11伝 まるで終伽噺
「な、なんでこんなことに……」
おそるおそる両手を上下させる。座っているアラインは体勢を崩したりしなかったけれど、それでも細心の注意を払う。ちょっと力が入りすぎただけじゃなく、腕の反射だけでぽぉんと放り投げてしまいそうなほど軽い。
神妙な顔で両手を上下させ手いる私に、エーデルさんは首を傾げた。
「何をしているのですか?」
不思議そうな顔で覗き込んできたエーデルさんに半べそになる。この軽さ、泣けてくるのだ。どうしてこんな無残なことに。だってこんなの、大きさもさることながら人間の重さじゃない。この重さ、例えるなら。
「人参より軽いですっ」
「ああ、重さを量っていたのですか」
合点がいったと頷かれて、縋るように言い募る。
「ひょろっひょろの、水分飛んで捨てる間際の人参みたいな軽さです!」
「いや、それもう捨てろよ」
痛そうに後頭部を擦りながら復活したシャムスさんの言葉にぎょっとする。慌てて、両手で覆ったアラインを胸元に匿う。確かに、散々人をぼろ雑巾にしてくれた。けれどそんな、ごみ箱に捨てるほど恨んでいない。
力加減が分からない。どの程度の力加減なら苦しくないか、じゃない。それも大事だけど、とにかく折らないよう、されど落とさぬよう。細心の注意を払ってぎゅっと抱え込む。
居心地が悪いのか、掌の中で動いている感触がする。髪の毛が擦れてくすぐったいけれど、投げ出してごみ箱に入れるのはあまりに非情だ。
必死に胸元に抱え込んだ私に、シャムスさんは首を傾げつつも満面の笑顔で親指を立てた。
「おおっ、アラインよかったな! 男の夢だな!」
指に足を掛けたアラインが掌から顔を出す。顔を見合わせて説明を求めるも、無表情で首を振られた。どちらも答えを見つけ出せなかった以上、分かっている人に聞こうと自然と視線が同じ方向を向く。
豪快な笑顔を浮かべたシャムスさんの横を、エーデルさんがすたすたと通り過ぎた。そしてくるりと振り返り、穏やかな笑顔でその顔面に裏拳を叩きこんだ。
「ぐはっ!」
エーデルさんはよろめいた大柄な胸倉を捻りとり、おもむろに窓の外へと放り投げた。
「シャムス様が落ちたぞ――!」
大勢の足音と悲鳴があちこちで上がる。外だけではなく近くの部屋や廊下からも大わらわで走り去る音が響く。同じくらい私の心臓も鳴り響く。手の先まで冷え切っていったのか、手の中にいるアラインが私を見上げる。でも、いつもと変わらぬ無表情だった。
「シャムス様が落ちたぞ!」
「落とされたぞ!」
「またか!」
「ご無事か!?」
「今度こそ駄目か!?」
「あ、無傷だ」
「またか!」
「すげぇ!」
それらの喧騒を、ほとんど音を立てず上品に窓を閉めることで遮り、私を振り向いた笑顔は穏やかで優しいものだった。反射的にへらりと愛想笑いを返しながら、どきどきと高鳴る心臓を持て余す。さあ、ここは何階だ。
「エ、エーデルさん……様?」
「お好きな呼び方で結構ですが、どうしました? ああ、喉が渇きましたね。気が利かなくてすみません。どうぞ、果実水です」
ベッド横の台に置かれていた果物が入った水入れから、澄んだ水色のガラスコップに透明な水が注がれる。
「アラインは……これにしましょうか」
少し考えたエーデルさんは、躊躇いもなく服についた高そうな装飾を引きちぎった。小さなガラス細工をひっくり返し、少し注いだ果実水で濯ぐと裾で拭いて器代わりにする。
柔らかく微笑んで水を差しだすその様は、喉の渇きから救ってくれた心優しき女神様だ。
「……シャムスさんは?」
つい先程、窓から人を放り投げたのでなければの話だが。
おそるおそる問えば、アラインの小さな手にそっと水を持たせて、にこりと麗しい笑顔が返る。
「シャムス? 齢三百年と少し。大往生でしょう。あ、別に冥福は祈らなくてもいいですよ。時間が勿体ないですからね」
「………………ん?」
聞き捨てならない台詞があったような気がする。彼の中でシャムスさんが臨終したことも気にはなる。エーデルさん、シャムスさんは無傷だそうです。
でも一番気になるのはそこじゃない。
いま、目の前のこの人は何と言った?
