739食目 箱
「おっす、俺、エルティナ」
初対面の神に対し、まさかの軽口。今更ながら自分たちの代表の度胸に呆れ返る戦士たち。
「ふふ、良い面構えよの、全てを喰らう者よ。私が天空神ゼウス、全ての王なる者なり」
ゼウスの傲慢は正しく王の証であった。自身が、かつてを上回る力を得るに至り、もう遜る必要が無くなったため、天空神本来の姿を演じ始めていた。
「神様、お願いを聞いちくり」
「願いとな? まずは言ってみよ」
「兵の半分を寄越せ、じゃないとぶっ潰す」
それは、お願いではなかった。明らかな脅迫である。その言葉と同時に、にこやかだったエルティナの表情も一変する。鬼すら恐怖する捕食者としての顔へと変化していたのだ。対する天空神は動じもせず彼女に告げる。
「ほう、大きく出たものだ。それは私と敵対する、ということで構わぬのだな」
「おう、そっちがその気ならな」
「……」
天空神はニヤリとほくそ笑む。エルティナの性格を理解している彼は、彼女の言葉が決してただの脅しではないと読んだ。それは正しく、現在のエルティナは【全てを喰らう者】として彼と対峙しているのだ。
神々ですら食らい尽くす絶対なる捕食者の願いに、天空神は見返りを要求した。この度胸に驚嘆したのは日本神話の神々である。
「(なんという胆力よ。天空神の力を見誤ったか)」
天空神ゼウスの一切動じぬ姿に、神本来の姿を見た日本神話の神々は、今の己の姿勢を恥じた。
「ふきゅん、見返りか……じゃあ、肩をトントンしてあげよう」
「来たこれ! これで勝つる!」
天空神ゼウスの威厳が消えた瞬間であった。
「というわけで、二十億の兵力、ゲットだぜ」
「いいのかなぁ……よくないような」
酷いやり取りを見た戦士たちは精神的に疲労していた。史上稀に見る酷い交渉だったからだ。
「んじゃ、ゼウス様の肩をトントンしに行ってくる」
「え?」
そして、間髪入れずエルティナは行動に移った。闇の枝に空間を喰らわせてヴァルハラの中枢に一人で跳躍してしまったのである。その突然の行動に絶句する一同。
「あ、いってらっしゃい、って言えなかった」
そんな中、エドワードのみが、通常運転であった。
「やふ~い」
「やふ~い」
このゆるい挨拶から始まる、ゆるいやり取りが開始した。珍獣と偉いお爺ちゃんの珍問答の始まり始まり。
まずは幼女形体へと移行する珍獣。この時点で天空神のテンションはクライマックスだ。
「きたっ! 幼女きたっ! 超エキサイティングっ!」
「ふっきゅんきゅんきゅん……待たせたなぁ」
珍獣は、がたがたと椅子を天空神に寄せて台を作ると、もたもたと椅子をよじ登り天空神の肩をトントンと叩き始めた。幼女の肩叩きの心地良さに思わず目を細めるお爺ちゃん。
ダメだこいつら、早くなんとかしてくれ、シリアスさん。
「うおぉ……気が狂いそうになるほど気持ちえぇんじゃあ」
「ここか、ここがええのんか?」
なんとなく汚い会話に聞こえるが気のせいである。暫く幼女の老人を虐待する音が個室に響く。時折、忍者のようにきたない会話が挟まれるが、どうでもいいような内容なので省略させていただく。
いや、ほんと、物語も終盤なのにブレねぇなこいつら。
「疲れたろう、もういいぞい」
「ふきゅん、俺はまだまだ、いけるぞぉ」
珍獣は、強気の割には肩で息をしている。ペース配分を間違えて前半に体力を使い過ぎた結果であった。
その後、エルティナはティーセットを取り出し、オリジナルブレンド茶を天空神と言う名のお爺ちゃんに振る舞う。合わせて出すのはお手製のモンブランだ。
「おぉ、これはいい。身体がポカポカしてきたわい」
