16伝 はじめてのお城
「……ねえねえアライン」
『……何だ』
私はわっと顔を覆った。
「私って怖い!?」
最初に衛兵がいた場所を過ぎれば、徐々に擦れ違う人が増えていった。天からの恩恵というだけあって、皆びっくりするくらい綺麗だ。そのびっくりするくらい綺麗な人達は、私を怪訝な表情で見やった。それはそうだろう。詰襟から袖先の小さなボタンまできちりと止めきった面々が闊歩する場所だ。そこを、服自体は質の良いものでも袖や裾を折った、明らかに大きさの合っていない男物の服を着て歩いている私は目立つだろう。
それは分かる。分かるのだけど、問題は怪訝な顔をしていた人々が次の瞬間何かに思い至ったかのようにざぁっと音を立てて青褪め、凄まじい勢いで後ずさるのだ。後ずさり、飛びのき、視線が合えば悲鳴を上げて逃げ出していく。
これになんとも思わない人間がいたらお目にかかりたい。そして、コツを伝授して頂きたい。私は例に漏れずしっかりなんとも思っているし、結構傷ついている。
「異世界の人から見たら私の顔って怖いのかなっ……! あっちじゃ美人なお父さんには似なくて、取り柄といえば愛嬌と警戒心を欠片も抱かせないまぬけ面が褒め言葉のお母さんに似たって言われてたのに、こっちじゃ恐怖の大魔王な顔してる!? でも私お母さん大好き! お父さんも大好き!」
『…………うるさい』
文化の違いがこれほどに残酷なものであったとは。百聞は一見にしかず。
母の故郷の言葉はどうしてこんなにも真理を突いてくるのか。真理をついているから後世まで言い伝えられているのだけど、そんなこと今の私には関係ない。
どこの世界に、会う人会う人盛大に脅えられて喜ぶ十五歳がいるというのだ。
『…………次を右』
「ねえ、アラインは私の顔怖い!?」
言われた通り右に曲がりながら服の中を覗き込む。服の間で揺れているアラインが顔を上げて、久しぶりに肉声で喋った。
「怖がられているのはお前の顔じゃない」
「じゃあ声!?」
「声でもない」
「存在かぁ……」
それはもうどうしようもない。肩を落とすと、アラインは小さな溜息を落とす。全体的に小さいのでどうやったって小さな溜息になる。
「恐れられているのはお前じゃない。俺だ」
「アラインの顔?」
襟元を引っ張り、お伽噺のように美しい蝶の上に座って揺れている無表情をまじまじと見下ろす。どこの腕利き職人が魂込めて作り上げたんだと感心するような顔。お見事。
「大変整ってますね。えーと『いけめん』ですよ。うん、いけめん、いけめん。別に怖くないよ。羨ましいけど妬ましいけど恨めしいけど」
ちょっと本音が滲みだした。
よく考えれば、年上の異性を胸の間でぶら下げている凄まじい状況だよなぁと呑気に思う。羞恥や嫌悪感を感じないのはアラインから性の匂いどころか人間味を感じにくいからだろうか。最初は砂が喋ったとすら思ったほどだ。後、そんなの気にしていたら色々終わるからかもしれない。
「…………顔じゃない。目だ」
言われて視線を瞳に絞る。厚手の生地に光が遮られ、薄暗い服の中でも自ら光を放つその色は、火を使わずとも夜を照らし続けたあの謎の照明器具よりも鮮やかだ。
「ルビーみたいで綺麗だね」
小さな目が見開かれる。初めて見たその表情に、いや待てよと考え直す。見開かれたことによって大きくなった瞳をじぃっと見つめる。ルビーよりもっと身近な物に似ている気が。
あっと声を上げる。
「苺ジャムみたい!」
「…………お前の中でルビーとジャムは同等か」
「個人的には苺ジャムのほうが好き。ルビーは甘くないし」
「…………食べたのか」
「子どもの頃にしゃぶってたらしい」
母が少し目を離した隙に、母の宝石箱を探り出して口に入れていたという。きっと飴玉と間違えたのだろう。
お母さんは今でもあれを思い出すと肝が冷えると言っていた。兄と一緒に昼寝をさせていた娘がいつの間にか起き出して、宝石を口に入れてもごもごしていたらそりゃあ驚くだろう。
