28伝 初、当店おすすめ、突風に揉まれた手拭い季節の師匠添え
アラインがある程度満足するまで食べ終わったのを確認して、残りは私が平らげた。このくらいはぺろりだ。甘い物は別腹、減量は明日から。
こっちが食べ終わったことに焦り、慌ててむぐむぐと詰め込みだしたトロイを宥めて、私は景色を楽しむことにした。ここに来るまでもいっぱい見たけど、飽きることなく楽しめる。
見慣れぬ異国の町は魔法の……術の、国だった。魚を模した不思議な玩具が空を飛んでいく。ならばここは水底か。
ぎゅっと目をつぶって、深い息を吐く。
溺れたくはない。地上で溺れてしまったら、どこで息をすればいいんだ。溺れるわけにはいかない。溺れる人間は、助けを求めて周りの人を引きずりこんでしまう。異なる世界に混ざり込む人間はどうあっても異質だ。だからせめて、疫病神にはなりたくない。
この世界で、自分が溺れたくないからと誰かを引きずりこんで溺れたら、厄を振り撒いた人間と判断されるだろう。私だけではなく、故郷の全員が、もしかすると他にあるかもしれない世界の人が、母の故郷の人間が。
こことは異なる世界から来た全ての人が、そう判断されてしまう可能性だってあるのだ。
その責任を負えるというのなら溺れてみるのもありかもしれない。けれど、そんな巨大なものを背負える人はいるのだろうか。少なくとも私には無理だ。どんなに賢い人だって、どんなに力がある人だって、背負えるものには限りがある。まして私はそのどちらも持っていない。他世界全ての人間の為になんてえらそうなことを言うつもりはない。出来るとも思っていない。
けれど、自分ができることを頑張っていたいと思うのだ。掲げる何かがあれば、抱く目標があれば、俯かない理由ができる。理由があれば、目指す先があるなら、前を向いていられる。
だから、大丈夫。お母さんは笑ってた。今でも笑ってるだろう。
だから、大丈夫だ。
今は誰もいない胸元にぎりっと爪を立てて顔を上げる。口いっぱいに二帝焼きを頬張ったトロイと目が合い、へらりと笑う。トロイはちょっと恥ずかしそうに口元を押さえて笑ってくれた。
ふと下を見れば、小さな紅瞳が無言で私を見ていた。こっちにもにへらと笑う。何の反応も返ってこない。アラインは大体こんなものだから別に気にならない。でも、何故か視線も外されないことだけは、ちょっとだけ気になった。
魚を模した玩具に、今度はよく分からない生物らしき何かを模した玩具が並ぶ。持ち主の子ども達が目を合わせて合図を送り、同じ速度で空を泳がせている。玩具が泳ぐ空の上から光は降り続けた。目を焼くような激しい白ではなく、様々な色と混ざり合い、粉雪のようにふわふわと落ちてくる。
「きれぇ――……」
「六花さんの目は水色だから、魚が映ったら湖みたいですね」
「え? そう? もっと見開いたほうがいい感じ?」
「……目は剥かないほうがいいと思います」
楽しいことがあると必ず共有してきた兄弟を思い出し、私は水面のようなと言ってもらえた目を細めた。
美味しいものがあると五つに割った。楽しいものがあると持って帰った、連れていった。こんなにも美しく、面白く、まるで絵本の中のような町並みがあったら絶対知らせに走ったのに。小さな弟妹だけでなく、兄もきっと目をキラキラさせて楽しんだはずだ。母も父もきっと笑ってくれただろう。
美しい景色を見るとうきうきする。けれど、一人だけで楽しんでいるとなんだか勿体ないし、……い。
「兄弟か?」
同じように天を見上げたアラインはぽつりと問う。師匠から雑談を振ったという事実に弟子は噴き出して、私はぱっと身を乗り出す。
「そうそう。一歳上のお兄ちゃんと、五つ下で双子の弟、七つ下に妹がいるんだよ。私、これでもお姉ちゃんなんですよ。長女なんですよ! これでも! こんなのでも!」
「…………自分で言うのか」
「他に誰が言ってくれるんですかね」
持ちネタは積極的に披露していく方針だ。耳にタコができるくらい自然に聞いていれば、いつか友達未満のこの人が言ってくれないかなという打算もあったり。
