25伝 終揃いも断固拒否
目に映る全てのものが目新しい。不思議な空間に迷い込んだお伽噺の主人公になったような気分でのぼせそうだ。
「…………はっ!」
主人公かどうかはともかく、不思議な現象で異世界に迷い込んだことには変わりなかった。
じゃあ、やらなければならないことをしなければと拳を握る。
お話のように、不思議な力で世界を救いにきた人じゃない以上、どうしたって衣食住の不安に金銭面の申し訳なさはついてくる。ただ飯食らいは気が重いし、迷惑をかけるのは極力避けたい。既に色々と迷惑だということは置いておこう。
世界を救いにきた勇者様とか聖女様でもない以上、呑気に観光してるわけにもいかない。
邪魔にならないよう、そして会話を聞かれぬよう人ごみから外れる。店が途切れた静かな空間まで下がったところで、人ごみに背を向けてこそこそと胸元に話しかけた。
「ところで、私は何したらいいの?」
「…………ここまで散々騒いでようやくか」
「ごめんね!」
素直に満面の笑顔で謝ったのに、深い溜息をつかれた。
「トロイ」
「はい、師匠」
小さな声をきちりと拾ったトロイが私の裾を引っ張る。促されるままに腰をかがめて耳を寄せた。
「……えへ」
「え?」
くすぐったそうに笑われて思わず顔を見る。トロイは恥ずかしそうでいながら、嬉しそうに目尻を赤くしていた。
「師匠の服引っ張っちゃいました」
「中身が私で、なんかすみません」
「中身が六花さんじゃないと引っ張れないじゃないですか」
「師匠でも引っ張っていいと思います。というか、師匠こそ引っ張ろうよ」
そんなことをこそこそと話しながら、引っ張られるまま道を逸れて、更に路地へと入りこむ。流石帝都だけあって人通りが多い道を少し逸れたくらいではすぐに治安が悪くなったりしないようだ。小道はゴミも落ちておらず、石畳の隙間にも草が生えていない。人がよく行き来しているのだろう。
ある程度人の視界からも外れる位置まで移動して、トロイはひそひそと話す。
「六花さん、必要な物ないんですか?」
「私、アラインの仕事に必要な物分かんない。あ、剣は使えない。後、今は気をつけてるけどわりと転ぶ。戦闘になるんだったら足手纏いにしかならない上に、足も遅いから逃げるのもへたくそです。ほんとごめんね!」
「そうじゃないです」
トロイは困ったように眉根を下げた。私の眉もつられて下がる。理解力低くてどうもすみません。
「六花さん歯を磨きますよね? 歯ブラシ買わないんですか?」
「凄まじく必要です」
「コップも」
「必須です」
「後、僕よく分かりませんけど女の人はいろいろいるんじゃないんですか? 紅とか」
「紅はつけないけど櫛とか………………あ、そういうこと!?」
トロイが何を言おうとしてるのかようやく思い至って、慌てて胸元を覗き込む。
「アラインいい人! 大好き!」
「……………………うるさい」
「ありがとう! 嬉しい、助かる、嬉しい! ありがとう!」
「うるさい」
「アライン大好き!」
「うるさいっ」
最初は鬱陶しそうに控えめだった『うるさい』は、終いにはきっぱりと声を張り上げられた。アラインからすれば巨人である私が、ぴょんぴょん飛び跳ねながら興奮して礼を言っていたら、そりゃあうるさいだろう。感謝の礼が世界を揺らした鼓膜破りだなんて笑えない。
慌てて声を落し、そぉっとしゃがみ込む。自分の背中を街道のほうに向けたまま、壁と向かい合う形で周囲を確認して服の前を開ける。
もう一度周囲を確認して、ぶら下がるアラインをそぉっと両手に掬い取った。無表情だったけど、よく見れば怪訝さが滲んでいる。ちょっと読み取れるようになって嬉しい。
私は湧き上がる嬉しさに逆らわず、頬を緩ませた。
「アライン、ありがとう」
私の為の生活用品の買い出しだったとは露知らず。てっきり仕事か、彼の用事で出向いたのだと思っていた。私を知っている人なんて数えるほどの場所で、私のことを考えてくれていた。思わぬところで気にかけてもらっていたと知って、本当に嬉しかった。
