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潮見物語

作者: 橘 酒乱
掲載日:2026/10/03

九月半ば、残暑の抜けきらない昼下がりだった。


 俺のもとへ、一通の手紙が届いた。差出人は「潮見民俗資料館《しおみみんぞくしりょうかん》」――聞いたこともない施設だった。白い封筒の表には、施設名の下に小さく、こう印刷されている。


  時手紙《ときてがみ》 手紙を通じて過去と未来が出会う


 封を切ると、茶色い便箋が一枚。折り目正しく、几帳面に折り畳まれていた。


 俺へ。

 潮見郡《しおみぐん》へ来い。

 潮見民俗資料館へ行け。

 環島《わじま》へ渡れ。夜にも渡れ。

 理由は、そこでわかる。


 ひとりで来ること。

 時手紙について調べろ。

 潮返り(しおがえ)の伝承について調べろ。

 理由は、そこでわかる。


 ――俺より。


 何度読み返しても、差出人らしき名前は自分のもの以外どこにもなかった。そして筆跡は、どこからどう見ても俺自身のものだった。だが俺には、その"潮見郡"を訪れた記憶が欠片もない。


 行ったことのない場所から、自分が手紙を送ってくる。そんな馬鹿な話があるか。


 俺はしばらく、黙ってその紙を眺めていた。それから、説明のつかない胸騒ぎを抱えたまま、旅支度を始めた。


◆


 旅立ちの朝は、雲ひとつない晴天だった。残暑はまだ厳しかったが、風からはもう湿気が抜けている。ほんの少しだけ、秋の匂いがした。


 サングラスをかけ、バックパックを背負って家を出る。不安と、ほんの少しの高揚感を同時に抱えたまま、最寄り駅まで歩いた。


 十年ぶりの大型連休だからだろうか、地下鉄の車内は思いのほか混んでいた。バックパックを胸の前に抱え直しながら、俺はぼんやりと思う。――思えば、久しぶりの旅行だ。仕事とちょっとした用事以外で、行き先に目的を持ったことなど、ここ最近なかった。


 乗り換えの大きな駅で駅員に道を尋ね、潮見郡駅行きの列車に乗り込んだ。ここから二時間弱。キャリーケースを引いた旅行客の姿も、ちらほらと目に付く。


座席のクッションも、窓の並びも、いつも乗るものとどこか違う。それだけで、日常から少しずつ剥がれていくような感覚があった。


 ビル群が途切れると、代わりに田畑が突き抜けるように広がった。その奥には山々がそびえている。夏休みの匂いを思い出させるグラウンド、寂れたボウリング場、忘れられたような病院、無人駅――それらが、次々と窓の外を過ぎていく。


 途中から乗ってきた誰かが、俺より先に降りていく。そのたびに、車内がまたひとつ静かになる。俺だけが、誰よりも奥地へと向かっているのだという、静かな実感があった。


◆


 潮見郡駅は、思っていたよりずっと現代的だった。空は青く、駅前には明るい日差しが落ちている。改札の周りも小綺麗で、想像していたようなひなびた田舎町とは、少し違っていた。若い人たちが、ごく普通に行き交っている。むしろ都会的にすら見えた。


 改札を出て、近くにいた学生に声をかけた。潮見民俗資料館の場所を尋ねると、海沿いにあるという。環島も、そのすぐ近くらしい。


 礼を言って歩き出す。駅前はこざっぱりとしていたが、奥へ進むにつれて、じわじわとひなびた景色に変わっていった。錆の浮いたトタン屋根の倉庫、潮風に色褪せた南国食材店の看板、伸び放題の生垣。長年、潮風にさらされ続けてきたのだと、一目でわかる町並みだった。


 暑い。駅から二十分ほど歩くと、不意に海が見えて、足が止まった。


 波が砕ける音。潮の匂い。陽を受けて白く煌めく海面――空の青さと、海の青さが、どこまでも続いている。しばらく、ただ立ち尽くして眺めていた。海を見るのは、いつ以来だろう。


