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神様は、なんか私にも手厳しい!  作者: 守野伊音
第一章 始まりの森 終わりの夢
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19伝 終手拭







「そんなことないよー、泣かないでー、大丈夫ですよー」


 しゃくり上げるトロイを身のない言葉で必死に慰めながら、案内された部屋の扉を半ば蹴り開ける。両手が塞がっていたので許してほしい。

 なんとか安心できる言葉をかけてあげたいのに、今のトロイに必要な説明全てが外では話せない事だった。慰めも根拠のない相槌しか返してあげられない。



 何はともあれ部屋だ部屋と駆け込んだ扉の向こうには、居住するにあたって必要な物が大抵揃っていた。


 入ってすぐの部屋には、太く重そうな長円の机と二脚の椅子が設置されている。すぐ右手に炊事場があることからこの部屋が食堂と居間を兼ねているのだろうと当たりをつける。炊事場には恐らくかまど的な何かと思われる場所もあった。ただ、薪を入れる場所がない。宿屋と同じだから、これがこの世界で一般的なかまどなのだと思う。後で使い方を聞きたい。

 その奥の開け放たれた扉の向こうには、風呂などの水回りが見える。残る左側の二つ並んだ扉は、この部屋で一緒に暮らしているという師弟それぞれの私室だろう。聖騎士になると必ず弟子を一人取らなくてはならない決まりがある為、この一部屋あれば暮らしていける設備が整った部屋を与えられるそうだ。



 私は、宿屋でのアラインみたいに部屋の中をぐるりと見回した。

 しかし、なんというか、何もない部屋である。居住するにあたって必要な物は大抵揃っていても、それ以外はさっぱりだ。

 机の上に自分とトロイの分の籠を置きながら、呆れた気持ちでもう一回部屋を見回す。私室に片づけられているにしても、遊び心の一つくらいあってもいいと思うのだ。花の一つ、絵の一つ、小物の一つもない。最低限の家具はあるものの、ソファーの一つ、クッション一つない。机の上にもテーブル掛けなどありはせず、恐ろしいことに二人で暮らしているはずの食器棚は、コップ二つと皿二枚という真夏の夜の怪談もびっくりなありさまだった。

 男の一人暮らしなんてこんなものだといわれるかもしれない。だが、彼は一人暮らしではないし、こんな何もない部屋、蛆が湧いたところで乾燥して死滅するだろう。

 生活感なんてどこにある。空き部屋ではないけれど、人が使っているんだろうなと思えるだけだ。住んでいるんだろうなとは思えないかもしれない閑散具合。




 とりあえず薄暗い部屋のカーテンを開け放つ。埃が舞った。光できらきらと舞う埃を見つめ、私はふっと微笑む。掃除だ。掃除しよう。

 どう考えてもここのカーテンを開けたのは久しぶりだ。これだけ物がなければ掃除しやすいはずなのに、凄い埃だ。


 まあ、何はともあれトロイとお昼だ。振り向いた私の裾が控えめに引かれる。なんとか泣きやんだトロイが鼻を啜って私を見上げている。慌てて前にしゃがむ。


「六花さん……師匠、どうして僕を置いてっちゃったんですか?」

「えっと」

「師匠、も、もう、僕を、弟子にしとくの、い、いや、いやに、なっちゃったのかなぁ」


 再びしゃくり上げ始めたトロイに慌てる。私は胸元にずぼりと手を突っ込み、空ぶった。ここじゃなかったと背中に突っ込み直してそれを掴みとる。


「師匠を進呈するから泣かないで泣かないで泣かないで!」

「こんな師匠そっくりな人形もらっても、師匠がいなきゃ意味が……」


 泣いて文句を言いながらも両手で受け取った小さな手の中で、『師匠そっくりな人形』が体勢を整えようと身動ぎする。大きな目が瞬きすると同時に、溜っていた涙がぼろりと零れていく。


「…………うるさい」

「うわぁあああ! しゃべったぁあああ!」

「投げちゃいやぁあああ!」


 思わずといった風に放り投げられたアラインを全力で確保する。猫が獲物を捕らえる優美な様など比べ物にならない雑な体勢で全力を出した私は、両手でアラインを包んで着地を捨てた。






