14伝 被害総額は終いくら?
聞きたいことは一つだったけれど、聞いておかなきゃいけないことは他にもいっぱいあった。
「あの、秘密ってトロイにもですか?」
アラインが返事を返してくれただけで泣いてしまった、彼の小さな弟子にまで内緒なのだろうか。それは可哀想だ。泣きながら「師匠を知りませんか」とトロイに聞かれたら、ここにいますと差し出してしまうかもしれない。
私の不安に、当人である師匠は何を考えているか分からない無表情で足に絡まった糸くずを切り裂いていた。身体が小さいと糸くず一本が縄のようになる。埃も巨大な綿で、いつだってなんだって大冒険だ。アライン・ゴーミの大冒険という本が出たら読むから書いてみない?
「ああ、いえ、トロイには話して結構ですよ。敏い子ですし、幼いながらも貴方々の頼れる補佐になってくれるはずです。それに、いきなり師匠がいなくなっては、泣きながらアラインを探し回って可哀相ですし。秘密を共有する相手の人選はアラインに聞きなさい。上には私達が話を通しておきましょう。アラインもそれでいいですか?」
上といっても彼らからしたら下だという。双龍さんとはいったいどこまでえらいのか。凄く偉い人達みたいだけど、とても気さくで、シャムスさんに至っては近所の悪がき大将みたいだ。
私の故郷にもいた悪がき大将。馬糞を投げつけてくれたことは一生忘れない。馬糞を拝借した馬が引いている馬車の荷台に乗り込み、下にいる私達に「やーい、やーい、悔しかったらのぼってきてみろよ」と笑っていたら馬車が出発しちゃって、呆然とした彼がどんどん小さくなったのも忘れない。彼のお母さんが買い物かご放り出し、スカートも髪も振り乱して「だから人様の馬車に勝手に乗り込むんじゃないよって言っただろう、このっ、ばか息子――!」と叫びながら鬼の形相で追いかけていったのは、忘れようにも忘れられない。
小さく頷くことを返答としたアラインに苦笑したエーデルさんは、指の先でちょいちょいと小さな頭を撫でる。お伽噺の挿絵のような光景が目の前にあって、そんな場合じゃないと分かっていてもちょっと楽しい。
思わず和んだ私の前で、俺もと豪快に手を伸ばしたシャムスさんの風圧でアラインが吹っ飛んでいく。
「アライ――ン!?」
慌てて手を伸ばす。間一髪で掴みとり、ベッドの上でもんどりうった。潰さないよう胸元に抱え込んで顔面から突っ伏した私の後ろで、重たいものが床に叩きつけられる音がした。
「いってぇ!」
「いい加減少しは考えて行動しろとあれほど言っているにも拘らず何故守れないのですか馬鹿だからですかそうですね馬鹿でしたね」
息継ぎを挟まない罵倒は、流れ弾で私にも飛んできた。思わず謝る。これからお世話になる人への礼儀だ。
「私も馬鹿です! 試験は常に赤点です! これからどうぞ宜しくお願いします! 本当にすみません!」
アラインを抱えたまま、寝台の上で土下座した。間髪入れずくるりと振り向いた長い青髪が、一拍置いてふわりとその背中に収まる。
「子どもがそんなことを気にするものではありませんよ? それに、無邪気で可愛らしいではないですか」
「…………お前、昔っから擦れてねぇガキには甘いよな。その優しさの百分の一でも俺にだな」
「全てに甘いわけではありませんが、とりあえず同年同期同班の爺相手に優しさを向ける理由は欠片も思い浮かびません」
「俺が爺ならてめぇも爺だよ!」
「私がいつ自分を若いと言いましたか」
「…………はっ!」
「どう考えても老いていないだけで爺でしょうが」
「だよなぁ」
唐突に始まり唐突に終わった、諍いとも呼べず、喧嘩というにも何だか奇妙な掛け合いに、私は置いてけぼり感満載だ。長い付き合いの二人なのだから、まあそういうこともあるだろうと、その隙に一所懸命疑問を探して組み立てる。なにがなんだか分からないけど、頑張って整理していれば疑問くらいは出てくるのだ。
「あの、どうしてアラインの状態を隠さなきゃいけないんですか? 小っちゃくなっちゃうのは、この世界でも変なことなんですか?」
私の世界では当然奇妙で有り得ない事だ。しかし、この世界では魔法が……魔術が……術、が、あるそうだ。常識だって違うだろう。自分の知識と常識だけでは測れない。また、量ってはならない。
そう両親から教わった。
