719食目 成れの果て
アポロンは予てから【桃力】の存在を知り、その力を強く欲していた。しかし、彼の父である天空神ゼウスによって、桃力を手にすることを固く禁じられていたのだ。
しかし、彼は地球での鬼の戦いによって、天空神の力が予想よりも遥かに衰えていることを知った。それは今まで抑えつけられていた、絶対なる天空神という枷を壊すには十分過ぎる出来事であったのだ。
まず、アポロンは利用できる力を求めた。彼も父同様に力の衰退を理解していたのである。
そこで、彼はいまだに強力な力を保持する女神マイアスに近付いた。彼女にはハッキリと利用させていただく、と告げている。
女神マイアスも彼の正直な申し出に好感を持ったようで、力を貸す見返りとして最終決戦時に自軍に加わる事を条件として戦力を提供、カーンテヒルの月への転送に手を貸した。
そして、女神マイアスから受け取った魔法の小瓶を使い、神桃の樹から大量の桃力を奪い、彼女から受領した二百体の小型魔導騎兵【ソルディン】を従えて月の神殿を制圧したのである。
だが、月の支配者ツクヨミは、彼の動向に探りを入れていたので対応は迅速であった。
ただちに子供たちをアルテミスと神魂融合を果たしているヒュリティアに託し、自分と子供たちの仮初めの肉体を構築。何事もなく日常を演じた。
後は成り行きに任せ、ヒュリティア……否、アルテミスが呼び寄せたエルティナたちに、アポロンを討伐させる腹積もりであったのだ。
「その桃力をどうするつもりだ。太陽神アポロン」
巨躯の男、ブルトン・ガイウスがアポロンの前に進み出た。アポロンは、彼から発せられる波長に眉を顰める。だが、気のせいである、と自分に言い聞かせ小瓶をチラつかせながら勝ち誇ったように答えた。
「無論、私の物とする」
「愚かな、桃力は神にすら従わぬ。己の定めた決まりにのみ従う純然なるもの」
「ならば、力づくで従わせるのみ」
「できようはずもない」
「何故分かる」
「太古の昔に試したからだ」
「何?」
ブルトンの突然の告白に、アポロンのみならず、エルティナたちも驚きの表情を見せた。
彼はいわゆる転生者であり、気の遠くなるような回数の転生を経て、今に至っている。そんな彼ではあるが、全ての生で善人だったわけではなかった。
「鬼に堕ちるぞ。例え、神であろうとも」
善を知るには悪を知る必要がある。そう考えた彼、もしくは彼女は悪の限りを尽くしたことがある。その中で桃力に手を出し、鬼に堕ちた経験を持っているのだ。
そして、善とは何か、悪とは何かを鬼の身で確かめた。鬼の身にて善行をおこなったのだ。
その結果、肉体に陽の力が蓄積することを知った。
だが、その末に身体が陽の力に耐えきれず崩壊。鬼としての生涯を終えている。
「……きさまはっ!?」
「鬼になってからでは、何もかもが遅い。純然なる鬼と、堕ちてなる鬼とは違うのだ」
アポロンは思わず後ずさってしまった。大男の迫力に圧し負けたのではない。ブルトン越しに感じる神気に恐れをなしてしまったのだ。
「(ば、馬鹿な……この痺れるような神気はっ! このような神気を持つ者など、父上以外にいようはずがない! では、こいつは、いったいなんなのだ!?)」
混乱する思考、神であるはずの自分を圧倒する神気にかつての父の姿を見たアポロンは一時的な錯乱状態に陥った。それは、破滅へのカウントダウンだ。
「ふ、ふははははははっ! 関係ない! 鬼に堕ちようがな! 何故ならば、私が神だからだ!」
「……愚かな。鬼に堕ちれば、世界の終焉まで鬼ぞ」
「くどいっ! 見るがいい! 私が桃力を手にする瞬間を!」
アポロンは迷うことなく小瓶の蓋を開けて、中のどろりとした液体を飲み干した。
「ぐぉあっ!?」
焼き付くような熱がアポロンを襲う。太陽神である自分が、身の危険を感じる熱を知るなどあっていいものか。いいはずがない。だが、現に痛いし苦しい。何が起きている。
浮かんでは消えゆく疑問。答えてくれる者は当然いない。
邪心に染まりし者に罰を。
居た。それは他でもない桃力だ。陽の力は邪心に染まる者に合わせて、大いなる力を陰の力へと変えていった。神が邪神に堕ちる瞬間である。
美しかった黄金色の神はどす黒く染まり、白雪のように美しかった肌は汚らしい赤黒い肌へと変貌を果たす。整っていた顔の造形は黒く染まった心を現すかのように醜悪に豹変した。
今のアポロンは、どの鬼よりも醜い存在へとなり果ててしまったのだ。
「くくっ! 力が漲る! 最高の気分だ!」
「一時的な快楽に溺れるとか、ただの麻薬中毒者だな」
「小娘、神に対して、その暴言……厳罰に値する!」
アポロンの突き出した手の平に、おぞましいほどの陰の力が収束し放たれた。狙いは彼を侮辱した白エルフの少女である。
「舐めてんのか?」
だが、その陰の力は白エルフの少女に届くことなく消滅した。アポロンはその現象に表情こそ変えないものの驚愕することになる。
それもそのはず、エルティナは防御すらしていない。放たれた陰の力を【受け入れた】のだから。
「何っ!?」
「まるで陰の力の使い方が分かってない。俺が教えてやろうか?」
エルティナは左手を尽き出した。そこから赤黒い槍が生え出してくる。
「憎しみの槍……そぉうれっ!」
エルティナは発生させた陰の力の槍を、なげやり的にアポロンに向かって放り投げる。槍なだけに。