「あ、あの」
「はい?」
「お幾つって言いましたか?」
「三百年と少しです。悲しいことに私は彼と同期で、とても悲しいことに同い年なのです」
「………………ん?」
さらりと答えられてもうまく理解できない。まるで、常識ですよと言わんばかりのさらっとさだ。
自分の耳がおかしいのかな? それとも年の数え方が違うのだろうか。言葉が通じていないのかもしれない。だって異世界だ。でも何故か会話は出来ている。
ぐるぐると思考が回る。混乱して思考がよそにずれていく。
そもそもどうして言葉が通じるんだろう。服装だけを見れば、文明の在り方にそこまで大きな違いはないように思える。魔法の有無を考えれば大きな違いと分かってる。
それでも、お母さんの故郷の話を伝え聞いた時のように、使い勝手の分からないカデンなるものも、ガスやデンキ、鉄の車や、ヒコウキなどに恐れ戦くこともない。
言葉が通じて、文字が読めないなんておかしい。それなら両方分からないものではないのか。お母さんのように。
頭の中を疑問がぐるぐる回る。混乱が目に見えて分かったのか、エーデルさんは袖で口元を隠してくすくすと上品に笑った。
「私達が少々特殊なのであって、通常は人間と同じく大体寿命百年以内で死にますよ。その辺りの事情や世界の仕組みも、貴女のことも、今から話しましょう」
なんだか学校の先生みたいだ。優しい物言いに、混乱しながらもほっとする。よく考えれば、その優しげな笑顔を浮かべた人は、裏拳を顔面に叩きこんだ相手を窓から放り投げたのだから優しさとは程遠かった。
けれどとにかく話を進めたかった私は、それら全てに気付かない道を選んだ。
「ですが、何よりも先に貴女が知らねばならないのは片翼のことです」
確かに、何よりも先に知りたいのはそれだ。
手乗りになってしまったアラインの説明をどうかお願いしますと背筋を正す。アラインは私の手から飛び降り、太腿の上でワンクッションを得てベッドに飛び降りる。そこで座りなおした様子を見るに、手の中の居心地は悪かったのだろう。掌に誰かを持ち上げる経験も、持ち上げられた経験も皆無のため、何をどうすれば改善できるのかは分からない。いっそ掌の中にクッションを設置するべきだろうか。針山とかどうですか?
ごめんねと視線を向けたけど、視線はちらりとも合わなかった。
「この世界の創世記は簡単に説明したとトロイから聞いていますから、それを前提で進めます。聖人も闇人も、天から羽を捥ぎ取られ堕とされた種族です。昔は欠けた羽の力を補おうと他界から片翼となる存在を喚び出し、誓約を交わしていました。しかし、私達が子どもの頃には既に喚び出す力すら失っていました。最後に片翼を喚び寄せられたのは、先祖返りどころか、歴代一の力を持って生まれた最後の皇と王です」
まるでお伽噺のようなことを、歴史としてさらっと話してくれる。不思議な世界の不思議な歴史。それだけならばわくわくどきどきと続きを促せる。
だが、何故、いま、その話を選んだのだ。
嫌な予感がして、ベッドを僅かにも沈ませられない軽さで座っている人を見下ろす。
「…………アライン、私を呼んだ?」
「必要ない」
「誰が必要不要で返事しろと」
別に、お前が必要なんだと言われたいわけではない。初対面の人からそんなこと言われても、『お父さん助けて、変な人が!』と叫ぶ自信しかない。
それにしたって面と向かって不要宣言されればいらっとする。思春期真っ盛り、十五歳の心はいろいろと複雑なのだ。そして、女とは我儘な生き物なのである。
いらっとしたので、アラインの側に指を突き立ててベッドを揺らしてやった。叩くより埃が少なく、一点集中できる嫌がらせだ。揺れる大地と化したベッドに片膝と片手をついて睨み上げてきたアラインを無視して、しれっと視線を前に戻す。
「呼ばれてないそうです」
「そうでしょうね。喚び出すには決まった場所で決まった手順を踏み、立会人が必要ですから。それでも貴女がここにいるのは、恐らくは歪んだ神脈の所為でしょう。まあ、それは後々考えるにしろ、貴女とアラインは強制的に片翼の契約が成されています。互いの了承無くして繋がった絆ですから、当然無理がある。結果、貴女の存在が非常に危うい状態です。最悪死にます」
「死ぬんですか!?」
聞き慣れない単語を一つ一つ必死に理解しているところにこれである。手足の別離に命の危険。故郷が恋しいのは当たり前だが、それ以外の理由でも凄く帰りたい。今すぐ帰りたい。
「本来片翼は、喚び出した相手の存在によってこの世界に定着します。それなのに、この世界の片翼、つまりはアラインの了承がない。この世界の地で生まれず、血も縁も繋がっていない貴女の存在は、今のアラインの体重よりよほど軽い。ですから、物理的にも繋がったのでしょう。貴女が爆散しないように」
「爆散!」
「アラインから離れたら砕け散りますよ」
「もっと穏やかに死にたい十五の朝!」
「今は昼ですね」
「十五の昼!」
神脈とやらの歪みに落ちたのは事故だとしても、強制的に絆とやらを結ばれて、物理的にも繋がった。その結果、ぼろ雑巾にされた身としては生き残れても素直に喜べない。素直にどころかひねくれたって喜べない。
