潮見物語
九月半ば、残暑の抜けきらない昼下がりだった。
俺のもとへ、一通の手紙が届いた。差出人は「潮見民俗資料館」――聞いたこともない施設だった。白い封筒の表には、施設名の下に小さく、こう印刷されている。
時手紙 手紙を通じて過去と未来が出会う
封を切ると、茶色い便箋が一枚。折り目正しく、几帳面に折り畳まれていた。
俺へ。
潮見郡へ来い。
潮見民俗資料館へ行け。
環島へ渡れ。夜にも渡れ。
理由は、そこでわかる。
ひとりで来ること。
時手紙について調べろ。
潮返りの伝承について調べろ。
理由は、そこでわかる。
――俺より。
何度読み返しても、差出人らしき名前は自分のもの以外どこにもなかった。そして筆跡は、どこからどう見ても俺自身のものだった。だが俺には、その"潮見郡"を訪れた記憶が欠片もない。
行ったことのない場所から、自分が手紙を送ってくる。そんな馬鹿な話があるか。
俺はしばらく、黙ってその紙を眺めていた。それから、説明のつかない胸騒ぎを抱えたまま、旅支度を始めた。
◆
旅立ちの朝は、雲ひとつない晴天だった。残暑はまだ厳しかったが、風からはもう湿気が抜けている。ほんの少しだけ、秋の匂いがした。
サングラスをかけ、バックパックを背負って家を出る。不安と、ほんの少しの高揚感を同時に抱えたまま、最寄り駅まで歩いた。
十年ぶりの大型連休だからだろうか、地下鉄の車内は思いのほか混んでいた。バックパックを胸の前に抱え直しながら、俺はぼんやりと思う。――思えば、久しぶりの旅行だ。仕事とちょっとした用事以外で、行き先に目的を持ったことなど、ここ最近なかった。
乗り換えの大きな駅で駅員に道を尋ね、潮見郡駅行きの列車に乗り込んだ。ここから二時間弱。キャリーケースを引いた旅行客の姿も、ちらほらと目に付く。
座席のクッションも、窓の並びも、いつも乗るものとどこか違う。それだけで、日常から少しずつ剥がれていくような感覚があった。
ビル群が途切れると、代わりに田畑が突き抜けるように広がった。その奥には山々がそびえている。夏休みの匂いを思い出させるグラウンド、寂れたボウリング場、忘れられたような病院、無人駅――それらが、次々と窓の外を過ぎていく。
途中から乗ってきた誰かが、俺より先に降りていく。そのたびに、車内がまたひとつ静かになる。俺だけが、誰よりも奥地へと向かっているのだという、静かな実感があった。
◆
潮見郡駅は、思っていたよりずっと現代的だった。空は青く、駅前には明るい日差しが落ちている。改札の周りも小綺麗で、想像していたようなひなびた田舎町とは、少し違っていた。若い人たちが、ごく普通に行き交っている。むしろ都会的にすら見えた。
改札を出て、近くにいた学生に声をかけた。潮見民俗資料館の場所を尋ねると、海沿いにあるという。環島も、そのすぐ近くらしい。
礼を言って歩き出す。駅前はこざっぱりとしていたが、奥へ進むにつれて、じわじわとひなびた景色に変わっていった。錆の浮いたトタン屋根の倉庫、潮風に色褪せた南国食材店の看板、伸び放題の生垣。長年、潮風にさらされ続けてきたのだと、一目でわかる町並みだった。
暑い。駅から二十分ほど歩くと、不意に海が見えて、足が止まった。
波が砕ける音。潮の匂い。陽を受けて白く煌めく海面――空の青さと、海の青さが、どこまでも続いている。しばらく、ただ立ち尽くして眺めていた。海を見るのは、いつ以来だろう。
その先に、橋が一本、海の向こうへと伸びていた。橋の先には、椀を伏せたような形の、緑に覆われた小さな島が見える。環島だ。
俺はそれを視界の端に置いたまま、まずは潮見民俗資料館へと向かった。
◆
潮見民俗資料館は、瀟洒な建物だった。白壁に瓦葺きの大きな切妻屋根。窓枠には淡い青が使われている。和風とも洋風ともつかない、不思議な落ち着きがあった。
玉砂利を踏んで石段を上る。脇には、木製の案内板が立っていた。
スリッパに履き替え、中へ入る。最初に目に入ったのは、洋館めいた広間だった。黒い木の柱、磨かれた床板。壁際には古い柱時計があり、硝子戸棚には土地の民芸品が並んでいる。この土地を舞台にした文学作品も、きれいに整理されていた。埃っぽさのない、静かな場所だった。
