無能と追放されたお掃除聖女、最果ての地でしつこい呪い(油汚れ)を完全洗浄したら、白銀の最強騎士に爆速で求婚されました
「セラフィナ・ルーミール。貴様との婚約をここに破棄し、国外追放とする」
ステンドグラスから差し込む鮮やかな光が、大聖堂の白亜の大理石を厳かに照らしている。その最も高い壇上──デイスの上から見下ろしてくる金髪碧眼の男、第二王子レオニスの声は、ぞっとするほど冷酷に響き渡った。
(ああ、知ってた。知ってたわ、こうなることはね!)
セラフィナは内心で、盛大に白目を剥きそうになるのを必死にこらえていた。
彼の傍らには、まるで可憐な白い百合の花のようにしなだれかかる少女──新進気鋭の「キラキラ聖女」ことイザベラがいる。
ピンクゴールドのふわふわした髪を揺らし、これ見よがしにレオニスの逞しい腕に己の豊満な胸を押し付けている姿は、コミカルなほどにわかりやすい「略奪者」の構図だった。
「汚れ仕事しかできない無能な聖女など、我が王室には不要だ。いや、この国にすら置いておくわけにはいかない」
レオニスはフッと薄汚いものを見るような目をセラフィナに向け、尊大に顎を引く。
「これまで私は、母の身分が低いと突き放され、心が弱っていたところを貴様のような無能な女に騙されていた。だが、私も表舞台で力を取り戻し、広い社交界を知った。貴様がどれほど浅ましく、身の程知らずな悪女であるか、ようやく目が覚めたのだよ」
「……左様でございますか」
セラフィナの頭の隅で、パキッと何かが折れる音がした。
悲しい。確かに悲しい。
十歳にも満たない頃、教会の薄暗い部屋で「怖いよ、僕なんて生まれてこなければよかったんだ」とワンワン泣いていたあの天使のような少年が、まさかこんな立派な「傲慢尊大ダメ王子」に成り下がってしまうなんて、人間の環境適応能力とは恐ろしいものである。
思えば、血の滲むような修行の日々だった。
孤児院の大人たちが病で倒れていくのを見て、幼いセラフィナが必死に神へ祈ったとき、彼女の体から淡い光が溢れ出た。
祈れば祈るほど、大人たちの顔色は良くなり、部屋のジメジメしたカビや嫌な臭いが消え去った。
それが中央教会に目をつけられ、王都へ連行された始まりだ。
聖女の修行は地獄だった。
歳の近い少女たちが集められ、毎日毎日、魔力出力の訓練。
聖なる力は繊細だ。思春期を迎えて体型が変わると同時に力が減衰し、ある日突然、寄宿舎から姿を消す仲間を何人も見た。
明日は我が身と怯える日々の中で、唯一の心の支えが、同じく宮廷内で孤立し、教会へ追いやられていたレオニスだったのだ。
『私の力で、この国を安心して暮らせる場所にしてみせるわ』
『うん、僕も父上や兄上に認められて、国を支える立派な王子になるよ。そしたら、セラフィナを僕の妃に迎えるんだ』
あのときの純粋な約束は、王権の輝きという名の泥水にまみれて完全に消滅したらしい。
「殿下の仰る通りですわ、セラフィナ様」
イザベラが勝ち誇ったような、計算高い含みのある笑みを浮かべて口を開く。
「聖女たるもの、私のように華々しい光の障壁を展開し、襲い来る魔物をドカンと退治してこそですわ。貴様がやっていることと言えば、魔物の死骸から出る瘴気を消したり、呪われた土地の泥を落としたり……ただの『雑用係』ではありませんの。そんな汚らわしい女が王子の婚約者だなんて、社交界の平穏が汚れてしまいますわ!」
「黙るんだ、イザベラ」
レオニスがイザベラの腰を引き寄せ、甘やかすように囁く。
「そんな不浄な女と言葉を交わす必要はない。真に強い聖なる力を持つ君こそが、私の隣にふさわしい。さあ、セラフィナ。今すぐその聖女の法衣を脱ぎ捨て、我が国から出て行くがいい!」
大聖堂に集まった貴族たちから、クスクスと冷笑が漏れる。
「当然だ」
「ただの掃除婦が聖女を名乗るなどおこがましい」
「レオニス殿下が目を覚まされて良かった」
セラフィナは深く息を吸い、そして──淑女の仮面を完璧に保ったまま、深く頭を下げた。
(──よし、契約成立ね!!!)
