641食目 動き出した男
「時に兄貴、どうやってここまで?」
「堂々と正面から入ってきた」
「マジで?」
「マジで。少しばかり警備が緩すぎるんじゃないですかねぇ?」
「やだ~」
「やだ~」
「この兄妹、息が合い過ぎでござろう。それよりも、何故に貴殿が?」
俺と漆黒のローブを身に纏ったあからさまに怪しい兄貴が「いやん、いやん」と身をよじらせているとザインちゃんのツッコミが入った。
ザインちゃんのツッコミに満足した兄貴は、蕎麦をむしゃあ、しつつ本題を切り出す。
「あぁ、実はブッケンドさんを使って、ドクター・スウェカーの事を探らせていたんだ」
「え? よく動いてくれたな」
「あぁ、おまえの名を勝手に使った」
「まさに外道」
ドクター・スウェカーは地球から来た鬼だ。前世の記憶が丸まる残っている兄貴は、ヤツに思うところがあったのだろう。
「でも、何ゆえに、ブッケンドさんなんだ?」
「暇そうだったから」
「これは酷い」
「まぁ、それは半分冗談なんだが」
ということは、半分は冗談ではない、ということになる。
「勘の良い子は嫌いだよ」
「さーせん」
とおふざけをして満足したところで、俺たちは真面目に取り組むことにした。
「ドクター・スウェカーは危険だ。ある意味で虎熊童子よりもな。おまえも接触したのだろう?」
「あぁ、なんというか、ぼやけたような感じの男だった」
そう、ヤツはなんというか正体が掴めない靄のような存在だった。
そこにいるのに、いないような奇妙な感じ、と言えばいいのだろうか。
「ヤツは地球でもそうだった。徹底的に裏方に専念し表に出てこない」
「でも、ヤツは姿を見せている」
「あぁ、だから俺はチャンスだ、と踏んだ」
「仕留めるつもりか? でも、兄貴は……」
「俺は桃力を使えない。だから、俺はヤツを【食い殺す】」
ぞくり、と背筋が凍り付くような殺気が一瞬、兄貴から放たれた。身体が強張り身動きが取れない。
これがカオス神の御子の力。圧倒的じゃないか。
「エルティナ、ドクター・スウェカーに慈悲は無用だ。ヤツの欲望のために、どれだけの命が犠牲になったと思う?」
「え……?」
「昨日までの時点で、九万九千八百二十二人だ」
「うそ……だろ……?」
「あぁ、嘘だ」
「……」
殴り合い宇宙。俺と兄貴は、白いデビルとレッド彗星のごとく殴り合いを開始した。
「まぁ、九万九千八百二十二人というのは出鱈目だ」
「話の流れをへし折る冗談はNGって、それ一番言われてっから」
俺は〈ヒール〉を施しつつ会話に戻った。兄貴は真面目に不真面目なので困る。
「百二十万人。ヤツが地球で手にかけた命の数だ」
「なんだと?」
思わず耳を疑う答えが返ってきた。尋常ではない数字に俺は戦慄を覚える、と同時に怒りが込み上げてくる。
「ドクター・スウェカーの欲望は無尽蔵だ。宇宙が無限に広がっているように、ヤツの欲望も無限に膨れ上がる。なんとしてでもヤツを仕留める。表に出てきている今を置いて他にないんだ」
兄貴の言い分は理解している。でも、それでも俺は……。
「分かっている。おまえは桃使いだ、退治はできても存在を消し去ることはできまい。だから、約束してくれ」
兄貴の黒い瞳が復讐の色へと染まってゆく。こんな目をした兄貴を、俺は見たことがない。
「俺がドクター・スウェカーと先に戦っていたなら……手を出すな」
それは願いでもなんでもない、命令だった。
例え妹でも違えれば容赦はない、と暗に告げているのである。
辛うじて頷き、兄貴は度し難い殺気を引っ込めた。
ちなみに、食堂に来ていた客は、ことごとく兄貴の殺気に当てられて気を失っている。