 穀物が煮込まれてとろりと溶けた乳白色のスープをすくい取り口に運ぶ。初めて食べる味だけどどこか懐かしい、優しい味だ。薄味かというとそうでもなく、とろりとした、柔らかい甘味がある。

 日替わりAランチ、正解だったと鼻に詰めたちり紙を捨てながら私はご満悦だ。食事は温かいうちに頂くに限ると、鼻血が止まるのも待たず食べ始めた甲斐があった。ほくほくと食べ進む私の顔には、床と同じ木目がしっかりついていた。


 器の側では、クルミの殻を器に同じスープを飲むアラインが座っている。その前に敷かれた花びらの上には、千切って乗せたふわふわとした何かが置かれていた。白っぽくて口に入れるとじんわりとろける少し甘い食べ物だ。おいしいけど何かは分からない。原材料すら分からなかったけどおいしかったから問題ない。花びらは料理の飾りに使われていたものだ。お伽噺で、とても可愛い。

 流石にフォーク代わりに出来るものはなく、手づかみで千切って食べているアラインは、少し考えた後に服の裾を握った。私の。


「ちょ」


 拭かれた。

 小指の先より小さくなった掌の汚れを拭われたくらい気にならないし、元々アラインの服だからと文句は飲みこむ。けれど気分がいいものではないので、彼が元の大きさに戻った際には、何かしらやり返させてもらおうと心に決めた。



 温かいスープはじんわりとその温度を残したまま喉を通り過ぎて空っぽの胃に収まっていく。スープが身体の中を通っていく感触で胃が空っぽなのも分かった。一口食べるまではそれほど空腹を感じていなかったにも拘らず、一口食べればぐうぐうと鳴り始めた。全く、正直なお腹である。


 次から次へと口に運ぶ。アラインも追加を断らなかったところを見ると同じように空腹を感じていたのだろう。

 空になった殻の器にスプーンでスープをよそう。これも止められなかったので、ついでに甘ずっぱいソースがかかったお肉も切り分ける。ちょっとだけ苦手な味だったので心持ち多めに。多めといっても相手の図体が図体だ。大して変わらない。一ミリ変わるか変わらないか。




「…………本当に師匠なんですね」


 その様子を無言で見つめていたトロイは、感嘆とも驚愕ともつかぬ息を吐いた。小さな手が呆然と揺らすフォークの先では橙色が詰まれている。お見事。でも褒めない。


「トロイ、野菜どけちゃ駄目だよ」


 薄い肩がびくりと跳ね、ちらりとこっちを窺う。詰まれた橙は、半月状に切られた人参だった。


「人参嫌い?」

「…………はい」

「トマトは?」

「…………はい」

「…………玉ねぎは?」

「…………はい」

「…………キャベツは?」

「…………はぁい」


 何なら好きなのだろう。分からないので聞いてみた。

 トロイはきりりと顔を引き締める。


「全部嫌いです」

「壊滅かぁ」


 どうやら野菜全般において敗北しているようだ。

 弟妹も野菜が嫌いと逃亡する時期があった。でも、お母さん自体苦いものが苦手だったのもあって、苦みや青臭さを排除する調理が施されていたからか自然に収まっていった。私も昔はピーマン苦手だったなぁ。いつから平気になったんだろうと考えるけれど、思い出せない。いつの間にか平気になった。これが大人になるということだ。今でもあまり好きじゃない物もあるにはあるけど、出されたら残さず食べれるくらいには大人になった。


 たっぷりの牛乳で割ったスープならどうだろう。それともひき肉に混ぜ込んでみるとか、煮込んで溶かし切っちゃうなら選り分けようがないんじゃないか。

 そんなことを考えながら、切り分けたお肉を花びらに乗せる。一応適度な大きさにしたつもりだったけれど、乗せてみるとアラインの頭の大きさを越えていた。無言で剣を抜いたアラインに、慌ててフォークの先一本をお肉に突き刺す。このフォークが細かい作業には向いていなくても、流石にソースが絡まった肉汁滴るものを剣で切らせるわけにはいかないだろう。切れ味が鈍るどころの話ではない。