分からないことはその場で聞け。聞ける雰囲気じゃなかったら後で聞け。基本的に馬鹿は後まで覚えてないから、その場で聞けなかったら次に思い出すまで諦めろ。
お母さんは己の実体験からたくさんのことを教えてくれた。即ち、馬鹿でも生きていける方法だ。
恥をかくことを躊躇うな。聞くことは恥ではない。でも空気は読めとも。
何も分からない世界では、聞いていいこと悪いことすら分からない。だから必死に考える。正解が分からなくても、間違っていても、知らなければ始まらないのだ。
私の質問を、二人は疎ましがらずに答えてくれた。
「小さくなるのは、まあ、人間から見りゃあそれほど普通でもねぇが、この国では極端に珍しい事態でもねぇ。だが、ちびっこくなっちまった奴が問題だ」
「アラインは至上最年少で聖騎士となった子どもですから、それだけ注目されているのです。聖騎士としての一角を担う象徴とすらいえる。だからこそ、今この時期に弱体化が知られるわけにはいかないのです。ただでさえ、この五日間の昏睡で浮足立っている連中がいますからね」
聞けば答えてくれる人がいる。それがどれだけありがたいことか私は知っている。
「同盟を組んで今年で三百年。二週間後には世界中で記念式典が開かれる。なんだかんだと未だ蟠り続ける闇人も、この時ばかりは地界から出てくる。特に今年のは特別だからな。向こうにとっての俺らのような存在も重い腰を上げてくるだろうさ。そんな中で、こいつは色々難ありでも先祖返りってくらいでかい力の持ち主だ。この時期に弱体化が知られれば火種になりかねん。ただでさえ、あちこち頭の痛い問題が溢れ返ってやがるしな」
次から次へとてんぽよく紡がれる会話の中から必死に情報を掴みとる。できるなら分かりやすく紙に纏めて頂けると嬉しいけれど、そこまでの手間をかけてもらう訳にはいかない。そして、そこまでの手間をかけてもらっても分かる保証はない。
「…………つまり、アラインは目立つ存在だから、弱くなっちゃったって知られたら困るんですか?」
無い頭で必死に考え出した答えに、シャムスさんは両手を戦慄かせ全身で震えた。
やってしまった。何か大変な間違いを犯したのか。慌ててもう一度考え直そうとした手をがしりと掴まれる。シャムスさんの手はお父さんより大きいかもしれない。ごつごつとしてまるで岩壁のように硬い。節目が太く使いこまれた手は、働き者の手だ。お父さんの手さえすっぽり包めそうな大きな手を思わず見つめる。
その間も、シャムスさんの戦慄きは増すばかりだ。
「エーデル……やべぇ、こいつ天才かもしれんぞ。あれだけの情報だと『式典ってことは飯が食えるな!』ってことしか分からねぇのに!」
「六花、騎士学院第1821卒生。実技80名中1位。座学80名中80位。総合順位40位のシャムス・サンの言葉は何一つ気にしなくていいですからね」
何が得意で不得意か、はっきりと分かる成績である。私にも心当たりがあって胸が痛む。ここまで極端なのはある意味凄いけど、私は実技すら真ん中より下を漂う有様だったので何も言えない。
「貴女の解釈で正解ですよ、六花。その点片翼がいれば話は別です。片翼とは補うもの。繋がっている以上、貴女はアラインでありアラインは貴女だ。アラインは突如片翼が現れたという事象について調べに行かせたということにします。片翼と離れているのは若干無理がありますが……片翼がこの世界に現れること自体三百年ぶりなのですし、まあその辺は何とでもなるでしょう。その間、貴女が片翼として皆の前に姿を現してくれれば、それだけでアラインの無事が証明されるのです。アラインが無事である限り貴女は元気ですから」
「私が元気でもアラインは元気じゃないんですか?」
「絆がうまく構成されればそう成り得ますが、今の段階ではこの世界で生まれたアラインの影響力が強いでしょうね」
よく分からないけれど、とにかくアラインの状態を知られないようにすればいいということが分かっていればいいのだろうか。
そう結論付けて、当人を抱え上げたままの胸元に視線を落とした。さっきは散々蹴られたけど、今は大人しく掌の中に収まっている。流石に吹き飛ばされるのは嫌だったようだ。吹き飛ばされるのと天秤にかけられる乗り心地だったんだなと思うと、なんともいえない気持ちになった。
見下ろした人は、人形のように小さいけれど、人形にしてはやけに精巧で酷く無愛想だ。こんなに軽く、見ているだけで心許なくなる小ささなのに、大きい時と何一つ変わらない不遜な態度。