 その先に、橋が一本、海の向こうへと伸びていた。橋の先には、椀を伏せたような形の、緑に覆われた小さな島が見える。環島だ。


 俺はそれを視界の端に置いたまま、まずは潮見民俗資料館へと向かった。


◆


 潮見民俗資料館は、瀟洒な建物だった。白壁に瓦葺きの大きな切妻屋根。窓枠には淡い青が使われている。和風とも洋風ともつかない、不思議な落ち着きがあった。


 玉砂利を踏んで石段を上る。脇には、木製の案内板が立っていた。


 スリッパに履き替え、中へ入る。最初に目に入ったのは、洋館めいた広間だった。黒い木の柱、磨かれた床板。壁際には古い柱時計があり、硝子戸棚には土地の民芸品が並んでいる。この土地を舞台にした文学作品も、きれいに整理されていた。埃っぽさのない、静かな場所だった。


 館内をひと通り見て回る。だが、時手紙や潮返りに関する資料らしいものは、どこにも見当たらなかった。


 しばらく立ち尽くしていると、背後から声がした。


「なにかお困りですか?」


 振り返ると、和服姿の、三十代くらいの女性が立っていた。この資料館の職員らしい。俺は少し迷ったあと、口を開いた。


「時手紙と、潮返りの伝承について知りたいんですが」


 自分でも、妙なことを聞いている自覚はあった。恥ずかしさを飲み込みながら答えを待つ。女性は少し考え込んでから、答えた。


「時手紙でしたら、奥のお部屋に説明がございます」


 そこで一度、言葉を切る。


「ですが……潮返り、というのは、私は聞いたことがありません。よろしければ、奥に資料もございますので、ご覧になってください」


 女性はそう言って、館の奥へ歩き出した。


◆


 案内されたのは、最奥にある畳敷きの部屋だった。障子の格子越しに、午後の光が斜めに差し込んでいる。窓の向こうには手入れの行き届いた庭があり、さらにその先に海が見えた。


 窓を開けてみる。潮の匂いが入ってきた。部屋には、俺の他に誰もいない。しばらく、そのまま窓辺に立っていた。海の向こうには、環島が見える。このまま横になって眠ってしまいたいと本気で思うくらい、心地のいい場所だった。


 深呼吸をひとつしてから畳に座り、積まれていた本や資料を手に取る。まずは時手紙について調べた。


 それは、思っていたよりすぐに分かった。この地方では、未来の自分や誰かに宛てた手紙を預かり、指定した年月日に届けるという習慣が、二十年ほど前から続いているらしい。観光客向けの、少し洒落た風習。そう考えれば、それほど不思議なものではなかった。