「宇宙は温度差が極端だからなぁ。温度管理が大変なんだぜ」
その後も、やはり他愛のない会話が続く。今流行りの玩具やファッション、食べ物など、俗な会話が人を超越した存在の口から放たれるのはいかがなものか。
しかし、話題が女神マイアスに移ると、ようやく珍問答は鳴りを潜める事となる。ありがとう、シリアスさん。
「女神マイアス……始まりにして終わりを告げる者か」
「その認識は違うんだぜ、女神マイアスは【囚われし者】なんだ」
「なに、囚われし者じゃと?」
エルティナは天空神に、女神マイアス誕生の経緯を語り聞かせた。天空神もある程度女神マイアスに付いて知っているつもりであった。しかし、エルティナから詳しく情報を得ると、今まで自分が思い違いをしていたことに気が付いた。
「すると……なんじゃ、マイアスは【箱】と融合していないことに? ならば、【箱】はどうなったというのじゃ?」
あからさまに狼狽え始める天空神。そんな彼にエルティナは首を傾げ「ふきゅん?」と鳴いた。そんな彼女の瞳を天空神は見詰め「あっ」と声を漏らす。そして、同時に納得した。
「そうか、そうか、そうか!」
天空神は椅子を立ち、つかつかとエルティナに近寄り彼女を抱き上げる。
「ようやく、合点がいったわい。同時に見失っていた箱ものう」
「ふきゅん、なんのことなんだぜ」
諸君らは【パンドラの箱】という話を知っているであろうか。この物語は人間に味方した神に対する嫌がらせとして、天空神が災厄が詰まった箱を人間の少女に持たせて地上に送り出し、少女は空けてはならないという箱を興味心から開けてしまい、地上に様々な厄災が蔓延るようになる、という話だ。
しかし、実際は違う。天空神ゼウスは人間たちが引き起こす地上の厄災を、自分の力の半分を割いて作り出した【箱】に封じ込め、少しずつ浄化していたのだ。箱の名は【希望】といい、その力によって災厄を無限に溜め込め浄化する力があった。
したがって、プロメテウスが罰せられたのは、勝手に人間に火を与えて厄災を沢山作り出す切っ掛けを与えてしまったからだ。相談してからおこなっていれば、結果は違ったであろう。
天空神ゼウスは何度かの滅びの日を体験したことにより、厄災を浄化することにより終末を回避できるのではないか、と睨んだのである。
実はこの考えは当たっており、災厄を封じ込めれば滅びの日は何億年も先に延び、女神マイアスの悲劇は起こる事はなかった。
しかし、事件が起こる。希望の箱を狙う者の出現だ。その者の名はアレス、戦の神である。
彼は戦の神であり、戦は災厄でもあった。その力の源である戦がおこなわれず、彼は存在意義を無くし、弱体化する一方。業を煮やした彼は世界中に災厄を放てば、再び戦が起るであろう、という短絡的な思考の下、行動を開始した。
天空神ゼウスはこの時、手の離せぬ仕事に従事していた。北欧神話の主神との停戦協定だ。
三千年にも渡って交渉し続け、ようやく漕ぎ着けた調停の場に争い事を持ち込むなどあってはならない、とゼウスは人間の少女に希望の箱を託し地上へと逃した。この少女がパンドラである。
ゼウスに創造されたパンドラは、人間を遥かに超える力を持たされている。そして、人間には持ち得ない清らかな心を持っていた。ゼウスが望む【人間】が彼女だ。
彼女は訪れる町や村で奇跡を起こしながら放浪の旅を送っていた。全ては希望の箱を護らんがため。そして、彼女は出会ってしまった。小さな白銀の子竜に。
カーンテヒルと名付けられた子竜は、パンドラによって養われ、健やかに成長していった。やがて、パンドラは【竜使い】として名を馳せることになる。
