648食目 歪み
程なくして桃吉郎さんは復活した。いまだに白目痙攣状態にあるが、なんとか会話は成立する。
震え声で聞き取りにくいのだが。
「俺……生きる」
「お、おう。そうだな」
と曖昧な返事を返す史俊は、手にしたルドルフさんのグラビア本を開いた。
そこには、とんでもない姿のルドルフさんが艶めかしい表情で写っている写真が掲載されているではないか。
「おっふ……これは半端じゃねぇや」
史俊ならずとも赤面してしまうようなポージングだ。僕のルドルフさんのイメージがガラガラと音を立てて崩れ去ってゆく。
「これって、ルドルフさんも興奮してるのかしら? 乳首が……」
「あ~うん。きっとそうだよ。僕も緊張したら……」
「くひひ、分かる~。先っちょがビンビンになるのよねぇ。あの子を産んで初めて授乳した時もこんな感じだったわぁ」
どうやら、黒いローブの女性は既婚者だったらしい。娘もいるとのことだ。
「ひょっとしたら、もう会っているかもね。くひひ」
そう言い残して黒いローブの女性は去っていった。その後で名前を聞くのを忘れて、気まずい雰囲気になってしまう。
話し合った結果、桃吉郎さんから聞き出せばいいか、という結論で落ち着いた。
「俺、復活! 結論! おっぱいは正義! 閉廷!」
「いったい、脳内でなんの裁判をおこなっていたんですか?」
「超乳対貧乳、真夏の大激戦、ぷるるんもあるよ! 裁判だ」
「長いし、しょうもないわ。それよりも話の続きを」
「おぉん!」
詳しく、と乗り気だった史俊を黙らせて桃吉郎さんに話の続きを迫る。
彼は乱れた身なりを整えてテーブルの上で手を組んだ。
「さて、ここからはドクター・スウェカーに付いてだ」
「ここまで言われたら、ヤツが何を手に入れようとしているのか分かるぜ」
「だろうな。ヤツの目的は最初からASUKAだ」
彼は地球……即ち僕らが生まれた新たな地球で、なんらかの方法でASUKAの情報を入手した。
そして、惑星カーンテヒルに転移する計画を画策する。
「鬼に至ったのは手段の一つに過ぎない。ヤツの最終目標はあくまでASUKAの掌握なのだからな」
「でも、女神マイアスは勘付いているのでは?」
「まず間違いないな。しかし、彼女は事を起こしてはいない」
「それは何故でしょうか?」
「裏の顔は見せたくあるまい」
表の顔は間違いなく正しい女神の姿のマイアスだろう。伝承にある彼女は無限の愛を惜しみなく分け与える女神だ。桃吉郎さんが語った、狂える女神の彼女ではない。
「彼女が動かない理由としては俺がいること、そしてカーンテヒルの娘であるエルティナがいる事。そして、とある存在に見張られていることにある」
「その人物とは?」
「天空神ゼウス。全ての元凶にしてマイアスを唆せた者」
「「「!?」」」
僕らは聞き慣れた名に驚愕した。もう人では手に負えないであろう一件に足を踏み入れてしまっている事実に身体が震えてくる。
「そ、そんな大物まで?」
「あぁ、彼は滅びが気に入らないみたいでな。毎度、毎度、【約束の日】に抗っていた」
「でも、結局は再生するんでしょ?」
「そうだ。だが、それは苦痛でもある」
桃吉郎さんが言うには。神々は【約束の日】に起こった出来事を覚えているそうで、自分がどのように死んだかをハッキリと思い出せるそうだ。
それは間違いなく苦痛そのものだろう。忘れたくても忘れられない記憶は枷そのもの。
「神とてしょせんは意識ある者だ。自分の死は耐えがたい苦痛であろう。そこが神としての限界。カオス神のようにはなれないのだ……欲が強過ぎるがゆえにな」
だが、ゼウス神は知ってしまった。彼が滅びる直前に垣間見た神殺しの兵器、魔導騎兵ラグナロクを。カオス神の最期を。
そして後に知る。カーンテヒルという全てを喰らう者の存在を。彼は動き出した。
