350食目 やめられないもの
あれから少しばかり時間は流れ、季節は夏になった。
滞りなくレイエンさんからスラストさんにギルドマスターは交代し、
ヒーラー協会は今日もケガや病気で苦しむ人々を癒し続けている。
ギルドマスターが交代して何かが変わる、ということは特になかった。
それはきっと、レイエンさんが積み上げてきたものをスラストさんが尊重し、
大切に守っているからだと思う……。
ギルドマスター交代の日、レイエンさんは車椅子でヒーラー協会に現れた。
顔色も悪く苦しそうであったが、無理を言って出席しにきたらしい。
「今日、私はギルドマスターを降ります。
後のことはスラストに任せてしまうことになり心苦しいですが……
今の私では事務仕事すらままなりません。無念です」
レイエンさんはそれでも毅然とした態度で話を続けた。
長い話ではないのに、濃い疲労の色が垣間見える。
そして、ヒーラーとしての心得を改めて私達に諭し心に刻み込むと、
彼は真っ直ぐに私達を見て言葉を絞り出した。
「私は……あなた方と共に仕事ができたことが……本当に誇りでした」
それが……レイエンさんのギルドマスターとしての最後の言葉となった。
しかし、彼は私達に別れの言葉は言わなかったのである。
彼はギルドマスターを辞任するが、ヒーラーを辞める、
という選択肢を遂に選ぶことをしなかった。
彼こそエルティナちゃんに勝るとも劣らないヒーラー馬鹿なのだろう。
本当に無茶ばかりするんだから……。
「調子が良くなったら……また、紅茶でも淹れに来ますよ」
レイエンさんは私が抱いているエルティナ様の小さな手を取り、
再会の約束とも取れる言葉を贈った後、穏やかに微笑んだ。
こうして、彼はヒーラー協会を別れを告げることとなったのである。
ペペローナさんに車椅子を押されてヒーラー協会を後にする彼の後ろ姿を、
私達は見えなくなるまで見送った。
誰も言葉を発さない。
私達を支え続けてくれた兄のような存在が去ってしまったという事実に、
誰しもが心の整理が追いつかず混乱しているのだろう。
案の定、暫くの間は腐抜けたヒーラー達にげんこつを落とす
新ギルドマスターの姿が見られたのであった。
「はぁ、なんか調子が狂うんだよなぁ」
と愚痴を漏らすのはルレイさんだ。
彼はレイエンさんを実の兄のように慕っていたのだから仕方がない。
私もレイエンさんのことは兄のように慕っていたので、
彼の気持ちは痛いほどわかる。
「うん、ルレイの気持ちはわかるよ……僕も実感が湧かないしね」
そう言ったのはサブギルドマスターに就任したビビッドさんだ。
彼は現在、大量の書類の処理に悪戦苦闘している。
「この倍以上の書類を笑顔で片付けていたなんて信じられないよ。
はぁ……僕は本当にやっていけるんだろうか?」
現在、私達がいる場所はサブギルドマスタールーム。
以前はスラストさんが使用していた部屋だ。
ギルドマスタールームに移動した彼と入れ替わり、
ビビッドさんが使用することになったのである。
尚、部屋にあった物は殆どそのままだ。
というのも……仕事に使う物以外に、
スラストさんは物を購入しない主義なのである。
つまり、かなり殺風景な部屋に仕上がっていた。
「何を言っているんですか。
スラストさんは、この倍以上のお仕事をこなしているんですよ?
がんばってください、ビビッドさん。私達の期待の星なんですからね」
「うわぁ、他人ごとだと思って。
随分と図太くなったもんだね、エミール」
ビビッドさんは、ぽりぽりと頬を掻き私に非難の視線を送ってきた。
就任したばかりの彼では貫禄がないため、その視線にはなんの力もない。
よって、私の厚い装甲を貫くことなどできないのだ。
……装甲とは心の強さのことであり、
決して脂肪のことではないから勘違いしないように!
これは重要なことなので、二回言いますよっ!
決して、脂肪ではありませんっ!!
「ちょっと、ビビッド。ちゃっかり休んでないで手を動かしてよ。
休日を潰してまで手伝ってあげてるんだからさ」
「あ、ごめん、ごめん。感謝してるよ」
ちなみにサブギルドマスター補佐は、
ルレイさんとディレジュさんのどちらかになりそうだ。
私としては、ルレイさんが補佐に就きそうな予感がする。
ディレジュさんは……うん、いろいろとヤヴァイからなぁ。
変なお子様も憑りついているし。
「二人ともがんばってくださいね」
「少しは手伝ってくれると嬉しいのだけど?」
「残念ながら、エルティナちゃんのお世話で忙しいのです」
「ふきゅん」
ビビッドさんの目から放たれた『手伝ってビーム』を
『エルティナちゃんバリア』で跳ね返す。
この子の可愛らしさの前では、いかなる攻撃も通用しないのである。
「もう、ずるいなぁ。反則だよ」
「ははは、エルティナ様を盾に取られては、どうすることもできないね」
あれからというもの、エルティナちゃんに際立った変化は見受けられない。
いつ元の姿に戻るのか見当もつかないのだ。
桃先輩達が心配することはない、
とは言っているが、いつ何が起こるかわからない。
この子は私達の聖女であり、
世界を鬼という化け物から護るヒーローでもあるのだ。
そんな彼女が赤ちゃんのままでは、
この世界に危機が訪れても何もできないではないか!
……とは言っても、
私ごときが一人で焦燥感に煽られていても意味はないのだが。
悶々とした気持ちでエルティナちゃんのぷくぷくほっぺを指でつんつんし、
極上の感触を堪能しているとドアがノックされ、
ピンク色の重鎧を身に纏った美しい女騎士が入り込んできた。
「エルティナはここにいますね?」
違った、ルドルフさんだった。素で間違えてしまった。
「えぇ、ここにいますよ。いったいどうしたんですか?」
彼の表情には余裕というものが見受けられなかった。
そして、エルティナちゃんを探していた……ということは?
「……彼女をフィリミシア城までお連れします。
あなた方は普段どおり、ヒーラーとしての勤めを果たしてください」
その言葉でピンときた。
最も来て欲しくない事態がやってきたのだろう。
私は渋々、ルドルフさんにエルティナちゃんを受け渡す。
彼は慎重に彼女を抱きかかえると部屋の前で待機していた
スキンヘッドの騎士と共に、急ぎ足で立ち去っていった。
「今の様子だと、相当に思わしくない事態が舞い込んできたみたいだね」
「そのようだね、ルレイ。でも、僕らが出来ることは限られている。
その出来ることに全力を尽くすしかないよ」
ビビッドさんは眉間にしわを寄せるルレイさんの言葉に頷き、
再び手に持った書類に目を通し始めた。
なかなかどうして、肝が据わった表情である。
こういったところがスラストさんに認められた部分なのだろう。
私では無理だ。
私は手に残ったエルティナちゃんの温もりを抱きしめ、
震え出した身体を押さえ付ける。
また、エルティナちゃんが危険な目に遭うと思うと震えが止まらなかった。
今度は赤ちゃんじゃ済まないのではないか?
今度こそ……。
頭に浮かぶ嫌な考えを、ぶんぶんと首を振って吹き飛ばす。
大丈夫、彼女は戦えないのだ。戦場に赴くことなどありはしない。
そう自分に言い聞かせ、彼女が戻って来ることを祈るのであった。