館内をひと通り見て回る。だが、時手紙や潮返りに関する資料らしいものは、どこにも見当たらなかった。
しばらく立ち尽くしていると、背後から声がした。
「なにかお困りですか?」
振り返ると、和服姿の、三十代くらいの女性が立っていた。この資料館の職員らしい。俺は少し迷ったあと、口を開いた。
「時手紙と、潮返りの伝承について知りたいんですが」
自分でも、妙なことを聞いている自覚はあった。恥ずかしさを飲み込みながら答えを待つ。女性は少し考え込んでから、答えた。
「時手紙でしたら、奥のお部屋に説明がございます」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが……潮返り、というのは、私は聞いたことがありません。よろしければ、奥に資料もございますので、ご覧になってください」
女性はそう言って、館の奥へ歩き出した。
◆
案内されたのは、最奥にある畳敷きの部屋だった。障子の格子越しに、午後の光が斜めに差し込んでいる。窓の向こうには手入れの行き届いた庭があり、さらにその先に海が見えた。
窓を開けてみる。潮の匂いが入ってきた。部屋には、俺の他に誰もいない。しばらく、そのまま窓辺に立っていた。海の向こうには、環島が見える。このまま横になって眠ってしまいたいと本気で思うくらい、心地のいい場所だった。
深呼吸をひとつしてから畳に座り、積まれていた本や資料を手に取る。まずは時手紙について調べた。
それは、思っていたよりすぐに分かった。この地方では、未来の自分や誰かに宛てた手紙を預かり、指定した年月日に届けるという習慣が、二十年ほど前から続いているらしい。観光客向けの、少し洒落た風習。そう考えれば、それほど不思議なものではなかった。
問題は、俺の手紙だった。俺はここへ来たことがない。それなのに、俺の筆跡で書かれた手紙が、俺の知らない場所から届いたのだ。
そのことを考えながら、古い郷土資料の綴じられた棚へ目を移す。背表紙には、年代も分からないものがいくつか並んでいた。
その中に、一冊だけ、ひどく薄い冊子があった。表紙には何も書かれていない。手に取ると、紙が乾いた音を立てた。
ページをめくる。地理的な背景と気候。かつての学校や街並みを写した白黒写真。産業と特産品。そして、何十ページか進んだところで、俺の手が止まった。
小さな欄に、こう書かれていた。
潮返り
思わず、その文字を指でなぞる。その下には、短い説明があった。
『海に潮の満ち引きあるごとく、時にも満ち引きあり。
秋分の頃、この海域にて、過ぎし時と来たる時、その流れを異にする夜あり。
かかる夜、島へ渡る者は、交わるべからざる時に触るるという。
これを「潮返り」と称す。』
「……潮返り」
そのとき後ろで、畳を踏む音がした。
さっきの女性職員だった。
「何か見つかりましたか」
俺は冊子を見せた。
女性は紙面に目を落とす。
しばらく読んでいたが、やがて首を横に振った。
「…やはり私には詳しいことは分かりません。ただ、環島についての古い話なら、島のほうに残っているものもあるかもしれません」
「島に?」
「ええ。昔から、あそこは特別な場所だったそうですから」
そう言って、女性は窓の外を見る。
俺もつられて振り返った。
木々の向こうに海が見えた。
その先に、環島がある。
「…行ってみます」
そう言うと、女性は俺を見た。
「行ってらっしゃいませ」
◆
資料館を出ると、日はもう傾き始めていた。潮風に押されるようにして、橋のたもとを目指して歩く。
海沿いの遊歩道を進んでいくと、緑の芝生の一角に、大きな銅像が立っていた。見上げるほどの高さで、束帯姿の人物が、まっすぐ前を見据えている。台座には、こう刻まれていた。
藤原清綱郷像
聞いたことのない名だった。頭上の烏帽子には、一羽の鴉が止まっている。微動だにせず、まるで最初からそこにいたかのように。
俺はしばらくその像を見上げていたが、やがて視線を海へと移した。像の向こうに、白い欄干の橋が一直線に伸びている。その先に――環島。