即座に口をこじ開けて指を突っ込み、ぎゃん泣きするのもお構いなくルビーを奪い取った母は、動揺のままルビーを窓から放り投げた。
幼かったので物事の前後は覚えていないけれど、その時の母の様子だけは何故か鮮明に覚えている。『うげろっぱぁああああ!』と大絶叫しながら全身を使って大きく振りかぶった母は、大変鬼気迫り、そしてかっこよかった。
ついさっきまで娘の命を危機に曝していた危険物をとにかく排除しなければと思ってしまったらしい。我に返った母は、未だ眠る兄を背に、しゃぶっていた物体を奪われてぎゃん泣きする六花を胸に、それぞれ紐で縛り付け、ルビーを探す旅に出た。
ちなみにルビーは、休日だったので夕飯を一緒に食べる予定だった父母共通の友人に激突していてすぐに見つかった。父と友人は、休日なのに仕事に呼び出されてからの帰還だ。その上涎塗れのルビーを額に食らった友人の怒りは、母を三回チョップしないと治まらなかった。
ついでに、事の子細を聞いた父は、子ども達が口に入れると危ないからという理由で、これまで贈っていた宝石をどう足掻いても口に入れられない大きさにし始めた。頭に乗せて遊ぶしか使用方法を思いつかなかったらしい母は、頭に乗せて落とさないよう遊んでいた。それを見た父母の友人は「鶏にダイヤ」とのことわざを呟いては嘆息していた。
という話をつらつらしている間も、ぎょっとする視線は減らなかった。寧ろ人通りが多くなったことによりどんどん増えていく。人が増えているということは、遭遇する回数も増える。回数が増えれば、いろんな形が現れるものだと思うのに、みんな判を押したように同じ反応なのはどういうことだ。もっと個性を持って頂きたい!
ひとりごと自体は問題ないとアラインからお墨付きをもらっている。
片翼は遠くにいても会話ができるものなので、そう思われているだろうとのことだ。皆そんなにアラインの片翼事情を知っているのかなと思ったけど、片翼が現れたのがほぼ三百年ぶりだそうだからそういうものなのかもしれない。それに私は覚えていないけど、宿屋で眠って五日経っているのだ。その間に何か新聞にでも載ったのかな。
問題ないならと気にせず話し続けた。そのほうが気も紛れるというものだ。たとえ、アラインからの返事は一切なくても。…………寂しい!
寂しいから余計に思い出話に花が咲く。別に咲かなくても無理矢理咲かす。
幾つもの角を曲がり、廊下を進み、扉を進む。本当に迷宮のようだ。もうとっくの昔に一人では出発地点に戻れなくなっている。
「次の渡り廊下を左」
「さっきから何回も通ってるけど、普通の廊下と変わんないね」
返事は返らない。確かに特に返事を要するような言葉ではない。だが、非常に寂しい。周り中からまるで化け物を見るような目で見られている身としては、せめて孤独だけは感じたくない。
「寂しい!」
めんどくさい女と笑わば笑え。笑っていいから喋ってほしい。悲痛な懇願に、アラインは小さな溜息を吐いた。
「…………城の最深部だからだ」
ねえねえアライン攻撃が始まると予想できたらしく、少しの沈黙の後に返事が返ってきた。意外と付き合いがいいなと感謝しつつ、会話を続ける。
「アライン達もここに住んでるの?」
「そうだ」
「迷わない?」
「覚えればいい」
「絶対無理だって断言す、る……」
分かれ道のない廊下の角を曲がった私は言葉を無くした。
目の前に広がるのは、さっきまでの窓一つない渡り廊下ではなかった。
吹き抜ける風と一緒に髪が広がっていく。女の子らしくないと散々言われてきたので、せめて髪くらいは女の子らしくしようと伸ばした黒髪の頭のてっぺんから光が通り抜け、長い毛先で弾けた。
私の髪の毛にまでお裾分けが届くくらい、光と風が溢れている。
