708食目 忍び寄る混沌
◆◆◆ オーディン ◆◆◆
このクソ忙しい時期に、あのジジイは何をやっているのだ。
私は桃アカデミーで割り当てられた私室にて、膨大な量の資料に囲まれ頭を抱えていた。
折角、趣味の部屋にしよう、と政宗公の眼帯ショップでお洒落なアイテムを買い漁ってきた、というのに飾る場所がないという始末。どうしてくれるのだ。
しかも、盟友たる天空神ゼウスは、何故か人間界にて事務処理の仕事をしている。今は、そんな事をしている場合ではなかろうに。
尚且つ、なんの思惑があるのか、彼は桃アカデミーに戻ってこようとしない。連絡もスマートフォンでのやり取りだ。会話内容も極々平凡なもの。
『おっす、オーちゃん。元気してる?』
「おっす、ではないわ。忙しいのだから早く戻ってこんか」
『いやぁ、それがのう。部下に慕われちゃって抜け出せんのよ』
「ばかたれ、人間ごときに大事を疎かにするでないわ」
『まぁまぁ、もう計画も最終段階じゃろうに。わし、抜きでもなんとでもなろう。じゃ、そういうことで』
「あ! こら、待たんかっ!」
途切れる通話。あやつは、いつもこうだ。私の話を聞こうともせん。しかし、意図は伝わった。
長くなり過ぎた顎鬚を撫でる。そろそろ手入れをしないと小汚い老人に見られてしまうだろう。
かといって、バッサリ切ってしまうのも躊躇われる。さてさて、どうしたものか。
「ゼウスよ、敏感になり過ぎだ。誰も、私とそなたの計画に気が付いておらん」
大きくため息を吐き、眉間を揉み解す。オペレーションLRは最終調整に入った。今のところ大きな問題は発生していない……が、懸念材料はある。ゼウスの倅、太陽神アポロンがそれだ。
「裏で何やら企てているようだが、たとえ予言の力をもってしても我らを止める事などできぬ」
アポロンの予言は百発百中で的中する。しかし、それに対する備えをしておけばどうとでもなるのだ。
メインエンジンがダメになっても、サブエンジンでなんとかなるように。
腕を組み思案の海に埋没する。私以外に誰もいない、狭くも広くもない部屋は思案に没頭するには最適であった。
ありとあらゆる知識を用いて最悪の展開を思い描き、どうすれば妥当できるかをシミュレートする。今のところ問題は無い。懸念材料は、エルティナを失うことのみ。
「問題なのは過信、慎重すぎるほどでいい。今回は特にな」
すっかり冷え切ってしまったブラックコーヒーを口にする。昔は甘党だったのだが、最近は眠気防止のためにブラックしか飲んでいなかったので、甘いコーヒーを受け付けない体になってしまった。
アホみたいに甘いUGG缶コーヒーを飲んでいた頃が懐かしい。
「入るぞオデン」
「入ってから言うでないわ、馬鹿たれ。あと私はオデンではないし、もう少し身体を小さくしろ。狭い」
「細かい事を言うと禿げるぞ」
「禿げたら、おまえの頭のてっぺんの毛皮でカツラを作ってやるわ」
「おいばかやめろ、ルリに笑われる」
ノックもせずに私室に入ってきた者は、かつて私を飲み込んだロキの息子、魔狼フェンリルだ。
今では気兼ねなく言葉を交わす、もう一人の私のような存在となっている。
「んで、なんのようだ?」
「オペレーションLRのことだ。どうもきな臭いものを感じてな」
「そなたが言うと、穏やかではなくなる。何かあったか?」
神妙な面持ちのフェンリルは口から一枚の書状を吐きだした。私はそれを手に取る。
「唾液で字が霞んで読めないのだが?」
「がんばれ」
「たわけ」
取り敢えずフェンリルの頭にげんこつを落し、唾液で霞んだ書状を解読するところから始める。げんこつを貰ったフェンリルは拗ねて丸くなってしまった。
「あ~、ん~? ええ~っと……」
これは骨が折れる作業だ。普通に咥えて持ってきてくれればいいものを。しかし、解読が進むにつれて、ただ事ではない内容の文章が復元されてゆく。
「なっ!? これが本当だとすると、とんでもないことだぞ!」
「だから、口の中に入れて運んできたのだ」
「ええい、拗ねるな。謝るから。後で、富月のお好み焼きを奢るから」
「真か? ならば許す」
