27伝 二帝焼きは終いしい
大きな寸胴鍋を、これまた大きなお玉で底からぐるりと掻き混ぜる。ぼこんと大きな気泡が一つ飛びだした。お玉一杯に入った黄色い生地を、楕円形の穴が開いた鉄板に次から次へと流し込んでいく。最後まで流し切ったら最初に戻り、半数にクリームを、半数に餡子を乗せる。そうしてまた最初に戻り、お玉にたっぷりと生地を入れて流し込んでいく。
毎日毎分繰り返される動作で鍛え上げられ、筋肉で筋張った腕がリズムよく動き、それらををひっくり返していく。そして、横で火鉢に突っ込まれていた焼き鏝で『帝』の焼き文字を入れる。
なんということでしょう。これだけで、普通の焼き饅頭が二帝焼きに大変身!
正直、文字入れただけであるが、便乗商売とはそういうものだ。他にも通りで見かけた、二帝タオル、二帝歯ブラシ、二帝コップ、二帝石、二帝クレープ、二帝饅頭等々、溢れ返った二帝商品の中で、彼らと実際に関係のあるものなんて存在しないだろう。
まあ、皆楽しそうだし、容認されているからいいのだろうと目の前の楽しみを優先する。一連の動作をうきうきと見ている私の前で、筋肉隆々の腕ができたての二帝焼きを二つ紙袋に放り込む。使い込まれた鉄板で均等に茶色く染まった楕円形の皮は厚みもしっかりあり、二回に分けて投入された生地で出来た境目がかりっと香ばしい光沢を放っていた。
「ほらよ!」
「ありがとうございます!」
先に会計を済ませていたので、後は食べるだけだ。ほっこりと甘い匂いに包まれながら待つのはつらい時間だった。楽しみすぎてつらかった。いや、むしろ楽しみすぎて楽しかった。
紙袋越しにじわじわと滲んでくる熱さに慌て、捲っていた袖を下ろして対処する。焼けるまでの間に、人気のない場所を探しに行っていたトロイが小走りで戻ってきた。
「六花さん、あっち、あっち座れるところありましたから行きましょう」
走り続けて少し赤くなった頬が可愛らしい。裾を引かれるがまま、弟妹相手のように少し腰をかがめた私を引っ張るトロイを、店主のおじさんがぷっと笑って茶化す。
「坊主、姉ちゃんとお買いもの嬉しいなぁ」
誰が言われたのか理解できなかったのか、トロイは一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤に染め上げる。その顔を見た私は、おじさんに猛然と食って掛かった。
「弟じゃありませんよ、失礼な!」
「え」
袖を掴んだ手がびくりと離される。その手を直に握り返し、おじさんの前に突き出す。
「こんな可愛い子が私の弟だなんて可哀相なこと言わないであげてください! 焼ける短い間に座れるところを探そうと走りだす気の利きよう! 尚且つ見つけてくる優秀さ! こんないい子が、こんな馬鹿の弟扱いされるなんて可哀相すぎます!」
「お前さん、そんな馬鹿だったのか……七×八!」
「え!?」
お玉を寸胴に放り込んだおじさんによって突如繰り出された難問に、私は反射的に両手の指を開いた。しまった、指が足りない。掛け算で指に助けを求めるのは無謀だった。七一が七。七二、十四。七三、二十一。
「ご…………ごじゅう………………………………は」
『……六』
「五十六!」
「ぶっぶー。時間切れだ」
援軍からの助力を得て正解を叩きだすも、既に受け付けは締め切られていた。
違うんです、咄嗟の事だったから混乱しただけで、職場ではきちんと会計はできていたんです。これでも一人で店番できるくらいには頼られていたんですと、心の中で弁明する。
昔からそうだった。算数ですよと問題にされれば解けないけれど、『ここに飴ちゃんが十三個あります。皆で分けなさい』と渡されれば、兄弟五人で一人二個。残りを弟妹に一個ずつと瞬時に分配できるのに。さあ、割り算の時間だと詰め寄られれば一桁でも悩んだ。
そんな私を怒るでもなく、お父さん言った。お前は愚かでも頭が悪いわけでもない。勉強だと提示された瞬間、思考の全てが停止するだけだ、と。ちなみにお母さんは、「一緒だね!」と満面の笑顔で親指を立てた後、「ほんとごめんね!」と全力で謝罪してきた。
「ほら、馬鹿でしょう!」
その時の母のように親指で自分を示して白い歯をきらりと光らせた私は、ただのやけくそである。
おろおろと両手を彷徨わせているトロイの手に温かい紙袋が乗せられた。きょとんと見上げると、店主は見た目に反して甘い匂いを漂わせるごつい掌で丸い頭を撫でる。
「坊主、からかって悪かったな。ほら、もう一組やるからもってけ、からかった詫びだ」