「……うるさい」
たとえ返ってきたのが普段と変わらぬ一言で、尚且つさっさと服の中に戻っていってしまったとしても、全然気にならない。
揺らさないよう胸元に手をやり、支えながら立ち上がった。
生活用品を買い揃えるのは一苦労だ。けれど新品に囲まれるのは嬉しいし、ただでさえ目移りして飛び跳ねている場所で揃えられるのは楽しみ以外の何物でもない。さっき以上にうきうきしてきた。
「面白い物とか楽しいのがあったら教えてね! 綺麗な櫛があったらいいなぁ、あ、可愛いのでもいいなぁ。かっこいいのも好きだし……楽しみで凄まじく飛び跳ねたらごめんね! あ! アラインの服も買わないとだけどお人形さんの店とかあるかな! ねえねえ、どんな服がいい? 普段着られないのとか楽しそう! 何色が好き? いっそスカートいっちゃったりとかしちゃったりったぁ!」
胸に走った衝撃に身悶える。決まった人物が原因で胸を走る痛み。人はそれを恋と呼ぶ。だけど私は知っている。これは恋でも何でもない、ただの攻撃であると。
そして、ただの痛みなら耐えれば問題ないのだ。
早々に立ち直ってぱっと顔を上げ、そういえば話す相手はこっちじゃないとぱっと下げる。
「ねえねえアライン!」
「何だ」
服を覗き込んでばちんとウインクする。
「せっかくだから、友達記念でお揃いの物でも!」
「絶対に嫌だ」
「いったぁ!」
乙女の胸元をなんと心得る。
そろそろ痣になりそうな場所を擦ろうにもアラインが邪魔で触れられない。仕方がないのでお揃いの物はこっそり揃えよう。
私はまだ見ぬ生活必需品に、わくわくと思いを馳せた。
師とその片翼が爆睡という名の昏睡状態に陥っていたトロイは、五日間の時間を二人の見舞いと騎士学院に当てていた。
城を出ていることが多い師なので、学院には普段あまり出席していない。学院で出席は特に重視されず、実技にせよ座学にせよ既定に達することができればいいというものだ。
聖人の騎士とは、師弟関係の中で騎士としての技術や心構えを学ぶことに重点が置かれている。そうでなければ、弟子は師匠の仕事についていくことができなくなる。
最初に六花と出会った森も、帝都から馬で丸一日かかるのだ。体力と速度が自慢の天馬で、国中を、時に国境を越えて世界中を身軽に飛び回る騎士の弟子を学院に縛り付けていては、師弟関係の意味がなくなる。
そういうわけで、なんら後ろめたいことなく午後の授業を欠席して師についてきたトロイは、弟子となって二年、初めて聞いた師匠の大声に心臓が止まりそうなほど驚いた。大声どころか、大口すら見たことがなかった師匠が、怒鳴った。
どきどきする心臓を押さえ、小さな声に耳を傾けては何が楽しいのかけらけら笑って横を歩く人をちらりと見上げる。
長らく世界に訪れることのなかった、召喚の儀式さえされなくなった久しい『片翼』が師の半分として現れた。それは奇跡だ。奇跡は、人間の少女の形をしていた。
片翼なんて最早伝説に近い存在だ。その恩恵は聞いたことがあっても実際に見たことがある人など、双龍くらいではなかろうか。
片翼を喚び出せなくなって久しい現代、どんな奇跡の恩恵で再度召喚が叶う機会が訪れたとしても、トロイの師にだけは現れないだろうと囁かれていた。
片翼とは補うもの。ただし、補うものは力の面であると言い伝えられていた。
先祖返りと呼ばれるほどの力を持って生まれてきた師は、生まれ育った環境の所為か生来のものか、性格も酷いものだといわれている。トロイはちっともそうは思わなくとも、人々は口を揃えてそう言った。
力を補い合う相手とは性格が合わなくてはならない。よって片翼同士は似た性格のものがほとんどだったと教わった。
人々は口を揃える。
『この世界で生まれたものとすら絆を結ぶことが叶わない忌み子、アライン・ザームと繋がれる存在などいない』
欲望に忠実で血を好む闇人の性を色濃く引いた紅鬼なのだから、と。