 問題は、俺の手紙だった。俺はここへ来たことがない。それなのに、俺の筆跡で書かれた手紙が、俺の知らない場所から届いたのだ。


 そのことを考えながら、古い郷土資料の綴じられた棚へ目を移す。背表紙には、年代も分からないものがいくつか並んでいた。


 その中に、一冊だけ、ひどく薄い冊子があった。表紙には何も書かれていない。手に取ると、紙が乾いた音を立てた。


 ページをめくる。地理的な背景と気候。かつての学校や街並みを写した白黒写真。産業と特産品。そして、何十ページか進んだところで、俺の手が止まった。


 小さな欄に、こう書かれていた。


  潮返り


 思わず、その文字を指でなぞる。その下には、短い説明があった。


『海に潮の満ち引きあるごとく、時にも満ち引きあり。

秋分の頃、この海域にて、過ぎし時と来たる時、その流れを異にする夜あり。

かかる夜、島へ渡る者は、交わるべからざる時に触るるという。

これを「潮返り」と称す。』


「……潮返り」


そのとき後ろで、畳を踏む音がした。


さっきの女性職員だった。


「何か見つかりましたか」


俺は冊子を見せた。


女性は紙面に目を落とす。


しばらく読んでいたが、やがて首を横に振った。


「…やはり私には詳しいことは分かりません。ただ、環島についての古い話なら、島のほうに残っているものもあるかもしれません」


「島に?」


「ええ。昔から、あそこは特別な場所だったそうですから」


そう言って、女性は窓の外を見る。


俺もつられて振り返った。


木々の向こうに海が見えた。


その先に、環島がある。


「…行ってみます」


そう言うと、女性は俺を見た。


「行ってらっしゃいませ」


◆


資料館を出ると、日はもう傾き始めていた。潮風に押されるようにして、橋のたもとを目指して歩く。


 海沿いの遊歩道を進んでいくと、緑の芝生の一角に、大きな銅像が立っていた。見上げるほどの高さで、束帯姿の人物が、まっすぐ前を見据えている。台座には、こう刻まれていた。


  藤原清綱《ふじわらのきよつな》郷像


 聞いたことのない名だった。頭上の烏帽子には、一羽の鴉が止まっている。微動だにせず、まるで最初からそこにいたかのように。


 俺はしばらくその像を見上げていたが、やがて視線を海へと移した。像の向こうに、白い欄干の橋が一直線に伸びている。その先に――環島。


◆


 橋に足を踏み入れる。石畳はきれいに敷き詰められていて、観光地らしい整備がされていた。渡りながら振り返ると、藤原清綱の像は、逆光の中で黒いシルエットになっていた。


 橋を渡りきると、鳥居が俺を迎えた。太い石柱に、しめ縄が渡されている。額束には「還時神社《かえりどきじんじゃ》」の文字。


 鳥居をくぐり、石段を上る。両脇にはびっしりと白い幟が並び、達筆な墨文字で奉納者の名が連ねられていた。苔生した狛犬が、階段の途中で睨みを利かせている。木々に囲まれているせいか、日差しが遮られ、急に涼しくなった。


