29伝 不思議な終いかけっこ
「り、六花さん?」
俯いたまま動かなくなった私の前で、小さな手がおろおろと振られる。
きっと、命令という名のお願いをした時も、今のように真っ赤な顔をしていたのだろう。一緒に寝たい。幼い弟子のささやかな願いではないか。そんな可愛らしい願いを五分だけ叶えた師匠を一心に慕う弟子。泣けてきた。
願いが叶った五分を伝えるべきか否か。判断がつかず、諦めて顔を上げる。
「トロイは今度私と一緒に寝るとして」
「何でですか!?」
「今ならもれなく師匠がついてきます」
「寝ます」
きっぱりと言い切ったトロイは数秒間黙り込む。そして、じわじわと赤くなっていく頬を放置して、もじもじと服の裾を弄り出した。どうやら反射で返事を返してから言葉の内容を理解したらしい。
「ぼ、僕、もう一回師匠と寝てもらえるんですか?」
「二回目に私が混ざりこんでごめんね! 何なら師匠の入った籠だけベッドに置いて私は床で寝るから!」
「六花さんいなかったら二回目なんてなかったかもしれませっ……それ、寝返りうったら師匠転がり落ちませんか?」
「私、そんなに寝相悪くないみたいだけど……落ちそうだったら助けてあげてね!」
「ベッドで寝てください」
健気な弟子の反応を優しく見守ってあげたいところだけれど、やっぱり聞きたい。流石に聞き流すには気になりすぎる。
私は、組んでいた掌をそのまま倒してアラインの前を囲った。特に意味はない動作で指をちょこちょこ動かすと、触れられたくないらしく小人は二歩下がる。
「立場入れ替えは、まあ、まだ分かるんだけど」
後の遺恨を考えずはっちゃけることのできる下と、下克上上等の懐深くお茶目な上ならばなんとでもなるだろう。そして楽しそうだ。
だが、問題はその後である。
「男女入れ替えって何? 女装と男装するの?」
むしろそうであれ。私のささやかな希望は、きょとんとした子どもによって打ち破られた。
「いえ? 男性は女性に、女性は男性になるんです」
「……小人になったり?」
「そうですよ?」
何を当たり前なと返され、組んだ掌をそのまま戻して額を乗せ、再び悩みの儀式に戻った。訳が分からない。それは私が馬鹿だからか。
何をどう質問すればいいかも分からず、美術の教科書に載っていた悩む人の彫像みたいになっている私の下から小さな溜息が聞こえた。
「……聖人も闇人も、土や鉱石、草花等から人間では抽出できない成分を取り出すことができる。その成分で作り出した薬は、長時間保たず、一時の遊びに使われる物だが、人間では作り出すことが不可能な効果に人気が高く、高値で取引されている。姿形、性別、大小、髪の長さ等、様々な効果がある」
「なにそれ凄いっ、お伽噺みたい!」
「エーデル様とシャムス様が考案されたんですよ! お二人とも様々な新しいことを考案されますけど、どれも面白くて、皆いつも楽しみにして……師匠が聞かれてもないのに説明した!?」
きらきらと輝かせていた眼をぎょっと見開いたトロイが哀れだ。私は思わず泣けてきた眦を拭う。まるで夢の国のようなことを平然と言ってのける不思議の国で、子どもの健気さが切ない。普通の会話くらいしてあげてほしい。今までどれだけ会話がなかったのだ。むしろ、アラインがどれだけ喋らなかったんだ。
「トロイはエーデルさんとシャムスさんも大好きなんだね」
アラインを語る時と同じくらいきらきらした目で簡単に分かってしまう。微笑ましいなぁとほんわかする。好きな物を語っている人の話を聞くのは大好きだ。こっちも一緒に嬉しくなる。
自然と笑顔が移った。楽しい気持ちは伝染する。悪意や嫌悪が伝染するよりよっぽど好きだ。
間を行き来して、どんどん質よく高められていくのなら、やっぱり楽しいほうがいい。負の感情が伝えられるたびに凝縮されていくより、今日のおやつ何食べたかを熱く語り合い、燃えるような討論をするほうがよっぽど好きだ。そして、あわよくばそのおやつの出所を。手作りなら是非ともレシピを。
にこにこしていると、私の顔を確認したトロイは嬉しそうにぱっと笑った。
「はい! だって、お二人とも師匠に優しいですし、ひどいこと言わないんです!」