普段は気が合わないといわれる相手とすら、まるで長年の親友のように口を揃えて言い放ち、頷き合う。まるでそれが世界の事実であるかのように。
確かに、二つの血を引いた者は、聖人の血と闇人の血が体内で暴走し、己の血が己を焼くものもいた。互いの力が暴走すれば、当人も死ぬが、周りへの被害も甚大だとして、人々は『忌み子』を更に手酷く忌み嫌った。言いがかりだ、師はそんなことしないと言っても、誰も先のことは分からないじゃないかと言い切る。
トロイの師はそれらの力をうまく身の内で馴染ませていた。だからこそ史上最年少で騎士の最高位である聖騎士となったのだ。
師は恐ろしくなどない。ただ力があるだけだ。トロイが言い募れば、師を忌み嫌う人々は嫌悪に視線と口元を歪ませる。
ならば尚の事、それ以上の力など必要あるまい、と。
その時、トロイは悟った。悟り、諦めた。
ああ、駄目だ。この世界は最初から、トロイの大切な師を受け入れるつもりなどさらさらないのだ。そう、気づいてしまった。
自分達が師を一人にしたくせに、誰かと共にある理由すら奪っていく。誰かと過ごす理由すら奪い取り、一人でいる師に『それ見ろ。あいつが忌み子だからだ』と指さすのだ。
トロイには、自分を救ってくれた師を救う方法が分からない。師は、笑うことも嘆くことも怒ることもせず、嫌悪の視線の中で淡々と背を伸ばしてまっすぐに歩いていく。歩き続けたその先に安寧がある訳でもないのに、余所見も休みもせず、黙々と歩き続けるのだ。
その背をトロイは必死に追いかける。振り向くことも手を差し出すこともない師だ。そんな師の態度を酷い奴だと罵る声は多かった。
だが、トロイは知っている。師は、振り向くことも手を差し出すことも知らないのだ。
だからそんなことはどうでもよかった。師が望まぬのなら、トロイも救いなど望まない。進むのなら一緒に進む。戻るのなら一緒に戻る。落ちるのなら一緒に落ちる。
どこまでもついていく。どんな場所にでも、仮令行き先が暗く寂しいだけの場所でも。一度だって彼が振り向かずとも、一緒に行こうと決めていた。
それなのに今、トロイの心臓はどくんどくんと脈打っている。ずっと前に諦めたはずの願いが熱を持ってしまった。
それほどに、師の変化が著しいのだ。他人に触れられることを好まない師が、仕方がないとはいえ自ら触れて、その懐に戻っていく。六花が言葉を発すれば、師が応える。言葉を交わし合う姿に、熱は冷めるどころかどんどん上がっていった。
聞いたことのない鼻歌を歌っている人の裾をそぉっと握る。いつも追いかけた人が着ている服の裾を捲り、走らなくても追いつける人を見上げた。
視線に気づいたその人は、当たり前のように振り向いて、当たり前のように笑う。
何の憂いも衒いもない笑顔を向けられることにトロイは慣れていない。それはきっと師も同じだ。ぎこちなく笑顔を返せば、六花はまだ笑えるのかと驚愕するほど、一段と笑みを明るくした。トロイは何だか泣きたくなった。
本来片翼が担うは力の増強だ。だが、どう考えても力とは無縁の人間が片翼として現れた。ならば、彼女が補うものは何なのか。
もしかすると、いつか、いつか師匠が笑ってくれるのではないかと期待してしまう自分が止められない。笑ってほしい。笑ってくれるかもしれない。
六花がいるから、師が変わるのだ。
「…………あれ?」
「ん? トロイどうかした?」
くるりと当たり前のように振り返ってくれた人に慌てて両手を振る。
「な、んでもないです。それより、何のお店から先に行きますか?」
「そうだねぇ。ねえねえ、こっそり揃えてばれないお揃いの物ってなんだとおもいったぁ!」
また突かれたらしい胸元を押さえて悶える人を、トロイは眩しそうに見上げた。この人がいるから師が変わる。それは、良いことなのか、そうではないのか。
いなくなったら、どうなるのか。元に戻るのか、もう二度と変わらないのか。もっと、もっと深くに、もっと遠くにいってしまうのか。
トロイには分からなかった。