 なんとか小さく切り分けたお肉を食べたアラインは、今度は少しも考えず私の袖を掴んだ。


「ちょ」


 拭くな。

 黙々と食べては手を伸ばしてくるので、慌てて他に手拭に出来そうな物を探す。

 そもそも、部屋の主であり、お手拭が必要な当人が探すべきではないのか。何故、今日初めて部屋にお邪魔した側が必死になって探さなければならないのだろう。


 ちり紙でもいいのだけど、ぱっと見た感じその手の物が見当たらない。二人の私室にしまっているのかもしれない。ちり紙の一つも出てないなんて、普段この部屋は何に使っているんだろう。通路? 物置? もっと部屋の役割を果たさせてあげてほしい。


 アラインの部屋への入室許可が欲しい。視線を戻すと、トロイの大きな瞳に見つめられていてぱちりと瞬きする。

 見ていることに気付かれたトロイは、ぱっと視線を逸らす。でも、すぐにそぉっと戻してきた。開けたカーテンから差し込む光を受けて芽吹く新緑のように鮮やかな緑が美しい。見られて得した気分だ。

 トロイは、視線を戻した時と同じくらいそぉっと窺うように声を出す。ようにも何も盛大に窺っている。


「あの……聞かないんですか?」

「え、いくら私でも人様の部屋に勝手に飛び込むなんて無遠慮な真似、たまにしかしないよ。アラインの部屋入ってもいいかな。お手拭かちり紙欲しいんだけど」

「そうじゃなくて!」


 ばんっと机を叩いて立ち上がったトロイの姿が下がる。立ち上がったのに小さくなるとはこれいかに。

 私も立ち上がって前を覗き込む。椅子に座っていた時より断然高さが足りなくなったのは椅子が高すぎるからだ。私が座る時もちょっとよじ登ってしまったので、トロイなら尚更である。

 この部屋の机と椅子は、高さがあるだけじゃなくごつくて重い。椅子を引くのに足でちょっとなんてお行儀悪い真似をした暁には、もれなく足のほうが大惨事である。

 動かせない椅子をぺしぺしと叩く。


「これ、おっきくない?」

「前に住んでた人が置いていった家具なんで、その人の背が大きかったんだろうなって思ってます」


 それにしても大き過ぎやしないだろうか。巨人か? 巨人が住んでいたのか?

 アラインでも高いくらいだろうに、彼は弟子ができた際にこれを買い替えようとは思わなかったのか。自分も不便ではなかったのか。疑問は尽きない。


「ねえねえアライ、拭くな。ちょ、拭くな」


 手拭かちり紙が近場にない以上、それ以外の何で拭けばいいのかは分からないけど、私の袖じゃないことは確かだ。タオルなら部屋に入らなくてもあるかもしれない。でも、タオルだと大き過ぎやしないだろうか。アラインがタオルの海で溺れてしまう。

 私の知らない異世界の手拭い的な何かはないのかとちらりとアラインに視線を落とす。再び袖を掴まれた。ちょ、拭くな。



 水面下というにはあまりに堂々とした攻防が繰り広げられる中、トロイは両手の指を握り締め、ぼそぼそと呟く。


「聞かないんですか? あの……師匠と、僕の、こと…………さっきので、分かったと、思います。師匠と、僕のこと」


 震えそうな声をぐっと堪えて俯くトロイに、やっと状況を理解した。トロイはさっきのことを言いたいんだ。

 アラインはその隙に手を拭いていた。師匠はもっと自分と弟子のことに関心を持つべきだと思う。洗濯する時はシャボン玉で囲んでやる。でも、今はトロイが優先だ。

 私は、軽く咳払いした。



「聞いていいのか分かんなくて聞けなかったんだけど……」

「はい……」


 自分から話題に出したのに、トロイは気まずそうに視線を落とした。聞いてほしくなさそうな気配がむんむんする。けれど、聞かなければならないだろう。これから一緒に生活していくのならどうしたって避けられない問題だ。