このまま抱えていていいのか下ろすべきか悩む。また吹き飛ばされても困るので、とりあえず先程の元凶の様子を見て決めようと視線を戻す。
元凶はエーデルさんに食ってかかっていた。
「おまっ、また古い成績を!」
「正確に言うならば一期生から十期生まで、学院総合試験結果、実技1000人中1位、座学1000人中1000位です。ちなみにいうと卒業間際の試験ですよ」
「お前なんか座学は1位でも、実技は300位くらいだったじゃねぇか!」
「一期生全員に座学で負けた貴方が言いますか」
二人にしか分からない話題で始まった喧嘩を見送る。どうぞいってらっしゃいませ。
見上げる首が疲れて視線を下ろす。ずっと寝ていて首が固まっているのかもしれない。肩を回しながら、無言の小人に視線を戻す。何を考えているか分からない無表情を見るに、この二人の喧嘩は日常茶飯事なのだろうと、たったこれだけの付き合いでも分かる。日常茶飯事ではなくても無表情なのだろうなとちょっと思った。
まあいいやと気持ちを切り替えて、何を考えているか分からない人を、揃えた両手で視線の高さまで掲げ持つ。ちょっと勢いがつきすぎてよろめかせてしまったのは申し訳ないと思っているので、剣に手をかけるのは是非ともやめて頂きたい。そして、剣も小さくなっているのだと今更気が付いた。戦う為の刃物なのに、小さいとそれだけで可愛らしく思えてしまうから不思議だ。
「ねえねえアライン」
「………………」
「ねえねえアライン」
「………………」
「ねえねえアライン」
「………………」
「ねえねえアライン」
「…………何だ」
四度目の正直。
鳴かぬなら、鳴くまでしつこいぞほととぎす。
お母さんの故郷の言葉は正しかったと確信した。他にも『鳴かぬなら、私が鳴くぞホトトギス』というのもあるらしい。ちょっと意味が分からない。きっと先人が残したありがたい意味があるのだろう。お母さんの適当な創作の可能性も九割ほど残っているけど。
いろいろと分からないことは多いけれど何はともあれ挨拶は大事だ。風圧で吹き飛ばしてしまわないよう気を付けて、ちょこりと頭を下げる。
「えーと、何だかよく分からないけど、これから宜しく」
「…………」
「お願い」
「…………」
「します」
「…………」
予想通り返事は返らない。次なる行動の為に、大きく息を吸い込む。やっぱり予告も大事だと思うのだ。
「繰り返します。返事が返るまで延々と繰り返します。いつまでだって繰り返します」
「…………」
「ねえねえアライン」
「……そこからか」
そこからだ。延々と繰り返されるのが嫌だったら早急に返事を返したほうがお得です。延々と無視されるか、延々と繰り返すかの根気勝負だ。
「いつまでこんな感じか分からないし、何をどうすればいいのかも全く分かんないけど、どうぞ宜しく」
「…………」
「ねえねえアラ」
「分かった」
いつになく素早い返事に、『鳴かぬなら鳴くまでしつこいぞ、ほととぎす』の有用性を知った。かなり実用的だ。いつまでだって根気比べする覚悟はあったけど、そんな勝負しなくて済むのならそれに越したことはない。
「良かったら、この世界での友達第一号になってもらえませんか?」
「断る」
いつになく素早く断わられた。ずばっと斬り捨てられた友達要請が虚しい。
しかし、これは繰り返して押し付けては駄目な類のものなのでしょんぼり引っ込める。
「分かった……トロイを誘ってみる」
あの子なら『いいですよ!』と笑ってくれると思う。『嫌ですよ!』と笑ってくれたらどうしよう。立ち直れない。
「そういえば、アライン友達いるの?」
トロイの言葉を聞くに、そんなに多くなさそうだ。でも、出来れば紹介して頂きたい。そして出来れば私も友達になって頂きたい。
酷く失礼な問いに答えたのは当人ではなかった。
「お前が友達になったら、アラインの友達第一号だぜ!」
にかっと太陽のような笑顔が降り注ぐ中、私はすぅっと真顔になった。
「アライン、友達になってもらえませんか」
「断る」
「アライン、友達になってもらえませんか」
「断る」
「アライン、友達に」
「断わる」
「アライ」
「断わる」
「アラ」
「嫌だ」
「………………」
「嫌だ」
何も言っていない段階から断わられた。以心伝心だ。仲良くなった気がする!
