10伝 はじめての小人
たくさんの声が飛び交っている。怒鳴り、悲鳴を上げ、笑いながら泣き叫ぶ。
右を見れば、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた夫婦が涙を滲ませ、子どもが棒きれを振り回し、少年少女が頬を赤くして手を握り、老夫婦が視線を交わしてふわりと微笑む。川のように駆け抜けていく情景を見送る。
左を見れば、小さな芽吹きが大樹となり、大樹に寄り添い緑は咲き枯れた。鳥が羽ばたき、虫が這い、新たな命を運びゆく。
上を見れば、水飛沫を上げて荒れ狂う水面の中心で巨大な月が煌々と輝いている。狼に似た獣が群れで駆け抜けていく。白い滴で周囲が見えぬ滝つぼの中で魚が跳ね、鳥が歌う。星屑なのか雨なのか分からぬ線上の光が滔々と降り注ぎ、また一つ緑が芽吹き、枯れた。
下を見れば、底なしの空が広がっている。星が瞬き、太陽が紫と赤と白を撒き散らせながら幾度も沈んでは昇っていく。雲が濁流のように渦巻き、泣き叫ぶんでいるかのごとく降り注ぐ雨を雷が切り裂いた。
世界の縮図がここにはあった。命の縮図がそこにはあった。
世界の中に私は立っていた。朝焼け色した空からはらはらと涙のように零れ落ちる星を掬い取ろうと両手を揃える。けれど、星は触れるか触れないかの場所でふわりと弾けて消えてしまう。まるで雪のようだ。雪よりも儚く、宝石よりも美しい。これは命そのものだ。
右で左で、上で下で、命が瞬き走り抜けていく。
それらをぼんやりと眺めながら、ゆっくりと緩慢な動作で視線を前に向けた。
そこには美しい女性がいた。星のように輝く長い真珠色の髪を振り乱し、地面にうずくまって泣き叫んでいる。
『生まれてこなければよかったの』
白く細い、骨の浮き出た手は、地面に押し付けた子どもの首を締め上げていた。
幼子は、ガラス玉のような真っ赤な瞳で女を見上げている。
『あなたは、生まれてくるべきじゃなかった』
子どもは涙の一つも流さない。
酷く静かな紅瞳が、緩慢に閉じられていく。
待って、お願い待って。私は叫んだ。呼気としてしか発せられなかったその叫びに、幼子が反応を返す。緩やかに閉じられていた紅瞳が僅かに開き、静かに私を見た。
死んでいく。光が死んでいく。小さな光が、紅瞳の中から掻き消えた。
涙が頬を滑り落ちる。悲しくて悲しくて堪らない。何が悲しいのかは分からない。分からないのに、悲しい。ただただ、悲しい。胸を掻き毟って泣き叫びたいほどに。苦しい、
痛い、悲しい。感情だけが叫びだし、胸の内で暴れ回る。身体を突き破りそうに叫びだす感情が、私から言葉と声を奪う。胸を押さえて身体を折り、泣きながら叫びだした言葉はただの呼吸となって虚しく散った。
呼吸も出来ずよろめいた背に何かが触れた。壁のように不動にせず、岩のように硬質だ。
けれど、温かい。よろめいて凭れた私をわずらわしいと弾くことも振り払うこともせず、温かい人は、静かにそこに立っていた。
これが誰か、振り向かなくても分かる。分からないはずがない。
だってこの人は私の。
周囲を黒白の靄が蠢いている。
二つは決して交わることはないくせに、全く同じ声音で同じ言葉を吐き散らす。既に聞き飽きた言葉達だ。何度も何度も、幾重にも重ねなくとも分かっている。生まれた時から、空気が、視線が、態度が、言葉が、知らしめてきた。だから、そんなに念を押さずとも分かっている。この身は歪みだ。生まれるはずのなかった、生まれてはならなかった命の形なのだ。
黒靄が足元で淀み、深く粘着質な闇を作り出す。闇はどこまでも広がっていき、地面を埋め尽くした。白靄はどろりと空を覆い、ぼたぼたと闇に降り注いでは断末魔の悲鳴を上げて散り、霞のような姿に戻る。そうしてまたどろりと溶け、空に交じっていく。
水の中にいるかのようにくぐもり、湾曲を描く言葉達は、それでもはっきりと耳に届く。誰もが飽きもせずに言い募る言葉は、どれだけ聞き流しても溢れだして世界を満たす。