カーンテヒルと共に事件を解決しつつ箱を護り続けていたパンドラに、遂にアレスの刺客が追いついた。戦いは苛烈を極め不幸にも希望の箱の蓋が開かれてしまう。
箱から次々に放たれる厄災、世界は未曽有の大混乱に陥った。これに戦の神アレスは流石に罪の意識を感じ取り、慌てて天空神ゼウスに許しを請う。
しかし、既に時は遅く、天空神ゼウスの力をもってしても事態の収拾は困難であった。
このままでは、全てを喰らう者カオスが目を覚まし、全てが再び無に帰してしまう。それを恐れた天空神は地上に残るパンドラと協力して厄災の回収に奮闘した。無論、アレスにも手伝わせている。
しかし、彼らの奮闘も虚しく人々の心は荒み、人同士でいがみ争う世界へと変貌。戦争によって加速度的に発達してゆく兵器は星を穢し、人の心をも穢した。
ここに穢れは極地へと至りて、終焉を呼ぶ赤黒い竜が目を覚ました。天空神ゼウスは動き出した終わりに対し、自分らがなんとかするから眠りに就いてくれ、と懇願した。だが、それは聞き入れられることはなかった。終わりをもたらす竜は絶対なる存在なのだ。
しかし、天空神ゼウスは諦める事ができない。ようやく北欧神話の神々との争いを終わらせ、新しい世界への一歩を踏み出せたのだ。ここで諦めることはできない。
理想とする平穏なる世界への欲望が、彼を踏み出してはいけない一歩を踏ませた。ここから、彼と全てを喰らう者との戦いが始まったのだ。
それは、彼が優し過ぎたがため。人間に人間らしく生きる事ができる世界を作り出すために、心を鬼にしていたがため。
全てを喰らう者と神との戦いは熾烈を極めた。地上の人間は既に死に絶え、時代を繋ぐために数人の少年少女が残るのみ。星は燃え盛り、水は蒸発し、風は流れることを忘れ、大地は砕け、全ては無に帰ってゆく。
宇宙は飲み込まれ、光は輝きを失い、闇は色を失った。命はその存在を諦め虚無へと還ってゆく。
希望は果たしてどこにあるというのか。神々は奮戦虚しく次々に全てを喰らう者に喰われ、その存在を消滅させてゆく。
『天空神よ、どうやらここまでのようです』
最後まで、天空神ゼウスと共に戦っていた最後の太陽神アマテラスが喰われた。瞬間、最後の太陽はこの世から消え失せる。しかし、闇はもっと先に消えており、闇の黒の代わりに全てが白で染まった。
『諦めぬ、諦めてたまるか!』
ゼウスは息絶えた妻を抱え絶望に抗い続けた。そんな彼に付き従うのはパンドラとカーンテヒル、最後の戦友オーディンだ。
『ゼウス! 最早、これまでだ!』
『諦めるというのか、オーディン!』
『違う! それは断じて違う! この悔しさ、悲しみを晴らさずにおくべきかよ!』
オーディンは、ここで秘術を行使しする。それは呪いでもあった。何度生まれ変わろうとも、記憶を残し続けるという呪いだ。
実はこの呪い、既に天空神は自身に施している。だからこそ、全てを喰らう者の知識を誰よりも持ち得ていたのだ。
パンドラ、カーンテヒルもその呪いを受け入れる。その際、パンドラは空っぽになった【箱】をいまだ大切に持っていた。
呪いを受け入れた四人は最後の抵抗を試みる。そして、奮闘虚しく彼らは無に還った。
だが、ここでカオス神に誤算が生まれる。喉に違和感を覚えたのだ。何事かと吐きだすと、それは小さな箱であった。その箱が独りでに開く。中から希望が飛び出してきた。それこそがパンドラ……後の女神マイアスとカーンテヒルだ。
咄嗟にゼウスは、パンドラとカーンテヒルを箱の中に封じ込め、全ての力を使い彼女らを護ったのである。
彼女たちは天空神ゼウスの無念を引き継ぎ、カオス神との一騎打ちを挑む。負けても勝利しても何も残らない。最後の戦いだ。
