681食目 彼の地より~愛と勇気と努力を込めて~5
宮岸一家が混乱の最中にあった頃、誠司郎を襲った暴漢は悪態を吐きながら帰路へと就いていた。折角の上玉を逃してしまった悔しさは自分でも計り知れない。
「ちくしょう、まだ目が痛ぇ。なんだっていうんだ」
その目の痛みを感じる度にイライラは募ってゆく。まるで海の底のヘドロのごとく異臭を放つ負の感情は、それを糧とする者を呼び寄せるとも知らずに。
と彼の前方に女の姿。どうやら、高校生くらいの年齢である。そう見定めた男は少女を品定めした。
先ほどの少女よりは劣るものの、上玉であることは間違いない。しかも一人。多少強引に事を進めても、やりようによってはどうとでもなる。
そう結論付けた男は、先ほどの失敗による怒りを、この少女で発散させようと目論む。
さり気なく、少女の横を通り過ぎる振りをして、無防備な背後を取らんとする。そのタイミングで、少女は男に声を掛けてきた。
「おじさん、たまってるの?」
「あ?」
男は、少女のその言葉に狼狽えた。ゆっくりと男に振り向く少女。
先ほどまでは遠目で分からなかったが、あり得ないほどの上玉だ、と認識した男はしらず知らずの内に口角が釣り上がっていた。
そんな男を目の当たりにして、少女は尚も告げる。
「しよっか?」
「へ、へへ……見も知らずの男にいいのかい?」
「知らないから、いいのよ」
「だったら、断る理由もねぇなぁ。しゃ~ねぇ、付き合ってやるよ」
「うふふ、楽しみましょう」
男は先ほどまで少女を襲おうとしていた、にもかかわらず、まるで相手から誘われたから仕方がない、と認識しだしている。
自分に対する物事を都合のいいように捉える男は、得体の知れない美少女にホイホイと付いて行く。
暫く歩き辿り着いた場所は、男が先ほど誠司郎を引きずり込んだ人気の無い路地だ。その周囲には誠司郎の引き千切られたTシャツの断片が散らばっている。
「良い場所でしょ? ここ、誰も来ないの……あら? 誰かいたのかしら?」
「あぁ、気にしなくてもいいさ。ちょっと、獲物を取り逃がしちまってなぁ」
「うふふ、それはご愁傷さま」
「まぁいいさ。それじゃあ、楽しもうか」
「えぇ、もちろん」
はらり、と少女の衣服が道路に落ちた。下着などは身に付けていない。それを目撃した男は、やはり最初からそういうつもりだったのだ、と確信した。
「へっへっへ、この淫乱が。たっぷり可愛がってやるぜ」
「うふ、うふふふふふ」
少女は笑った。最初はころころと、続いて腹を抱えて、遂にはゲラゲラと狂ったように笑い出す。その異様な光景に男は思わず後退った。
「な、何笑ってやがんだ!?」
「あぁ、おかしい、おかしい。こんなことで簡単に餌が獲れるだなんて」
「え、餌だと!?」
「えぇ、あなたは私のご飯。美味しそうな負の感情を、たぁっぷりと蓄えた豚よ」
「てめぇっ!」
男は激昂し、隠し持っていた折り畳みナイフを取り出し、一糸纏わぬ少女に突き付けた。しかし、少女はニタニタと嫌らしい笑みを作り、その美しい顔を醜く歪めるのみだ。
「何がおかしい! てめぇ、状況が分かってんのか!? 俺がその気になれば、てめぇは!」
「うふっ、あっはははははははははははっ!」
やはり少女は腹を抱えて笑う。ゲラゲラと、ゲラゲラと。だが、その狂った笑いも唐突に終了した。ぬらり、と少女は男に顔を突き付ける。
それは即ち、突き付けられていたナイフが少女の身体に突き刺さることを意味していた。
「ひっ!? しょ、正気かっ! ナ、ナイフが!」
「あら、私を刺したかったんでしょう? どう? 刺した感想は? 快感? 気持ちいい? うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
少女の狂い笑いは男の正気を確実に奪ってゆく。ガクガクと震える足、動悸も激しく息が上手くできない。滝のような汗は、彼に明らかなる危険を示していた。
「でも、ごめんねぇ? その程度の武器じゃあ、私を傷付けることはできないの」
「え、あ、ひぃっ!?」
少女に突き刺さっていたはずのナイフ、その刃に赤い液体が付くことはおろか、彼女に突き刺さっていた部分が綺麗さっぱり消滅している。ナイフの柄の部分を残してだ。
「いただきまぁす」