「オペレーションLR。真なる女神マイアスを滅し、魔導騎兵ラグナロクを手中に収めることによって、ゼウスは全ての頂点に立とうとしている」
「神殺しの兵器を神がてにするって、矛盾過ぎるじゃないですか!」
「ヤツはその矛盾の先へと行きたいのだ。誠司郎、きみは女神ヘラという名に覚えはあるか?」
「いえ、知りません」
「では、ゼウスの正妻は?」
「女神ガイアです」
「それくらいは知ってるぜ。なぁ? 時雨」
「常識よね」
桃吉郎さんはやはりな、と口角を上げた。僕らは何か間違っていたのだろうか。
「天空神ゼウスの正妻は女神ヘラだ。ガイアは彼の祖母に当たる」
「え?」
「女神ヘラはカーンテヒルが再生させた世界に誕生しなかったのさ」
「それは、どうしてですか?」
「歪んじまったんだ……何もかも。本来、あるべき世界の姿は失われ、歪んだまま進んでゆく。カーンテヒルの進化の力は歪みさえも進化させる」
ゼウス神は悲しみに暮れたのだという。どんなに辛くても隣には愛する妻がいた。だが、今回に限ってはその彼女がいない。
だから、彼は予てから計画していたオペレーションLRを歪め、妻を取り戻すための計画へと書き換えてしまったらしい。
「分かるだろう、誠司郎。ここは終わりにして始まりの地。全ての因果が集結する星だ」
「な、なんとなくは」
「そして、女神マイアスが動けない理由も。彼女は憂いているのさ。自らの手で再び息子を殺めてしまう可能性に。だから、彼女は動けない」
みつどもえ、ならぬ、よつどもえ、だ。エルティナさん、桃吉郎さん、ドクター・スウェカー、そして女神マイアス。
彼らの思惑が交差し世界は終焉へと加速している、と桃吉郎さんは言う。
「誠司郎、歪みは正さなくてはならない。そして、鬼の正体こそが歪みだ」
「え?」
「鬼は歪みから生まれた存在。それをカオス神は喰らい消化することによって正してきた。したがって、歪みを正さない限り鬼は延々と生まれてくる。唯一の例外はパンドラの箱だ」
パンドラの箱といえばギリシア神話に登場する、全ての厄災を封じ込めた箱であり、それを開けはなってしまったパンドラという少女の名を冠した曰く付きの箱だ。
「一時期、ゼウスが鬼を封じ込めていた時代があった。何かしらの思惑があってパンドラに箱を開けさせてしまったようだがな」
「折角、封じ込めた歪みをわざわざですか?」
「これでは、女神ヘラを復活させることができない、と判断したんだろうな」
「勝手過ぎます」
「神は勝手なんだよ。そして、それが許される立場にいる」
だからこそ、今、彼は苦しんでいる。愛に飢えて、届かない場所に行ってしまった最愛の人を取り戻すために、狂える神となりかけているのだ。
「でも、そんな事をどうして知り得たんですか?」
「俺はカオス神の記憶を継承していること、ともう一つ。協力者による情報提供だ」
なんでも協力者は天空神ゼウスを監視できる立場にいるらしい。
元々は前世に置ける桃吉郎さんの職場で共に活動していたが今では引退し、趣味を生業にしている人物だそうだ。
とても想像できないので、なんとなくどういう人かを聞いてみると、酒好きでお喋りな色男だ、との答えを返された。
「桃吉郎さん、僕らはどうすれば?」
「取り敢えずは、ドクター・スウェカーを始末したい。エルティナを救うにはまず、ヤツをこの世界から消し去らねばならないだろう」
ドクター・スウェカー。自己の快楽のために他者を道具扱いする外道だ。
僕としても彼に恨みを持っている。排除することに反対はない。
「でも、彼はどこに?」
「獄炎の迷宮の奥底で穴を掘っていますよ」
その声は桃吉郎さんの声ではなかった。しかし、聞き覚えのある声だ。
声のした方を見ると、そこには老紳士が静かに佇んでいたではないか。