「おぉう……」
きらきらとした笑顔で切ない言葉が飛んできた。
それもわりと当たり前だと言おうとして、ぐっと堪える。私にとっての当たり前がこの世界にとっての当たり前とは限らない。同じ世界にいたって、同じ国にいたって、同じ地域に育ったってそうなのだから。
言っていい時といけない時を間違えないようにしたい。
そして、この世界での当たり前で、自分が正しいと思っていることも間違えないように。私の常識がこの世界では違うように、この世界の常識が私の常識にはなり得ないのだ。
「そっか!」
「はい!」
それはきっと、世界を越えようが越えまいが変わらない大事なことだ。
トロイと瞳を合わせてにこにこ笑い合っていると、それまでだんまりを決め込んでいたアラインが口を開いた。
掌で囲っている私よりも早くトロイが反応する。
「師匠?」
トロイの声で初めてアラインが何か言ったと気づいた。ただでさえ小さな上に言葉を探しているのかいつもよりも声が小さい。どうしたのだろう。言いにくいことを無理に聞こうとは思わないので、気づかなかったふりでもしようか。
そんなことを考えていると、結論が出たのかアラインが顔を上げた。
小さくても動きに合わせて弾かれる艶が美しい銀真珠の髪がさらりと揺れる。
「お前は、信じすぎじゃないのか」
「何を?」
「この世界で聞いた、俺達の言葉をだ」
何を言われたのか一瞬理解できなくて面食らう。鳩が豆デッポウを食らうとはこういう時に使う言葉だったはずだ。デッポウが何かは知らないが。
「ぼ、僕は嘘なんてついていませんよ!?」
最初に我に返ったのはトロイが先だった。師匠に食って掛かるべきか、私に弁明すべきか、両方すべきか、師匠に食って掛かるなんて無理だとあきらめるべきか。どれを選べばいいのか分からず泣き出しそうな顔で、私とアラインの顔を交互に見つめている。私達の顔が縦に並んでいるせいで必死に頷いているようだ。
酔わないか心配だ。左右に並んでいたら全力で首を振っているように見えたのかな。それはそれで酔いそうだ。
アラインに伝えたいことはあるけれど、とりあえず優先順位はこっちが上だろう。
「大丈夫だから落ち着くのをお薦めします。せっかくの二帝焼きが吸収される前にさようならするよ」
私にとってはこんにちはだ。
食べたばかりでぶんぶん頭を振るのはきつい。自分でも危ないと思っていたのか、トロイは慌てて両手で口元を押さえて動きを止めた。
年の離れた弟妹が三人もいるから、色んな片付けはそれなりに慣れている。だからトロイが吐いたところで別に嫌いも引きもしないのに、吐いたら嫌われると言わんばかりに必死な様子だ。
とりあえず背中を擦りながらお茶を差し出して落ち着くのを待つ。
「ところで、アラインは嘘ついてるの?」
「違う」
「じゃあ、いいんじゃない?」
小さな小さな人を見下ろす。何か言いたげに見上げてくるも、何も言わない。ただ、じっと私を見上げている。
何かを探そうとする瞳は居心地の悪いものではなかった。探ろうとする瞳は、何も心当たりがなくても視線を逸らしてしまいたくなるものだ。けれど、この紅瞳はそんな悪意や詮索を宿してはいなかった。
じぃっと見つめ合う。
大きさは違うけれど、あの夜もこんな風に紅瞳を見ていた。薄紺色の世界で唯一色を放つ瞳は、とても温かそうだったのを覚えている。……すぐに背を向けられたのも思い出したこのやろう。
悪態は心の中にしまい、こほんと咳払いで誤魔化す。
「まあ、そりゃ、いろいろあるんだろうけど、そんなのこの世界に限らないし、エーデルさんもシャムスさんも悪い人には見えないし、トロイは言うまでもなく可愛いし、アラインも優しいと思うし、今はそれでいいかなと」
「…………は?」
間の抜けた声に首を傾げる。ああ、そうかと思い至って付け足す。
「食事も寝る場所もくれて、服も雑貨も買ってくれてありがたいって思ってます! どうもありがとう! 助かる!」
「違う、そうじゃない」
散々言っていた台詞を、アラインが言う日が来るとは。夫婦も友達もペットも一緒にいると似てくると聞くからそれだろうか。まだまともに話して二日目だけれど!