男は思わずナイフだった物を手放した。チャリン、という金属音は直後の悲鳴によって掻き消される。血の宴は開催された。
一夜明け、宮岸一家に朝がやって来た。食卓を囲む風景に新顔が誕生し、その忙しない食事の仕方に一同は表情を綻ばせる。
『むっちゃ、むっちゃ、ばりばり、ごきゅん。ぐびびびびび』
顔面を食べカスでわけの分からない状態にさせても尚、次の食べ物へと手を伸ばす、食い意地が張った子珍獣の姿がそこにあった。
その食事方法とは手掴みで口に運ぶ、顔を食べ物にツッコませて直接喰らう、など獣同然の食事方法である。だが、まだ犬猫の方が上手に食べるというものだ。
『ふきゅ~ん! ふきゅ~ん! はぐぐぅ!』
「あぁ、もう。ご飯は逃げないから、もっとゆっくり食べようね?」
『なにを、あまいことを! しょくじは、たたかいだっ! くうか、くわれるかだっ!』
どうやら、子珍獣は料理という強敵と真剣勝負しているようである。内容は無抵抗な相手に対して、一方的な蹂躙をおこなっているだけなのだが。
「あらあら、早起きして作った甲斐があるわね」
「ティナも美味しそうに食べているけど、ちょっと激し過ぎるかなぁ」
誠司郎の母、美波は、本日が休日とあって久しぶりに朝食を調理していた。といっても簡単な料理だ。
スクランブルエッグにカリカリベーコン。トーストにサラダ、といったオーソドックスな朝食である。
『うおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!』
「ちょっ!? スクランブルエッグを泳いじゃダメだよ!」
『おうごんのうみが、おれを、よんでいるぅ!』
「豪快な子だなぁ」
取り分けて皆で食べるために大皿に盛られたスクランブルエッグ、そこに飛び込み泳ぎながら食べる子珍獣。
そんな馬鹿たれに呆れる誠司郎。彼女の父、誠十郎は苦笑しつつも、ひょいと子珍獣を摘まみ上げる。
「こら、食べ物で遊んではいけないよ」
『ふきゅん。まことに、もうしわけありませんでした』
誠十郎に摘まみ上げられながらも、器用に土下座をして平謝りする子珍獣は邪悪な微笑を浮かべた。明らかに反省していない証拠と言えよう。
「あんまり悪い子でいると、トウヤさんに預けちゃうからね」
『それだけは、ひらに、ごようしゃを』
子珍獣は、ぷるぷる、と震え本気で謝罪し始めた。あまりに震え過ぎて、別種の生き物になったかのようである。
その姿を見て、宮岸一家は朝から大爆笑したのであった。
賑やかな食事を終え、リビングにて一家団欒を過ごす。誠司郎は昨晩あのような事もあったため、本日は外出を控えるつもりでいた。尤も、ほとぼりが冷めるまでは、出るにも出られないのであるが。
テレビの報道番組は連日、猟奇殺人が取り上げられていた。鬼が暴れた事件は、いまだに話題に取り上げられているが、どうやら昨日、新たな猟奇殺人が発生した模様だ。
「ここは……家の近くじゃないか」
「あら、やだ、本当ね。怖いわぁ」
誠司郎の両親はそう言いながらも他人事のような感想を漏らした、しかし、誠司郎はその限りに非ず。何故なら、そこは昨晩、強姦魔に連れ込まれた人気の無い路地であったからだ。
そして、被害者の生前の写真が顔が公開される、と誠司郎は「あっ」という声が思わず出てしまう。その被害者とは誠司郎を襲った男の顔であったからだ。
「この人……昨日、僕を襲った人だ」
「なんだって?」
誠十郎は娘の告白に怪訝な表情を浮かべた。もちろん、娘を疑っているわけではない。
しかし、昨日が昨日の出来事だ。誠司郎は引き千切られたTシャツの断片を現場に残してきている。もしかしたら、犯人と認識されてもおかしくはないだろう。
「これは拙いな。あらぬ疑いを掛けられるかもしれない」
「うん、僕もそう思う」
「でも、事情を話せば、それが冤罪であると分かってくれないかしら」
誠十郎は腕を組んで考え込んだ。今の日本の警察は信頼が置けない、と常々彼は感じていた。度々、警察によってでっち上げられた冤罪、という報道が報じられているからだ。
事実、現在の日本の警察は腐敗の一途を辿っていた。かつては桃使いたちと共に鬼に立ち向かった勇敢なる警官達は一線を退き、既にその姿を見なくなって久しい。奇しくも穏やかな平和が、日本警察を堕落させ腐敗の温床とさせてしまっていた。