その戦いに、あろうことか彼女たちは勝利してしまった。ここに世界の理が音を立てて崩れ出す。それは中身の入った試験管が音を立てて壊れる現象に似ていた。
世界の全てがどこかに流れ出してしまう、それだけはいけない。
全てを思い出したカーンテヒルはこの瞬間、全てを喰らう者として覚醒し力を行使する。父なるカオス神を喰らい尽くし、偽りの全てを喰らう者として存在することにより世界を護らんとしたのだ。
その光景を目の当たりにして、パンドラは気が触れてしまった。自分が何者であったかすら忘れ、変貌してゆく我が子を呆然と見つめる事しかできない。
これが最後の終わりにして、新たなる終わりの始まり。
再生した世界に一人残されたパンドラは、まず己を分け隔てた。彼女は神に作られた存在。即ち神と人間の部分を持ち合わせている。
神としての自分に重きを置き、人間としての自分を男女に作り分け、人間を増やしていった。そして、十分人間が増えた段階で自身は眠りに就く。
人間としてのパンドラは幾度ともなく転生を繰り返した。薄れてゆく記憶。それは分かれたことにより呪いの効果が薄まったためだ。やがて、パンドラはマイアスへと名を変える。
数百年に一度、神であるパンドラは目覚め状況を確認する。いつの間にか人間となったパンドラはマイアスへと名を変えていた。ならば自分もマイアスと名乗ろう、と思い至る。女神マイアスの誕生である。
更に数千年後、終末が訪れた。不完全な全てを喰らう者と化したカーンテヒルの暴走である。自分で自分を喰らう、というおぞましい行為を止めさせるために、分身体のカーンテヒルを従えるマイアスがカーンテヒルに挑む。その度に歪みは生まれた。
それを繰り返すこと数千回、歪みは極地へと至り、女神は歪みそのものになった。憎怨の誕生である。
そして、カーンテヒルはこの悲劇に終止符を打つべく、己に残された全ての力を振り絞り、終焉をもたらす者を創造することを考え付いた。しかし、それはことごとく失敗に終わる。
成功例であるエティルも事故により手元を離れてしまい、計画はとん挫したかに思えた。しかし、確かに希望は残っていたのだ。
カーンテヒルの体内には【箱】が残されていた。女神マイアスも忘れてしまった、あの箱だ。
彼はその箱を体内から取り出し、牙で噛み砕いた。そして、その箱の魂を己の力と混ぜて【転生】させたのだ。希望をもたらす【無限】の箱を。
その魂は、やがて【木花桃吉郎】という人間へ転生した。これが、終わりの始まり。
「エルティナ、そなたこそが【箱】。希望の箱であったのだな!」
「ふきゅん、よく分からないんだぜ」
「いいんじゃ、いいんじゃよ、分からなくとも。希望は……ここにあった」
天空神は、あの日の事を決して忘れていない。幾度ものタイムパラドックスをも経て、彼はここにいるのだ。
矛盾を越えた先に未来があると信じ、幾度もの生死を繰り返してきた。恐らくはこれが最初で最後の機会。失敗するわけにはいかなかった。
「エルティナ、悠久の時を経て帰ってきた我が子よ。共に未来を掴もうぞ」
「なんだかよく分からないけど、分かった」
天空神ゼウスは因果を感じずにはいられなかった。全ての厄災を封じ込める箱が再び自分の下へと戻ってきたことに。運命は己に厄災を終わらせることを望んでいたのだ。
「(今度こそじゃ、今度こそ……全てを終わらせる!)」
そのために、笑って終われるために妻を取り戻す。天空神ゼウスの色褪せた瞳に色が戻った。それは希望を取り戻した証。
パンドラの箱は今再び、彼の手元へと戻ってきたのだ。




