682食目 彼の地より~愛と勇気と努力を込めて~6
もう幾度もなく跳躍を繰り返す。逃走からどれほどの時間が過ぎたのか。東京と埼玉の県境、木々に囲まれ、おおよそ人がいないであろう場所に、誠十郎が言うところの友人がいた。
その友人とは日本人に非ず。 黒髪の天然パーマに黒い肌、鼠色の甚平を着込んでおり、妙な日本語を操る国籍がよく分からない人物であった。
「ワッツ? おいおい、なんだよ、ありゃあ。エンジェルが舞い降りてきたZE」
鍬を担ぎ、畑仕事から戻って来たその男は、夕暮れ空から下りてきた誠司郎を目撃する。
その姿を見られた誠司郎はバツが悪い表情を見せるも、その男の容姿から、彼こそが父の友人であることを確信する。
「あのっ、あなたがマイクさんですか?」
「ほっ? 俺っちの名前を知っているとか、どゆこと? エンジェルに知り合いはいねぇZE?」
「僕は宮岸誠司郎と申します。父、誠十郎の娘です」
「誠十郎……ね。まぁた、厄介ごとを押し付けてきたな。あんの野郎」
マイクは掛けていたサングラスを外し、まじまじと誠司郎を観察した。その視線に誠司郎は身じろぎする。
実のところ、マイクは誠司郎の顔を知っていた。しかし、僅かな期間で誠司郎は女性らしい雰囲気を身に付けていたので、一瞬、マイクは彼女が誰だか判別がつかなかったのである。
「OK、事情は分からねぇが、誠十郎の娘とあっちゃあ断れねぇ。付いてきな」
マイクは大きなため息をひとつ吐き、何も聞かずに誠司郎を自宅へと招き入れた。
そこは、掘っ立て小屋とも言えるような質素で簡素な家だ。夏はまだしも、冬などは隙間風が入り放題で、とてもではないが常人では住む事ができないであろう。
「まぁ、小汚いが勘弁な? なんせ男の独り暮らしだ。HAHAHA!」
「いえ、お気になさらず……」
誠司郎はそうは言ったものの、部屋の汚さは尋常ではなかった。そこかしこに転がっているのは空の酒瓶であろうか。それが山のようになっている。
そして、乱雑にばら撒かれている成人誌。卑猥な裸体が掲載されたページが目に飛び込んできて、誠司郎はドキリとしてしまった。
「んあ? OH、ソーリー。嬢ちゃんには刺激が強過ぎたかい」
「え、あ、はい」
マイクは、それらを部屋の隅に寄せて座るスペースを確保。誠司郎に座るように促した。
「んで、何があったんだい?」
「はい、それが……」
マイクは煙草を吸いながら誠司郎の説明を受けた。彼女が説明を終える、と彼女の頭の上に煙草の煙で作った天使の輪を浮かべる。
「なんともまぁ、面倒な事に巻き込まれてやがんなぁ」
「ごめんなさい」
「嬢ちゃんが悪いわけじゃねぇさ。巡り合わせが悪かったんだろうYO」
「めぐり合わせ、ですか?」
「あぁ、全部、そいつが悪い」
そう言って、マイクは飲みかけの酒瓶を手に取り直接口を付けた。アルコール度数五十のバーボンだ。それをストレートで一気に飲み干す姿に、誠司郎は彼の身体を心配するそぶりを見せる。
「いいのさ。今の俺はこうでもしねぇと寝る事ができねぇ。嬢ちゃん、ほとぼりが冷めるまで、ここで好きなようにしな。俺も勝手にするからさ」
「は、はい。ありがとうございます、マイクさん」
こうして、マイクとの奇妙な生活が始まった。誠司郎は匿ってもらっている身であるので、炊事洗濯を引き受けることにした。あまりに生活力が無いマイクの健康状態が気になって仕方がなかったのである。
「わりぃなぁ」
「いえ、匿ってもらっている身ですので」
『かんしゃしろ、ろくでなし』
「ふぁっく、本当に腹立つフェイスだYO、おめぇは」
『ふきゅ~ん! ふきゅ~ん!』
「ティナも余計なことを言わないの」
マイクに頬を蹂躙される子珍獣は学習能力が無かった。毎度、毎度、痛いしっぺ返しを受けているにもかかわらず、また同じことを繰り返すのだ。
誠司郎が、ここに転がり込んできて三日経とうとしている。ここにはテレビもラジオもなく、外部の情報が一切入ってこなかった。ある意味で平穏とも言えたが、心中は穏やかになる事はない。
両親の安否は、史俊や時雨、美千留はどうしているのか。静かに生活を送れば送るほどに心は掻き乱される。
