9伝 終わりの夢
二色の世界がどこまでも広がっている。
それは、四角だったり、捻じれていたり、波打っていたりと様々だったけど、どれも黒白がはっきりと分かれていた。これだけ隣り合って子狸のように絡み合っているのに、色は一向に混ざり合おうとしない。
目に優しくない。ちかちかする目を何度も瞬かせる。再度開いた先では、黒白をはっきりと分けたまま捻じれが丸を作りだし、四角が渦を巻く。これ以上見ていると目が回る。
私は視線を手元に落とした。
黒いコップの中でたぷんと揺れるのは真白く温かな牛乳だ。両手で持ったコップを啜る。牛乳にほたりと垂らされた蜂蜜がふわりと香った。甘くておいしい。
「何か食べたいな」
縦線の黒白が交互に組み合った机を挟んだ向かいにも、黒白がいた。
真珠色の髪に緑色の瞳をした少女、晃嘉がぽつりと呟いた。声が少し低いのが特徴的だ。私にも親しみのある服を着ている。騎士のようでありつつ、刺繍と装飾の多さは貴族や王族のものといったほうが違和感がない。
「そうね」
黒髪に紫色の瞳をした少女、桜良が、あでやかな雰囲気でふわりと微笑む。
こっちの意匠は少し変わっていた。下まで前開きの布に、これも下まで直線の襟が続いている。それらを幾重にも重ね、腰の辺りで大きな帯で止めている。袖も長く大きく、目を奪う鮮やかな刺繍が凝らされていた。
いつかお母さんに教えてもらった「きもの」という服に似ている。
桜良が宙を指で弾く。顔の高さに何かが現れて、思わずびくりとする。椅子の背凭れいっぱいまで逃げた私の前に、器とそれが落ちてきた。外が白で内部が黒い器の中に、ぼんやりとした色の白の塊が山となっている。
「……これは何だ?」
「…………さあ。六花、これは何?」
「………………ダイフク、かな」
徐々に長くなった沈黙の果てに辿りついた答えはダイフクだった。白のベールの奥に赤い宝石が見えるから、きっとイチゴダイフクだ。お母さんの故郷のお菓子である。
再現できるように皆が試行錯誤してくれたので、苺が収穫できる季節になったらお母さんもお店の皆と一緒に作って、お店でも売り始める。日持ちがしないから地方の店舗にはなかなか広められないけど、大人気商品だ。
私も、小さい頃からよく作るのを手伝った。最初は邪魔しているとしか思えない出来栄えだったけど、何年もやってたらどんな不器用でも少しずつは上達する。お父さんの仕事仲間のおじさんも『これだけ作れりゃどこにだって嫁にいけるな!』と言ってくれたものだ。でも、後ろからぬぅっと現れたお父さんの手によっておじさんの頭は私が最初に作ったイチゴダイフクみたいにべっこべこになった。お父さんのあいあんくろーは大陸一なのだ。
お母さんは『私も! 私もいける!?』とうきうきしていて、お父さんがどこかに連れていってしまった。イチゴダイフクはとってもおいしかった。
それにしても、イチゴダイフクに脅えたのは生まれて初めてである。
爪先まで人間離れしたように美しい指が、白い粉がつくのも構わず一つ摘まみ上げる。興味深そうにまじまじと見つめていた緑柱石が、不意にぎろりと私を睨んだ。待って、晃嘉さん。イチゴダイフク出したの私じゃありません!
