吸が妨げられる。
がんがんと痛むのは殴られた頬ではなくて頭だった。頬はじくんじくんと痺れ、熱さだけが感じられる。がくがくと震える身体は恐怖なのか、強すぎる衝撃が原因なのか。両方かなと、ぶつけて痛む歯を舐めながらぼんやりと考えた。
男は初対面の相手を殴り倒したことに関して欠片も興味がないと言わんばかりに、ああ嘆かわしい嘆かわしいと芝居がかった言い回しと動作で首を振る。大仰な芝居をしている間に隙でもできないものかと必死にもがく。しかし、石畳の地面では爪先が掠った所で線すら描けやしない。
「天より降り立った聖人の文化に触れることは、すなわち天の在り方に触れる機会を頂いたということ。地上の蛆虫である人間如きが頂いた機会を無駄にするとは……なんと嘆かわしい……ああ、しかし、忌み子などと絆を繋げる愚行を選択した愚者ではそれも仕方がないことなのか」
首を絞める力が強くなる。乱れていた呼吸は気道が狭まったことで更に妨げられた。
ただでさえ賢くはない頭は、痛みと衝撃でろくに動いていない。その上酸素まで足りなくなってしまってはどうしようもない。無い無い尽くしの頭には、芝居がかり、大仰な口調で早口でまくしたてられた長台詞を理解することは難しかった。ただ、馬鹿な奴だと言われているような気はする。そうか、ならばいつも通りだ。
「…………だ、れ」
問いを絞り出す。
思ったよりも声が震えていて、胸元を囲っている腕の力を緩める。ぐっと握りしめたいのはやまやまでも、衝撃やら恐怖やらでこんなにがくがくと震えていては、力加減が出来ずにアラインを傷つけてしまうのが怖かった。
そっと触れた胸元は温かい。
身体の二か所に、自分以外の体温が触れている。一つは首を絞めて持ち上げる男の手だ。もう一つ、頭の中の声さえせずに静まり返ってしまった人の体温は、直接触れた男の手よりも随分と高かった。
どうしたの、アライン。大丈夫? どこか打った? 痛めた? 落としてないよね? ごめんね、どこが痛い?
どんなに呼びかけても、私から言葉を届けることはできない。どうしようと必死に考えるのに思考が真っ赤に染まっていく。痛い、息が苦しい。
男は右の掌を大きく開き切ると、踊るようにくねらせて自身を指した。
「この姿を目にしても理解できぬとはなんたることだ。神より授かった二色に身を包む我らは、絶対神の忠実なる下僕以外の何者であろうはずもないというのに。まったく……流石は忌み子の中でも一等罪深き紅鬼の片翼だ。神は、このようなことでさえ理解できぬ能無しと番わせ弱体化を図られたのだろうか……否、そもそもこの虫けらの存在が神の意思を通さず現れたのだとすれば、それこそこの世を統べる神への冒涜である!」
一人で白熱していく男の声が頭の中でわんわんと反響していてうるさい。そして、ようやく思い至る。思い、出した。
教会の色だ。
確か、紫と金が教会の色だと教えてもらった。教会はその二色を掲げていると聞いてはいたものの、ここまであからさまに前面に押し出しているとは知らなんだ。
逡巡の末、ぐっと力を籠めた片手で男の腕に爪を立てる。それほど太くは見えない男の腕は鉄のように固い。
「はな、し、てっ……」
人の肌を食い破ろうとする感触に怖じる心を必死に宥める。
己の首を絞める腕を傷つけることに怖じてはいけないと分かっている。それなのに、それ以上力を籠められない。どれだけ歯を食いしばっても、力は指の途中で止まってしまい、爪先まで篭らなかった。
武器を通していればまだましだったのかもしれない。けれど、他者の皮膚を貫く感触に脅えるなというほうが無理な話だった。
私は、戦闘を職としているわけでも、乱闘を日常としているわけでもない。
受ける暴力は当然として、相手に血を流させることにだって怖じる。傷つけることを恐れる心が、自分を殺すだなんて知らなかった。いま知ったのに、それでも私の爪はそれ以上喰いこまない。必死に爪を立てても、最後の最後が踏み出せない。爪で他者の皮膚を抉る。それも偶然ではなく、己の意志を持って。
咄嗟に暴れていられたらどれだけよかったか。けれど、無駄に意識が残っている今の状態では、どうしたって恐怖が湧き出る。
結局口で解放を願うしかできなくなった。どれだけ頑張っても、爪が、それ以上喰いこまない。でも、私の爪がその皮膚を食い破ろうがなかろうが、どちらにせよ男は私を解放する気などなかった。
「……まあよい。崇高なる神の御意思を、我ら如き虫けらが理解できようはずもない。この判断が過ちだったとするならば神罰が我を焼くだけのことよ。女」
六花です、なんて軽口を返す余裕などない。そもそも呼吸もできないのに会話なんて不可能だ。既に、女、部分しか聞き取れない。
「お前が死ねば紅鬼を弱体化させられるのか?」
そんなの知らない。
そう言えればよかったのに、私の喉からは細い息すら漏れ出てこなかった。水上で溺れることにすら慣れていないのに、地上で溺れることに慣れているはずがない。というより、初体験じゃないだろうか。地上で溺れたことなんてあったかなと、色んな記憶を探る。……探っているだけだよね? 走馬灯じゃないよね?