「それに、お父さん達から教わったんだ」
人より一風変わった経験をしてきた両親は、子ども達にたくさんのことを教えてくれた。自分達が経験で得たものを、気づいたことを、感じた思いを、たくさんたくさん渡してくれた。
私達がこれからの人生で何があっても進んでいけるように。どんなことがあっても生きていけるように。その道が少しでもなだらかなものとなるよう、自分達が得たものを惜しげもなく分け与えてくれた。
きっと、母のように、一人で違う世界に放り出されても笑って生きていけるように。
『何を信じられなくても、何かを信じていろ。それはお前の力になる。信じるものを持たない人間は、生まれたての赤子よりも脆く儚い存在だ』
それを聞いたきっかけが何だったのかはもう覚えていない。両親もその周囲の人々も、何かのきっかけがあれば教訓を、心構えを私達に渡してくれたから。
彼らは知っていた。
人生は良くも悪くも簡単に裏返ると。運命はあっという間に人を放り出すと。
そんなことありえないよと笑っていってしまえる事を経験した人達でも、明日何が起こるかなんて分からない。すぐ先の事すら分かる人は誰もいないのだ。私だって、玄関を出たらアラインの上に降るなんて思わなかった。
だから、彼らは教えてくれたのだ。
いつ何があるか分からないから、いつ何があっても大丈夫なように。いつか突然訪れるかもしれないその日までに少しでも多くの事を。
『年長者を敬いなさい。その言葉を受け止めなさい。あなたの何倍も世界を見てきた人達だから。決して軽んじてはならぬよ。年少者の言葉を聞きなさい。その言葉を思考しなさい。決して無下にしてはいけないものだから、たくさんの話を聞きなさい。たくさんの声を聴きなさい。その上で、自分が正しいと信じた道を、行けばいいよ』
そうして訪れた結果がどんなものであれ、全て誰の所為にもしない覚悟があるのなら、自分が選んだ道を行けばいいと母は言った。
『誰が間違っていると言っても、誰がその者を罪人だと言っても。お前が正しいと結論付けたのなら、それが、お前の真実だ』
今までの人生で得た全てで鑑みて。これからの人生を掛け合わせ。
それでも選びたいものができたのなら、お前の正義を選べばいいと父は言った。
人は結局、自分で決めたものにしか頑張れない。誰かに決められたものに必死で食らいつき、歯を食いしばって進んでなどいけないのだ。歪みはどこかで必ず現れる。そして、歪んだ場所から折れていく。
お前の所為だと、そう言える存在があればそっちに逃げてしまう。自分の所為じゃない、自分が悪いんじゃない。縋ったって何の解決にならないはずの言い訳を逃げ道のつもりで掲げて、泥船に沈んでいくだろう。
だから、私は考える。馬鹿でも必死に考える。
そうして選ぶのだ。選んだ結果が人生だ。
「星の数ほど人がいて、人の数ほど願いがあって、願いの数だけ正義がある。だから、自分の正義は自分で決めろって教わった。自分が信じるものは、自分で決めろって。そういうのって、世界が違うとか関係なくてどこも同じだって思う。だから、私一応、ちゃんと考えてる。ちゃんと考えて、アライン達を信じてる。嘘つかれたり裏切られたら、私が未熟だったんだって落ち込むからどんまいしてね!」
両拳をぐっと握り、若干前のめりで頼み込む。失敗した時にどんまいと肩を叩いてくれる人。なんだかとっても友達のようではないか。既成事実はこうして作るのかとうきうきしている私を見上げ、アラインは頭痛を覚えたかのように額を押さえた。
「……俺を信じすぎじゃないかという話から、どうして俺が励ます流れになるんだ」
「それはほら、この世界で唯一の友達としての務めじゃないかなぁと」
「断る」
「けちんぼ!」
人生初の評価を受けたアラインは、けちで結構だと額を押さえたまま言い切った。
おかげで困ったのは私だ。自分で言っておいてなんだけど、他人の生活用品や雑貨まで、文句一つ言わずに何でも買ってくれる人がけちであるはずはない。しかも、買ってくれたのは私のものだ。このままドケチの称号を燦然と輝かせるのは幾らなんでも不義理であろう。
「……アラインはケチじゃないと思うよ?」
「言ったのはお前だけだ」
「だよね。待って、すぐに他の言葉に変えるからね、あめんぼ!」
会心の出来だとぱっと笑顔が溢れ出る。でも、アラインの顔から表情がこそげ落ちた。元々そこまで露わになっていたものではないが、ほんの僅かの表情さえ削り取られる。
あれっと瞬きする。それでも目の前の事実は変わらない。
「……もしかしなくてもそれが訂正後か」
「え? 駄目?」
「一応聞いてやる。お前の中であめんぼの印象とはなんだ」
「可愛いたい痛い痛い痛い!」
水面に円を伸ばしながらすいよすいよと泳いでいく姿が可愛いあめんぼは、残念ながらアラインのお気に召さなかったようだ。ぎりぎりと捻り上げてくる指を確保してアラインから隠す。可愛いのに、あめんぼ。
折る気はないようだけど、それでも痛いもの痛いし、指の変形も避けたい。背に腹は代えられないけれど、指に髪くらいは代えられる。一束くらい好きにしてくれと渡すべきだろうか。
一人で悶々と悩んでいると、アラインは眉を寄せた。
「……怒らせないという選択肢は最初からないのか」
「どこが危険区域なのか分かんない…………可愛いは駄目?」
小さな紅瞳がじっと自分を見ているので、なんとなく見返す。その手が指を狙っているのに気付き、じりりと腕ごと背中に回してへらりと愛想笑いしてみた。
母の故郷の秘技「笑って誤魔化せ」だ。
「指を出せ」
効かなかった。