◆
橋に足を踏み入れる。石畳はきれいに敷き詰められていて、観光地らしい整備がされていた。渡りながら振り返ると、藤原清綱の像は、逆光の中で黒いシルエットになっていた。
橋を渡りきると、鳥居が俺を迎えた。太い石柱に、しめ縄が渡されている。額束には「還時神社」の文字。
鳥居をくぐり、石段を上る。両脇にはびっしりと白い幟が並び、達筆な墨文字で奉納者の名が連ねられていた。苔生した狛犬が、階段の途中で睨みを利かせている。木々に囲まれているせいか、日差しが遮られ、急に涼しくなった。
石段を上りきったところに、拝殿があった。彫刻の施された欄間や、丁寧に手入れされた提灯には、この土地の人々が長く守ってきたのだという気配が漂っている。
俺は賽銭を投げ、手を合わせた。
顔を上げると、社殿の脇に、由緒書きの立て看板があった。
『御祭神 浦津毘姫命 当社は、十二世紀、平安末期に藤原清綱公により建立されたと伝わる。』
清綱、という名を、俺は先ほどの銅像で見たばかりだった。この島に社を建てたのは、あの男だったのか。
看板には、それ以上のことは書かれていなかった。何のために建てたのだろう。
◆
社殿の周りを歩いてみた。
正面から見るよりも、裏手に回ると木々が濃い。社殿の背後には細い道が続き、その先に石段が見えた。島を一周できる遊歩道につながっているらしい。
石段の手前で、足を止めた。脇に、小さな石碑が立っている。
表面は風雨に削られて、文字の大半が読めなくなっていた。目を凝らしていると、
「それ、興味ありますか」
背後から声がした。
振り返ると、少し離れたところに老人が立っていた。作業着姿で、手には竹箒。境内の掃除をしていたらしい。日に焼けた顔に、人の好さそうな皺が刻まれている。
「これ、何て書いてあるんですか」
老人は近づいてきて、石碑の表面を指でなぞった。
「昔はもう少し読めたんですけどね。ここが……夜、ですかね」
「夜」
「その下が、渡るべからず」
老人はそこで言葉を切り、階段の先へ目をやった。
「この島は、昔から夜に入るもんじゃないと言われてますよ」
夜。渡るべからず。
胸の奥で、便箋の文字が浮かんだ。――環島へ渡れ。夜にも渡れ。
俺は石碑から顔を上げた。
「どうしてですか」
「昔の人は、夜の海を怖がったのでしょう。島だって、暗くなれば危ない。今みたいに橋も明るくなかったし」
「それだけですか」
老人は、俺を見た。
「それだけ、ということにしておくのが、一番いいんじゃないですかね」
言い方が引っかかった。俺は少し迷ってから、口を開いた。
「……潮返りというのも、その話と関係がありますか」
老人の顔から、笑みが消えた。
「どこで聞きました」
「資料館です。古い冊子に、その言葉が載っていました」
老人は石碑を見て、それから俺に視線を戻した。
「なるほどねえ」
竹箒を持ち直す。
「この辺りには、古い話がいくつか残ってるってだけですよ」
「どんな話ですか」
答えはすぐには返ってこなかった。木々の向こうで、鳥が鳴いている。やがて老人は、石碑の脇のベンチに腰を下ろした。
「……ずっと昔、子どもを亡くした貴族の女がいたそうです」
俺は黙って聞いた。
「海で子どもが死んだ。でも、遺体が上がらなかった。それで女は、こう言ったそうですよ」
老人は少し声を落とした。
「あの子は死んでない。島にいる、って」
そしてある晩、女はひとりで舟を出したという。
「……潮返りの夜に、ですか」
老人は答えなかった。ただ、こちらを見ていた。その沈黙が、かえって答えだった。
「朝になって戻ってきた女は、『あの子を見た』とだけ言った。それ以上は、何も話さなかったそうです。それから何日もしないうちに、気が触れて、自分から海に入った」
老人の口調は淡々としていた。怖がらせるつもりはないらしい。昔から何度も聞かされてきた話を、そのまま口にしているような調子だった。
「それで終わりじゃなかった」
「え」
「その後、この辺りで、子どもの水難が続いたそうです。女の執着が海に残ったんだ、と。そう言う人もいたって話ですよ」
言い終えた老人は、海の方へ視線を投げた。