今は誰もいない胸を張って、揃えた掌を添える。
「アラインもトロイも、私をお姉ちゃんと思って甘えてくれてもいいんですよ!」
「姉というのは、弟を二帝焼きで蒸し殺そうとする存在なのか」
「その節は誠に申し訳ございませんでした」
ぽんぽんと軽口が飛び交わすのは楽しい。アラインが付き合ってくれるから尚更楽しくて、嬉しい。
私は楽しかったのだけど、トロイは噴き出した口周りを拭っていた手拭いを取り落としたことにも気づかないくら呆然としてる。
「トロイ? あっ」
ぱさりと落ちた手拭いが風に流されていく。トロイはまだ気づいていない。呆然とアラインを見ているままだから、私は慌てて手拭いを追いかける。
アラインは片手に握っているから、変に力が入って握りしめても怖い。掴んだ指先を胸に押し付けて握り潰し防止策を講じたまま、思いっきり飛び上がり、高く旅立とうとした手拭いを掴んだ。
着地も見事だ。
でも、すたんと華麗に着地した私の表情は誰にも見えなかった。
「…………アライン、髪留めも買っていい?」
「…………好きにしろ」
「…………やったぁ、アライン大好きぃ」
手拭いを浚っていくほどの突風が駆け抜けた中、勢いつけて飛び上がった私の長い黒髪はばっさりと前面を覆っている。両手が塞がっていたが故の悲劇だ。黒簾で世界を覆われたアラインは、これに関しては一言も文句を言わなかった。
とりあえず手を空けよう。そのままの状態で手拭いを返そうと試みるも、小さな手はいつまで経っても受け取ろうとしない。髪の隙間から様子を伺いつつ、手拭いを持ったまま髪を後ろに払いのける。
「いっ」
爪の端に引っかかってしまった一本の髪の毛が、なんともいえない痛みを齎した。束だと痛みは分散してそれほどでもないのに、一本だと涙が滲むくらい痛い。
ついてないとため息をついた瞬間、はらりと髪の毛が飛んでいく。無言で見下ろした先では、剣をしまう騎士が一人。
「乙女の髪をなんと心得るどうもありがとう」
「…………恨み言か礼かどっちかにしろ」
「どうもありがとう」
一言くらいは欲しかったような気もするけど、髪の量は多い方だから、別に一本や二本どうということはない。むしろ、もっさぁとなると面倒なので梳きたいくらいだ。
それはいいとしても、トロイは一体どうしたのだろう。いつまで経っても受け取られない手拭いに困惑する。いっそ師匠を添えてみたらどうだろう。
当店おすすめ、突風に揉まれた手拭い季節の師匠添え。
そっとアラインを乗せた手拭いを差し出してみると、トロイは我に返った様子で慌てて受け取ってくれた。やはり師匠を添えてよかったと己の機転に満足していたら、師匠だけそっと返してきた。
返品である。
返品された可哀相な師匠をどう励ませばいいのだろう。一生懸命考えても、有効な激励の言葉は思い浮かばなかった。
一人悶々と悩んでいる私を置き去りに、師弟はお茶を飲み始めた。トロイが自分の紙コップを傾けてアラインに差し出しているも、その手は緊張で震え、嵐の海のように揺れている。荒れ狂うお茶の嵐を受けても無表情で飲んでいるアラインを、私は尊敬した。
でも、無言で私の袖を掴んだのは尊敬しない。尊敬どころか、このやろうと思う。
長い付き合いでなくともその手の意図を察するくらいには一緒にいた。しかし、さっき二帝焼きで蒸し殺そうとしてしまった手前、強くも言えない。結果、案の定拭かれた。早急に手拭いを用意すべきである。
「六花さん、他に買いたい物ありますか?」
「手拭いかな」
まさに今必要な物を上げると、トロイはきょとんと首を傾げた。
「あれ? さっき花の刺繍が入った手拭いを色違いで買いませんでしたか? まあ、何枚あっても困らないものですけど」
「親指の爪先くらいの手拭いを求めてます」
「爪の先くらいですか? …………鼻にでも詰めるんですか?」
「私、そんなに鼻血出しそう?」
トロイはうーんと考えている。
「耳栓ですか?」
「アラインの寝室周辺って、夜中そんなに騒動多い感じ?」
「いえ、物音一つしないくらい静まり返ってます」
「それはそれで怖い」