見飽きた夢だ。聞き飽きた言葉で構成された、何一つ現実と変わらない夢。もう何年も何年も、物心ついた頃から、否、物心つく前から見続けた夢だ。
後は、首を絞められながら悔恨を聞くだけの、いつもと変わらぬ夢のはずだった。
しかし、今日の夢は違った。
『…………ん!』
小さな子どもが泣いている。涙で濡れた頬に黒髪を張り付け、水色の瞳を真っ赤に染め、大声で泣き喚いている。
小さな歯が全て見えそうなほど大きな口を開けて、全身を使って子どもが泣き喚くたびに靄が散っていく。その様が全力で泣き叫ぶ子どもの扱いに困っているかのように見えて、酷く奇妙だった。
『…………ん!』
子どもが泣いている。
アラインの前で、トロイよりも小さな子どもが。
『…………ん!』
口の動きだけで大抵の言葉を読み取れるはずなのに、これだけ大声で叫んでいる子どもの言葉を読み取れない。唯一聞き取れる最後の言葉だけで理解きでるほど、目の前の子どものことを理解しているわけではない。そもそも、子どもと定義される生き物全般に置いて理解していると言い難い。子どもでなくても、他者という存在を理解できるほど、誰とも関わってこなかった。そして、それで何も不都合はなかったのだ。
『…………ん!』
背中に軽い衝撃が触れた。いつもなら振り払う他者の体温が、やけに温かい。払おうとも、離れようとも思えない。
泣き叫ぶ声が響く世界の中で、背中の温度だけが温かい。他者の温度が温かい。そんな当たり前のことをふと思い出した自分が一番奇妙だった。
『…………い!』
ああ、子どもが泣いている。酷く泣いている。
彼女がどうして泣いているのか、アラインには分からない。
分かろうとも、思わない。
恐ろしい睡魔は、しゃぼん玉が弾けるように消えた。
その瞬間、ぱちりと目を開く。何の躊躇いもなく開き切った目に、痛いほど眩しい日差しが突き刺さる。痛いほど、というか、痛い。物凄く痛い。凄まじく痛い。咄嗟に目を押さえて悶える。目が、目がぁ!
両目を覆って転がったふかふかのベッドに再度ぎょっとする。でもそれどころじゃないと叫ぶ目の奥も本音だ。
痛い! 訳が分からない! ここは誰!? 私はどこ!?
ずきんずきんと鈍い痛みが目の奥で続いている。目が焼けた。ぜったい焼けた!
両目を押さえて蹲った私の耳に、じゃっと厚めの布が引かれる音が聞こえた。誰かがカーテンを引いてくれたのだ。
「すみません、眩しかったですね」
知らない声にびくりと震えたけれど、低く柔らかい声にそろりと警戒を解く。まだ鈍く痛む瞳を宥めながら目蓋を開いて、その人を見た。
澄んだ青硝子を思わせるまっすぐな髪で背中を覆った美しい人だ。年の頃は二十代後半だろうか。線が細く、女性と見紛うばかりに美しかったけど、声は低くて手も骨ばっているから、男性と分かるには充分だった。
男の人はにこりと柔らかく微笑みながら、膝を折って視線を合わせてくれた。
「目は大丈夫ですか?」
「あ、えっと、はい」
長い指が目蓋を押さえて眼球を覗き込む。自然な動作に抵抗や警戒といったことが一切頭を過らない。私は、されるがまま長い睫毛を見上げていた。
「大丈夫そうですね。貴方々は五日眠っていましたから、いきなり強い日差しを見ると失明してしまいますから」
さらりと恐ろしい事実を教えられて飛び上がる。
「五日!?」
「気になるのはそこか?」
もう一つ知らない声が増えて、慌てて首を回す。橙色のぴんぴんと跳ねる髪を背中に流した体格の良い男の人が扉に凭れていた。青髪の人と同世代だろうか。
年上の男の人の年齢を今一当てられない。じぃっと見ていると、橙色の人がにかっと笑った。
「おう、起きたか!」
「おはよう、ございます?」
とりあえず、何はともあれ全ての始まりは挨拶からだ。訳が分からないもそう結論付けて、ぺこりと頭を下げた。青髪の人はひょいっと眉を上げる。
「おや、礼儀正しい。そしてシャムス」
「あ?」