俺が何か言おうと口を開きかけたとき、
「狩野さん」
別の声がした。
社殿の脇から、白衣に浅葱色の袴の男が歩いてくる。神主だった。
「ああ、どうも」
老人は立ち上がり、軽く頭を下げた。神主は俺を見て、老人に視線を戻す。
「こちらの方は」
「いえね。この若者が、面白いことを聞くんですよ」
「ほう。どんな」
「潮返り、について」
老人に促されて、俺が頷くと、神主はその言葉を繰り返した。
「潮返り……」
少し考えてから、口を開く。
「そういう言い伝えがあることは、私も知っています。普通に考えれば、潮の流れが入れ替わる、海の異変のことでしょう。漁師さんたちが使った言葉だと聞いたことがあります」
そこで一度、言葉を切った。
「ただ……時間の流れが反転する夜、という話も、耳にしたことはあります。どこまで本気で語られていたのかは、分かりませんが」
「子供を亡くした貴族の女性の話は、本当にあったことなんでしょうか」
俺が尋ねると、神主は少し困ったような顔をした。
「…記録の上では確かめられていないんです。子どもの水難が相次いだ、という点も、それらしい記述はありません」
「じゃあ、噂だけ……?」
「そういうことになりますね。ただ、清綱公がこの社を建てたのは事実です。古い文書には、島にまつわる穢れを鎮めるため、とだけあります」
「穢れ、というのは」
「さあ。何を指すのかは、書かれていませんから」
誰も、それ以上は言わなかった。風が木々を揺らし、遠くで波の音がしている。
清綱は、何を恐れたのか。何を穢れだとしたのか。それを知る手がかりは、この島のどこにも残っていないようだった。
ふと見上げると、木々の隙間から差す光が、いつのまにか橙色に変わりつつあった。
――夜にも渡れ。
手紙の文字が、頭の中で繰り返される。
俺は二人に礼を言って、社殿を離れた。
教えてもらった遊歩道を辿る。海際に沿って、細い道がぐるりと島を巡っていた。
◆
歩き出してすぐ、息が上がった。想像していたよりずっと勾配がきつい。見上げると、環島全体が、ほとんど崖に近い斜面でできていることに気づいた。木々の根が、剥き出しの岩肌にしがみつくように張っている。よくこんな場所に神社を建てたものだと思った。
道の途中、視界が開けた場所があった。足を止める。
海は、さっきよりも色を変えていた。橙と紫の混じった光が、水面に長く伸びている。対岸には、潮見郡の町並みが、小さな灯りをぽつぽつと灯し始めていた。波打ち際の岩の上に、小さな石灯籠がひとつ、ぽつんと立っている。誰が、何のために置いたのかは分からない。ただ、絵になる光景だった。
しばらく、そこに立って海を眺めた。手紙のことも、伝承のことも、一瞬だけ頭から消えた。
◆
遊歩道を一周し終える頃には、空はすっかり夕暮れの色になっていた。
橋を渡って、本土側へ戻る。渡りながら振り返ると、環島の輪郭が、群青の空に黒く沈み始めていた。鳥居の白さだけが、まだかろうじて見て取れる。
歩いているうちに、腹が減っていることに気づいた。
そういえば、潮見郡に着いてから碌なものを食べていない。
食事処を探して、商店街から少し外れた通りを歩く。日が落ちきると、昼間とはまるで違う顔の町だった。シャッターの下りた店の隣に、妙に眩しいネオン看板の店が挟まっている。――観光地の裏側というのは、案外どこも似たような雑多さをしているものだと思った。
その一角に、暖簾を下げた小さな店を見つけた。カウンターだけの、地元の常連が集まっていそうな居酒屋だった。俺は迷わず、暖簾をくぐった。
◆
カウンターの端に座り、まずは瓶ビールと刺身の盛り合わせを頼んだ。海沿いの町なら、まずはこれだろうという単純な判断だった。
和服にエプロンをかけ、細身のメガネが似合う色白な肌の若女将が、お通しの小鉢とビール瓶を先に出してくれる。
グラスに注いでくれたビールを一口。よく冷えていて、疲れた体に染み渡った。
刺身は、地物だという。ツヤのある赤身と、透き通った白身が、大葉の上に行儀よく並んでいる。醤油をつけて口に運ぶと、脂の甘さが舌に残った。
