2伝 はじめてのぼろ雑巾
なんとか呼吸を落ち着ける。
さっき散々試したけれど、まだ諦めきれなくてそろりそろりと距離を取っていく。けど、やっぱり結果は同じで、一定の距離まで離れるとびたりと身体が止まる。渾身の力で踏ん張っても、普通に引っ張るみたいに皮膚や肉は伸びたりしない。引っ張られていないけど動かない。
身体に磁石でもついているのか。それならどこか一点のはずだ。身体全部が投網にかけられたかのように引っ張られるなんてあって堪るか。堪らないけどあったんですよ。
頭の中をぐるぐる疑問と投げやりが回っている。同じ経験をしている相手も不思議な気持ちでいっぱいのはずなのに、アラインは何を考えているのか分からない。もっとこう、一緒に不思議な気持ちでいっぱいになりませんか?
身体が離れないことも気になるけど、紅瞳が不思議な気持ちを映し出さないかとちらちら覗きこんでいた私の裾が引かれる。振り向くと、対照的に不思議な気持ちを前面に押し出した大きな瞳が私を見ていた。
「六花さんはどうしてここにいるんですか? ここ、許可なく立ち入り厳禁ですよ?」
「あ、どうもすみません」
「あ、はい」
反射でぺこりと頭を下げると、トロイもつられてちょこんと頷く。
違う、こうじゃない。何の説明にもなっていないと気づいて、慌てて言葉を足す。
「私、あの、怪しい者じゃなくてですね」
「はあ」
「朝、仕事に行こうと家を出て、ほんとにそれだけで、お母さんからお弁当もらって行ってきますしたらここで。ほんとに、あの、嘘じゃなくて、嘘みたいだけど、嘘じゃなくて。私、ほんとに家を出ただけで、気づいたら森で、あの、ほんとにこれお弁当で……」
やっぱり何の説明にもなってない。自分で分かる。怪しさ満開なのも分かっているけど、言葉を重ねれば重ねるほど怪しさが募って、空回っていく。自分でもそう思うのだから、それを聞く二人からすれば相当だろう。
必死に言い募れば募るほど、からからからから、聞こえるはずのない空回りの音が聞こえてくる。頭の中でお弁当まで回っていく。待って、そんなに回ったら中身ぐっちゃぐちゃになっちゃう。
私は、本当に家を出ただけなのだ。いつもみたいにお母さんが作ってくれたお弁当を持って、お母さんが「いってらっしゃい」してくれて、「いってきます」しただけなのに、どうしてこんなところにいるんだろう。
だって、玄関だったのだ。玄関を開けた先はいつもと変わらない庭があって、花もいいけどやっぱり食べられると嬉しいよね! というお母さんの意見が前面に押し出された季節季節で収穫できる、庭なのか畑なのか今一分からない場所があって、その向こうに門があって。
それはおいておくとしても、玄関を開けた時は確かにいつもの庭だった。だって、そうじゃないと先に家を出たお父さんやお兄ちゃんを窓から見送ったりできない。二人は普通に門を出ていった。
なのに、どうしてこうなった?
横掛けにしている鞄からお弁当を取り出す。なんだかいつもより重い気がするのは疲れているからだろうか。両手で掲げ持って、供物のように差し出す。
「あの、ほんとにこれお弁当で、嘘じゃなくて、お弁当で」
別にお弁当を認めてほしいわけじゃないのに、何故か必死にお弁当擁護を繰り出してしまう。認めてほしいのはお弁当じゃなくて私の無実だ。この、どこからどう見てもお弁当ですな包みをお弁当だと認めてもらっても、私の無実を認めてもらえなかったら意味がない。
それでも他に縋るものがない。必死にお弁当を掲げていると、その手首をアラインの長い指が掴んだ。
手首をぐるりと回りきってもまだ余っている指は細くて長い。でも、振り払えるとは到底思えない。びくともしなくてまるで鉄枷みたいだ。鉄枷を嵌められるようなことをした覚えはないから憶測だけど。
鉄枷は罪人の証だ。冷たい地下牢や鉄格子まで一気に思い浮かんで、思わず泣きそうになる。待って、違うの。本当に嘘じゃないの。
心の中で必死に言い募るのに、もう言葉にならない。今にも泣きだしそうになった私に、淡々とした問いかけが降ってきた。
「……待て、お前人間か?」
「対面した状態で人類以外の生物に見られたのは初めてです」
猿か? 猿に見えるのか?