「今はアラインとの絆で守られて存在し、生き延びている状態です。ですから、色々思う所はあるでしょうが、出会ってからの暴挙は許してあげてください」
ぼろ雑巾にされないと死ぬ状況だとして、生き延びてもぼろ雑巾。人生の試練とは厳しい物であるが、こんなに厳しいだなんて聞いていない。
いろんな感情が私の中で協議している。誰が一番前に出るべきかだ。生き残れた喜び、知らぬ間に死に曝されていた恐怖、人生の試練への遣る瀬無さ、ぼろ雑巾への怒り、生き延びさせてくれたアラインへの感謝。
感謝……感謝かな……。とりあえず生きてることへの感謝は大事だ。
「まあ、昏睡状態に陥ったのはアラインの所為ですけど」
「返品でお願いします」
「受け付けておりません。そもそも、受付先は私ではありません」
前言撤回、感謝は二番手にお下がりください。
なんということでしょう。とんだ押し売り商法。誰が売った訳でも買った訳でもない故に返品先がなく、苦情を言う当てもない。こんな詐欺があったら騎士である父に言いつけてやる。即行で取り締まってもらわないと国が沈む。国の前に私が爆散する。泣きたい。
「不安定な貴女の存在を支える唯一の片翼が、慢性的に満たされていない状態ですからね。アライン、だからきちんと食事と睡眠を取りなさいと言ったでしょう。そのツケを二人で賄った結果が五日間の昏睡ですよ。アラインがこの状態なのも。本来あるべき絆が薄すぎる上に、六花を支えるべき根本が揺らいでいるので、互いの状態が不安定となっているのです。今、この状態で万全の状態のアラインと力を共有すれば、強すぎるアラインの力で六花が死にます。寧ろ、通常の状態でよくここまで生きていましたね。それこそ、片翼でなければ繋がった瞬間爆散か消し炭です」
知らぬ間に命の危機に曝されていたとは。
両手で顔を覆って嘆く。よりにもよってな存在を選択した、わけではない。選択でも何でもなく、気づいたときには決まっていた。あんまりだ。風邪で休んで次の日に学校に行けば、委員長になっていた気分である。もっと他に色々あっただろう、どうしてよりにもよってこれなんだと思うなというほうが無理な話である。
目覚めてからの怒涛の説明だけで一杯一杯なのに、命の危険に曝されすぎた。曝されすぎというか、曝されすぎていたというか。
いろんな感情がぐるりと一周回ってしまうと、脅えも恐怖も鳴りを潜めて、何だかもうどうでもよくなってきた。元来、考えるのは得意じゃないのだ。放り投げていい問題じゃないと分かっていても、そろそろ頭が限界である。
とりあえず、当面しなければならない目の前の目標だけに集中したい。せいぜい、しちゃ駄目なことを把握するくらいで、あっちもこっちも手を出して、すっきりさっぱり解決できる能力は持ち合わせていないのだ。命の危機に曝されていたといっても、アラインが私を殺そうとしてたわけじゃなし。アラインも不可抗力だった事態を責めるつもりは最初からない。お互い災難でしたね、で、次に行きたい。ぼろ雑巾にしてくれたことは許さない。
投げやり二割、純粋な限界八割でそう思った私の願いは叶った。
「聞きたいことは沢山あるでしょう。ですが、まず貴女が知るべきは、貴女がすべきことです」
「すべきこと?」
穏やかな笑顔はそのままに、夜の帳が下りるように声音だけが鎮まっていく。カーテンは既に閉じられているはずなのに、部屋の明暗が一段と落ちた気がした。
何か難しいことをしなければならないのか。私の頬は盛大に引き攣った。どうせなら怪談でも始まってくれた方がまだましだ。怪談も運動も得意じゃないけど、頭を使うより身体を使うほうが百倍ましだ。
自慢ではないが、頭は悪い方なのだ。掛け算は一桁まででお願いします。最悪でも二桁×一桁でお願いします。
ごくりとつばを飲み込み、ぎゅっと両手を握りしめた行動をどうとったのか、エーデルさんはアラインの首根っこをひょいっと掴むと私の手に乗せてしまった。
違う、そうじゃないです。そうは思っても言い出せない。仕方がないのでアラインの裾を掴んでみる。振り払われた。このやろう。
支えにも慰めにもならなかった小人を指先で突っつく。小人はその指を両腕で抱え込み、なんと捻りあげてきた。なんという馬鹿力。
指一本捻られた所でと思うかもしれないけど、人間の指は決まった方向にしか曲がらない。だから指一本であろうと、折れそうな方向に曲げられると腕ごと回すしかないのだ。
護身術としても使えるから、覚えといて損はないと教えてもらったことがある。まあ、覚えていても咄嗟に使えるか否かは、結局経験になってしまうけど。
そして、護身術をかけられた場合の対処は教えてもらわなかったような気がする。まさか私が加害者側になろうとは。指捻りはかなり有効だったよ、お父さん。機会があったら頑張って使います。
「痛い痛い痛い痛い」
水面下というにはあまりに堂々といがみ合っていると、何を勘違いしたのか、エーデルさんは微笑ましそうな目で私達を見ていた。
「もう仲良くなったのですね。素晴らしいことです」
「ぼろ雑巾にされた段階で、若干苦手になりましたが」
正直に白状して、ちらりと見下ろす。アラインは何ら気にせず指を捻り上げている。少しくらいは気にしてほしい。出来れば、更に苦手になるような物理的なことは控えて頂きたかった。