ちょろアマ。とはいえ、私にも非があるので、これは要反省であろう。だが、今はこの書状の内容が事実であるかどうかを確かめるのが先決だ。
「……ゼウスのヤツは知っておるのか? アポロンがマイアスに寝返ったことを」
太陽神アポロンは、エティルに威圧され無様に引き下がった時以来、桃アカデミーに姿を見せていない。その間に裏で動き回っていたようだったが、ここまで愚かだったとは思わなんだ。
「下手をすれば、神々の半分がマイアスに傾くやもしれん。我々でマイアス側に付いた者は出ておるか?」
「今のところはいないが……フレイアは微妙だな」
「あれは向こうに付いても、いざとなればこっちに寝返る。現金な女だからな」
「それもそうか。尻軽だもんな。ケツはデカいが」
それに加えて、今はヴァルハラの管理で缶詰め状態にしてあるから、工作も何もできはしまい。己の未来が掛かっていれば尚更の事。
今回の戦いはラグナロクのように、後の世に復活することはできない。仮にこの戦いで滅び、且つオペレーションLRが成功すれば、その存在は永遠に失われることになる。
「古き神々は姿を消し、文字通り新しき神々が新しき世界に君臨する」
「ラグナロクより酷い戦いだな」
「さよう、アレの比ではない。規模が全宇宙であるからな」
「動いてるのか? あの神々……というか超生物ども」
「クトゥルフの神々か? 連中は我々よりも早く計画を推し進めている」
尤も、連中は生き残る事に執着していない。それもそうだ。連中はアザトースさえ存在していれば、いくらでも再誕する事ができる。人間や世界、宇宙ですら、彼の者は生み出すことが可能なのだ。
ただし、アザトースが夢見る世界は、ろくでもない物になるだろうが。
「痴呆の神に正気を取り戻させる……か。彼の少女はそのテストベース。しかし、いまだに正気は戻らず、ニャラルトホテップは腹の中で暗躍中。こっちには好都合であるが」
「あぁ、あのお嬢ちゃんがそうだったのか。相変わらず元気にお粥を食べてるぞ」
「うん? そなた、アザトースの娘に会ったのか?」
「エルティナに関われば、嫌でも出くわすだろうさ。言語は滅茶苦茶だったが、普通に意思疎通できるぞ」
「何っ!?」
それは困る。アザトースは全てを喰らう者から逃れる事ができる唯一の存在。高次元に逃げ込み、事が収まった頃を見計らって、しれっとこちらに戻ってくるようなヤツだ。
そんなヤツの娘に理性が存在するとなれば、いよいよもって大事になる。
「そういうことか。ニャルラトホテップは、その娘にアザトースを降ろそうとしているに違いない。いや、もう一部が降りている可能性もある」
「マジで!?」
「マジで!」
正気を取り戻したアザトースが顕現したならば、我々の計画は完全に破綻する。
あれは全てを喰らう者と同質の存在。ヤツが完全に正気を取り戻した時、我らの世界はアザトースに食い尽され、異形の神々の世界が新たに構築されてしまうだろう。そこに我らの居場所はない。
いたとしても、異形の神々の家畜となり果てているだろう。
「ええい、次から次へと厄介な!」
「今回も面倒なことになってきたな」
「まったくだ。今回くらいは素直に事が進むかと思っていた矢先にこれだ。嫌になってくるわ」
「それでも、なんとかするしかないだろ。まぁ、なんだ。これをくれてやるから元気出せ」
フェンリルは口からビニール袋に入った一冊の本を吐きだした。それを手に取り、中の本を確認する。
「こ、これは……! ルフちゃん写真集第三弾! よいのかっ!?」
「うむ、わしが持っているよりも、オデンが持っていた方がいいだろう。わしはいつでも本物と会えるしの」
「それもそうか……あ、次はバニースーツで」
「それだと、牛うさぎ、というわけの分からない生物が誕生するぞ」
「アザトースほど、わけの分からない存在ではないからセーフ」
「……それもそうじゃな。ルリに伝えておくわい」
こうして、数々の難題に頭を悩まされることになる私であったが、取り敢えずはルフちゃん写真集で癒されることにした。現実逃避ともいう。
あぁ、知的欲求が刺激されるのじゃあ……。