涙は引っ込んだ。
喧嘩を売られているのだろうか。私の常識で普通に考えると、どう好意的に見ても閉店大特価の如く激安価格で売られている。さあ買え、今すぐ買え、必要なくても買え、そして店最後の収益にさせてくれといわんばかりだ。
それはおいておくとしても、それくらいの勢いで売りつけられた気分だ。でも、怒りは湧かない。目の前の紅瞳にいらつきも蔑みも嘲笑も見つけられなかったからだ。小さな子どもの無邪気な問いかけとはまた違う、この怒るに怒れなさ。
とりあえず、訳が分からない。首を傾げていると、突如肩を掴まれて視界が回り、上着が引きずり上げられた。べろんちょ。
「ひあああああ!?」
自分の喉から妙に振動の効いたぶるぶるとした悲鳴が飛び出る。
ここ十年、お母さんの故郷で流行っている上下が分かれた服が好まれていた。昔は上下が繋がっている服がほとんどだったと聞くと、ちょっと不思議な気分だ。でも今はそんなことどうでもいい。
上着もシャツも全部纏めて掴み上げられて、背中に感じる湿った森の空気に全身がこわばった。寒い! 心許ない! 恥ずかしいけどそれよりなんかすぅすぅして気持ち悪い!
外気に触れた背中から、変わらずぬくぬくしてるはずの爪先まで怖気が走り抜けた。捲り上げられた服が胸に到達して、慌てて押さえる。流石にちょっと待ってほしい。人様にお見せできる物体じゃない。きっと見てしまったアラインのほうが被害を受ける。猥褻物強制陳列罪で捕縛されるのは嫌だ。そして理不尽だ。
死に物狂いで前を押さえていると、私と同じくらい慌てたトロイが師匠の傍に駆け寄った。
「し、師匠! …………あ、ほんとだ。人間だ」
この場で唯一の味方は、剥き出しになった私の背中を見てすとんと納得した。
ね、寝返った!
「何が何でもどうでもいいから服下ろしてもらえますか!?」
「何って……もしかして六花さん知らないんですか?」
「何が!?」
片手を後ろに回して、服を掴み上げている腕を掴もうと必死にもがく。あんまり身体は柔らかくないから、無様にばたばたと羽ばたいているけど、無様と猥褻物強制陳列罪なら、当然無様を選ぶ。
うおおおおと羽ばたいている私の要求はあっさり叶えられた。
ぱっと手が離された。するとどうなるか。当然、地面と愛し合う。ラブラブですよ、羨ましいでしょう。本日二回目ですよ!
口の中がじゃりじゃりする……。
地面に突っ伏して土の味を噛み締めるふりしてぺっぺっと吐きだしている私の前に、お尻の下にマントを敷きこんだトロイがちょこんとしゃがみこんだ。可愛い。私の弟達にもこんな時代があった。
可愛い可愛い双子の弟は、転んだ姉を不思議そうに見下ろして、色んなものを積み上げてくれたものだ。洗濯物やクッションならまだ可愛い方で、おもちゃにぬいぐるみから始まって、しまいには箒やら鍋やら家中の物を引っ張り出しては私やお兄ちゃんに乗せていた。
私達だって最初からされるがままだったわけじゃないけど、そこは年下の特権というべきか年上の弱みというべきか。動くと大泣きされるのだ。彼らの中であの行為にどんな意味があったかは分からないけど、たぶん一緒に遊んでいたつもりだったんだと思う。弟達は、作品群の基礎が抜けだしたら泣いた。でも、動かなかったらご機嫌できゃっきゃと喜んでいる。
どんどん積み上がっていく山の下で、お兄ちゃんと私は涙を飲んで昼寝した。ぐっすりでした。
目が覚めたら山はなくなってちゃんとベッドに運ばれていたし、弟達とついでに妹まで一緒に眠っていたからお母さんは凄い。どんな魔法を使ったんだろう。
そんな在りし日を思い出している前で、トロイはちょこんと首を傾げる。