 私は気を引き締めて背筋を正した。一つ息を吸って、静かに指さす。


「あのカーテン、最後に掃除したのいつ?」

「そこじゃないです!」

「え!? だって凄いよ埃! 開けただけでもっふぁって!」

「だってあそこ、僕の身長じゃ届かないんです!」


 確かに。

 納得してから机に視線を落とす。


「アラインがしたらよかったんじゃないかなぁって気がする」


 つんつんと背中を突っついたら捻り上げてきた。巨大な者からの攻撃に大分慣れたらしく、最初は両腕で抱きつくようにしていたのに、今や視線も向けず片腕一本で捻り上げてくる。そんな慣れは必要なかった。

 ぎりぎり捻り上げられる私は特に気にしないらしく、トロイは必死に師匠を擁護した。助けてください。


「師匠に掃除の手伝いをさせるなんて弟子失格です!」

「弟子に掃除まかせっきりにしてる師匠のほうが失格じゃないの!?」

「弟子の食費や生活費は全部師匠の負担っていう決まりなのに、せめて掃除や洗濯くらい弟子がしないとそれこそ弟子失格です!」


 凄まじい迫力で言い返されて、ぎょっとなる。


「え!? 私お金持ってないんだけど生活費どうしたらいい!? アラインから借りる余裕ある!?」


 仕事を探すにも先立つものは必要だ。アラインと一緒にいることが仕事になるのだとしても、お給料はどこから出るのか、前借可能か、大事なことを何も聞いていなかった。

 お金の話をぐいぐいするのはさもしいだろうか。でも大事なことだ。ここがはっきりしていないと、正直暮らしていけない。知らぬ間に借金をごっそり背負っていたら目も当てられない。最後の手段として借金を作るにしても、自分で把握していないと駄目だろう。


 お金は大事なことだ。貸し借りなんて本来ならしてはいけない事である。そう言い聞かせられてきたし、私自身もそう思う。けれど仕方がないことはある。そう、今のように。



 背筋を伸ばすだけでは足りない気がして、母の故郷の礼儀正しい座り方を椅子の上で導入する。足を折り曲げ、膝先から腰までを四角い形に折り畳む独特の座り方で、正座という。ここで背も曲げて、額を床につけたら土下座に進化する。今回は椅子の上なので、机に両手を置いて小さなアラインと目線を合わせた。


「アライン、お金貸してほしいです」

「うるさい」

「そんな殺生なぁ!」


 間髪入れずにずばっと切り捨てられて、小さな身体に縋りつく。指先で裾を握り、転ばせてしまわないよう気をつけながらちょいちょいと引っ張る。鬱陶しそうに弾かれた。そんな殺生な!

 追い縋った指が捻り上げられる。そんな殺生だ!


「よかったですね、六花さん!」

「え」


 ぱっと笑顔になったトロイに驚愕する。

 当面暮らしていくための資金援助を断られた挙句、指を捻り上げられている現状のどこに『よかったですね!』要素があるというのか。それとも、この程度些末事といえる経験をしてきたというのか。こんなに小さな子どもがなんて苦労をっ! 

 弟妹がいる身としては非常に胸が痛い。

 思わず涙ぐんだ私に、トロイは首を傾げた。


「師匠は引き受けない時は断るって一言ですよ?」

「言葉が足りない上に、選んだ言葉がどこをどうとっても了承に聞こえませんでした」


 思わず真顔になってアラインを見下ろす。いつもと変わらぬ無表情だけど、気のせいだろうか。心なしかしれっとしている気がする。まさか今まで散々会話に付き合わせてうるさくした意趣返しだなんてそんなことあるわけ。


「…………アラインさん?」

「何だ」

「…………あの返答を選んだのは故意ですか」


 紅瞳が、特に意味もなくそっぽに固定された。


「…………お前が片翼である以上、必要な費用は俺が出す」

「答えになってないけどありがとう! 利子かかる?」

「返却の必要はない。その代り、厳命されたことは守れ」

「当然です! アライン凄い! 大好き! 太っ腹!」


 深くは追及すまい。両手を一つ打ち鳴らして文句を飲みこんだ。

 アライン側の事情を汲むという条件はあるものの、暮らしていく上での費用を出してくれるというのだ。意趣返ししやがったなこの野郎と、頬っぺたつんつんつっついて気が変わられるとおおごとである。