私は、山よりも大きな建物の中にいた。巨大な壁が世界を覆い、何百本もの廊下がそれらを繋ぐ。凄まじい数の廊下が交差していても全く手狭に見えないほど、お城は大きかった。渡り廊下は様々な高さに配置され、中には十字どころか八本以上重なっている場所すらある。木が枝を伸ばすように大きさも長さも様々な廊下が伸び、さながら森であり、大樹だ。
三角だったり、何画なのか数えないと分からない様々な塔が所狭しと天を目指す。上を見ても下を見ても、右を見ても左を見て、どこを見ようが天まで伸びた建物を枝が繋ぐ。大樹のような城が世界の全てだと錯覚してしまう。
廊下が繋ぐ建物の間を風が走り抜けていく。細い場所は歌うように、広い場所は唸るように。先程髪の毛を通り抜けた光も風に運ばれたのだと思えるほど、不思議な光景だった。風と光が共存している。まるで兄弟のように絡み合って揺れていた。
建物に阻まれ乱れきった風の向こうに世界が見えた。お城は、ここが世界の全てに見えるほど大きい。けれど、風が生まれるその場所にまだ世界が広がっていた。
「凄い……」
こんなの見たことがない。
思わずぽつりと言葉が落ちる。まるで違う世界にいるみたいだ。
呆然と世界を見上げて、自分でも違和感に気付いて我に返る。
「…………違う世界だった!」
まあいいやと、もう一度視線を戻す。生まれて初めて見る景色に目も意識も釘付けになる。通りすがりが私に気付いて、「ぎゃっ」と悲鳴を上げて駆け出していくことも気にならない。たとえ同年代程の少年が土気色の顔で飛びのき、足を絡ませ盛大に一回転するくらい転ぼうとも――……。
「だ、大丈夫ですか!?」
流石に気になった。
慌てて駆け寄ると、この世の終わりといわんばかりの絶叫を上げて走り去られた。中腰で伸ばした手が悲しい。誰もいなくなった空間に手を伸ばす私の後ろから風が走り抜けていく。ばっさぁと髪で覆われた顔に、更なる悲鳴が上がる。これはもう顔とか関係なく、純粋に怖いのかもしれない。どうもこんにちは、食堂目指しお化けです。
「…………虚しい」
「関わるからだ」
「目の前で盛大に転んだ人を無視するのも、それはそれでどうかと」
よっこいしょと曲げた背を伸ばして、その勢いで髪を掻き上げる。横髪を探って耳にかけ、眉にかかるかかからないかの前髪を探して整えていると、澄んだ鐘の音が聞こえてきた。銅鐘の重たく腹の底ごと揺らすような音ではなく、瑠璃が鳴らす澄んだ鈴鐘のような音だ。
どこまでも響いていく音は、大きいのにちっとも苦ではない。それどころか身も心も浄化されていく気がする。何が穢れていたのかと聞かれるとこれといって心当たりはないけれど。強いていうのならお弁当用の具をつまみ食いしたことだろうか。つまみ食いする唐揚げは、どうしてあんなにも美味しいのだろう。
どこから聞こえているのだろう。きょろきょろ周囲を見回すと、胸元から急かす声が上がる。
「早く行け」
「へーへー」
「……今の鐘で学院が昼に入った。トロイを見失うぞ」
「うおおおおおおおおおお!」
雄たけびを上げて走り出す。
この城は確かに大きく美しい。荘厳で見た者の心を奪う。だけど、あの小さな子どもを探して走り回りたいかといえば、答えは否だ。トロイ確保場所として確定している食堂を逃してなるものかと鬼気迫る形相で走り出す。
どうもこんにちは。食堂を必死に目指すお化けです。
必死に走りすぎて折り曲げていた足の裾が落ちた。当然の如く踏んですっ転ぶ。咄嗟に両手で胸元を覆ったため、顔面からいった。
せめて片手は残すべきだったと反省するも、もう遅い。もんどりうった体勢のまましばし悶える。しかし、すぐに立ち上がった。転んで泣きべそをかく年齢はとうに超えている。私だってもう十五歳。成人かといわれるとどうなんだ? といわれる年齢だけど、ちゃんと学校も卒業して働いてる立派な社会人。転んだくらいじゃ泣かない。
鼻の付け根を押さえながら美しい渡り廊下を走り抜けていく。鼻血を押さえながら走り抜ける私に、ありとあらゆる意味でぎょっとしない人は一人もいなかった。