悲しみは、一瞬で怒りを通り越して「解放感」へと昇華していた。
誰が雑用係よ。誰が無能よ。
魔物を倒した後に残るドス黒い瘴気や、放置すれば大地を腐らせる魔物の死骸の腐敗臭、それを完璧に無害化して「綺麗サッパリ消し去る」のが、私の『完全洗浄』の力よ! 誰もやりたがらない汚泥の処理を、どれだけの激務でこなしてきたと思っているの!?
(毎日毎日、王都の排水溝の浄化から、貴族たちのドロドロした呪いの後始末まで駆り出されて、休暇もなし! これでようやく、あのブラック教会とクソ王子からおさらばできるわ!)
「分かりましたわ、レオニス殿下。その言葉、二度と取り消さないでくださいね」
セラフィナは顔を上げ、最高に晴れやかな、ひまわりのような笑顔を咲かせた。そのあまりの眩しさに、レオニスとイザベラが一瞬気圧されたように身を引く。
「それでは皆様、どうぞお元気で。私のいない『清潔な王都』を、存分にお楽しみくださいませ!」
ドサリと、聖女の証である純白の法衣をその場に脱ぎ捨て、セラフィナは下着同然の簡易ドレスのまま、堂々と大聖堂を後にした。
背中でレオニスが「ふん、負け惜しみを!」と叫んでいたが、もはや耳に入る価値すらなかった。
これでお掃除し放題!
私の第二の人生、ここからスタートよ!
追放されたセラフィナが目指したのは、王国の最果て、誰もが忌み嫌う「国境の駐屯地」だった。
そこは常に魔界からの瘴気が漂い、土地は痩せ、昼なお暗い最悪の環境──のはずだった。
「ひっどい汚れ!!!!」
駐屯地の一角にある古い石造りの城館に足を踏み入れた瞬間、セラフィナは高揚感が脳内を駆け巡るのを感じた。
床には数十年分の埃が堆積し、壁には魔物の返り血が乾燥してこびりつき、窓ガラスは煤で真っ黒。空気は重く、どよ〜んとした怨念のような紫色のガスが漂っている。
「最高……! これよ、これこそ私が求めていた『やり甲斐』ってやつよ! 王都のちまちました排水溝掃除とはスケールが違うわ!」
セラフィナは腕まくりをすると、荷物からマイ前掛けと三角巾を取り出し、嬉々として装着した。
まずは挨拶代わりに、建物の中心にある謁見の間へと向かう。そこには、この守備隊の頭領である辺境伯が執務をしているはずだった。
バァン! と勢いよく扉を開ける。
「初めまして! 本日からこちらでお世話になります、元聖女のセラフィナ・ルーミールです! 早速ですが大掃除の許可を──」
言いかけた言葉が、喉に詰まった。
部屋の奥、大きな机に突っ伏している「巨大な何か」がいたからだ。
それは、人間というよりは、巨大な煤の塊、あるいは泥人形のようだった。
全身を覆うのは、禍々しいトゲがついた漆黒のフルプレートアーマー。
しかし、その表面は尋常ではない。ドロドロとした黒い液体が常に滴り落ち、ボコボコと不気味な泡を立てている。鎧の隙間からは、まるで生き物のようにはい回る赤い血管のような呪詛の光が見え隠れしていた。
「……誰だ……」
地獄の底から響くような、掠れた低い声。
その大男──ギデオン・フォン・クルス辺境伯は、かろうじて頭を上げた。
鎧の隙間から見える肌は死人のように青白く、呼吸をするたびにヒューヒューと苦しげな音が漏れている。
「教会からの……新たな捨て駒か……。すまないが……今の俺には、まともな応対をする体力はない……。その呪いの装備のせいで……俺の命は、あと数日というところだ……」
ギデオンは自嘲気味に呟き、再び机に沈み込もうとした。
呪いの装備。魔界の深層で発見されたという、一度装着すれば二度と外れず、装着者の生命力を極限まで吸い尽くして死に至らしめるという伝説の凶器だ。
どんな高位の聖女の『浄化』も、この深層の呪いには傷一つつけられなかったという。
しかし、セラフィナは違った。
彼女の網膜には、ギデオンの状況がこう映っていた。
(うわぁ……何あのしつこい油汚れの上にこびりついた焦げ付きみたいな最悪の複合汚れ! 厨房の壁の汚れを十年放置したレベルじゃないわよ! 誰にあんな汚れ物着せたのよ、信じられない!)