ぐっと拳を握った私の首がへにゃりと落ちる。
そんなわけない。しかも最後はただ断っただけじゃなくて、しっかり嫌がっていた。しょんぼりである。
「……アライン、六花と仲良くならないと固着はとれませんよ?」
仲良くならないと離れられないとはひどい矛盾である。
呆れたエーデルさんの言葉にもアラインは無言を通した。そんなに嫌か。口数少ない彼から間髪入れずに連続したお断り。嫌なんだろうなぁと思う。実際の所、突然現れて自分を押し倒した馬鹿に友達になろうといわれて、快諾する人などそうはいない。それは分かる。分かるのだけど。
私はぐっと両拳を握りしめた。友達百人なんて壮大なことは言わないけど、友達は欲しい、凄く欲しい!
「アライン! 寂しいから友達になって!」
「嫌だ」
間髪入れずお断り。分かってた、知ってた。でも諦めない。
そんな様子に、エーデルさんはやれやれと額を押さえた。
「アラインは分かっていると思いますが、式典までにある程度の絆を定着させないと非常に面倒ですよ」
呆れた様子に首を傾げて聞き返す。
「面倒ですか?」
「非常に面倒、ですよ」
非常に嫌な強調をされた。非常に嫌な予感がしてきた。しかもひしひしと。
エーデルさんはにこりと微笑む。
「殺されますね」
面倒という言葉で賄える範囲を軽く超えている。
室内なのに木枯らしが駆け抜けていく。木枯らしで済む問題とも思えない。
説明を要求すべきか、とりあえず話が打ち切られた空気を読んで今は流すべきか。帰りたい、ああ帰りたい、帰りたい。とりあえず帰りたい。何はともあれ帰りたい。お父さん、お母さん、お兄ちゃん、弟妹達。私は頑張ります。
ばしんと鈍く弾けた音がした。驚いて顔を上げれば、背中を思いっきり平手で叩かれたエーデルさんがつんのめり、たたらを踏んでいるところだった。シャムスさんは更にばしばしと背中を叩きながら、興奮冷めやらぬ様子だ。
「見ろよ、エーデル! アラインがすげぇ喋ってるぞ!」
「…………言いたいことはそれだけですか?」
踏んだたたらを軸に、床を抉り取るように回転したエーデルさんの回し蹴りが炸裂した。シャムスさんが吹っ飛んでいく。
何事もなかったかのように裾を払い、にこりと穏やかな笑顔がこっちを向いた。……私は何も見なかった。これはもう、この二人の会話のようなものだ、そうだ、それであれ。
「流石片翼ですね。この調子だとすぐに絆が構成され、固着はとれるかもしれませんよ」
「完全拒否されたのはどうしましょう」
「さあ、もう少しゆっくりさせてあげたいのはやまやまなのですが、色々としなければならないことがあるので今はこのくらいにしておきましょう」
話をぶち切られた。移動する旨が見て取れたので慌てて靴を探す。
靴は寝台の下に仕舞われていた。泥は綺麗に落とされていてほっとする。新しい靴だからもあるし、人様の綺麗な部屋を泥まみれの靴で歩くなんて気が引けるどころじゃない。
穏やかに待っていてくれるけど、出来るだけ急ごうと慌てて履いているとずるりと裾が落ちてくる。今更だけど、あの時借りたアラインの着替えのままだ。
思わずくんくんと袖の臭いを嗅いでしまう。
「ねえねえアライン。私臭くないかな。大丈夫かな?」
五日間、お風呂にも入ってないし、着替えてもない。ただ寝ていただけでも髪はべたつき、すえたような臭いが漂うはずだ。他者に臭いと思われると、年頃の乙女としてちょっと傷つく。
自分では分からなくて、両手で持ち上げたアラインに聞いてみる。アラインは無言で自分の小さな腕に鼻を寄せた。
「お前が分からないものを分かるはずがない」
確かに。大きさで考えれば私が圧倒的に大きい。私と一緒にいた小さなアラインは恐らく同じ臭いとなっているだろう。