晃嘉は、何か重大な議題を発表するかのような顔で私を睨む。
「言わなくても分かると思うが、偶に! 偶に間違われるから言っておく。俺は男だからな」
「間違われないほうが偶なのに、晃嘉ったら認めないの」
桜良は麗しい声で、芸術のような肩を竦めた。切れ長の瞳に小さな鼻、薄くも厚くもない唇。小顔。綺麗。可愛い。華奢。細身。上から下までざっと見下ろす。隣と見比べてみた。胸の大きさが違うところしか男女の差を見つけ出すことはできない。
私はへらりと笑った。
言われても、分からなかったよ、晃嘉さん。
字余り。
困った時は笑って誤魔化せ。ああ、お母さんの言葉は真理だ。
まるで私の頭の中を読んだみたいなタイミングで、晃嘉が半眼で睨んできた。美人に本気で怒られると、とっても怖い。美人じゃなくても普通に怖い。
真理はあんまり効果がなかったけれど、私はもう一度へらりと笑って誤魔化した。
もちーんとイチゴダイフクを食べながら、もちもちと前の二人を窺い見る。
二人の髪は長髪という言葉だけではおっつかないほど長い。その先が見えないくらいだ。長い黒と白がはるか遠くまで連なっていた。艶めいて色を放つ二色の美しい髪は、まるで光を受けた川の水面のようだ。でも、全然変じゃない。なぜか、変には思えなかった。
晃嘉の頬についた白い粉を指で拭った桜良がくすくすと笑う。仲良しだ。晃嘉は右に、桜良は左に同じ耳飾りが揺れている。仲良しだ。
晃嘉の瞳によく似た緑と、桜良の瞳によく似た紫色の石が揺れるとても可愛らしい耳飾りを揺らしながら、二人はもちりとダイフクに齧り付く。
「これ美味しいわね」
「そうだな、甘い」
こくりと頷いた晃嘉に、私は挙手した。
「甘いとおいしいは同義語ですか」
「晃嘉は甘党だから」
「………………え!?」
説明終わり!? むしろそれは説明ですか?
異議申し立てるよりも衝撃が走った。私にだけ。
「え?」
「ん?」
何かおかしいのかと、心底不思議そうに顔を見合わせた美人二人。
まあ、よく考えたら、別に晃嘉の好みを知りたかったわけじゃない上に、そこまで突っ込んで知りたいことでもなかった。むしろアラインの好みを知りたい。あの人は好きな物あるんだろうか。まずその有無から聞きたい。
出会ってから一度も笑わないアライン。笑うどころか感情の動きがほとんど見えなかった。どうしたら笑うんだろう。笑ってくれるんだろう。
なんとなく横を見る。椅子が一つ余っていた。私の横には誰も座っていない。
前を見れば二つの椅子は満席だった。
「……あれ?」
きょろきょろと周りを見回していると、目が合った晃嘉と桜良がにこりと笑った。
とても綺麗な二人。腕のいい職人さんが精魂込めて作り上げた人形だってこんなに美しくは作れないだろう。アラインだって、綺麗だった。きらきらとした銀真珠色の髪が、命みたいな瞳が、とても綺麗だったのに。
目の前の二人がふわりと笑う。目が合った私まで楽しくなってしまうような笑顔だ。アラインも、こんなに綺麗に笑うのかな。その姿を想像してみる。でも、どんなに考えても、流れていく水のような表情しか思い浮かべることはできなかった。
イチゴダイフクをえらくお気に召したらしい晃嘉が、次から次へとたいらげていく。それを眺めながら、桜良と牛乳に入れるなら何がいいかと盛り上がる。蜂蜜と砂糖は鉄板だ。他にもジャムやシロップも素敵だ。寝る前でなければチョコレートを溶かすのもいい。
飲んでも飲んでも一向に嵩を減らさないコップの中で、未だたっぷりと入った牛乳を器用に揺らしながら、桜良は蜂蜜の香りと同じくらいふわりと笑った。
「私はアマルの蜜を入れるのも好き」
「アマルの蜜?」
聞き慣れない名前に首を傾げる。
ぐにゃりと形を変える景色は何故か気にならない。不思議なことに、どれだけ形が変わろうが色は一切変わらず二色のままだ。形が変わり、景色が回ろうが、二色が交わることは決してないから色も変わらない。新しい色が追加されることも、どちらかの色が消えることもなく、世界は延々と黒白で成り立っていた。
「最東の森で咲く、星色の美しい花のことよ。とろりと甘いのに癖がなくて、寝る前に飲むと最高なの。アマルの蜜で焼いたケーキもおすすめ。アマルの蜜と果実酒を混ぜた液に干した果実を漬け込むの。それをたっぷりと混ぜ込んだケーキを焼くとね、森一杯に香りが広がって森中の動物が誘われるっていう歌まであるのよ」
「砂糖とも蜂蜜とも違う甘さで、初めて食べたときは衝撃だった。一生これだけを食べて生きていこうと誓った」
「それは駄目な誓いじゃないかな!」
食べたことのない素敵な甘味をうっとりと思い浮かべていたら、最後に衝撃がきた。イチゴダイフク七個を綺麗に食べ終えた晃嘉の言葉に『あ、駄目だこれ、冗談じゃない。彼奴は本気だ!』と悟る。
私の心を代弁するかのように、彼らの背後で黒白がぐるぐると回り出す。空も地もいっしょくたになって世界が混ざり合う。なのに、違う物質で出来ているかのように黒白ははっきりと分かれたままだ。
「大丈夫大丈夫。その宣言を聞いて、次の食事から青野菜一色になったから」
「あれほど惨い食事を、俺は知らない……」
「是非とも赤野菜も混ぜてあげてください!」
後、白と黄色も!