「防音性が高いので……後、どこか詰める場所ありましたっけ…………おへそ?」
「まずは詰め物から離れよう。できればすごい速度で」
異世界にはへそに詰め物をする文化があるのだろうか。蓋をしないと何かが飛び出すのか、逆に何か入ってくるのか。
思考の迷路に彷徨いこんだ自分とトロイを救い出すため、私に出来ることはそんなに多くはない。私は静かに頷いた。
話題を変えよう。
小腹も満たしたことだし、少しのんびりする。腹ごなしに歩くのもいいけれど、こんなに天気の良い温かな日だ。美しい町を見上げてゆったりとした時間を過ごすのは贅沢なものである。
「へぇ――! シャムスさんとエーデルさんが、最後の皇帝さん連れて逃げた人達なんだ!」
三百年生きていると聞いてはいたけれど、教科書で習うような歴史の中にどっぷり関わっていた人だとは知らなかった。歴史と呼ばれる遥か昔の出来事を記憶として持つ人と会話をしていたのだと思うと不思議な気持ちになる。
優しく面白い大人だと思っていたら、とんでもなく偉い人だった。
「そんなに凄い人だったんだ」
恐らく、私が思っているよりもっともっと凄いことだ。あまりに凄すぎて、凄いことは分かるけど実感という名の感情がついていけない。今一反応が鈍い私を気にせず、トロイは興奮気味に頬を赤くした。
「そうです、凄いんです! 聖人の知と言えばエーデル様、聖人の武と言えばシャムス様といわれるくらい凄い方々なんですよ! かつて第二王子の手によって狂ったシャイルン中から十年間も皇帝陛下を御守りしたんです!」
勢い込んで前のめりになるトロイにつられて、私も前のめりになる。ただ、あまりに勢いが激しくぶつかりそうになってからは、背を反らせて逆のめりとなった。
逆のめりの私にトロイは気づかない。そのままぐんぐん近づいてくるので、私の腹筋と背筋が試されている。
「面白いことや革新的なこともたくさん打ち出されるし、そういった意見もどんどん取り入れる方々なんですよ。今は忙しいから開催されませんが、定期的に色んなお祭りをしてくださるのでとっても楽しいんです!」
「お祭り? あ、攣る。これ、お腹より太腿攣る」
腹筋より、座ったまま逸る身体を支えていた太腿がぷるぷるしてきた。攣った痛みで悶え、アラインを潰してしまっても怖いので、質問したついでにトロイをやんわり押し戻す。柔らかい新緑色の髪が鼻先を擽って、思わず女子力の欠片もないくしゃみが出た。どぅえっくしょい。
トロイはなんとか起き上がってきた私の膝に両手を乗せて、ぴょんぴょん飛び跳ねる。どうして子どもは人の身体を軸にするのか。可愛い。
私も子どもの頃散々してきたことだから特に怒りはないし、むしろ楽しいし可愛いので得した気分だ。
身体も小さいので苦にもならない。自慢して回りたいくらいだ。この可愛い子どもは私の知り合いなんですよ、と。……せめて友達といきたい。でも、嘘はよくない。時と場合によっては嘘も方便となるけれど、できるなら素直な自分で関わっていきたいものだ。
特に、目をキラキラとさせて嬉しそうに話してくれる子どもには尚更。……この瞳に嘘なんてつけない。正直に言わなければ。私は友達0人です! と。
「お城全体を使った鬼ごっことか、かくれんぼとか、色鬼とか」
「え、なにそれ…………すっごい楽しそう!」
子どもの頃散々興じた遊びを、大人が本気出して行うのか。それは楽しそうだ。しかも、あの迷路のように入り組んだ美しい城で、本気の鬼ごっこ。楽しくないわけがない。お祭り騒ぎにもなるだろう。
あの凛とした雰囲気をした綺麗な人達が、色を求めてひゃっはぁと走り回っている姿を想像するだけで混ざりたくなる。髪の毛が鮮やかな人達なので、色鬼は壮観だろう。わくわくしてきた。
私のわくわくにつられたのか、トロイのわくわくが私に移ったのかは分からない。結局どちらもわくわくして前のめりになり、再び顔も近くなる。
「他にも、指定された物を奪い合ったり、立場を入れ替えたりとか、男女入れ替えたり、動物になったり!」
「待って?」