 金の亡者と呼びたければ呼ぶがいい。お金で愛は買えないけれど、お金がない愛は厳しいのだ。

 アラインを称えて感謝感激していた私は、はたと気づく。


「太っ腹って、よく考えると褒め言葉じゃないね。私、自分が太っ腹って言われたら、じっとお腹見ちゃう」

「…………ふくよかな師匠は想像出来ませんが、僕はどんな師匠でも大好きです」

「だって。安心だね、アライたい痛い痛い」


 マントをめくってお腹を確認したら捻り上げられた。この動作、最早一連の作業と化している。黙々と作業をこなすアラインに、自由な手で許しを請う。折れる折れる折れる。

 解放された指にふーふーと息を吹きかける。こうしたって別に治癒効果はないけれど、気持ち的に幾分か効く気がするのだ。


「でも、お金って大事なことだし、負担になる前に言ってね。私、日雇いとか探してくるから」


 こんなに広い城だ。美しく維持するために手入れは欠かせないだろう。掃除婦として雇ってもらえないだろうか。それに、料理は大の得意という訳じゃないけど皮むきとか鍋洗いとか下働きならできる。ずば抜けて器用な質ではない。それでも根性ならある。根性しかないともいう。後、ずば抜けて馬鹿なのが大丈夫なら雇ってほしい。


 握り拳に気合いを入れても返事がない。もう面倒になったのか、アラインは会話をする気を無くしているように見える。紅瞳にちらりと視線を向けられたトロイが控えめに答えた。この師匠、弟子に丸投げである。


「その……僕が言うのもなんですけど、お金の心配はたぶん大丈夫だと」

「聖騎士ってそんなにお給料いいの?」

「それもありますけど、師匠は必要な物しか買わないんです。趣味にも賭け事にも一切使わないし、遠征組まれようが出張組まれようが非番潰されようが、休まず働きつめるので凄く貯まってます」

「ちっとも羨ましくないやぁ!」


 どういう生活をすればこんな部屋になるのかと思っていたら、そういう生活をしたらこういう部屋になるわけかと納得した。見事なまでに娯楽の一つもない。仕事尽くしならば掃除をする暇がないのも分かる。いいか悪いかは置いておいて、分かるは分かる。

 それなら仕方ないのかなと思っていたのに、トロイのけろりとした声に全然仕方がなくない事実を知る。


「それと、師匠に掃除をお願いしたら捨てるか燃やしちゃいますよ? 以前僕がソファーに牛乳こぼしちゃったら、その場で焼却処分しましたし」

「掃除の概念が違いすぎる!」

「でも床は焦げてないし、やっぱり僕の師匠は凄いです!」

「ありとあらゆる意味でね!」


 道理でソファーの一つもないと思った。

 確かに、掃除において片づけとは切っても切り離せないものだ。取捨選択も欠かせない。不要、または不使用な物を捨てていかねば、物とはどんどん増えて溢れ返る。不要な物が一切無いこの部屋には、それこそ不要な心配だけど。

 それは置いておくとしても、一般的な常識として、美しく適度に住みやすい部屋を維持したいなら、物を捨てることは避けられない。不要な物を燃やすのも当たり前だ。燃やせるものは庭で纏めて燃やしてしまうに限る。ゴミも少なくなって楽だし、年末ではあちこちの庭で煙が上がるものだ。

 それは分かる。私の世界でも一緒だ。

 だけど、どこの世界にその場でソファーを焼却処分する人がいるのだ。


 これが異世界。お母さん、私は慣れることができるでしょうか。貴女が教えてくれた順応を行使することは、果たして可能なのでしょうか。順応力を行使どころか酷使しなければならない予感しかしません。

 ここにはいない母に心の中で文を出す。想像の中での母は、いつもの笑顔を浮かべて、読まずに食べた。せめて読んで頂きたかった。



 不安しか感じないやり取りで動揺した心を落ち着かせようと、木苺に似た果物がちょこんと乗った小さな焼き菓子を口に放り込む。

 引き攣った顔に、ぱぁっと笑顔が浮かぶ。


「おいしい!」


 異世界万歳!

 直接的な甘味は、疲れた精神と五臓六腑に染み渡った。







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