あははと軽やかな笑い声を上げた桜良の後ろで世界が割れる。
天が割れた瞬間、黒白が真っ二つに分かれた。右に黒が、左に白が集まり、一点の混じりもない。二つを割った空間に、色はなかった。黒でもなければ白でもない。赤でもなければ青でもない。無色ではないはずなのに、私はそれに色を見出せなかった。
急速に色を失っていく世界を見上げながら、そういえばとコップを置く。
「貴方達、誰?」
何故だか今の今まで全く疑問に持たなかった、見も知らない二人。なのに名前は知っていた。だって私は二人のことを自然と呼んでいたから。
ここはどこだろう、何故世界が割れたのだろう。そっちを気にしなければならなかったのに、私が不思議だったのはその一点だけだった。
「桜良よ。桜良・ケラソス」
「晃嘉だ。晃嘉・ケラソス」
二人は静かに微笑んだ。
その名は、何よりも二人に合っているように思えたのに、何よりも違和感を伴った。
とてもよく似た雰囲気を持った二人は、けれど全く違う存在にも見える。
二人は私にとって、何より親しい兄姉のように見えた。弟妹のようにも、父母のようにも、友のようにも見え、何よりも遠い通りすがりにも見えた。
世界が解けていく。糸が解かれるように、氷が溶けるように、砂糖菓子が崩れるように。ほろほろと解けていく世界は全く揺れずただ消えていく。
この時間が終わる。背筋が凍るような絶望感でそれを悟り、椅子を蹴倒して立ち上がる。蹴倒したはずの椅子は、床に触れる前に黒白へと散った。
「また会える!?」
机もイチゴダイフクが乗っていた器も全てが解けていく。何もなくなった空間に立ち、二人は変わらぬ微笑みを浮かべている。地面に伸びる黒と真珠の川は混ざり合って尚、溶け合わない。
「必ず」
「会いましょう」
二人で一つの返答に、私は酷く安堵した。
六花の存在がかき消えた後、桜良と晃嘉は静かに寄り添い、額を合わせて瞳を閉じた。
「行ったな」
「……六花達は選んでいけるのかな」
選び、支えてくれるのか。
溶け始めた指先に気づいている桜良は、そんなこと気にも留めず思いを馳せた。
「無理なら世界はまた混迷する。それだけだ」
「されると困るわよ。私達じゃもう、支えられない」
「だから俺が始めた」
「……だから私が、終わらせた」
二つの白と黒は寄り添って、誰にも届かない願いを馳せた。これから始まる物語を想って、これで終わった物語を想って。
黒白の世界が崩れ落ちる。その世界の中心で、二人は静かに抱き合い、互いの温もりを確かめた。けれど、どれだけ触れ合おうと、体温を交し合うことは叶わない。声はもう互いの中でしか聞こえなくなっていた。それは二人の立つ空間が本当は交わらないものだったからだ。二人がここにいることは、本来ならば許されなかった。
桜良は、久方ぶりに会った少年の翡翠を見つめ、その白い頬に手を伸ばした。その手を柔らかく取り、晃嘉は少女の白い頬に口づけを落とす。
『……久しぶり、晃嘉…………会いたかった』
『ああ……俺も、俺も会いたかった。お前に会いたかったよ、桜良』
既に別たれた声に二人は気づいていた。けれど何の反応も示さない。世界を別たれたことなど、今更何だというのだろう。いま目の前にいる互い以外の何がこの場に必要だというのだ。
囁くような晃嘉の言葉に、桜良はそっと瞳を閉じた。枯れたと思っていた涙が頬を滑り落ちる。幾ら涙を流しても、声の枯れる限り叫んでも、何にもならないと知っているのに。
