13伝 始祖の民
エーデルさんの長い指が開かれて、五つを示す。
「この世界は大きく五つに分かれています。一つはここ、地上の中心である聖人の国シャイルン。次に、地界の中心である闇人の国、月影。三つ目は、地上に溢れすぎて多種多様になってはいますが、人間の国。四つ目は、神が住まう天界。最後は、神に仕える者の総本山である教会。基本的に地上はシャイルンが治めていますが、教会から指示があればそちらに従うこともあります。神はただ一つの絶対神ですから。一応そのどれにも属さない場所があるのですが、これはまた今度でいいですね」
長くなりますからねと気を使ってもらえてありがたい。既に頭はいっぱいいっぱいだ。詰まった分何かが零れ落ちていく気さえする。この寝台ふかふかですねという感想しか出てこない。
元々、そんなに賢くないのだ。『いやぁ、私頭悪くって』という自己紹介は謙遜ではない。ただの事実だ。試験の点数が赤くなかったことなどない。先生は常に青褪めていたので、むしろ青点だったともいえる。
「ここはシャイルンの皇城。城に名前はありません。世界に皇城はここしかありませんからね。王城も同じです。私とシャムスは、国を支える二つの柱という意味で、双龍という役職名みたいなもので呼ばれています。まあ、三百年生きて無駄に知識があるので、地上統治の手伝いをしている隠居希望の爺達です」
「はあ」
そこが分からない。三百年も生きているなんてまるでお伽噺だ。
私はじぃっとエーデルさんとシャムスさんを見上げる。皺ひとつなぴちぴちのお肌だ。どう見ても、お爺ちゃんが化粧で誤魔化してますな雰囲気ではない。そもそも化粧をしている気配は皆無だ。
どう見ても二十代のまま、三百歳ですなんて言われても『はいそうですか』なんて返せない。三百歳生きていると聞いて『はあ、凄いですね』と返せる存在なんて木くらいだろう。
全然分からないまま曖昧に頷いて返した私に、エーデルさんは苦笑した。
「そちらの世界にはいなかったようですが、この世界では、神が世界の運用に必要だと判断した者から寿命が消滅するのです。勿論、そういった者は教会に把握されています。それほど数は多くありませんが、私達だけがこういう状態ではありませんので、そこはあまり気にしないでください」
そちらの世界、という言葉ではっと気づく。
「あ、あの」
「はい?」
そういえばこれも伝えたほうがいいような気がする。眠くて朦朧としてたけど、アラインが何か言っていたような気がするから余計にだ。私はアラインとの会話を頭の中から引っ張り出した。
「私のお母さんも、あ、えっと、母も」
「お母さんで構いませんよ」
くすりと笑われて頬が染まる。
「すみません……。えっと、お母さんも別の世界からお父さんのいる世界に来たんですけど、それは関係ありますか?」
ぎょっとした気配が広がった。
そりゃそうだ。私の世界では最早常識となったことだったので慣れてしまっていたけれど、普通ぎょっとするだろう。
私は、異界人である母と、その母と一緒になった父の子どもだ。だから最初にアラインの上に落ちた時も混乱を極めたりはしなかった。ああ、これがお母さんの言っていた異界に落ちるという経験なのか、この先の人生で絶対に必要ないと思っていたお母さんからの教え『異世界に落ちた時の心得、大体百!』が役に立つとすら考えたほどだ。
ちなみに、『大体百!』の心得第一。
問一:異世界に落ちた時、真っ先に身につくのは順応である。○か×か。
お母さん。それ心得じゃなくて『異世界に落ちた時の心得○×問題大体百選!』だよと過去の私は思った。ついでに今でも思っている。
「お前、始祖の民か!?」
シャムスさんの驚愕に満ちた声音にびくりとなりながらも、拾った言葉を考える。そんな薫り高い赤紫色の葉っぱになった覚えはない。けれど、アラインもそんな事を言っていた。
「アラインもそう言ってましたけど、母はニホンジンです」
「ニホンジン?」
「ニッポンジンともいうそうですが」
土地自体は小さな島国だと聞いた。見たことも行ったこともないけれど、私はオリガミがとても好きだ。四角い紙でいろんな形を作り出すのは面白く楽しい。お母さんが故郷から持ってきたというオリガミの本は、文字は読めなかったけど絵で分かるから色んな形で遊んだものだ。
『いってらっしゃい!』