「あのですね、聖人と闇人の背中には、ずぅっと昔に羽があった名残の痕があるんですけど、人間にはそれがないんです」
「…………聖人って、何?」
「え?」
顔を上げると、幼い子どもでもこんな顔が出来るんだなと感心するほど、見事な絶句顔だった。教科書に使えるねと、どうでもいいことを思ったけどちっとも笑えない。
絶句されるようなことを聞いたのだと嫌でも理解する。たぶん、みんなが当たり前に知っていることなのだ。誰もが当たり前に知っていなければならないことだと、私は知らない。
つまりはそういうことなんだ。そう、すとんと理解した。理解、してしまった。
でも、本当はしたくなんてなかった。私は玄関出てすぐすっ転んで、気絶して、夢を見てるんだと思いたかった。なのに、全ての感覚はやけに鮮やかだ。
土は踏み固められていないふかふかで、鳥は見た目は可愛いのに鳴き声はちっとも可愛くないし、木と土の匂いがいっぱいの森は風が通る度にがさがさ鳴いているし、周りに人の気配はないし、人工的な建造物はないし、転がったら痛いし、土はじゃりじゃりするし、走ったら疲れる。
これだけ並べて、夢だと思い込むには無理があった。
口に出したら頽れてしまいそうだったことを、アラインが淡々と教えてくれる。それは多分優しさじゃなくて、ただの事実で、とどめだった。
「……異界人か。面倒なことになったな」
「え!? 異界人!? 凄い、僕、初めて見ました!」
知らない人。知らない場所。知らない単語。
思わず笑い出しそうになった。意味もなく笑いがこみあげてくる。鼻の天辺に熱が集まって、目の奥にも滲みだす。熱い。熱は目の奥から頬の下を通って、耳を通り越した側頭部に溜っていく。熱を覚まそうとするみたいにじわりと滲んできたものを、必死でこらえる。
お母さん、お父さん、助けて。
俯いたまま込み上げる熱を必死に飲み下している私の周りを、興奮も冷めやらぬといったトロイがぴょんぴょん跳ね回る。ごめん、トロイ。一緒にぴょんぴょんしたいけど、いまそんな気力が。
「凄い! そんなのお伽噺の中だけだと思ってました! 神庭に人間が入ったら四肢が捥げて死ぬのに、六花さんが平気なのは異界人だからなんですね!」
「捥げるの!?」
涙は凄まじい勢いで引っ込んだ。
心の準備なく故郷を遠く離れてしまった悲しみより、直接的な被害に心が向く。人間とは単純なものである。
木漏れ日が落ちる静かな森に、私の声が響き渡る。
「ふべふ!」
「六花さん!?」
トロイの声も響く。
「ちょ、まぺっ……」
「六花さん!」
激突音や落下音や水音もする。
「ぎゃばす!」
「六花さぁーん!」
盛大に上がった水柱とトロイの絶叫は美しく調和した。
「ちょっと待てぇ!」
その辺に落ちていた枝を掴んで躊躇いもなく振りかぶる。すでに半分以上地面と一体化していた枝はもっそりと地面から離れて、その間で平穏に暮らしていた虫達は大慌てで新たな住処を探し右往左往している。
それを申し訳ない思う余裕はちょっとかしない。ごめんね!
振りかぶった時点ですでに崩れ始めていた枝は、いつ抜いたか分からない剣の柄で粉砕された。結果、全て私に降り注いだ。一味違う私の出来上がりである。
砕け散った木片は、破片から小さな粉まで、さっき川に落ちて濡れた私に全部張り付いた。一味違う私が出来上がったわけだけど、この状態の私を食べる勇気のある人はいないだろう。ぜったいお腹下す。今なら人喰いお化けも怖くない。来るなら来い。見た目が怖いと普通に怖いから、できれば可愛い姿で来るなら来い。
でも今は、人喰いお化けより目の前の人が来るなら来い。否、来るより待て。来ないでいいからとりあえず待て!