 石段を上りきったところに、拝殿があった。彫刻の施された欄間や、丁寧に手入れされた提灯には、この土地の人々が長く守ってきたのだという気配が漂っている。


 俺は賽銭を投げ、手を合わせた。


 顔を上げると、社殿の脇に、由緒書きの立て看板があった。


 『御祭神 浦津毘姫命《うらつびめのみこと》 当社は、十二世紀、平安末期に藤原清綱公により建立されたと伝わる。』


 清綱、という名を、俺は先ほどの銅像で見たばかりだった。この島に社を建てたのは、あの男だったのか。


 看板には、それ以上のことは書かれていなかった。何のために建てたのだろう。


◆


 社殿の周りを歩いてみた。


 正面から見るよりも、裏手に回ると木々が濃い。社殿の背後には細い道が続き、その先に石段が見えた。島を一周できる遊歩道につながっているらしい。


 石段の手前で、足を止めた。脇に、小さな石碑が立っている。


 表面は風雨に削られて、文字の大半が読めなくなっていた。目を凝らしていると、


「それ、興味ありますか」


 背後から声がした。


 振り返ると、少し離れたところに老人が立っていた。作業着姿で、手には竹箒。境内の掃除をしていたらしい。日に焼けた顔に、人の好さそうな皺が刻まれている。


「これ、何て書いてあるんですか」


 老人は近づいてきて、石碑の表面を指でなぞった。


「昔はもう少し読めたんですけどね。ここが……夜、ですかね」


「夜」


「その下が、渡るべからず」


 老人はそこで言葉を切り、階段の先へ目をやった。


「この島は、昔から夜に入るもんじゃないと言われてますよ」


 夜。渡るべからず。


 胸の奥で、便箋の文字が浮かんだ。――環島へ渡れ。夜にも渡れ。


 俺は石碑から顔を上げた。


「どうしてですか」


「昔の人は、夜の海を怖がったのでしょう。島だって、暗くなれば危ない。今みたいに橋も明るくなかったし」


「それだけですか」


 老人は、俺を見た。


「それだけ、ということにしておくのが、一番いいんじゃないですかね」


 言い方が引っかかった。俺は少し迷ってから、口を開いた。


「……潮返りというのも、その話と関係がありますか」


 老人の顔から、笑みが消えた。


「どこで聞きました」


「資料館です。古い冊子に、その言葉が載っていました」


 老人は石碑を見て、それから俺に視線を戻した。


「なるほどねえ」


 竹箒を持ち直す。


「この辺りには、古い話がいくつか残ってるってだけですよ」


「どんな話ですか」


 答えはすぐには返ってこなかった。木々の向こうで、鳥が鳴いている。やがて老人は、石碑の脇のベンチに腰を下ろした。


「……ずっと昔、子どもを亡くした貴族の女がいたそうです」


 俺は黙って聞いた。


「海で子どもが死んだ。でも、遺体が上がらなかった。それで女は、こう言ったそうですよ」


 老人は少し声を落とした。


「あの子は死んでない。島にいる、って」


 そしてある晩、女はひとりで舟を出したという。


「……潮返りの夜に、ですか」


 老人は答えなかった。ただ、こちらを見ていた。その沈黙が、かえって答えだった。


「朝になって戻ってきた女は、『あの子を見た』とだけ言った。それ以上は、何も話さなかったそうです。それから何日もしないうちに、気が触れて、自分から海に入った」


 老人の口調は淡々としていた。怖がらせるつもりはないらしい。昔から何度も聞かされてきた話を、そのまま口にしているような調子だった。


「それで終わりじゃなかった」


「え」


「その後、この辺りで、子どもの水難が続いたそうです。女の執着が海に残ったんだ、と。そう言う人もいたって話ですよ」


 言い終えた老人は、海の方へ視線を投げた。


 俺が何か言おうと口を開きかけたとき、


「狩野さん」


 別の声がした。


 社殿の脇から、白衣に浅葱色の袴の男が歩いてくる。神主だった。


「ああ、どうも」


 老人は立ち上がり、軽く頭を下げた。神主は俺を見て、老人に視線を戻す。


「こちらの方は」


「いえね。この若者が、面白いことを聞くんですよ」


「ほう。どんな」


「潮返り、について」


 老人に促されて、俺が頷くと、神主はその言葉を繰り返した。


「潮返り……」


 少し考えてから、口を開く。


「そういう言い伝えがあることは、私も知っています。普通に考えれば、潮の流れが入れ替わる、海の異変のことでしょう。漁師さんたちが使った言葉だと聞いたことがあります」


 そこで一度、言葉を切った。


「ただ……時間の流れが反転する夜、という話も、耳にしたことはあります。どこまで本気で語られていたのかは、分かりませんが」


「子供を亡くした貴族の女性の話は、本当にあったことなんでしょうか」


 俺が尋ねると、神主は少し困ったような顔をした。


「…記録の上では確かめられていないんです。子どもの水難が相次いだ、という点も、それらしい記述はありません」


「じゃあ、噂だけ……?」


「そういうことになりますね。ただ、清綱公がこの社を建てたのは事実です。古い文書には、島にまつわる穢れを鎮めるため、とだけあります」


「穢れ、というのは」


「さあ。何を指すのかは、書かれていませんから」


 誰も、それ以上は言わなかった。風が木々を揺らし、遠くで波の音がしている。


 清綱は、何を恐れたのか。何を穢れだとしたのか。それを知る手がかりは、この島のどこにも残っていないようだった。


 ふと見上げると、木々の隙間から差す光が、いつのまにか橙色に変わりつつあった。


 ――夜にも渡れ。


 手紙の文字が、頭の中で繰り返される。


俺は二人に礼を言って、社殿を離れた。


 教えてもらった遊歩道を辿る。海際に沿って、細い道がぐるりと島を巡っていた。


◆


 歩き出してすぐ、息が上がった。想像していたよりずっと勾配がきつい。見上げると、環島全体が、ほとんど崖に近い斜面でできていることに気づいた。木々の根が、剥き出しの岩肌にしがみつくように張っている。よくこんな場所に神社を建てたものだと思った。