臭いの確認は諦めよう。お風呂に入りたいなと思いながら掻き上げた髪が、さらりと指の間を通り抜けていってびっくりする。何の香りかは分からないけれど、睡魔に乗っ取られた意識でも好きだなと感じた香りが残っていた。
「あれ?」
首を傾げた私の手を取って立たせてくれたエーデルさんは、棚の中から美しい細工が施された小箱を取り出した。
「貴方々はただ睡眠をとっていた訳ではなく、互いを慣らしていたのですからほぼ時が止まっていた状態です。汚れも臭いもしていませんよ。眠りに落ちる前の状態で保たれていますから。ただ、食事と水分はしっかり取ってくださいね。……さて、これにしましょうか」
その手には、箱から取り出された銀鎖の首飾りがあった。
肩越しに手元をひょいっと覗き込んだシャムスさんが首を傾げる。エーデルさんはにこりと微笑んだ。
「ん? いいのか?」
「ええ」
美しい青色の蝶が揺れるそれを首に掛けようとしていることに気付いて、慌てて首を竦めて頭を下げる。
「貴方々に、最愛なる我らが二帝の加護がありますように」
エーデルさんは、ひょいっと持ち上げたアラインをそれに乗せてしまった。
鎖は軽いのにしっかりしていて、アラインを乗せても切れる心配はなさそうだ。蝶の上に座り、鎖を握るアラインはブランコで遊んでいるように見えて可愛い。これぞ本当にお伽噺の世界だ。
「アライン可愛いったぁ!」
「うるさい」
正直に感想を述べてしまった私の胸を剣の鞘でついたアラインは、器用に鎖を伝って登り、襟元に移動した。小さな身体で器用に首飾りを引き上げて服の間に落としたと思うと、今度は滑り降りていき、再び蝶の上に収まる。
服の中に消えてしまうと、着ている服が大きいこともあって胸の高さに紛れて完全に隠れていた。それを確認して、エーデルさんが頷く。
「いい感じですね。貴女は基本的にアラインの服を着てもらいますが、あれは胸ポケットがありません。ですから、ここにアラインを乗せて中に仕舞っていてください」
「え!? 自分の服着ちゃいけないんですか!?」
予想だにしなかった言葉に仰天する。がりがりだったとはいえ、手足の長さで圧倒的に敗北している相手の服を着て過ごせというのは中々に難問だ。
焦っていると、ちょっと申し訳なさそうに苦笑された。
「出来れば。今はこの状態ですが、絆がもう少し定着すればアラインと貴女の状態が入れ替わることもあるでしょう。貴女がアラインの服を着ている状態と、アラインが貴女の服を着ている状態、どちらが悲しい事態を引き起こすと思います?」
「はい! アラインが大惨事です!」
「いい返事ですね。ある程度定着すれば、二人とも普通の大きさに戻るはずですが、しばらく不安定な状態が続くと思うので気をつけてくださいね」
スカートを穿いてヒールを打ち鳴らすアラインを想像して、元気よく返事を返したら頭を撫でられた。私は十五歳だけど、明らかにそれより下の扱いをされている気がする。三百歳からすれば、十五歳も十歳も変わらないのかもしれない。
褒められているのだから素直に喜んでおこう。にっこにこ喜んでいると、ばたばたと大勢が走る音が聞こえてきた。さっきまで窓の外から聞こえていた音だ。
「さあ、行きましょうか」
先に部屋を出たエーデルさんの後を追う。
寝室から続く部屋は、意外とこじんまりとしていた。偉い人の部屋は異様な広さを要しているような気がしていたけれど偏見だったようだ。家具はしっかり高そうだけど。
続き部屋にはすわり心地の良さそうなソファーもある。最初は応接室かと思った。でもソファーの前にある長机に本が詰まれているし、よく考えたら奥の部屋には私達が寝ていたベッドがあった。ここはシャムスさんかエーデルさんの私室なのかもしれない。
