1伝 始めまして 終わりまして
「え、そんな殺生な」
落ち葉や枝が混ざり合ってふかふかな地面、腐葉土の匂いが混ざり合って湿った空気。葉っぱが擦れ合ってさざ波みたいに揺れて、どこかで鳥が鳴いている。耳元を飛んだ虫は払っておいた。
ぺたりと座り込んで呆然とした私の声に、げきょげきょと謎の鳥が答えてくれた。可愛らしさが欠片もない声だ。ちょっとくらい可愛くってもいいんだよと感動すらした。
上を見たら、鬱蒼と茂った木の葉っぱで空が遮られていてよく見えない。薄暗い景色の中に、申し訳程度の光が葉っぱを通って落ちてくる。
右を見たら、でこぼことした木や、しゃきっと背筋を伸ばした木がぎゅうぎゅう詰めだ。もうちょっとお互い譲り合えばいいと思う。
後ろを見ても同じような景色だった。一つ違うのは、可愛らしい桃色の小鳥がてんてんと跳ねながら地面をついばんでいることだ。ちょっと和んだ。
小鳥はぷりぷりと尾羽を振りながら、ぴこんっと跳ねて私を見た。くりくりとした目が可愛くて幸せな気分になる。
「げーきょげきょげきょげきょ」
君だったのか。
見た目は可愛いのになぁと思うけど、きっと小鳥に取ったら余計なお世話だろう。お前は見た目も可愛くないだろうと言われたら、仰るとおりでございますと答えるしかない。
そんなどうでもいいことを考えていたのは、たぶん、現実逃避だ。それくらいは分かるくらいには冷静なつもりだ。つもりなだけだったらどうしよう。
「あの……」
左から躊躇いがちな小さな声がする。私は、頑なに見ようとしなかった下と左のうち、観念して左を向いた。
そこには、春から夏にかけてお目にかかる機会が多い新緑色の小さな男の子がいた。マントから覗く襟元は、一番上のボタンまでしっかりと留めている。マントの下からかちゃりと何かが揺れる音がした。剣帯の音に似ている。騎士っぽいと思ったのは、私のお父さんが騎士だからか。でも、ぱっと見た感じ六歳くらいに見える子どもが騎士ということはないだろうから貴族のお坊ちゃまかもしれない。
そんなことに意識を飛ばした私とその下とで、一所懸命視線を往復していた男の子は、大きな瞳をおろおろさせた。
「あ、あの、そろそろ師匠の上からどいてもらえませんか?」
左は見ても頑なに下を見なかったことをここに懺悔します。……観念しよう。
私は、男の子の視線を追って、そろりと視線を下ろしていった。
ぺたりと座り込んだ私の靴先はふかふかの地面に触れている。でも、手とお尻の下に腐葉土はない。生温かくて硬いけど岩や鉄の硬さじゃなくて、私もよく知っている感触。筋肉だ。お父さんのお腹みたいだけど、それより薄い。けど硬いのは変わらない。
私は誰かのお腹の上に座っていた。気が付いたら森だったし、気が付いたら誰かを押し潰していた。あんまりだ。
ついた手の下にあったマントの留め具がしゃらりと鳴る。
恐る恐る視線を上げていく。肩につくかつかないかくらいの髪が見えた。一瞬白髪かと思ったけど、すぐに違うと分かる。銀がかった真珠みたいな、光に似た綺麗な髪だった。びっくりするくらい綺麗な色だったのに、私の意識は別のものに吸い寄せられていく。
血が燃えているような、真っ赤な瞳だ。
まるで生命そのものが瞳に現れているみたいで、思わず見惚れる。赤い瞳自体は何度も見たことがあったのに、こんなに美しいと思う瞳は初めてだった。
思わず覗きこんでいると、酷く淡々とした声が聞こえた。
「どけ」
最初、それが言葉だと理解することができなかった。
水が喋ったと思ったのだ。それか砂だ。さらさらと流れていって何も残らない、音のような声だった。
いきなり自分の上に降ってきてお尻で潰した挙句、まじまじと覗き込んでくる相手に、不信感や不快感や驚愕や戸惑いや怒髪天が現れたっておかしくないのに、声にも瞳にも滲んですらいない。
最初は私の目がおかしくなったのかと思って、左にいた男の子を見る。大きな瞳の中には、魚でも飼ってるのかな? と思うほどくるくる光が動いていた。もう一度下を見る。微動だにしない紅瞳。魚逃げちゃったのかな?
私が押し潰しているのは、少し年上に見える男の人だった。少年と呼ぶべきか青年と呼ぶべきか、その境ってなんて呼ぶんだろう。手足は長いから身長も高そうだけど痩せすぎだ。頬は少しこけてるし、目の下に隈がある。
何はともあれ、初対面の人を押し潰して身体検査をするなんて失礼にも程があった。
「すみませぇん!?」
慌ててどこうとした謝罪の語尾がひっくり返る。ついでに身体もひっくり返る。
下の人が自分の腹筋だけで起き上がったのだ。しかも、そのまま立ち上がった。反応できなかった私の身体は盛大に転がり落ちて、地面と熱烈なキスをかました。ひんやりと湿った土の上で虚ろな目になる。どうして私がこんな目に。いや、でも、初対面の人を押し潰した挙句まじまじと覗きこんでしまった……妥当な目にあったかな!