セラフィナの心に浮かんだのは可哀想に、という同情ではない。
「この汚れを今すぐ落とさなければ、私の聖女としてのプライドが許さない」という猛烈な使命感だった。
「辺境伯様、動かないでくださいね」
「……何をする……? 近寄るな……呪いが伝染する……」
「大丈夫です。私、こういう『頑固な汚れ』を見ると、血が騒ぐタイプなんです!」
セラフィナはギデオンの前に立ち、両手を力強く突き出した。
狙うは、あのドロドロの黒い油汚れ(呪詛)の層!
セラフィナは力を込めて、聖女の法衣の切れ端で作った雑巾で真っ黒な鎧の表面を磨く。
「どんな汚れも、逃しはしないわ──!」
セラフィナは目にも止まらぬ速さで手を動かす。
その刹那、大聖堂の誰一人として見たことのない、爆発的な純白の閃光が部屋を満たした。
それは光というよりは、圧倒的な「質量を持った聖水の濁流」だった。
パキパキパキパキッ!!!!
部屋中に、何かが激しくひび割れる音が響き渡る。
ギデオンの全身を覆っていた禍々しい漆黒の鎧の表面が、まるで乾燥した泥のようにベキベキと剥がれ落ちていく。はい回っていた赤い呪詛の血管が、聖水の激流に触れた瞬間、「ギエェェェ!」と断末魔の悲鳴を上げて蒸発した。
「な……が、はあぁぁッ!?」
ギデオンの口から、どす黒い息が吐き出される。それは彼の中に長年蓄積されていた瘴気そのものだった。
黒い煤が四方に飛び散り、光が収束していく。
そこに現れた光景に、セラフィナは思わず「え?」と声を上げた。
目の前に、白銀の鎧を着た人物がいたからだ。
その人物はゆっくりとした動作で、鎧の頭部を取り外す。
その下から、サラリとした銀髪の美丈夫が現れた。
白銀の鎧に負けず劣らず、鎧の内側から現れたギデオンも光り輝いていた。
「……体が、軽い……?」
ギデオンは自身の大きな手の平を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。これまでの衰弱が嘘のように、背筋が男らしく伸びる。身長は百九十センチ近くあるだろうか、圧倒的な体躯から滲み出る武人の色気が半端ではない。
彼はじっとセラフィナを見つめ、それから床に散らばった黒い破片(呪いの残骸)を見た。
「君が……この呪いを解いたのか? 国の最高司祭ですら、爪の先ほども干渉できなかった、あの深層の呪詛を……『ただの汚れ』として洗い流したというのか?」
「はい! すっごく手強かったですけど、綺麗になって良かったです! 見てください、この白銀の輝き! 聖銀はこうでなくっちゃ!」
セラフィナが満足げに腰に手を当てて笑う。
すると、ギデオンはその灰青の瞳に、激しいまでの熱い光を宿らせた。
ガシャリ、と心地よい金属音を立てて、彼はその場に片膝を突いた。
セラフィナの小さな手を取り、自身の形の良い唇をその甲にそっと落とす。
「俺の命を救い、この忌むべき呪いから解放してくれた偉大な聖女よ。……いや、我が運命の女神よ」
「はい?」
「俺の全てを君に捧げよう。どうか、俺の妻になってくれないか? この命が尽きるまで、君を愛し、守り抜くと誓う」
「……えええええええええええッ!?」
信じられない展開だ。
婚約破棄され、国も追放され、自由に掃除ができると思って捨てられた国境へやってきただけだったのに。
辺境伯を呪いから解放したうえ、彼からプロポーズされるだなんて。
セラフィナ自身も、この世界の誰も、予想していなかった展開だった。
しかし、セラフィナの視線は、彼の背後にある「まだ煤まみれの壁」に向いていた。
「あ、あの! 結婚のことはちょっと落ち着いて考えるとして……とりあえず、その前にこのお城全体をピカピカに洗ってもいいですか!?」
ギデオンは一瞬呆気にとられたように目を見張り、それから、フッと破顔した。
