650食目 女神マイアス
◆◆◆ マイアス ◆◆◆
ここは天界。苦しみなどはありえぬ世界にて、苦しげな声を出すのは私こと女神マイアスだ。その姿を可愛らしい天使ミレットが見守っている。
「いちま~い……にま~い……さんま~い……」
それは白くて薄くて憎らしいものだった。それを一枚ずつ私は手に持ってゆく。
頼りないそれは手の中でくったりとしている、まるで今の私のようだ。
「はちま~い……きゅうま~い……きゅうま~い……」
足りない、何度数えても一枚足りない。絶望だ。
「一枚足りないのよ! おるるあぁぁぁぁぁぁんっ!」
「マイアス様、ご乱心! マイアス様、ご乱心!」
ゼウス様に課せられたレポート用紙が一枚迷子になってしまった。
あれだけ苦労して書いたというのに、肝心要の一枚が綺麗さっぱり紛失してしまったのだ。あり得ない。
「なんで一枚足りないのよぉん!? あんだけ苦労して書いたのよ!? おきゃしぃでしょべる!」
「おかしいのは、今のマイアス様です。落ち着いてください」
「私は冷静よ!」
「それは動揺している人が言う、暫定一位のセリフです」
「おぉん!」
天使ミレットの容赦のない指摘に、私は顔を押さえて崩れ落ちた。
ようやくレポートが完成したというのに、まさかの紛失。しかも、レポートの要となるページだ。笑えない。
「その部分だけ、また書き直せばいいじゃないですか」
「内容忘れちゃった」
「えぇ~……」
ミレットの痛そうな子を見る眼差しが物凄く痛い。超痛い。
そんな目で、お母さんを見ないで。泣いちゃう。
「取り敢えず、しっかりと探しましょう。マイアス様、レポートを書き終えた後の行動を思い出してくださいな」
「ええっと……体を解してから……服を脱いで雲に寝っ転がった」
「ベッドですか?」
「床」
「……」
なんか、舌打ちされた気がする。私、一応、えら~い女神様なんだけども。
「その間に紛失した可能性が高いですね。風に飛ばされた可能性もありますので、部下に指示して探させます」
「うう、お願いね。私のストレスがマッハで危険信号にカチコミしているの」
「何をおっしゃっているのか理解しかねますが、雰囲気で察しました」
ミレットに呆れられつつ、私はよろよろと雲のソファーに腰かける。
ずぶぶぶぶぶぶ。
「……」
「……マイアス様、太りました?」
「太ってない」
「太りましたね?」
「私のどこが太ったって証拠があるんですか?」
無言でテーブルの上を指差すミレット。そこには地球産のお菓子の空き袋の山がこんもりと出来上がっていたではないか。片付けるのを忘れていた。
「てへっ」
「てへっ、じゃありません。地球産のおやつは太るから、とあれほど口を酸っぱくしていったというのに」
「だって、食べ出したら止まらないんだもの。ハッ〇ーターン」
「あれは麻薬の一種だ、と伝えたはずですが?」
「ご、合法だもん!」
「はぁ……ちゃんと片付けておいてくださいね」
「はぁい」
これもゼウスって人が悪いんだ。レポート用紙と一緒に大量のお菓子を送ってくるんだもん。お菓子に罪はないのよ、食べてあげなきゃ可哀想でしょ?
あぁ、私はなんて優しい女神様なんでしょ。全世界の人々が感動したに違いないわ。
「しょうもない事を考えてないで、探すのを手伝ってください」
「ミレットが鬼過ぎて泣きたい」
「泣きたいのはこっちですよ。折角の休日だというのに」
「ごめんちゃい」
何度か目のため息を吐いたミレットと共に行方不明のレポートを探す。
しかし、レポート用紙は一向に見つからない。これは最早レポート用紙に翼が生えて飛んでいってしまった、としか考えられない。ゼウス様には、そう伝えておこう。
「むむむ、見つかりませんねぇ」
「どこにいってしまたのかしら? いい加減に疲れてきたわ」
私はがっくりと崩れ落ちた。床も雲なのでふかふかしていて気持ちがいい。もう面倒臭くなったので顔面から床に突っ伏す。
「あ」
「ん? どうしたの?」
「マイアス様の大きなお尻に紙がひっついています」
「……え?」
私は慌ててお尻に手をやる。すると、しわくちゃになったレポート用紙が姿を現した。
「レポート用紙だ」
「レポート用紙ですね」
「きゅ、吸引力が落ちないただ一つのお尻……」
この後、滅茶苦茶説教された。
「まったく……勘弁してくださいよ。以前にも同じことをなされていたじゃありませんか」
「ごめんなさい、反省してます」
ぷりぷりと怒りながらでも紅茶を淹れてくれるミレット大好き。
ひとまずはこれでゼウス様から出されていたレポートは全て書き終えた。
「でも、こんなレポートなんの役に立つのかしら?」
「内容は聞いても?」
「大したことじゃないわ。惑星カーンテヒルの始まりから今に至るまでの詳細な報告書よ」
「確かに、マイアス様自ら書く理由がありませんね。それならば、天使達に書かせた方がよっぽど早くて読みやすいレポートになります」
「うぐぐ、私、文字汚くないもん」
「マイアス様の文字は丸文字過ぎて読みにくいんですよ。あと、ハートマークはいらないと思います」
「あった方が和むじゃない」
「報告書にそのような要素はいりません」
しょんぼりと項垂れる私。悲劇のヒロイン待ったなしだわ。
取り敢えず、ようやく揃ったレポートを纏める。今度は紛失しないようにしなくては。
「これでよしっと。はぁぁぁぁぁぁっ、ようやくレポートから解放されたわ!」
「追加オーダーが入らない事を祈るばかりですね」
「縁起でもない事を言わないでちょうだい。女神様、泣いちゃう」
レポート用紙を転移術にて地球のゼウス様の下へと転送する。これで彼からの宿題は完了だ。私も女神としての格が上がることであろう。やったね!