「誠司郎、急いで荷物を纏めてこの場所へ行きなさい」
「えっ?」
誠十郎は懐から取り出した紙を誠司郎に握らせ、そう告げた。その表情は真剣そのもの、娘を護らんとする親の意志が読み取れた。
「そこに、お父さんの友人が住んでいる。少し変わったヤツだが、事情を話せば匿ってくれるはずだ。ほとぼりが冷めるまでは、そこで隠れていなさい」
「で、でもっ!」
「大丈夫。その間に、お父さんとお母さんで、誠司郎の無実を証明してみせるからね」
誠十郎は誠司郎を抱き寄せて彼女を宥めた。同時に娘の温もりを忘れないように心に刻み込む。同じく彼女の母、美波も同様に娘を抱きしめた。
その時、玄関のチャイムが鳴り響く。その音は紛れもなく、親子の離別の時を示していた。
「早いな……誠司郎、逃げなさい。時間を稼ぐ」
「う、うん!」
『おいぃ、そとは、まっぽで、いっぱいだぁ』
とティナが家の壁をすり抜けて外の状況を報告してくる。現在は半物質化状態なので、任意で物体をすり抜ける事ができた。それを利用して外の状況を窺ってきたのであろう。
「そんなっ!? ティナ、裏口も押さえられていた!?」
『だめだぁ、うじゃうじゃ、いるぞぉ』
「裏口も使えないんじゃあ、逃げようがないじゃないか」
『そらを、とんで、にげれば、いいんじゃないかな?』
「ティナじゃないんだし、無理だよ」
とそこまで言って誠司郎は考えた。飛べるじゃないか、と。
しかし、それは最後の手段だ。それは一度出してしまうと、引っ込みがつかなくなってしまう。
また、あのぬるぬる地獄は勘弁したいし、何よりもおこなってくれる人がいない。出してしまえば最後、今生は鳥人間として生きてゆくハメになる。
「いや、飛べなくても、跳べばいいんだ。〈ライトグラビティ〉を使えば行けるはず」
誠司郎はエルティナによって、日常魔法を叩き込まれている。したがって、対象の重力を操作する魔法〈ライトグラビティ〉を自身に施し、重力に干渉すればとてつもない跳躍力を手にすることも可能だ。後は魔力が持つかどうかである。
この〈ライトグラビティ〉は使用するには容易いが、維持するとなると話は別である。
大抵の魔法は瞬間的に魔力を消費するのが一般的であるが、この魔法に限っては毎秒魔力を消費する仕様なのだ。対して誠司郎はそこまで魔力量が多いとは言えない。
「やらなきゃ、捕まっちゃう! お父さん、お母さん、僕、行くよ!」
「あぁ、気を付けてな」
「元気でね、誠ちゃん」
両親に別れを告げ、誠司郎はティナを抱きかかえて二階の自室へと向かう。
急いでクローゼットを開き、隅に置いてあったリュックを背負い、同じく隅に置いてあった少し薄汚れているブーツを履く。このブーツは誠司郎が異世界カーンテヒルで活動していた時に履いていたブーツだ。
ブーツを履く、とかつての力が蘇ってきたように感じ不思議と力が湧いてくる。同時に何者にも屈しない勇気も湧いてきた。
「行こう、ティナ!」
『おう、むげんのうちゅうに、さぁ、ゆくぞっ』
「宇宙にはいかないけどね。〈ライトグラビティ〉起動!」
誠司郎は〈ライトグラビティ〉を起動し重力を制御した。身体にかかる負担が軽くなり、羽根のような軽さを得る。そして、窓際から思いっきり跳躍した。
「おい! あれはっ!」
「容疑者だ!」
刑事や警察官たちが誠司郎の姿を目の当たりにし騒ぎ始めた。しかし、彼女は遥か上空を跳躍中である。いくら彼らが手を伸ばそうとも、誠司郎を捕まえることは叶わないであろう。
三件ほど先の民家の屋根に着地した誠司郎は続けて跳躍する。それは地球に生きる者では成し得ない跳躍力であった。
そして、そのふわりと跳躍する誠司郎の姿は、彼女の美しさと相まって、とある幻想的な存在を想起させる。警察官の一人が誠司郎の姿を垣間見てぽつりと呟いた。
「……天使だ」
どよめく警察官たち。それを鎮めようと躍起になる刑事。玄関にて警察関係者の対応をおこなっていた誠十郎と美波は、空を舞うように遠ざかる娘を目撃し、声無きエールを送る。
再び会うその時まで、共に頑張ろう、と。
事態は大きく動き出そうとしていた。暗躍する者達が、その牙を曝け出す時、東京はかつてない危機に見舞われる。
その時は、刻一刻と迫っていたのであった。