その笑顔の破壊力たるや、王都のクソ王子など塵芥に等しい美しさだった。
「ああ、好きにするがいい。この領地の全ては、今日から君のものだ」
こうして、最果ての駐屯地における、前代未聞の「爆速お掃除ハッピーライフ」の幕が開けたのである。
セラフィナが追放されてから、ちょうど一ヶ月が経過した。
王国の首都は今、未曾有の危機に瀕していた。
「おい……なんだか最近、街が臭わないか?」
「臭うどころじゃないわよ! 見てよ、あの排水溝から溢れてる紫色のドロドロ!」
王都の住民たちは、鼻をつまみながら街路を行き交っていた。
かつて白亜の美しさを誇っていた王宮の壁は、いまや薄黒い煤とカビに覆われ、まるで幽霊城のような陰惨なオーラを放っている。
大聖堂のステンドグラスは魔物の瘴気の油膜で曇り、五色の光どころか、どす黒いドブ川のような光しか通さない。
そう、この国は気づいていなかったのだ。
「魔物を倒す」ことだけが聖女の仕事ではないということに。
イザベラがドカンと派手に倒した魔物の死骸は、そのまま放置されれば凄まじい「腐敗瘴気」を放つ。これまでは、セラフィナがその日のうちに現場へ急行し、裏方として綺麗サッパリ『洗浄』していたからこそ、王都の清潔と安全は保たれていたのだ。
それが、彼女がいなくなった途端、国中に「魔物のゴミ」が蓄積し、排水システムは完全に詰まり、王都全体が巨大なゴミ溜めへと変貌してしまったのである。
「殿下ぁ! もう嫌ですわ! ドレスの裾がカビ臭くて、夜会に出られませんことよ!」
王宮の執務室で、イザベラがギャーギャーとヒステリックに叫んでいた。彼女の自慢のピンクゴールドの髪は、心なしか王都の油を含んだ空気のせいでギトギトしている。
「なんとかしろ、イザベラ! 君の聖なる力で、この宮殿の瘴気を吹き飛ばせないのか!?」
レオニス王子もまた、目の下にひどいクマを作り、イライラと机を叩いていた。部屋の隅には、掃除が行き届いていないせいで発生した小型の魔虫がカサカサとはい回っている。
「無理に決まっていますわ! 私の力は『破壊と障壁』です! こんな地味で汚いドロドロを消すなんて、私の高貴な魔力の無駄遣いですわ! あれはあの雑用女の仕事で──」
「そうだ! セラフィナだ!」
レオニスがハッと目を見開いた。
「あの女を連れ戻せばいいのだ! フン、どうせ辺境の寒村で、飢えと寒さに震えながら俺への許しを請うているに違いない。特別に、また王宮の掃除婦として雇ってやると言えば、泣いて喜ぶはずだ!」
「そうですわね! あの女にまた、このギトギトの床を這いつくばって磨かせればいいのですわ!」
二人は醜い笑顔を交わし合い、すぐさま近衛兵を引き連れて、セラフィナが左遷された国境の駐屯地へと向かった。
彼らの脳内には、ボロボロの小屋で泥水をすすりながら泣いているセラフィナの姿が都合よく描かれていた。
しかし──。
「な……何だ、ここは……!?」
国境の領地へ足を踏み入れた瞬間、レオニス一行は言葉を失った。
そこにあったのは、彼らの想像を絶する「極上のパラダイス」だった。
土地を満たしていたはずの紫色の瘴気は微塵もなく、空気は高原のように澄み切っている。街道の石畳は高圧洗浄をかけられたばかりのようにピカピカと白く輝き、沿道には色鮮やかな四季の花々が咲き乱れていた。
何より、駐屯地だったはずの城館が、いまや純白の白金宮殿へと生まれ変わっている。窓ガラスは一枚の曇りもなく太陽の光を反射し、まるでクリスタルのようだ。
「おーい、ギデオン様ー! こっちのテラスの洗浄、終わりましたよー!」
宮殿の美しいバルコニーから、エプロン姿のセラフィナが元気いっぱいに手を振っていた。その肌は王都にいた頃よりも格段に艶やかで、内側からの幸福感でキラキラと輝いている。