それは考えるとどうにもこうにも申し訳なさで居た堪れなくなる。
「あの……ベッド占領してすみませんでした」
「子どもが何を気にしているのですか。別におねしょしても怒りませんよ」
「それは私が私を許せないので勘弁してください!」
部屋にある家具は、どれも派手ではないものの、ただ地味と呼ぶには上品だった。
香が焚かれていない部屋には私でも嗅ぎ慣れた独特の匂いがしている。紙の匂いだ。本と木、そして少し香ばしい飲み物の香り。お父さんの書斎の香りとよく似ていた。
正確には、お父さんの書斎兼お母さんのお昼寝部屋兼子ども達の遊び場だ。一人また一人と集合して、家はそれなりに部屋があったのに結局一部屋に集まっていたりする。あれだけ騒がしい中で普通に読書したり書類を書いていたお父さんは凄いと思う。ついでにあれだけ騒がしい中で熟睡していたお母さんも凄い。よく長椅子から転がり落ちていたが。
風が平原を駆け抜けていくように美しく揺れるレースカーテンの向こうに空が見える。地面どころか木や建物すら見えないことから、ここは一階や二階の高さではないと分かった。
詰まれた本の表紙をなんとなく眺めて「あれ?」と、首を傾げる。
「西平原の生活と様相……読める? なんで?」
宿屋のメニューは読めなかったのに、なぜこの本の表紙だけ読めるのだろうか。不思議に思いつつ他の本を見てみると全ての題名を理解できた。理解できることが理解できずに混乱していると、エーデルさんは驚きもなく教えてくれた。
「五日で少し馴染んだからでしょう。本来片翼は文字も言葉も通じるはずですよ。繋がった片翼が言葉と文字を扱えないのならともかく、ですが。寧ろ、貴女が文字を扱えなかったことが異常です」
「え!? じゃあ、勉強しなくていいんですか!?」
それは嬉しい! せっかく学校を卒業して定期的な勉強から解放されたというのに、また一から異国語を学びなさいなんて考えただけでも眠くなる。
やったぁと飛び上がってしまい、慌てて服の中を覗き込む。何事もなかったかのように服の間で揺れるアラインと目が合う。無表情だ。なのに、どこか迷惑そうな顔をしている気がする。本当にすみません。
「よし、行くぞ!」
「行ってます、よっ!?」
元気よく掛け声を上げたシャムスさんに背中をばしんと叩かれた。突然だったのもあるけど、例え予告されて備えようとも意味などない力に吹き飛ばされる。前を歩いていたエーデルさんの背中に激突した。咄嗟に胸元を両手で覆ったのでもろに顔面からいってしまった。
転ばなかったし、被害は私の顔面に集中したのでアラインは無事のはずだ。でも怖くて動けない。
顔面をめり込ませた背中が微動だにしない。線が細いようでいて意外にもしっかりした背中だ。しっかり痛い。シャムスさんを投げ飛ばす人なので、意外も何もないけれど。
「…………六花、無事ですか?」
「ひゃい」
「アラインも無事ですか?」
「…………はい」
「それは何より」
鼻を押さえてそろりと背中から離れる。振り向かないエーデルさんの指が歪に曲がり、ごきりと凄い音を奏でた。私はすり足でそぉっと下がる。壁に背中をぺたりとつけて、ごくりとつばを飲み込む。
「シャムス・サン、話があります」
「おう、俺はねぇな!」
ごきり、ごきりと、指が奏でるとは思えない凄まじい音が続くというのに、シャムスさんは輝かんばかりの笑顔だ。緩慢な動作で振り向いたエーデルさんの笑顔は麗しい。逆光でよく見えないけど、それは分かった。そして、たぶん、よく見えなかったのは幸いだったと思う。よく見えないのに、凄い怖い!