「だ、大丈夫ですか!?」
突っ伏した私の前に小さな手が差し出された。最初に話した男の子だ。よく見るとこっちもちょっと痩せてる。隈はないけど。
お腰辺りで手を拭いて、小さな手を借りる。借りたといっても、体重をかけたら引っ張り倒してしまいそうでほとんど自分の力で立ち上がった。師匠を押し潰した挙句、弟子まで引っ張り倒したら目も当てられない。どんな凶暴女だろう。こんな凶暴女です、どうぞ宜しく。
男の人のことを師匠と呼んでたから、たぶん弟子なんだと思う。たぶん。間違ってたらごめんね。
「ありがとう」
「いえ……」
口籠った男の子はどうやら警戒しているみたいだ。当然だ。だって、いきなり現れて師匠を押し倒した初対面の相手に対して、友好的に接するのは大人だって難しい。私が彼の立場でも盛大に警戒する。むしろお父さんを呼ぶ。
お母さんの国の言葉で助けを呼ぶときの言葉……なんだっけ……へる……へる……へるぺすみー?
なんかそんな言葉だったはずを叫ぶ。
男の子は、もじもじしているから一瞬照れているのかと思ったけど、よく考えたら照れる要素は皆無だった。普通に警戒だ。
警戒しながらも手を貸してくれたなんて優しい。優しい子どもを脅えさせて恩をあだで返すのも何なので、彼が落ち着くまで身なりを整えて待っていよう。
大人しく無言で服をはたいていると、しばらくして意を決したように口を開いた。
「あの、僕、騎士見習いのトロイ・ラーセンです」
「あ、私は雑貨屋で店員やってる、六花・すあああああ!?」
「すあああああ!? ……凄い名前ですね」
違う、そうじゃない。
そんな珍妙な名前になった覚えはないと弁解したかったのに、その願いは叶わない。
せっかく手を貸してもらって立ち上がった私の身体は、ひっくり返った亀のような体勢で引きずられていた。腕や服の一点を引っ張られたわけじゃない。身体全体に板でも貼り付けて均等に引かれたような、不思議な感覚だった。それか、縄を被せられた獲物だ。何とも不思議な感覚を体験できた。わあい、初体験だ!
どうしよう、まったく嬉しくない。
思わず真顔になったまま天を見上げる。深い森の木々は空を遮ってしまって木洩れ日も細く、森の中は薄暗い。
そんな背景を背負い、初めて感情を見せた紅瞳が私を見下ろしている。ちょっとだけ目が瞠られているような……あれ? 気のせい? 別に瞠られていないような、いやでも最初に比べたらちょっとは瞠られているような。
感情があるようなないような視線を受けて無言で立ち上がり、汚れをはたく。湿った土は落ちにくい。全部落とすのは諦めて、紅瞳と目を合わせて静かに、でも力強く頷いた。
すぅっと息を吸い込むと、ぐっと拳を握る。
「うああああああ!」
「ええええ!?」
紅瞳にくるりと背中を向けて、私は走った。横でトロイが驚愕と脅えを見せていることに気付いていたけど走った。
木々のざわめき、げきょげきょ響く鳥の声、耳の側を飛び回る虫の羽音。それだけが満たしていたはずの森の中に、私の雄たけびが追加された。
走った。とにかく走った。全力で走った。
新しい靴に苔がこびりつき、土で汚れても走った。トロイに脅えられてもとにかく走った。地面がどんどん削れていく。何故かというと、全力で走る私の身体は、走り出した場所から一歩も動いていないからだ。
対する男の人は、よく見ると踵部分が地面にめり込んでいる。別に彼が走ってくれてもよかったんじゃないかと気づいたのは、全力で走りすぎて脇腹が痛くなった時だった。
どのくらい走っただろう。もう一生分走った気さえする。距離としては一歩も動いていないのに、焦りも相まって物凄く疲れた。
髪の間を滑った汗が顎から伝い落ちた瞬間、悟った。本当はずっと悟っていたけど認めたくなかったのだ。
悟った私はぴたりと走るのを止め、観念して紅瞳と向きあう。若干どころか盛大に脅えた目で師匠の後ろから覗いているトロイが悲しい。怖がらせてごめんねトロイ。
申し訳なさと、悲しさと、疲れで、盛大にしょぼくれながら手を差し出す。
「…………六花です。学校は卒業したので知り合いの雑貨屋さんで店員やってる十五歳です。最近かふぇも出来ました。是非ご利用ください」
「…………アライン・ザーム。聖騎士だ」
聖騎士って何だろう。
色んな意味でご利用頂けない可能性のほうが高いことに気がついてはいたけど、うっかり営業してしまった。でも、小さい頃からお手伝いしていたから古参だけど、正式に雇ってもらえたのは学校卒業した最近である新人の営業なんて必要ないほどお店は繁盛してますよ!
お店の名誉を守った私の後ろから風が駆け抜けていく。長い黒髪が頬っぺたをくすぐっていくけど、耳にかける気力はない。
距離にして片手を伸ばした範囲。
何故か、どう足掻いてもその範囲から離れられなかった私達は、静かに自己紹介を交わした。
「師匠が、師匠が自己紹介に応じた!」
「それわりと普通のこと!」
「あ、師匠は十七歳ですよ! 僕は八歳です!」
「どうぞ宜しく!」
そして、握手を求めた私の手は取ってもらえなかった。
悲しい。