「ブッケンドさん!? どうしてここに?」
「お久しぶりですね、誠司郎君、史俊君、時雨さん」
彼はしっかりとした足取りで円卓に就いた。そして、ここにいる理由を語り始めたのだ。
「まず、私はカーンテヒルの生まれではありません」
衝撃的な告白から入ったブッケンドさんは本名を明かした。
彼の本当の名は【部華堂 嵩弥】といい、東京都に在住していた元プロボクサーだったそうだ。
恐らくブッケンド・スゥ・クランという名は本名をもじったものなのだろう。
「いやはや、迂闊でしたよ。私ともあろう者がドクター・スウェカーの実験台にされてしまうとは」
彼はドクター・スウェカーに騙され、試作転移装置でカーンテヒルに転移させられてきたそうだ。
その後、生きるために死に物狂いで冒険し、結婚し、子を成したのだという。
最初は地球に帰る未練はあったものの、妻を得て子も得て、更には孫もいる今となっては遠い記憶に存在するだけの星となっていた。
しかし、ドクター・スウェカーの台頭ともに古き記憶は蘇ったのだという。
「孫たちが暮らすこの世界で、ヤツを野放しになどできませんからね。こうして閑職に就かせていただいて色々と行動していたんですよ。いやはや、相も変わらず尻尾を出さない男でしてね」
彼は言う、ドクター・スウェカーは獄炎の迷宮の最奥にて、惑星カーンテヒルの中枢に取り込まれている地球管理システムASUKAを目指していると。
「厳しい戦いになるだろう。カオス教団八司祭……いつ以来だろうか、全員に招集を掛けるのは」
桃吉郎さんの呟きの直後に八人の気配が出現した。彼らは僕らに気取らさせない動きで円卓に就いてゆく。
若干名、椅子に座れないで悲しそうな目をしているのは気のせいではないと思う。
「獄炎のモーベン、参じました」
「濁流のベルンゼ、来たぜ」
「土石流のガッツァ、見参」
「暴風のデミシュリス、ここに」
「雷怒のジュリアナ、ここに」
「閃光のバルドル、来ちゃいました」
「バ、バルドルさん!? なんでここに!?」
「え? だって、僕、カオス教団八司祭だもん」
僕らはウイグるんるん監獄の獄長様の姿に驚きを隠せなかった。果たして、エルティナさんはこの事実に気が付いているのだろうか。
「くひひ、驚いているようね。深淵のジュレイデ、参上よ」
「え? ディレジュさん?」
どこかで見た顔だと思ったら、彼女はラングステン王国のヒーラー、ディレジュ・ゴウムではないか。まさか、エルティナさんの友人の二人までもがカオス教団八司祭だったとは。
「あらん、嬉しいわぁ。私ったら、娘と勘違いされるほどに若々しいのねぇ」
「え?」
「騙されるな、誠司郎。こいつはこう見えても御年三百ごじゅう……うわ~何をする!?」
……うん、僕らは何も見なかった。いいね?
「あ、はい、ほんじつはおあつまりいただきありがとうございますもうしませんゆるちて」
ぴるぴると震える桃吉郎さんに威厳はなかった。どう見ても小動物のそれだ。
「おいおい、あまり坊を苛めんなよ」
「うふふ、可愛いからついね」
半魚人の男性がディレジュさんのお母さんを窘める。実際、彼女は二十代にしか見えないのだから困る。これで三百ご……。
「うふ?」
「あっはい。綺麗なお姉様で嬉しいなぁ~」
僕も命は惜しいんです。許してください。
「はいはい、話が進みませんよ。桃吉郎さまもシャンとしてください」
「ふきゅん、俺っていったい……」
獄炎のモーベンさんの励ましによって桃吉郎さんは復活した。
そして、会話内容はドクター・スウェカー討伐作戦へと移行してゆく。
その内容はあまりにも無謀なものであった。
僕らの青ざめる顔を蝋燭の灯火が照らす。僕の額から大粒の汗が流れ落ちた。
それは……後戻りできない作戦の開始と同義であったのだ。