「私、子ども達の前ですので、今日は随分と我慢したほうだと思うのですよ」
地を這うような声で振りかぶられた腕に、部屋に飛び込んできた男が取り縋った。短い茶髪の男で、どこかほっとするような顔をしている。私も人のこといえないけど、要はどこにでもいそうな平凡な顔つきの男は、そのどこにでもいそうな顔を必死一色に染めていた。
「エーデル様お待ちを! どうかお待ちください!」
「離しなさい、ザズ。今度という今度は息の根を止めてから突き落とします」
「幾らシャムス様でも死んでから落とされると上がっては来られません! そしてシャムス様! 壁をよじ登ってお戻りになるのはおやめ下さいとあれほど申し上げたではありませんか! 側付は階段しか使用できないのです! 貴方々はこのシャイルンで何より尊い御身であらせられるのですよ! その貴方々が側付の一人も連れず外を御歩きになるなど、我ら側付の首が飛びます!」
側付じゃなくても階段しか使用できないと思う。梯子や縄も移動手段の一つではあるけれど、ただの壁は断じて移動手段ではない、はず。異世界なので断言はできないけど。
ザズと呼ばれた青年の後から、彼と同じ服を着た集団が息も絶え絶えに駆け込んでくる。シャムスさんはその内の一人をとっ捕まえると首に腕を回した。肩で息をして膝をガクガクと震わせていたその人は、振り回されるがまま目を回す。
「六花、こいつらは俺ら付きの側仕えだ。この服着た奴らに言えば俺らに会えるって覚えとけよ!」
「ザズと申します! 御用がございましたらお気軽に何なりとお申し付けを! そしてエーデル様、どうか、どうか命だけは! シャムス様の命だけはお助け下さい! 双龍が欠けるなどということがあってはシャイルンの終わり! 引いては聖人の終わり、そして地上の終わりです! どうか、どうかそれだけは!」
国を支える二本の柱、双龍の側仕え。それはきっと名誉だ。抜擢された時は喜びに溢れたことだろう。
その彼らは現在、一人はエーデルさんの腕に必死に追い縋り、残りの全員はひいはあと今にも途切れそうな呼吸を必死に紡いでいる。ここが何階かは分からないけれど、階段を全力疾走で往復すれば息も切れるだろう。
そして、シャムスさんに抱え込まれている人は締まっている。たぶん、そろそろ落ちるから誰か助けてあげてほしい。
「あ、やべぇ。エーデルがすげぇ怒ってやがる」
ぼりぼりと頭を掻きながら、なぜ今の今まで気付かなかったのかという事実に気が付いたシャムスさんは、「よし!」と力強く頷いた。
「六花! お前はさっさと食堂行ってトロイ回収した後、アラインの部屋で飯食ってこい!」
「トロイは食堂にいるんですか?」
突然出てきた食堂の単語に思わず聞き返す。
こっちを向いたときだけ、エーデルさんの声音もくるりと戻る。
「もう少しで昼休憩ですから。あの子は食事をとらずに貴方々の様子を見に来るので、しっかり食べてこないと入れてあげませんよと言えば、きちんと食べてから来るようになりました」
「……最初に会った時のトロイは、朝がプリンでお弁当がクッキーでした」
「………………師匠は何をしていたのですか」
「アラインはお茶だけでしったぁ!」
今だ! とばかりに告発したら、胸に衝撃が走った。アラインが再び鞘でついてきたのだ。告げ口されたことが嫌だったらしい。口で言ってくれると嬉しかった。その口は何の為についているのか。
「よし、まあ、仲良くやれよ!」
「いったぁ!」
シャムスさんは口も手も出るためについているようだ。大変痛かった。再度くらった張り手に涙目になる。エーデルさんに向けたものより手加減されているようだけど、背中全部がじんじんするくらい痛い。真っ赤になってる気がする。
アラインを落としそうだとはらはらする私にお構いなく、追撃が飛んできた。盛大につんのめってたたらを踏む。息も絶え絶えに頽れる側付の側をけんけんと通り過ぎて部屋を出てしまった。
胸を押さえて慌てて振り返る。
「私、食堂の場所知りません!」
入口から顔だけを覗かせた私の目の前を、重たい音が通過していく。
「聞きゃいいだろって、あぶね! おい、文鎮はやめろ文鎮は! それ俺がお前の誕生日にやったやつだろ! ひどくねぇか!?」
「貴方も応戦すればよいでしょう。私が誕生日にくれてやった辞書で!」
「あれが祝いの品になると思うお前はおかしいぜ!」
「誰が祝ったと言いましたか!」
「せめて祝えよ!」
美しい曲線で構成された壺が飛んでいく。
「ああ! かの名匠カマスの名作が!」
静かな湖畔を緻密に描いた絵画が円盤のように飛んでいく。
「ああ! かの巨匠ニトルージャの数少ない生前から評価されていた作品が!」
躍動感溢れる刺繍が全面を飾るテーブル掛けが狩猟用の投げ縄のように振り回されてシャムスに襲い掛かる。
「ああ! 第九六代皇帝が愛用していたといわれる幻の一品が――!」
この部屋だけで総額幾らになるのだろう。
考えることを放棄した私はそっと扉を閉めた。