 道の途中、視界が開けた場所があった。足を止める。


 海は、さっきよりも色を変えていた。橙と紫の混じった光が、水面に長く伸びている。対岸には、潮見郡の町並みが、小さな灯りをぽつぽつと灯し始めていた。波打ち際の岩の上に、小さな石灯籠がひとつ、ぽつんと立っている。誰が、何のために置いたのかは分からない。ただ、絵になる光景だった。


 しばらく、そこに立って海を眺めた。手紙のことも、伝承のことも、一瞬だけ頭から消えた。


◆


 遊歩道を一周し終える頃には、空はすっかり夕暮れの色になっていた。


 橋を渡って、本土側へ戻る。渡りながら振り返ると、環島の輪郭が、群青の空に黒く沈み始めていた。鳥居の白さだけが、まだかろうじて見て取れる。


 歩いているうちに、腹が減っていることに気づいた。


そういえば、潮見郡に着いてから碌なものを食べていない。


 食事処を探して、商店街から少し外れた通りを歩く。日が落ちきると、昼間とはまるで違う顔の町だった。シャッターの下りた店の隣に、妙に眩しいネオン看板の店が挟まっている。――観光地の裏側というのは、案外どこも似たような雑多さをしているものだと思った。


 その一角に、暖簾を下げた小さな店を見つけた。カウンターだけの、地元の常連が集まっていそうな居酒屋だった。俺は迷わず、暖簾をくぐった。


◆


 カウンターの端に座り、まずは瓶ビールと刺身の盛り合わせを頼んだ。海沿いの町なら、まずはこれだろうという単純な判断だった。


和服にエプロンをかけ、細身のメガネが似合う色白な肌の若女将が、お通しの小鉢とビール瓶を先に出してくれる。


 グラスに注いでくれたビールを一口。よく冷えていて、疲れた体に染み渡った。


 刺身は、地物だという。ツヤのある赤身と、透き通った白身が、大葉の上に行儀よく並んでいる。醤油をつけて口に運ぶと、脂の甘さが舌に残った。


 品書きを眺めていると、見慣れない名前が目に留まった。メヒカリの唐揚げ。迷わず追加で頼んだ。


 少しして運ばれてきたのは、十㎝くらいの頭からしっぽまで丸ごと食べられる魚のから揚げが六本。ひと齧りすると、香ばしい衣の奥から、繊細な白身がほどけた。ほろ苦さと脂の甘みが、ビールによく合う。


 ほどよく酔いが回ってきた頃、上握りの盛り合わせも追加で頼んだ。旅先くらい、少し贅沢をしてもいいだろう。


届いたネタは、厚みが違った。箸で摘むと、身にしっかりとした弾力がある。切り口も驚くほど整っていて、素人目にも仕事の丁寧さが分かった。一貫、醤油をつけずに口へ運んでみる。それだけで、十分すぎるほど旨みが伝わってきた。