『てれぱす、つかえばいいんじゃね?』
「あ」
子珍獣のあまりにあっさりとした指摘に誠司郎は赤面した。両親に連絡が付かなくとも、友人たちには魔法による連絡を付ける事ができたのを失念していたのである。
丁度、マイクは野良仕事に出かけているとあって、絶好の連絡機会だ。誠司郎は史俊、時雨に〈テレパス〉を試みる。しかし、それは達成する事はなかった。
「え? ど、どうして……」
「魔法は、ここじゃあ発動しないZE。結界がはってあるからな」
「マ、マイクさん……あなたは、いったい?」
「俺? 俺っちは……俺っちさ。それ以上でも、それ以下でもない」
どこか遠い眼差しを向けるマイクに対し、それ以上は踏み込んではいけないのだろう、と悟る誠司郎は目を伏せる。これで連絡手段が全て潰えてしまった、と同時に、史俊たちから連絡が入ってこなかった理由も分かったのである。
「まぁ、果報は寝て待て、とも言うしさ。大人しくしてなって」
「でも、その間に皆が酷い目に遭っているかと思うと」
「大丈夫、上手いことやってるさ。たぶんな」
マイクはドカリと床に座り煙草を吸い始めた。いつもよりも早い帰宅に誠司郎は不思議に感じたが、それは屋根に何かが当たる音で理解することになった。
『あめ、ふってきたぞぉ』
「えっ? わわっ、いけない! 洗濯物を取り入れないとっ!」
「ワッツ? 今日も洗濯していたのかYO」
誠司郎とマイクは慌てて洗濯物を取り込むのであった。
更に日は過ぎ、一週間。マイクとの生活に慣れ始めた頃、彼女はやって来た。
桃アカデミー東京支部所属の桃先輩トウカである。彼女がマイクの小屋を訊ねてきたのだ。当然、供に竹崎美千留も付いていた。
「探しましたよ、誠司郎さん」
「誠ちゃん、無事でよかった」
「トウカさん、美千留ちゃん!」
トウカの突然の訪問に対し、マイクは態度を変える事はなかった。平然と煙草を吸い、我関せずを貫いている。その態度を不審に思った誠司郎であったが、行動を起こす前にトウカが口を開いた。
「マイク。あなたは、いつまで、ここで燻っているのですか?」
「……そんなの、俺の勝手だろう?」
「しっかりしてください。今、桃アカデミーは人手不足なんですよ」
「俺っちはもう、桃先輩じゃねぇ。ただの負け犬さ」
ギリリ、と歯噛みする音を誠司郎は耳にした。クールなトウカが怒りの形相を見せていたからだ。
「あなたが、そんな為体では! 亡くなったパートナーが浮かばれないでしょうに!」
「ブラザーは死んだ、もういねぇ。あん時に俺っちも死んだんだよ。分かってくれ」
マイクが口にする煙草の灰が彼の足の上に落ち、ちりちりと肌を焦がす。にもかかわらず彼は身じろぎもしない。完全に抜け殻の彼を目の当たりにして、トウカの表情が怒りから悲しみへと変わる。
「私が尊敬していた桃使いマイクは、もういないのですね」
「……あぁ、死んだよ」
「誠司郎さんはこちらで引き取ります。よろしいですね?」
「俺に是非は無いさ。彼女に聞いてみな」
マイクは生気の無い瞳で、そう答えるのみであった。
話を向けられた誠司郎は返答に困った。確かに桃アカデミー東京支部へ向かえば、安全を確約されるであろう。しかし、こんな状態のマイクを見捨てることができようか。
話を聞いたところ、現在の彼は大切なパートナーを失い、無気力な日々を過ごしているものだと見受けられた。
しかし、自分とティナと一緒にいる時は、そのような素振りなどなかった。どこか遠慮がちであったが、楽しそうに生活していたように思える。出会った時と一週間経った今とでは、明らかに変化があったのだ、と思った誠司郎はトウカに告げる。
「僕は……もう少し、マイクさんのところにいようと思います」
「誠司郎さん……」
「この人、生活能力無いから、放っておけないんです」
「男なんて、こんなものよ。それでも?」
「はい」
「分かったわ。事が済んだら迎えに来るわね。マイク、それまでは誠司郎さんをよろしくね」
「ふん、勝手にすらぁ」
トウカは美千留を引き連れてマイクの小屋を後にする。その帰り道で美千留は大人しく引き下がった理由をトウカに訊ねた。トウカは暮れ行く空を眺めてぽつりぽつりと語り始める。