そこのラーメンどんぶりに顔を突っ込んでいる、禿げ頭のおっさんは大丈夫であろうか。心配だ。
「用件は済んだ。エルティナ、くれぐれもドクター・スウェカーに気を許すな」
「あ、あぁ、分かった」
「なら……いい」
兄貴は別れ際に、わしわしと俺の頭を撫でて去っていった。
傷だらけの大きな手は、今も誰かの命を救い上げているのだろうか。
それとも……。
俺は首を振って嫌な想像を振り払う。そんなわけはない、と自分に言い聞かせた。
「御屋形様……」
「分かっている、俺は、俺の成すべきことをやるだけだ」
迷っている時間はない。兄貴が動いた。
ならば、俺も動かねばならない時が来た、ということになる。
「ザイン、事態は予想よりも一刻を争うようだ。モモガーディアンズを本部に招集してくれ」
「委細承知」
バチン、という音と共に彼女の姿が消える。
『いもっ』
「ふきゅおん」
事情を察し、いもいも坊やと闇の枝が俺に還ってくる。
ちゃっかり蕎麦は闇の枝が食い尽していたらしい。こやつめ、はっはっは。
「忙しくなりそうだ」
俺は蕎麦が入っていた食器をささっと洗い、食堂を後にした。
向かう先は誠司郎が引き籠っている部屋だ。もう、そっとしておく時間はない。現実と向き合わせる。
それがエゴだろうとなんだろうと、俺がやるべきことなのだ。
「突入!」
「ひゃぁん!?」
俺はドアを蹴り破って内部に侵入。長ネギを構えた。
隙あらばケツにぶち込んでやるぜ。
誠司郎は着替えの最中だったらしく、可愛らしいお尻が丸見えだった。
突っ込んでいいのかな? ネギ。
「誠司郎、話に来た」
「……その前に服を着てもいいですか」
「四十秒で支度しな」
「み、短すぎます! せめて……」
「あと三十五秒」
「もうカウントしてた!」
慌てて服を着る誠司郎。わたわたと忙しないが、なんとか着替え終わったようだ。お見事。
でも、ベルトにスカートが挟まって、おパンツが丸見えなのはいただけない。そこだけがマイナス点だろう。
「エルティナさん……僕は」
「誠司郎、引き籠りは今日で終わりにしてもらう」
「……」
「事態は深刻だ。カオス教団が動き出す」
「え?」
誠司郎はカオス教団の名にキョトンとした表情を見せた。誠司郎はカオス教団のドクター・スウェカーは関係ない、と思っているのであろう。
事実、俺も関係だと思っていた。しかし、そうではなかった。
カオス教団のトップが、最もヤツと因縁が深かったことが発覚したのだ。
「カオス教団のトップは強力無比な能力の持ち主。それがドクター・スウェカーの抹殺に乗り出している」
「そ、それは、いいことなのでは?」
「逆だ、もし鬼化した冒険者が立ちはだかれば、彼らは食い殺されることになるだろう」
「か、香里のように殺すんですか! あなたのようにっ!」
誠司郎の大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていく。心の傷はまだまだ癒えそうにない。
「殺す? 彼がそんな生温い事をするわけがない。彼に食い殺されるという事は二度と輪廻の輪の中に還れない事を意味する。即ち……」
俺は誠司郎の瞳を見据えて告げる。どんなに残酷であろうとも伝えるべきことは伝えねばならない。
「滅び。永遠に存在は失われ、二度と生を受ける事はない。香里のように来世を約束されなくなるんだ」
誠司郎は俺の言葉に呆けた様子を窺わせた。しかし、言葉の意味を理解してくると、どんどん顔は青ざめ身体もカタカタと震え始める。
本能でこの恐怖を理解したのであろう。
死ぬのと滅びるのとでは、まったく違う事に。
二度と未来が来ない、という異次元の恐怖に気が付いてしまったのだ。