『愛してる、桜良。ずっとお前を想ってる。仮令それが赦されなくとも』
『私もよ、晃嘉。ずっと貴方を愛してる。仮令私達が壊れていても』
二人を取り囲む崩壊はどんどん進み、やがて二人に届くまでになった。
長い鎖が手足に絡みつく。身体を這いあがり、首にまで巻きつく鎖を二人は静かに受け入れる。振り払おうとはしない。振り払えるものではないと知っていた。最早身体に馴染んでしまい、鎖の痣が身体中を這い尽くしても痛みすら感じないほどの長い時が経っているのだ。
顔を上げると、そこには懐かしい笑顔があった。ずっとずっと会いたかった大好きな、けれど、許されないと分かっていた愛しいもの。
手は互いの心の臓の上にある。触れ合うそこから鼓動は伝わってこない。温もりも感触も、何一つとして感じ取る事はできない。二人の鼓動は既にその動きを止めている。それが動いていたのは、最早遠い過去の事だ。
二人の空間は、抗えない力の侵略によって急速に失われていく。まるで、無駄なことだと彼らの想いを嘲るように。この侵略者の正体を二人は知っていた。それでも、敵わないと知っていても、二人は路を作った。
これから紡がれる物語のために。叶わなかった夢のために。
『会えてよかった。…………また、な?』
『ええ……また、ね?』
触れ合うだけの口づけを最後に、二人の背に刃が生える。
寸分違えることなく心の臓があった場所を貫いた凶器の衝撃で弾き飛ばされ、繋いでいた手すら離される。未練がましく最後の最後まで絡め合っていた指が離された二人は、それでも互いだけを見つめて微笑んでいた。
既に鼓動は失われて久しいはずのそこから噴き出した赤で世界を染め上げる。赤の雫は宙に留まり、まるで背から生える羽のように二人を彩った。
そうして崩れ去った世界は、ただ深遠なる黒白へと堕ちていく。
また。
それが叶うことなど、もうないかもしれないことくらい、二人が一番知っていた。
白い光の中に落ちていく。なのに、それはあまりに白すぎて、何も見えない白さはまるで闇の中のようで。何もない白は、闇と何も変わらない。
ただ、深く深く何処までも。
何が終わって、始まるのか。それは、二人にしか分からない。
二つにしか、分からない。
とろとろとぬるま湯の中で煮られるような睡魔が途切れない。ことことと煮込まれて、いずれは溶けてなくなってしまうのではないかとさえ思う。
蕩けて愚図る目蓋を宥めすかしつつ、なんとか開いた先は薄紺色の世界だった。深夜なのか夜明け前なのかは分からないが、世界中が寝静まっている時間だということはぼんやりした頭でも分かる。
空気に色なんてついていないはずなのに、薄紺の真夜中色した部屋をぼんやりと見回す。少し身動ぎすればふかりと埋まるベッドの柄に見覚えがない。
自分の部屋じゃない。柄と、景色と、匂いでそう判断して、眠る前の記憶を緩慢な思考で探す。でも、真冬の朝に似たあたたかな睡魔が思考の邪魔をする。掛布から顔を出してもつんと鼻が痛くなるような寒さはないというのに、掛布の中のとろとろとした温度に煮込まれていく。
確か、宿屋で、眠ったはず。
なんとかそこまでは思い出した。でも、宿屋のベッドはシーツも掛布も真っ白だったはずだ。それなのに、この掛布にもシーツにも刺繍が施されている。よくは見えずとも指先でなぞれば幾重にも連なった糸の凹凸に触れた。肌触りも綿の詰具合もこちらのほうが断然いい。
宿屋で、どうして宿屋で……。