それはアポロンの頬を掠め、強固であるはずの神殿の壁に風穴を開けて飛び去っていった。
頬が切れ赤黒い血が流れだす。それをアポロンはわなわなと震える手で拭った。
現在の彼女は桃使いにして、鬼とも言える存在。陰と陽が合わさり真なる力を手にしているのだ。
それゆえに、彼女の心は善でも悪でもない場所に立っている。それゆえに、彼女は己の望むがままに行動しているのだ。
怒りも、憎しみも、悲しみも、喜びも、幸福も、死ですら彼女は受け入れるであろう。
尤も、それらは全てエルティナに喰い尽される定めにあるのだが。
「小娘……!」
「神様だっていうから、少しは期待したんだが……この程度か。マジェクトの方がまだましだぞ」
アポロンはエルティナに散々に小馬鹿にされ怒りが頂点に達した。その時の事だ、カチリ、という音を耳にする。誰かがスイッチを押したかのようだ。
「なん……だ……!?」
瞬間、アポロンは自分の体を動かせなくなる。そればかりか、勝手に動き出し始めていた。
そんな困惑する彼に囁き掛ける声があった。その声は甘く優しく官能的でもあったが、どこまでも黒く邪悪なものでもあった。
『うふふ、面白いほどに予測通りの結果でしたね。太陽神さん』
「き、貴様はっ、マイアスかっ! 私に何をしたっ」
突如として喚き始めたアポロンを目の当たりにしたエルティナたちは困惑したものの、大事を取って彼から距離を置き成り行きを見守る。
「ふきゅん、錯乱でもしたか?」
「けけけ、たぶん、違うな。マイアスって言っていたから、いいように利用されていた事にでも気が付いたんじゃねぇか?」
ゴードンが油断なくナイフを構え、いつでも不測の事態に備えれるようにする。エルティナも彼に倣い警戒を強めた。
『いえ、貴方があまりにも頼りなさそうでしたのでお力添えを、と』
「その力添えが、私の体の自由を奪うことだ、とでもいうのかっ!」
『えぇ、あなたはあまりにも愚かで、力というものを甘く見過ぎています。子供には躾けが必要ですからねぇ。あぁ、私ってばなんて優しいんでしょうか?』
ころころと、やがてげらげらという笑い声がアポロンの頭の中にのみ響き渡る。それは彼の精神を蝕むには十分過ぎた。
そして、何よりも女神マイアスは鬼の元締めにして原初たる存在。彼女の命令に逆らえるはずがないのだ。余程のことがない限り。
『材料は揃っています。さぁ、始めましょうか……我が子を取り戻す儀式をね』
アポロンの意識はそこで途絶えた。後を引き継ぐ形で、彼の体に女神マイアスの意識が入り込む。
更に変態が進み、かつてアポロンであった存在は異形の存在へと進化を始めた。
「な、なんですの!? あれはっ!」
ブランナは異形となり果てた存在を目の当たりにし、大きな目を更に大きくさせた。
それは八つの首を持つ奇妙な人であった。あまりにアンバランスで醜悪な存在に吐き気すらもよおす。
「あいつ、アポロンじゃねぇな。乗っ取られたか何かしたのか?」
「えぇ、あまりにも間抜けすぎるので、眠ってもらう事にしました」
エルティナの呟きにアポロンを乗っ取った女神マイアスが答える。醜悪な顔から透き通るような女性の声が聞こえ、彼らはビクリと身体を震わせる。
「(なんだ、身体が……動かないっ!?)」
マフティは身体が動かせない事に焦りを覚えた。それは他のメンバーも同様である。
「(女神マイアスが出張ってきたか……さて、ここで動くべきか)」
ブルトンは動かなくなった肉体にて、思考を加速させる。その結果、今はその時ではない事を悟り、エルティナに全てを託すことにした。
「おいぃ……どうなっているんだ? 大丈夫か、おまえら」
「どうやら、体の自由を奪われているみたいだね。厄介な能力だ」
「え、そうなのか? 俺は平気だけど」
そんな中で、平然と動く者がいた。エルティナとエドワード、そしてライオットだ。
「うふっ、やはりあなた方は動けるようね。我が曾孫エルティナ。そして、我が子の依代エドワード。えっと……なんで、あなたは動けるのかしらね?」
「そんなの、俺が聞きてぇよ」
マイアスはイレギュラーな存在であるライオットに興味を持った。しかし、彼の中に宿るレオは戦々恐々である。今、自分の存在を女神マイアスに知られるわけにはいかないからだ。
『(最悪だ、このタイミングでマイアス本人が接触してくるだなんて!)』
ここまで傍に来られてしまうと隠蔽の術の効果は無いに等しい。今回ばかりはライオット一人にがんばってもらう他にしようが無くなったのである。
「まぁ、いいわ。ご褒美に儀式に参加させてあげましょう」
「そいつは、ありがたいこってぇ」
ライオットは指をバキバキと慣らし不敵な笑みを見せた。その様子に女神マイアスは感心を覚える。
「あらまぁ、良い度胸。アポロンよりも遥かに好意が持てるわぁ」
「それよりも、早く話を進めてくれ、お祖母ちゃん」
「おばっ……!?」
ピクリ、と女神マイアスが反応した。ブルブルと肩を震わせている。果たして、それは怒りによるものであろうか。
「わ……!」
「わ?」
「ワンモアっ!」
「ふきゅんっ!?」
そこには、歓喜に打ち震える不気味な存在があったとか。
まさかの女神マイアスの返答に、困惑する珍獣はただ鳴くしかできなかったのである。