「あ、りがとうございます」
反射的に礼を返したトロイは、手の中で湯気を立てる焼き立てのお菓子を呆然と見つめる。おまけだとか、特別だとか、そんな理由でやり取りされる光景を見たことがないわけではない。だが、それらは全てトロイとは関係のない場所で行われることだった。親しいからこそ交わされる、温かいからこそ関われるやり取りだ。
だから、トロイには全く関係のないことだったのに。
ぽんっと、まるで当たり前のように自分の事となった温かさが、手の中で湯気を立てている。
「ありがとうございまーす!」
「姉ちゃんはもうちっと勉強しとけ!」
「勉強はしましたよ! 常に留年半歩手前を維持していましたから!」
「せめて一歩手前にしとけよ! 崖っぷちじゃねぇか!」
「落ちてないからいいかなと」
「よくねぇよ」
店主の顔は真顔だった。そして六花は、特に反論もなかったようで元気よく頷いている。
それを呆然と見上げていると、視線に気づいた六花の手が頭に乗った。
「よかったね、トロイ!」
「は、い」
手の中も頭も、何故か同じくらい温かかった。
「あ、美味しい」
「ふぁい」
「トロイ、頬張ってる時は無理に返事しなくていいと思います」
「ふぁい」
二帝焼きは、初めて食べるのに昔懐かしい味がした。卵と牛乳がたっぷりと入った甘い生地がもちりと焼き上がり、甘さ控えめの餡子とよく合う。トロイはクリームから食べている。齧り付いた後ろからクリームが飛び出し、慌てて反対から食べ始めた。
トロイが探してきてくれた場所は、屋台が並んでいた道から三本も外れた裏路地だった。裏路地といってもきちんと整備された道だ。端を通る幅の広い水路には透明度の高い水が流れ、小さな噴水は風も吹いていないのに噴き上がった水が揺れて鳥や花を形作り、見るものを楽しませている。
それでも店がないからか、人の流れはほとんどない。本当にいい仕事をするなぁと、トロイの手腕に感心しながらボタンを外す。外套があるので真正面から見ないと服の中は見えないだろう。
一応きょろきょろと周りを確認して前を開くと、シャツの上でお伽噺みたいに揺れているアラインは、突然開けた視界に目を細めた。
「いらないって言ってたけど、せっかくだから食べない?」
今まではあまり食べていなかったと聞いているけど、私と同じくらい食べている姿しか見ていないので、そろそろ小腹がすいていてもおかしくないと勧めてみる。
ちょっと待つけど返事がないので、半分に割っていた餡子の片割れを勝手に差し出す。さすがにこの大きさを持つことはできないだろうし、あまり細かくしてもぼろりといきそうだ。
アラインは、いつもの無視なのかただの無言なのか分からない沈黙を経て、すっと手を伸ばした。
「あ」
「…………何のつもりだ」
その手が二帝焼きに触れそうになる寸前で遠ざけた私に、アラインは半眼を向けた。睨まれてびくりと青褪めたのは関係ないトロイで、私は力が入りすぎて飛び出したクリームの対処で忙しい。熱い。半分に割った所からぶにゅりと飛び出した。お帰りください。
「それから手を離しちゃったら危なくない? 誰もいないし下ろしていい?」
ただでさえ首飾りには座っているだけだ。服の中にいれば、万が一落下したところで上着を止めたベルトに引っかかって止まるだろうから大事には至らないだろう。けれど、前を開けた状態で落ちると、運が悪ければ怪我では済まないかもしれない。太腿で止まってくれたらまだいいけど、最悪そこで跳ねて地面に落ちると大変だ。
「必要ない」
「まあまあ奥さん、そう言わずにったぁ!」
訪問販売のように茶化して降下を勧めると、無造作に髪を掴んだアラインは、それを綱として足の上に飛び降りた。今の彼の大きさが飛び降りたところで衝撃はほとんどない。しかし、二本だけ掴まれた髪の根元は地味に痛かった。
乙女の髪をなんと心得る。
足の上で胡坐をかく人の前に餡子焼きをどかんと置く。割って餡子が覗いている方ではなく、皮側を向けたのは嫌がらせだ。餡子に辿りつくまでに腹を張らせてしまえ。
アラインはちらりと私を見上げ、黙々と皮から攻略を始めた。遅々として進まず、一向に現れない餡子を見ていると、流石に可哀相かなと情け心が湧く。
割ったクリーム焼きも横に設置してあげた。こっちはちゃんとクリーム側を向ける。でも、それが仇となった。
「…………熱い」
「……誠に申し訳ございません」
悪気はなかったが、結果的にいやがらせ第二弾となっていたことは誠心誠意謝罪した。