「そ、そんなことって……」
「あるのさ、俺も【同じ能力】を持っている」
誠司郎は、よろよろと壁に寄りかかり、ずるずるとへたり込んだ。それは、俺が全てを喰らう者を呼び出していたからだ。
誠司郎がへたり込んでくれたお陰で視線が同じになる。ハイエルフ状態は身長が低過ぎていけない。
「見ろ、誠司郎。これが全てを喰らい尽くし無に還す最凶最悪の存在、【全てを喰らう者】だ」
「あ、ああぁ……」
出現させている枝は七つ。火、水、風、土、雷……は今いないから六つか。闇と光の枝を同時に出現させている。
部屋に誠司郎しかいないから見せたのだ。他に人がいれば大パニックに陥っていたことであろう。
「な……に……? その能力。こわい、こわい、こわい……」
「誠司郎、カオス教団のトップの能力は、恐らく俺を上回る」
「え?」
信じられない、誠司郎の表情はそれに尽きた。だが、俺は確信している。
今の俺では、兄貴の足下にも及ばない、と。
「エンドレスグラウンドの冒険者たちが無謀なクエストに手を出すのも時間の問題だろう」
「そ、それが僕と何の関係が?」
関係がない、とは言えない。鬼が増えれば、それだけ誠司郎が死ぬリスクが増えるからだ。
エンドレスグラウンドのプレイヤーは死ねば鬼となり果て、カーンテヒルに再生させられる。
しかも、どこで再生させられるか分かっていない状況でそんな事をされては後手後手に回り、モモガーディアンズも活動しにくくなってしまう。
最悪、誠司郎はおろか、一般市民をも救えない事態になろう。
「エンドレスグラウンドのプレイヤーを救うためにも、誠司郎には手を貸してほしい」
「香里を救えなかった、あなたにですか?」
「そうだ」
「勝手な」
「そうだ」
誠司郎は俺を睨み付ける。だが、俺はその視線を真正面から受け止める。決して目を逸らさない。
「なんで、なんで、香里は救ってくれなかったんですか……」
「……」
「香里はお喋りが好きな……ただ、それだけの子だったのに」
「彼女は心に闇を溜めこんでいた」
「え?」
トウヤが会話に割り込んできた。どうやら、彼は香里について調べていたらしい。
「香里は虐めによって家に引き籠っていたようなのだ。そこで、エンドレスグラウンドに出会う。人を信じられなくなったにもかかわらず、人を求めて偽りの自分を演じながらVRGに没頭していたようだ」
「そ、そんな……香里が」
「人には言えないこともあろう。特にきみにはな」
トウヤの調べによって、何故、香里があそこまで強力な鬼へと変じたか理解できた。
鬼は心の闇、即ち陰の力によって大きく成長する。つまり、溜めに溜め込んだ憎しみの感情を糧に香里は強力な鬼の力を得てしまったのだ。なんという因果か。
「誠司郎、香里については言い訳などできない。俺をいくらでも恨んでくれても結構だ。だが、俺は他の冒険者たちを護ってやりたい。なんとか、無事に地球に戻してやりたいんだ」
「勝手過ぎます。勝手過ぎますよ……エルティナさん」
誠司郎は大きな目を閉じた。ぽろぽろと涙がこぼれスカートを濡らす。そして、唐突に自分の頬をぴしゃり、と叩いた。
そして、誠司郎は何かを決意したかのように目を見開く。
「何をすればいいんですか」
「すまない、感謝する。ありがとう、誠司郎」
「いえ、僕の力が役に立つのであれば。それに、もう、うじうじしている時間はないんでしょう?」
俺は神妙に頷いた。そう、時間がないのだ。ドクター・スウェカーの野望を食い止めるために、俺たちは早急に手を打たなければならない。
俺は誠司郎たちを伴って、ラングステン王国モモガーディアンズ本部へと急いだ。