オリガミと一緒に、朝から元気いっぱいなお母さんの笑顔を思い出し、ぎゅっと胸元を握り締めた。いつでも元気なお母さんの笑顔は、今日も一日いっぱい頑張ろうと思える大好きな笑顔だ。その笑顔でいつものように見送ってもらったのに、私はどうしてこんなところにいるのだろう。
ぎゅっと唇を噛み締めた私の頭上で、疲労ともため息ともつかない吐息が深々と吐き出された。
「……始祖の民というのは、始まりの神が創った世界の子どもという意味です」
「壮大過ぎて分かりません!」
ちょっと泣きそうになった所にこれである。涙は凄まじい勢いで引っ込んだ。泣いている暇がない。
「世界が沢山あるように、その世界を創った神も沢山存在します。しかし、何事にも始まりがある。無を終わらせ、世界を始めた神がいます。それが始祖です。そして、その始祖神が創った世界で生まれた命が、始祖の民です。本来世界を渡るには、双方の神の同意が必要ですが、始まりの子だけがこれに当てはまらない。手段さえ所持していれば、始祖の民はどの世界であろうと自由に訪れる権利と魂を持っています」
「ちょっと待ってください! 話が壮大過ぎてついていけません!」
目上の人でなくても、人が喋っているのに遮るのは行儀悪いと分かっている。分かってるけど、同じ言葉を繰り返すくらいには既にいっぱいいっぱいだった。行儀も礼儀もすっ飛ぶくらい混乱を極めている。お父さん、私の代わりにお話聞いてと頼もうにも父はここにいない。
必死に制止をかけると、エーデルさんとシャムスさんはおやと片眉を上げる。
「その様子だと、始祖の民のこと知らねぇのか。始祖神は?」
「神様は、ほんとにいるんですか?」
「そっからかぁ」
あちゃあと額を叩いたシャムスさんに、自分は何かいけないことをしたのかとそわそわした。難しい顔をして黙ってしまったエーデルさんを見ると余計その心配が募る。
「神がいるか分からねぇってことは……お前の故郷に聖人はいねぇのか? 闇人は?」
「え、それ、いないとまずい感じですか?」
自分がいけないことをした心配どころか、世界の形すらまずいのかとそわそわが止まらない。どきどきも止まらない。ときめきは欠片もないのに、胸の鼓動が走り出す。
私だけの問題じゃなくなってきて、不安になった。もし、もし世界の形がまずいなんてことになったら、私はどうやってお父さん達に伝えればいいんだろう。まさか、今すぐその世界から逃げてなんてことになったらどうすれば。
最悪の状態まで一気に妄想を駆け抜けた私に、エーデルさんは何かを考えながら口を開いた。
「いえ……それらがおらずとも世界が回っているなら、違う形で存在しているのでしょうから大丈夫です、が……これは少しまずいですね。偶発的な不運かと思いきや、始祖の民ともなると、誰かが故意にこの世界へ引きずり込んだ可能性が出てきました」
「それは可能か?」
「貴方はいい加減考えて言葉を発しなさい、シャムス・サン。正しくは、不可能ではない、でしょう……六花、それも誰にも言ってはいけませんよ」
真剣な顔で言われて、私も神妙な顔で頷いた。
うむ、まったく分からない。お父さん、お母さん、助けて! 特にお父さん助けて! 私にも分かるように説明して!
「考えるのはお前の役目だ、エーデル! 俺の仕事は飯食って寝ることだ!」
「永遠に寝ていて結構ですよ。寧ろ起きるな、馬鹿野郎」
ここにはいない両親に助けを求めても、返るのはエーデルさんがシャムスさんを殴り飛ばした音である。人はこれを混沌と呼ぶ。母はカオスと呼んでいた。
「あの……」
ぎゅっと掌を握り締めて、つばを飲み込む。口の中がからからになるほど飲みこんでも、ちっともうまく馴染まない。
「六花?」
優しい声が案じているのが分かる。肩に置かれた温かさもありがたい。けれど、与えてほしいのはもっと別のものだ。
本当は、もっと早くに聞くべきことだった。もっともっと早く、それこそあの森で。でも、怖かったから、ずっと飲みこんでいた。聞かなきゃ駄目だと分かっていたけど、聞いたら分かってしまう。決定的な言葉を聞きたくなくて先延ばしにしてきた言葉を、引き攣りそうな喉から必死に絞り出した。
「帰れ、ますか?」
聞きたいのはそれだけだ。どんな理論も、理屈も、真実もいらない。誰の優しさより、言葉より、私にとって大切なのはその答えだけなのだ。
エーデルさんから穏やかな笑みが消えた。シャムスさんから軽快な笑みが消えた。たぶん、それを見ている私の顔からも消えていた。