私の口からは、呼吸になり損ねた細切れの息がほんの僅かに漏れ出るだけだ。
首で急き止められた血で、顔面も、思考も、視界すら真っ赤に染まっていく。赤く霞む視界の中で、男と同じ服装をした人々がぞろぞろと増えていくのが見えた。
どこからともなく現れては増殖していく。大仰な動作をするのは目の前の男だけで、新たに現れた面々はまるで幽鬼のように表情が乏しかった。アラインのように鋼鉄の無表情ではない。全ての表情が一つに統一されているのだ。だから余計に幽鬼のように見えた。数十人はいようかというのに、表情を浮かべているのは一人だけで、大多数は同じ能面をつけたかのようにのっぺらぼうだ。
「命にとって終わりとは死である。死を恐れない生き物など存在しない。否、してはならない。もしもそういう生き物が存在するのであれば、それはどこか壊れているのだ。そう、紅鬼自身のように。あの弟子も、貴様も、神が創り給うたこの世界で生きる命は全て、神がお与えくださった感性に殉じて生きるもの。違えるのならば滅びるべきだ」
何を言っているのか、もう理解することはできなかった。水の中にいるかのようにぐわんぐわんと音も世界もひずむ。己を縊ろうとする手を止めているはずなのに、まるで縋るかのように指が引っかかっているだけだ。
苦しい。痛い。熱い。
怖い。苦しい。怖い。
真っ赤な思考がぐるぐる回る。もう何も考えられないのに、何故かアラインの問いの答えを唐突に理解して、私はぐしゃりと顔を歪めた。
「さあ、罪人よ。懺悔の時間だ!」
「…………さ、ん」
はくりと喘ぐ最後の音に、紅瞳がゆっくりと開いた。
人間の少女を縊り殺すなど片手で事足りる。男は舌打ちした。
相手は紅鬼の片翼だ。万全を期して一応部下を連れてきていたのだが無駄足を踏んだことにいら立つ。別に無駄足を踏むことは構わない。だが、忌み子如きに無駄足を踏まされたことが腹立たしいのだ。
だが、それももうどうでもいいことだ。
拍子抜けするほどあっさりと殺せた。紅鬼は本当に遠くにやられているようだ。ならば、片翼は弱点とはなり得なかったのかもしれない。
暴れたせいで、折り曲げていた裾が乱れた少女の腕がずるりと落ちる。
はずだった。
「なっ……!?」
男の目が見開かれる。
片手の指でぐるりと回してしまえる柔らかな首が筋張り、指が沈む弾力が消え失せた。ぐんっと腕が持ち上がるのは首の位置が変わったからだ。落ちていくはずだった腕は裾を乱したまま持ち上がり、男の腕を握り締めた。
みしりと嫌な音がしたのを、男は確かに聞いた。
筋が、肉が、骨が軋む。そのまま躊躇なく圧し折られていく様を呆然と見つめた。
縊り殺される少女の首がそうなろうとしていた姿そのものにされた腕を押さえ、男は絶叫した。
今度地上で溺れたのは男のほうだった。
少女の姿は掻き消え、同じ服を着た青年がそこに立っている。聖人の象徴ともいえる真珠のとろみを帯びたような銀白の髪。そこに、火種よりも鮮やかで、松明よりも仄暗い、闇人の象徴でもある紅瞳。
これが誰か、男は知っていた。知らぬ者などいるのだろうか。忌み子の中でも最も名が知られ、最も力があり、最も血に濡れた紅鬼だ。
紅鬼は自らが圧し折った腕になど興味は示さず、男がへたり込むがままに手を放した。支える物が無くなった男の身体は自重に従い地面に叩きつけられる。無残に圧し折れた腕を押さえてひゅーひゅーと呼吸を零す男を、何の感情も見えぬ紅瞳が見下ろしていた。
「片翼が受けた攻撃は俺のものだと、教会の人間が知らないとは言わせないぞ」
片翼という関係で出会った以上、アラインは六花で、六花はアラインだ。例え本人達にその自覚がなくとも、そう見なされる。神が定めた事柄に殉ずる教会に属する者が知らぬわけがない。
つまり、六花への攻撃は、アラインへの攻撃と見なされる。見なすことが、出来る。よって、六花に対する攻撃であろうが、アラインは己が攻撃された時と同等の対処が許されていた。
地上を統治する聖人の国で、騎士より上位である聖騎士への攻撃と判断する。即ち、相手を殺すことすら許されている攻撃だと。
アラインは周囲を囲む能面達をちらりと見て片手を捻る。軽く手首を返しただけの動作で能面達の前に炎の壁が現れた。石畳の地面の何を燃やしているのか、炎は勢いよく燃え盛り、まるで塀のように二つの間を遮った。
すぐに視線を戻したアラインは、ほんの僅かに眉を寄せた。乱れた服がよれて引っかかる。六花には幾重にも折り曲げなければならなかった服の持ち主はアラインだ。折られた袖が不便で軽く振って裾を戻す。
折れた腕を押さえ、男は石畳の上で身を捩る。
美しく編みこまれた長い金髪は乱れ、服の裾に絡まっていた。神に愛された金色は、教会に属する者にとって特別な意味を持つ。金の色を持って生まれた者は、それを大事に大事にして暮らすのだ。そこに男女は関係ない。男も同様だ。そこらの女よりよほど丁寧に梳き、香油を塗り、大切に扱ってきた。金糸よりも輝く己の髪が誇らしかった。
しかし、その髪は今やぐしゃぐしゃに乱れている。乱れてよれた髪は光沢も美しく連ならず濁って見えた。あと少し力を加えられていれば、圧し折られるどころか握り潰されていた腕の痛みよりも、髪を乱された怒りが勝った。
男は噛み殺さんばかりの怒りで叫ぶ。
「このっ……忌み子の分際で!」
叩きつけられる憤怒に興味を示さなかったアラインは、次の瞬間、僅かに目を見開くと素早い動作で腹に手を当てた。