必死というにはあまりに鈍い思考で辿りついた答えに、ああ、そうかとふかりとしたベッドに顔面を埋める。
ここは誰もいない世界だ。お母さんもお父さんも、兄も弟妹も、おじいちゃんもおばあちゃんも、友達も、知り合いのおじさんもおばさんも、誰もいない。知っている場所が一つもない場所。知ってる人が誰もいない世界。行ったことがある場所も、聞いたことがある場所もない。
私を知る人がいない、私が生まれなかった世界だ。
ぐっと込み上げてきた塊があったのに睡魔に霧散していく。涙さえ洗い流す睡魔が、少し、恐ろしい。本当はとても恐ろしいはずなのに、恐怖さえも睡魔が霧散させてしまう。
背後で何かが身動ぎをした。普段ならびくりと跳ねあがるはずの鼓動は、ことんことんと眠たげにしか動かない。背後を確認することすら億劫な眠気の中、掛布から出ないよう寝返りを打つ。この温もりが心地よすぎて出たくない。
ようやく打てた寝返りの向こう側には、薄紺色の世界の中に生命の色があった。
息が溶け合いそうな場所で、ぬるま湯に溶けた紅瞳が私を見ている。温かかったのは睡魔だけじゃなくて、自分以外の体温も溶けていたからだとようやく気付いた。
私の水色が紅瞳の中に映ってる。
睫毛が触れ合うほどの距離で向き合っているから、薄紺色の世界でも瞳の奥が見えた。私の水色には紅瞳が映っているのかなと思うとなんだか楽しくなる。気持ちが瞳に現れたのか、紅瞳の中の水色がくるりと揺れた。
アラインがゆっくりと瞬きをする。長い睫毛が触れたような気がした。呼吸すら溶け合うほど傍にいるのに、心の臓は何の反応も見せない。まだ眠り足りないと、ことんことんとゆっくりと動いているだけだ。こんな距離で向き合っているのに、ときめきも、羞恥も、恐怖も感じない。
だからだろうか。ずっと見つめていられる。アラインも目を逸らさない。お互い近すぎる距離でじぃっと見つめ合う。やっぱり綺麗な人だ。色も、姿も、瞳も、全てが綺麗だった。でも、どうしてだろう。寂しい。
綺麗な人がいたんだよ。綺麗な人達が、綺麗に、楽しそうに笑ってたんだよ。
なのにどうしてアラインは笑わないのだろう。どうして楽しそうにしていないんだろう。
それが、寂しい。
無言で見つめ合っていたけれど、とろりと蕩けたのは紅瞳が先だった。ゆっくりと降りていく目蓋に、なんだか気を許されているような気分になる。気を許すも何も眠くて他のことに気を回すのが億劫なだけだと分かっていた。分かっていても、ちょっと嬉しかったのだ。
「おやすみ、アライン」
思っていたより何倍も溶けた自分の声でそう言うと、アラインは目を閉じたまま寝返りを打った。その薄い背中を見つめて、私はふわりと微笑んだ。
眠いのに声をかけて本当に申し訳ありませんでしたこのやろう。
『闇人を殺せぇ!』
『聖人を殺せぇ!』
飛び交う真っ赤な悪意。剣を掲げ、その先にいる敵を示す。人々は怒鳴り、泣き叫び、悲鳴を上げた。大人も子どもも、真っ赤な世界に沈んでいく。
『王が帰還なされた! これで奴らを滅ぼせる! 我らの勝利だ!』
『皇のご帰還だ! これで我らの勝利は決まったぞ! 奴らを滅せ!』
叫び、狂い、狂気が満ちる。
混沌の中に掲げられた、子どもの心を置き去りに。
伸ばされた子どもの手は、決して届くことは無く。
『『今こそ、我らが悲願を果たされよ!』』
空は歪み、地は裂けて。
世界は狂気に飲み込まれ。
一体どこまで堕ちればいい?