「さてさて、随分と地上の事を放っておいちゃったけど、どういう状況なのかしら?」
「あ、はい。取り敢えず、エルティナちゃんが大ピンチです」
「え?」
「簡潔に言いますと、鬼化の兆候が起っております」
「……どういうこと?」
なんということだ。私がレポートにかまけている間に大変な事態が起こっているではないか。
こんなことをしている場合ではない、なんとか地上に干渉してエルティナちゃんを助けてあげなければ。
「ミレット、すぐさま儀式を! 私、がんばっちゃうんだから!」
「一応、準備は整っておりますが……今回も見守るだけの方が上手くいくかと」
「こんな時くらいしか私、がんばらない!」
「それもどうかと」
「うおぉぉぉぉぉぉっ! 燃え上がれ、女神ぱぅわ~! 神よ! 愛する子供達を救う力を与えたまえ!」
「いや、マイアス様って、一応、神ですよね?」
「……うん」
「その自信なさげな答えはなんですか。もう……」
今はそんな事、どうでもいいのだ。早くエルティナちゃんを救ってあげなくては。
私は急いで儀式の間へと急ごうと一歩を踏み出した。その時のことだ。
パチリ、と目の前に一瞬、電流が走り思考が停止した。
「マイアス様! マイアス様!」
「……ミレット?」
僅かな時間だったと思う。でも、私は床に横たわり、必死の形相で私を呼び掛けているミレットの声で覚醒したのだ。
「あぁ、よかった。いきなり倒れられたので心配いたしました」
「私、やっぱり倒れたのね」
私はミレットに「もう大丈夫」と声を掛けて立ち上がった。正直な話、まだ思考が安定していない。先ほどの電流はなんだったのだろうか。
考えても答えは出てこない。【Error】という文字が頭の中を埋め尽くすのみだ。
「考えても仕方がないか。早く儀式をしなくちゃ」
「無茶ですよ。足取りがおぼつかないではありませんか」
「あれれ? おっかしいぞ~」
よろよろとふらつき、私は雲のソファーに頭から突っ込む。
きっとミレットの視界には酷い映像が飛び込んできたであろう。
おかしい、その言葉が私の頭の中を埋め尽くす。Errorとおかしいがごちゃごちゃになった脳内で、私の思考は遂にショートした。
ミレットの声がどんどんと遠のいてゆく。
そんな状況下で、私は確かに聞いた。私の声を。
『ナンバー4649に異常発生。機能停止、再生プログラム実行……失敗』
なんなんだろうか、これは。とても不快だ。私の声なのに、私じゃない。
『ナンバー4649は任務に不適合と判断。廃棄を決定。ナンバー5009を再起動』
何が起こっているのだろうか。理解が追いつかない。なんとかソファーから抜け出し体勢を整える。そんな私の前には【私】がいた。
「ナンバー4649。今までご苦労様でした。あとは私が引き継ぎますので、どうぞお眠りください」
「……え?」
違う、私はそんな冷酷な表情などしない。あなたは誰?
「……! ……!?」
言葉が出ない、それどころか身体から力が抜けてゆく。いったい何が起こってるの。
「能力の譲渡完了。ふむ、おかしいですね……自爆プログラムが作動しないとは。まぁ、良いでしょう。ミレット、この不良品を片付けなさい」
「はい、マイアス様」
ミレットはその手に輝ける弓矢を作り出し、矢を私に向けた。
「……!」
やはり声は出ない。出るのは涙だけだ。
そして、矢は放たれ私の胸へと突き刺さった。その威力はすさまじく、私の身体は雲の上から空へと押し出される。あとは地上に向けて真っ逆さまだ。
「さようなら、元女神マイアス。あとは私にお任せなさい」
【私】が私に別れの言葉を投げかける。歪む視界の中、遠ざかる天界を見つめる事しかできなかった。