品書きを眺めていると、見慣れない名前が目に留まった。メヒカリの唐揚げ。迷わず追加で頼んだ。
少しして運ばれてきたのは、十㎝くらいの頭からしっぽまで丸ごと食べられる魚のから揚げが六本。ひと齧りすると、香ばしい衣の奥から、繊細な白身がほどけた。ほろ苦さと脂の甘みが、ビールによく合う。
ほどよく酔いが回ってきた頃、上握りの盛り合わせも追加で頼んだ。旅先くらい、少し贅沢をしてもいいだろう。
届いたネタは、厚みが違った。箸で摘むと、身にしっかりとした弾力がある。切り口も驚くほど整っていて、素人目にも仕事の丁寧さが分かった。一貫、醤油をつけずに口へ運んでみる。それだけで、十分すぎるほど旨みが伝わってきた。
添えられていた茶碗蒸しにも匙を伸ばす。表面を崩すと、椎茸の出汁がふわりと香った。熱々のところを口に運ぶと、舌の上で旨みと熱さが同時に広がる。
一人、カウンターの隅で舌鼓を打ちながら、俺は今日知ったことを頭の中で並べ直した。
資料館では、時手紙という、二十年前から続く郷土のサービスがあることを知った。だが、俺はここで手紙を出した覚えがない。
そして、潮返り。秋分の頃、この海では時間が反転する夜が訪れるのだという。
環島には、還時神社。祭神は浦津毘姫命。建てたのは、平安末期の公家・藤原清綱。
その裏には、子を海で失った女の話があった。「あの子は死んでいない、島にいる」と言い残し、潮返りの夜に島へ渡り、「あの子を見た」とだけ告げて、正気を失った女。
清綱は、その話と、相次いだという水難と、潮返りの伝承とを結びつけ、社を建てた。ただし、何のために――「穢れを鎮めるため」としか、記録には残っていない。
そして、夜、島へ渡ることは、禁じられている。
――環島へ渡れ。夜にも渡れ。
手紙は、その禁忌を、はっきりと踏み越えろと言っている。
食べ終える頃には、腹も気持ちも、落ち着いていた。
会計を済ませ、暖簾をくぐって外に出る。夜の空気はすっきりとしていて、酔いのせいか、頬に心地よかった。
俺は、橋の方角――環島へ、もう一度足を向けた。
◆
夜の環島は、昼間とは別の場所だった。
欄干の足元に並んだ灯りが、等間隔に海面を照らしている。波がその光を砕くたびに、水面が白く明滅した。
渡ってくる観光客の姿はもうない。橋の上には、俺一人だけだった。
鳥居をくぐる。昼間には気にも留めなかった暗がりが、今は妙に重かった。灯籠の明かりだけが、点々と参道を照らしている。
石段を上り切ると、拝殿の前に出た。
社号を記した扁額だけが、小さな灯りにぼんやりと照らされている。社殿の屋根は闇に溶け、その輪郭だけが夜空に浮かんでいた。
誰もいない。当然だ、こんな時間に。
俺は賽銭箱の前に立ち、もう一度、手を合わせた。
渡ってきたはいいが、ここで一体何が分かるというのだろう。そう思いながら、島を一周したら本土へ戻ろうと決める。
社殿を離れ、裏手へ回ろうとしたところで、ふと違和感に襲われた。
――静かすぎる。
俺は足を止め、耳を澄ませた。風の音がない。木々のざわめきもない。あれほど鳴いていた虫の声も、いつの間にか途切れていた。
まるで、島全体が、一瞬だけ息を止めているみたいだった。
◆
どれくらい、そうしていただろう。
気づくと、体の輪郭が妙に頼りなかった。今日一日のことが、順番も前後もばらばらのまま、頭の中を通り過ぎていく。潮見郡に来たことも、まだ来ていないことも、同時に本当であるような感覚だった。
どこか遠くで、何かの気配がした。足音か、声か、判然としない。
いま、振り返ってはいけない。――なぜだか、それが正しい振る舞いなのだと、体の方が先に理解していた。
その代わりに、俺は、自分がこれから何をすべきかを、はっきりと悟った。
説明はできない。ただ、分かった。
――俺は、あの手紙を書かなければならない。
一言一句、すでに頭の中に出来上がっていた。まるで、最初から知っていたことを、思い出しているだけのように。
どこかで、二つの潮目が、音もなく重なっていくような感覚があった。
俺は、この島へ来るために手紙を受け取ったんじゃない。
この島へ来たから、手紙を書くことになったのだ。
手紙は、俺をここへ呼んだ。