そうして消えた二人の顔に現れたのは、憐みだった。
「……己が片翼である守護獣を喚び出すために儀式が必要なのは、神に伺いを立てるためです。世界を渡るは異界への介入を意味します。神の許しがなければ踏み込んではならぬ領域であり、犯せば天の怒りを呼び、裁きを受ける。その為の儀式であり、法であり、理である。世界を成り立たせる約束なのです。……我々には、貴女を帰す術を模索することすら許されない領域となる。よって」
一拍置いた隙間を、シャムスさんの穏やかな声が継いだ。
「帰れない。少なくとも、この世界でそれを許されているお前ができないなら俺達には手が出せない。理が歪めば世界が割れ、神が怒れば世界が堕ちる。世界が堕ちれば命が尽きる。それが世界の約束事なんだ」
がつんと頭を殴られたみたいだった。目の前がちかりと点滅して、手足が冷え切る。同時に、ですよねとすとんと納得したのは、最初からある程度予想がついていたからだ。だってトロイは異界人を見たのは初めてだって言ったのだ。
それでも聞いたのは『大丈夫』の言葉が欲しかったからだ。無理だと分かっていても、欲しかった。大丈夫だって言ってほしかった。帰れるよって、大丈夫だよって、そう言ってほしかった。
「契約を交わした片翼は、既に故郷との別離を済ませたものと判断されます。ですが、貴方々は契約の儀を行ってはいない。その方面から調べてはみますが……前例はないと、知っていてください」
視界が揺れる。鼻の天辺に痛みが集まり、目の奥からじんわりとした熱さが滲みだす。
私は手のひらを握りしめた。短く切った爪は掌を貫いたりしない。指の骨が軋むくらい力を籠めても、胸の痛みを誤魔化すことはできなかった。
俯いて丸めた背中には何も無い。ないはずなのに、何かが圧し掛かっているみたいに重くてしんどい。全身を包む倦怠感、覚束ない足元、抜けていく力、痛む頭、響く耳鳴り、遠くなる物音、現実感を感じられない視界。まるで夢の中にいるみたいだ。
これが夢ならどんなによかっただろう。ただの悪夢で、こんな夢見ちゃってと笑い話にして。おいしいもの食べて忘れようっておやついっぱい食べる言い訳にしちゃったりして。そうできたらどんなによかっただろうか。
じわりと滲む熱さに唇を噛み締める。
駄目だ、泣くな。
『六花!』
お母さんの太陽のような笑顔を思い出し、ぐっと奥歯を噛み締める。
私は大きく息を吸ってがばりと顔を上げると、両手で頬を叩いた。ぱぁんと響き渡った音に、双龍の二人が驚いた顔で私を見ている。視界の端にいるアラインでさえ驚いた様子だった。小さな紅瞳が見開かれている。アラインを驚かせることが出来たので、少しすっとした。でも、その腰にやっている手は放してもらえると嬉しいです。切りかかるのだけはやめてください、ほんとに。
「六花、お前、大丈夫か? 女の子が顔叩くな、顔」
シャムスさんが心配げに手を伸ばす。
私はしっかりと顔をあげてそれを見た。
「分かりました!」
悩むのは苦手だ。不幸にその身を委ねることも、不運を嘆くことも。泣いて救いの手を待つことも、諦めることも、絶望に溶け込むことも。
笑っているほうが好きだ。笑っている人が好きだ。楽しいほうが好きだ。楽しいと笑う人が好きだ。今ある絶望に浸るより、これからあるかもしれない楽しさに気力と体力を使うほうが、私の性に合っている。
お母さんはいつも笑っていた。お父さんはお母さんの笑顔が大好きだった。そして私も、大好きだったのだ。笑った顔が好きだ。自分も人も、楽しいほうがいい。
だから、泣くな。笑え。
お母さんみたいに笑えなくても、せめて泣かないでいよう。全てのことに楽しさを見出す天才だったお母さんのように、笑え。
ぎこちなく口角を上げ、笑顔で踏ん張る。エーデルさんは目を細めて私の頭をぽんぽんと撫でた。自分の頬を張った掌で、ぐっと拳を握って力説する。
「大丈夫です。私、わりと頑丈なんです。アラインに木にぶつけられても平気でしたし、川に落とされても元気です! 岩はちょっと無理でした」
「それは、みな無理ですよ」
エーデルさんが苦笑する。さらりと滑り落ちた青い長髪がとても綺麗で、安堵した。
大丈夫だ。綺麗なものが、美しいものが、楽しいことが、嬉しいことがあれば、どこでだって生きていけるのだと、母は証明してくれたのだから。