 添えられていた茶碗蒸しにも匙を伸ばす。表面を崩すと、椎茸の出汁がふわりと香った。熱々のところを口に運ぶと、舌の上で旨みと熱さが同時に広がる。


 一人、カウンターの隅で舌鼓を打ちながら、俺は今日知ったことを頭の中で並べ直した。


 資料館では、時手紙という、二十年前から続く郷土のサービスがあることを知った。だが、俺はここで手紙を出した覚えがない。


 そして、潮返り。秋分の頃、この海では時間が反転する夜が訪れるのだという。


 環島には、還時神社。祭神は浦津毘姫命。建てたのは、平安末期の公家・藤原清綱。


 その裏には、子を海で失った女の話があった。「あの子は死んでいない、島にいる」と言い残し、潮返りの夜に島へ渡り、「あの子を見た」とだけ告げて、正気を失った女。


 清綱は、その話と、相次いだという水難と、潮返りの伝承とを結びつけ、社を建てた。ただし、何のために――「穢れを鎮めるため」としか、記録には残っていない。


 そして、夜、島へ渡ることは、禁じられている。


 ――環島へ渡れ。夜にも渡れ。


 手紙は、その禁忌を、はっきりと踏み越えろと言っている。


 食べ終える頃には、腹も気持ちも、落ち着いていた。


 会計を済ませ、暖簾をくぐって外に出る。夜の空気はすっきりとしていて、酔いのせいか、頬に心地よかった。


 俺は、橋の方角――環島へ、もう一度足を向けた。


◆


夜の環島は、昼間とは別の場所だった。


 欄干の足元に並んだ灯りが、等間隔に海面を照らしている。波がその光を砕くたびに、水面が白く明滅した。


 渡ってくる観光客の姿はもうない。橋の上には、俺一人だけだった。


 鳥居をくぐる。昼間には気にも留めなかった暗がりが、今は妙に重かった。灯籠の明かりだけが、点々と参道を照らしている。


 石段を上り切ると、拝殿の前に出た。


 社号を記した扁額だけが、小さな灯りにぼんやりと照らされている。社殿の屋根は闇に溶け、その輪郭だけが夜空に浮かんでいた。


 誰もいない。当然だ、こんな時間に。


 俺は賽銭箱の前に立ち、もう一度、手を合わせた。


 渡ってきたはいいが、ここで一体何が分かるというのだろう。そう思いながら、島を一周したら本土へ戻ろうと決める。


 社殿を離れ、裏手へ回ろうとしたところで、ふと違和感に襲われた。


 ――静(・)か(・)す(・)ぎ(・)る(・)。


 俺は足を止め、耳を澄ませた。風の音がない。木々のざわめきもない。あれほど鳴いていた虫の声も、いつの間にか途切れていた。


 まるで、島全体が、一瞬だけ息を止めているみたいだった。


◆


 どれくらい、そうしていただろう。


 気づくと、体の輪郭が妙に頼りなかった。今日一日のことが、順番も前後もばらばらのまま、頭の中を通り過ぎていく。潮見郡に来たことも、まだ来ていないことも、同時に本当であるような感覚だった。