剣を鞘に納めたアラインは、突如殴り掛かった私に対して驚愕も怒りもなく、淡々と口を開いた。
「……何をする」
「それは、さっきから何度もちょっと待ってって言ってるのに、一切合財無視して人をぼろ雑巾にした誰かさんに対して私が言う台詞だね!」
敬語も吹っ飛ぶ。丁寧語すら吹っ飛ぶ。私の全身は濡れそぼり、朽ちた枝を身体中に塗しているだけじゃない。それだけならこんなに怒らない。
私の顔は大木に激突した痕がくっきりと残って、全身は今更木片が張り付いたところでどうでもいいくらい土塗れになっていた。
その様、まさにぼろ雑巾。しかも、洗えばまだ使えるぼろじゃなくて、この掃除が終われば捨てる域にまで達している。窓の桟とか、油汚れとか、トイレとか、最後の仕事にはあまりに過酷な環境で使われる類の雑巾だ。
「り、六花さんはぼろ雑巾なんかじゃありませんよ。大丈夫です!」
「トロイ!」
「使い古した手拭いです!」
「トロイは優しいね! お師匠さんとは大違い……それ、ほぼぼろ雑巾じゃない?」
「…………あれ?」
この世界には、世界を流れる神脈という存在がある。神脈は世界中のいたるところに流れ、人間には見えず管理も出来ない存在だ。神脈が重なる場所は神庭と呼ばれ、人間が踏み入れば神脈から漏れだした力によって四肢が捥げて爆散するという恐ろしい場所だ。
それがここだと聞かされた私は震えあがった。知らないほうが幸せなことってあるのだ。
しかし最近になって各地で神脈の乱れが発生しているという。小規模ではあるが地震も多発している。神脈の乱れは世界の崩壊の始まりだ、そうだ。
正直、話が壮大過ぎてどこまでが宗教とか神話の類なのかは分からなかったけれど、なんとなく大まかに、大変だということは分かった。
現在、この国だけではなく、世界中の神庭に調査が入っているそうだ。この国がどの国か分からないから、その辺りは曖昧に流した。全部突っ込んで聞いていたら、大まかな話を聞くまでに日が暮れる。
この地の調査に来ていた二人の上に私が降った時は、本当に突然現れたのだという。気配を読むことに長けているはずのアラインが全く気付かなかったそうだ。安心してください、気配を読むことに全く長けていない私もさっぱり気づきませんでしたよと言ったら、ちらりとも見ずに無視された。切ない。
私が降ってきたのは、恐らくは神脈の乱れによって現れた狭間に落ちたのだろうとアラインが予測をつけてくれた。非常事態だから、とにもかくにも上に指示を仰ぐ。その為にも森を出て帰ろうという、至極尤もで当たり前の結論に達した。
まあ、その説明の大半は理解できなかったわけなんだけど、とりあえず上の人に指示を仰ぐということは分かったのでよしだ、と思う。よしじゃなくてもよしだ。
それにしても、そこから何故ぼろ雑巾と化さなければならないのか、私にはさっぱり分からない。
異世界って怖いところだね、お母さん。心の中の母は『大丈夫! 住めば田舎! 住んだら故郷!』と、いい笑顔と握り拳で答えたくれた。確かお父さんは『住めば都』といっていた気がする。
お母さんを思い出したらちょっと落ち着いてきた。
どろどろになったスカートを絞れば、流れ落ちるのは茶色い水。泣きたくなる。落ち着いたと思ったけど気のせいだった。
アラインは、この世界で初めて会った人だし、保護してくれるということだし、何故か一定の距離で固着した人だし、お腹の上に乗って押し倒してしまった負い目がある人だ。
これでも最初は控えめにお願いしていた。
『アラインさん、待ってください』
『アラインさん、すみません、ちょっと止まってください』
『アラインさん、本当に申し訳ありませんが少々止まって頂けないでしょうか』
そこから『ちょっと待てこのやろう』に変化するまで、大して時間はかからなかった。
何故ならこのアラインという男、とにかく周りを省みない。
木はぎりぎりの歩幅で、自分だけ避けられるタイミングで避ける。結果、引っ張られた私は顔面衝突。少し広い川幅は、助走をつけてその長い足で飛び越える。岸ちょうどで見事に着地し、私は見事に川の中。太目の枝を払って自分が通れば手を放す。これは身長差のおかげで大事には至らなかったものの、頭の真上をぎゅぉんと音を立ててしなった枝に肝が冷えた。
固着した私をぼろ雑巾になるまで平気で引きずり回してくれた人は、女性でも通用しそうなほど細く痩せている。その身体のどこからそんな力が出るのか不思議でならない。
とりあえず、聖人という存在は、清く正しい性質の人を指す単語ではないことはよく、身に染みて分かった。