「今の師匠みたいに小人になったり、巨人はちょっと建物の都合上難しかったんですが、大人が子どもに子どもが大人になったり! 僕、大人になったら背が高くなるんですよ! すっごい楽しかったです!」
「待って待って待って待って!」
必死に制止を求める。
トロイはきょとんと首を傾げた。ああ、可愛いなと和むも、それどころじゃないと我に返る。急に指定品の奪い合いという物騒なことになったのは置いておくとしても、その後におかしなものが続々と続く。鬼ごっこから何がどうしてそんなお伽噺満載の話になったのだ。
「…………鬼ごっこじゃなくて?」
「鬼ごっこもしますよ? 捕まった人は捕まえた人の命令を一つだけ聞かなきゃいけないんです。だから皆、ここぞとばかりに普段偉そうな上司とか捕まえに走るんです」
子どもの遊戯を大人もほのぼの遊ぶのかと思いきや、一気に殺伐とした雰囲気になってきた。
そして、聞きたかったことはそれではなかったにも拘らず新たな疑問が湧きだす。
「…………トロイとアラインは参加したの?」
「あ、はい。師匠は、参加しなかったら次回のお祭り強制的に負けにすると双龍様が仰った時だけ参加します」
無言で視線を下ろす。アラインは、自分には全く関係ない話題と言わんばかりに座りこみ、立てた膝に肘を置いてのんびりしている。お腹いっぱいで眠くなったのかもしれない。
それにしても、彼が楽しそうな顔で遊戯に参加している姿を想像できない。無表情のアラインが悲鳴を上げられながら城を走り抜ける光景を想像すると、とても……なんというか、母流にいうならば『しゅーる』の一言に尽きた。
「……それ、結果どうなったの?」
聞きたかったことはこれじゃないのに、凄く気になって聞かずにはいられなかった。
トロイは下を向いて口籠る。ちらりとアラインを見ては何の反応も返らないのを確認して視線を外し、またちらりと戻す。心なしかその耳と頬が赤く染まっているように見えた。心なしも何も、染まっている。しかも、何故かもじもじし始めた。
一体何があったのか。聞かなければよかったような、気になって夜も眠りにくいけど結局気が付いたら朝までぐっすりになりそうなので早く言ってほしいような。
ごくりとつばを飲み込んだ私に、意を決したトロイがぐっと胸元で作った握り拳と一緒に顔を上げる。
「し、師匠は……開始一秒で捕まりました」
「なんで!?」
開始直前まで眠っていたのか。それとも隣にいた人が凄腕狩人だったのか。何がどうしたら一秒で捕まるという結果に陥るのだ。
トロイは、すっと視線を逸らした。
「僕に」
「サボリだ!」
それだけで大体の事態を察することができてしまった。
強制参加させられたものの、真面目に参加するのが面倒だったのだろう。捕まっても無茶な命令をしてこないであろう弟子に捕まることで、参加はしても一秒で逃れたのだ。逆に弟子を捕まえるという発想はなかったのか……まさか、命令を考えるのすら面倒だったなんてそんなことはあるまいな。
「トロイは何を命令したの?」
「………………い、いっしょ、に、寝てくださいって」
「あら」
「ぼ、僕、その、孤児院しか知らなくて、だ、誰かと一緒に眠って、みた、く、て」
今にも湯気が出そうな真っ赤なゆでだこの返事は、大層可愛いものだった。思わず和む。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。
「よかったね」
「あ、えっと……はい」
今一歯切れの悪い返事に首を傾げる。
「寝てくれなかったの?」
「いえ、寝ては、くださったと……思うんですけど」
「ん?」
「師匠は僕が眠るまで書類仕事していたし、目が覚めた時には既に着替えてたので……」
私はアラインの上で組んだ掌に額を乗せて俯く。さあ、命令は果たされたのか否か。視線で促すも、無言が返る。
「…………アラインさん?」
『…………寝た』
「あ、そうなの? ちなみに何時間?」
『………………』
「…………アラインさん?」
『………………五分』
さあ、命令は果たされたのか否か。どう判断すべきか。
答えを聞いたほうが分からなくなってしまった。