先輩桃使いであったマイクとの出会い、共に桃使いとして戦った日々、先に引退し桃先輩となってしまった後ろめたさ。そして、彼の栄光と挫折を。
「私では彼に対して強く言えないの。彼に到底及ばない上に、彼以上の苦しみを、辛さを、挫折を私は知らないから。悲しみを理解できないから」
「トウカさん……そんなの、知らない方が絶対にいいですって!」
「美千留……」
「私、絶対にいなくなりませんからっ! トウカさんを悲しませませんからっ!」
若き桃使いの姿に、かつての己を重ねる。かつての自分が、マイクに対して言っていたセリフだ。果たして、その誓いは護られたか。否……否であった。
鬼との戦いで致命的な傷を負ったトウカは、志半ばで心の剣を折った。戦場を駆け回れぬ桃使いに何ができようか。誓いは護られることなく、マイクとも離れることになる。
「そう……忘れないでね、その想いを。いつか、大切な人ができる、その時まで」
「は、はい」
暮れ行く夕日の赤が、かつての桃使いと今の桃使いを包み込む。過去と未来が交差する道を行くは桃使いの宿命か。今、バトンはトウカから美千留へと手渡された。
「よかったのかい? 一緒に行かなくて」
「はい、いいんです」
『うれしいんだろ、ろくでなし。しょうじきにいえ』
「シャラップ。本当に余計な事をいうヤツだYO!」
『ふきゅ~ん! ふきゅ~ん!』
「あぁもう、ティナは、本当に懲りないんだから」
マイクに頬を蹂躙される子珍獣は、やはりいつもの悲鳴を上げた。何気ない、いつものやり取りにマイクは救われた気持ちになる。
いつ振りであろうか、景色に色が付いて見えるのは。あの時、最愛の兄弟と離別した時、彼の視界から色はことごとく消え失せた。
何を見ても灰色の世界。何も感じない、感動が無い世界。彼は耐える事ができなかった。
そこから逃れようと仕事に没頭していた時期があった。だが、無意味。続いて酒に逃げる。確かに一定の効果はあった。酔い潰れて寝ている間だけは、悪夢から目の前の現実から逃れる事ができた。
だが、それは意識を手放している間だけの事。目を覚ませば、また受け入れがたい現実はやって来る。その繰り返しはやがて、マイクの気力を奪い去り、全てを奪い去っていった。
桃先輩の職を辞した彼は、調査過程で友人となった宮岸誠十郎の勧めもあって、現在の住居を構えることになる。誰も訪ねてはこない、来るといえば野生動物ぐらいなもの。
畑を耕し、糧と僅かな収入を得て酒を買う。そして、飲んだくれて過ごす日々。後ろめたさが無いとは言えない。しかし、それ以上、今の自分には何もできない、との確信。それが、彼に前に進む事を断念させていた。
だが、それは突然の訪問者によって、少しずつ変えられてゆく。段々と失われていた色が戻りつつあった。穏やかな性格の誠司郎はマイクを尊重し、深く踏み込んでは来ない。
しかし、しっかりと【マイク】を見てくれていたことを、誰よりもマイクは自覚していた。桃使いでもなく、桃先輩でもなく、弱い自分を見守ってくれていたのだ。
マイクはそれに甘えた。悪い感じに張りつめていた心が、良い感じにしぼんでゆく。そこから、自分が見え始めてきた。
誠司郎が寝入った頃、マイクは久しぶりに月を眺めながら酒を飲んだ。
「俺は今まで、何をやっていたんだろうなぁ」
きっと、ブラザーがいたなら、酷く叱責されるか呆れられているのだろう、マイクはそう思い至った。それは正しい解答であっただろう。
かつて月に誓った約束は果たされず久しい。その月の色さえ見えなくなっていたその瞳に、かつての美しさを、色を取り戻した月が映る。マイクは酒を煽った。
「まだ、俺っちに生きろ、と言うのかい……ブラザー」
月が歪む。それは言うまでもない現象だろう。また酒を煽る。零れるのは酒か、はたまた別の何かか。男は再び立ち上がる事を月に、亡き兄弟に誓った。
「なら、さっさと事件を解決してやんねぇとな」
それは、さり気ない優しさで包んでくれた誠司郎に対する、ささやかなお礼。きっと、これが最後になるであろう、決起。
桃使いマイクは、この日、再び立ち上がる事になった。