こいこいと手招きされ、どかどかと荒い音を立てて近寄ってきたシャムスと呼ばれた青年の身体が、次の瞬間吹っ飛んだ。恵まれた体躯が吹き飛んだ風圧で私の髪が暴れ狂う。
乱れた髪の隙間から青髪の青年が見えた。足元まである長い上着の裾がひらりと舞い、長い足をしまう。ぱしぱしと皺を直して服を整えている様子を見るに、随分慣れている。壁に激突したシャムスさんは、後頭部を押さえて悶えていた。それだけで済んでいる所を見ると、慣れているのか……ただ単に頑丈なのか。その判断をつけられるほど、私は慣れていない。
「いっ、てぇ!」
「カーテンを開けるなと言ったでしょう。子ども達を失明させる気ですか、馬鹿野郎」
青髪の人も決して背が低いわけじゃないし、どちらかというと長身の部類に入る。それでも、一目で鍛えられていると分かり、天性の体格にも恵まれている大柄な男を平然と蹴り飛ばしたのは凄まじい。そのまま何事もなかったかのように私を振り向いて、にこりと微笑んだのだから尚更だ。寸前に人ひとりを蹴り飛ばしたとは思えない、それはそれは穏やかな笑顔だった。
同じ笑顔を返す余裕はない。私の笑顔は、それはそれは引き攣っていただろう。
「エーデル・アルコ・イーリスと申します。あの馬鹿野郎はシャムス・サン。どうぞ宜しくお願いします」
手を差し出されて、慌てて私も手を差し出す。例え顔が引き攣っていようとも、何はともあれ挨拶である。挨拶大事。
でも、大事な挨拶であるその手は、私が出した手を素通りして肩まで上がってきた。異世界の挨拶って手を握るんじゃなくて、肩の位置で何かすることだったのだろうか。だったら、最初の時にアラインが私の手を取ってくれなかったのは仕方がない。知っていた挨拶の形が違うからびっくりして戸惑ってしまったんだろう。そうであれ。
そして、誰かやり方を教えてください。
「あ、私は六花・すあああああ!?」
でも、髪から引きだされた手の上にちょこんと乗った無表情を見つけた驚愕により、私の挨拶は宙に消えた。
「どうぞ、貴女の片翼です」
掌程の大きさの見慣れた……というほど見慣れてはいないけど、見知ったと言えるくらいには知っている人を柔らかい笑顔で突き出される。
私はぶんぶんと激しく首を振って、はっと気づく。まだ他にもいないよなと一通り首回りと髪を確認して、ほっと胸を撫で下ろす。でも、別に何も解決していない。私の目の前には未だ突き出されたままの小さな人がいた。
「カ、カタヨク結構です!」
「そう言わず」
「間に合ってます!」
「間に合ってたら片翼なんざで現れねぇぞ」
柔らかい笑顔でごり押しされ、意味が分からないまま泣く泣く受け取る。
両手でそっと持ち上がるその軽さに自然と掌が震えた。少し力加減を間違えれば折ってしまいそうで、怖い。そうでなくとも、掌を斜めにするだけ落としてしまう。怪我をさせてしまったらどうしよう。
弱い者にとって強い者は怖かったりするけれど、弱いのも怖い。だって、自分が意図しない行動で怪我をさせてしまうかもしれないのだ。しかも、この体格差だと怪我だけじゃすまない可能性もある。
小さな足の感触がくすぐったくも恐ろしい。落としてしまわないよう、そぉっとそぉっと見つめる。基本的に小さいものは可愛いと思っている私でも、手放しで可愛いと愛でられる状況じゃない。可愛くなくていいから大きくなってくださいお願いします。
そう願いながらも、現実逃避を図る。認めない、認めてなるものか。
「こ、この世界の人形作成技術って凄いんですね!」
必死に現実逃避を図ったのに、私の掌から無情な現実が飛んできた。
「…………うるさい」
「いやぁあああああ! 喋ったぁああああ!」
しかも動いた。絶望だ。
私の掌がぶるぶる震えるからだろう。人形は剣を鞘のまま立てると胡坐をかいて座った。もう駄目だ。私はがくりと首を落として観念した。
私を散々振り回し、ぶつけ回し、傷だらけにした人は。
私の掌の上で、こんな事態になっても無表情のままだった。