 どこか遠くで、何かの気配がした。足音か、声か、判然としない。


 いま、振り返ってはいけない。――なぜだか、それが正しい振る舞いなのだと、体の方が先に理解していた。


 その代わりに、俺は、自分がこれから何をすべきかを、はっきりと悟った。


 説明はできない。ただ、分かった。


 ――俺は、あの手紙を書かなければならない。


 一言一句、すでに頭の中に出来上がっていた。まるで、最初から知っていたことを、思い出しているだけのように。


 どこかで、二つの潮目が、音もなく重なっていくような感覚があった。


 俺は、この島へ来るために手紙を受け取ったんじゃない。


 この島へ来たから、手紙を書くことになったのだ。


 手紙は、俺をここへ呼んだ。


 けれど。


 その手紙を書いたのも、俺だ。


 まだ書いていないのに。


 もう、書いてしまっている。


 そんな矛盾だけが、妙にはっきりと分かった。


 我に返ったときには、何事もなかったように、虫が鳴き、風が木々を揺らし、「還時神社」と書かれた白い幟が音を立ててはためいていた。


 俺は逃げるようにして、石段を下り、橋を渡った。振り返らなかった。


 本土に戻ったとき、時計は、思っていたよりずっと進んでいた。


◆


 俺は、駅前で見かけた漫画喫茶に飛び込んだ。


 個室に座り、パソコンを立ち上げる。何から書けばいいのかは、考えるまでもなかった。


 『九月半ば、残暑の抜けきらない昼下がり――俺のもとへ、一通の手紙が届いた』


 そこから、指が止まらなかった。潮見郡のこと、資料館のこと、環島のこと、清綱のこと、女の伝承のこと。今日一日で見聞きしたすべてを、俺は夢中で文字にしていった。


 書きながら、妙な確信があった。これは、ただの旅行記ではない。これは――あの手紙の、出所そのものだ。


 気づけば、窓の外が白み始めていた。


さすがに、疲れが限界だった。仮眠を取り、シャワーを浴びる。


それから、店内のモーニングサービスでトーストを焼いた。バターの匂いがするそれを、コーヒーとともに腹に収める。


徹夜のせいなのか、それとも、昨晩、環島で経験したことのせいなのか。頭の芯がぼんやりと痺れていて、気分もあまり優れなかった。


 それでも、行かなければならない場所があった。この因果は、まだ終わっていない。


 午前十時頃、漫画喫茶を出る。外は、昨日と同じように突き抜けるような青空だった。陰鬱だった気分を、少しだけ押し流してくれる。


◆


 開館時間を少し過ぎた頃、俺は資料館に入った。昨日案内してくれた女性が、カウンターの向こうで俺に気づき、軽く会釈をした。


「時手紙を、出したいんですが」


女性は、慣れた様子で用紙を差し出した。宛先の欄に、自分の名前と住所を書く。


 届ける日付の欄には、迷わず、九月半ばの"あの日"――手紙が最初に届いた、あの日付を記した。本来なら、時手紙はちょうど一年後に届くものだ。だが、この手紙は違う。これは"あの日"の俺へと、届くものだ。


 本文を書く手に迷いはない。


 俺へ。

 潮見郡へ来い。

 潮見民俗資料館へ行け。

 環島へ渡れ。夜にも渡れ。

 理由は、そこでわかる。


 ひとりで来ること。

 時手紙について調べろ。

 潮返りの伝承について調べろ。

 理由は、そこでわかる。


 ――俺より。


 封をして、窓口へ差し出す。女性は、丁寧に受け取った。


「確かにお届けします」


 その言葉に、俺は小さく頷いた。


◆


 帰りの列車に揺られながら、俺のもとに届いた、あの手紙を読み返した。


 もう何度読んだか分からない。それでも、もう一度読む。


 便箋を裏返してみる。何もない。表に戻す。


 そのときだった――文章の最後に、見覚えのない一文があることに気づいたのは。


 『この手紙を書き終えたなら、どうか考えないでほしい。最初に書いたのが誰なのかを。』


 背筋が、凍った。


 その一文だけは、元(・)々(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。俺は書いていない。断言できる。だが、手紙には確かに、俺の字で、そう記されていた。


 その瞬間、昨夜の環島で覚えた、あの妙な感覚が蘇った。時間が、一度だけ向きを見失ったような感覚。自分という存在が、どこかから外れてしまったような感覚。


 俺は手紙を折り畳んだ。考えないことにする。


 それが正しいのかは、分からない。ただ、手紙にはそう書いてある。


 だから――考えない。


 潮返り。


 還時神社。


 子を亡くした女の伝承と、藤原清綱。


 列車は、何事もなかったように走り続けていた。潮見郡から、遠ざかっていく。


 この旅の始まりとなった、あの時手紙は――俺が書いたから届いたのか。それとも、届いたから、俺が書いたのか。


 その二つの間に、おそらく、始まりなどないのだろう。


 列車の窓に、自分の顔が映っている。俺はそれを見ながら、静かに目を閉じた。


 因果だけが、音もなく輪になっている。


 そして、その輪のどこにも――最初の一歩はな(・)か(・)っ(・)た(・)。

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