けれど。
その手紙を書いたのも、俺だ。
まだ書いていないのに。
もう、書いてしまっている。
そんな矛盾だけが、妙にはっきりと分かった。
我に返ったときには、何事もなかったように、虫が鳴き、風が木々を揺らし、「還時神社」と書かれた白い幟が音を立ててはためいていた。
俺は逃げるようにして、石段を下り、橋を渡った。振り返らなかった。
本土に戻ったとき、時計は、思っていたよりずっと進んでいた。
◆
俺は、駅前で見かけた漫画喫茶に飛び込んだ。
個室に座り、パソコンを立ち上げる。何から書けばいいのかは、考えるまでもなかった。
『九月半ば、残暑の抜けきらない昼下がり――俺のもとへ、一通の手紙が届いた』
そこから、指が止まらなかった。潮見郡のこと、資料館のこと、環島のこと、清綱のこと、女の伝承のこと。今日一日で見聞きしたすべてを、俺は夢中で文字にしていった。
書きながら、妙な確信があった。これは、ただの旅行記ではない。これは――あの手紙の、出所そのものだ。
気づけば、窓の外が白み始めていた。
さすがに、疲れが限界だった。仮眠を取り、シャワーを浴びる。
それから、店内のモーニングサービスでトーストを焼いた。バターの匂いがするそれを、コーヒーとともに腹に収める。
徹夜のせいなのか、それとも、昨晩、環島で経験したことのせいなのか。頭の芯がぼんやりと痺れていて、気分もあまり優れなかった。
それでも、行かなければならない場所があった。この因果は、まだ終わっていない。
午前十時頃、漫画喫茶を出る。外は、昨日と同じように突き抜けるような青空だった。陰鬱だった気分を、少しだけ押し流してくれる。
◆
開館時間を少し過ぎた頃、俺は資料館に入った。昨日案内してくれた女性が、カウンターの向こうで俺に気づき、軽く会釈をした。
「時手紙を、出したいんですが」
女性は、慣れた様子で用紙を差し出した。宛先の欄に、自分の名前と住所を書く。
届ける日付の欄には、迷わず、九月半ばの"あの日"――手紙が最初に届いた、あの日付を記した。本来なら、時手紙はちょうど一年後に届くものだ。だが、この手紙は違う。これは"あの日"の俺へと、届くものだ。
本文を書く手に迷いはない。
俺へ。
潮見郡へ来い。
潮見民俗資料館へ行け。
環島へ渡れ。夜にも渡れ。
理由は、そこでわかる。
ひとりで来ること。
時手紙について調べろ。
潮返りの伝承について調べろ。
理由は、そこでわかる。
――俺より。
封をして、窓口へ差し出す。女性は、丁寧に受け取った。
「確かにお届けします」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
◆
帰りの列車に揺られながら、俺のもとに届いた、あの手紙を読み返した。
もう何度読んだか分からない。それでも、もう一度読む。
便箋を裏返してみる。何もない。表に戻す。
そのときだった――文章の最後に、見覚えのない一文があることに気づいたのは。
『この手紙を書き終えたなら、どうか考えないでほしい。最初に書いたのが誰なのかを。』
背筋が、凍った。
その一文だけは、元々なかった。俺は書いていない。断言できる。だが、手紙には確かに、俺の字で、そう記されていた。
その瞬間、昨夜の環島で覚えた、あの妙な感覚が蘇った。時間が、一度だけ向きを見失ったような感覚。自分という存在が、どこかから外れてしまったような感覚。
俺は手紙を折り畳んだ。考えないことにする。
それが正しいのかは、分からない。ただ、手紙にはそう書いてある。
だから――考えない。
潮返り。
還時神社。
子を亡くした女の伝承と、藤原清綱。
列車は、何事もなかったように走り続けていた。潮見郡から、遠ざかっていく。
この旅の始まりとなった、あの時手紙は――俺が書いたから届いたのか。それとも、届いたから、俺が書いたのか。
その二つの間に、おそらく、始まりなどないのだろう。
列車の窓に、自分の顔が映っている。俺はそれを見ながら、静かに目を閉じた。
因果だけが、音もなく輪になっている。
そして、その輪のどこにも――最初の一歩はなかった。