「ああ、ご苦労様、セラフィナ。あまり無理をしないでくれ、君の体が一番大切だ」
彼女の腰を優しく抱き寄せ、極上のハーブティーを差し出しているのは──誰あろう、白銀の軽装鎧を纏った、超絶美形のギデオン辺境伯だった。
その灰青の瞳には、セラフィナに対する溢れんばかりの溺愛の情がこれでもかと注がれている。
「セ、セラフィナァァッッ!!!」
門前に馬車を乗り付けたレオニスが、我を忘れて叫んだ。
「貴様、こんなところで何をしている! 楽しそうに遊んでいる場合か! 王都が今、大変なことになっているのだ! 特別にお前の罪を許してやるから、今すぐ荷物をまとめて王宮の排水溝を掃除しに戻れ!」
バルコニーの上から見下ろすセラフィナは、レオニスの姿を認めると、あからさまに「うわぁ、面倒なのが来た」という顔をした。
「あら、レオニス殿下にイザベラ様。ごきげんよう。……って、嫌ですわ、お二人ともずいぶん『薄汚れて』いらっしゃること。王都の空気はお肌に悪いのかしら?」
「黙れ! 誰のせいでこうなったと思っている! いいから戻るんだ! これは王命だぞ!」
レオニスが激昂し、門を押し通ろうとした、その時。
フッ、と周囲の空気が絶対零度へと氷結した。
バルコニーに立つギデオンが、ゆっくりと視線をレオニスへと向けたのだ。その瞳から放たれるのは、数多の戦場を生き抜き、さらに伝説の呪いをも屈服させた真の強者の威圧感だった。
「……おい、そこの薄汚い無礼者」
ギデオンの声は低く、地響きのようにレオニスの鼓膜を震わせた。
「誰の許可を得て、俺の最愛の婚約者に汚らわしい声をかけている?」
「こ、婚約者だと……!? ギデオン・フォン・クルス、貴様、正気か! その女は無能の雑用聖女だぞ! 呪いの装備で頭がおかしくなったのか!?」
「無能だと?」
ギデオンはフッと冷酷な笑みを浮かべ、自身の白銀の籠手を軽く叩いた。
「俺の全身を蝕んでいた深層の呪いを、ただの『油汚れ』として跡形もなく消し去り、この領地を覆う魔界の瘴気を完全に無害化した我が妻が、無能だと? 貴様らの目は節穴か、あるいは脳まで王都の瘴気にやられたか」
「ひっ……!」
レオニスはギデオンの圧倒的な殺気に気圧され、思わず数歩後退りした。隣のイザベラにいたっては、恐怖のあまりガタガタと震え、ドレスの股間部分に「怪しいシミ」を作り始めている。せっかくのキラキラ聖女が台無しである。
「セラフィナは、このクルス辺境伯領の至宝だ。二度と彼女をその汚い手で汚そうとするな。次にこの領地に無断で立ち入れば──我が白銀の騎士団総出で、貴様らを王都ごと『お掃除』してやる」
「くっ……、おぼえていろ!!!」
レオニスは捨て台詞を残し、一目散に馬車へと逃げ帰った。ガタガタと音を立てて去っていく馬車を見送りながら、セラフィナはパタパタと手を振る。
「ふぅ、これで邪魔者もいなくなりましたね」
セラフィナは前掛けを叩き、満足げにハーブティーを一口すすった。
王都がその後どうなったかと言えば、噂によれば、ゴミと瘴気の処理が追いつかなくなった結果、国王が激怒してレオニスの王位継承権を完全に剥奪。
イザベラも「ただの破壊魔」として聖女の地位を追われ、二人揃って王宮の地下ドブさらいの刑に処されたらしい。まさに因果応報、自業自得である。
「セラフィナ」
後ろから、ギデオンの大きくて温かい手が彼女の肩を包み込んだ。
「あいつらの言うことなど、気にする必要はない。君は世界で一番美しく、素晴らしい聖女だ」
「もう、ギデオン様ったら大げさです! 私はただ、汚れている場所を見ると、どうしてもウズウズして洗いたくなっちゃうだけですよ?」
セラフィナが照れくさそうに笑うと、ギデオンはその完璧な形の唇をふっと緩め、彼女の額に愛おしそうにキスをした。
「そこがいいんだ。君のその真っ直ぐな心が、俺の凍りついた世界をどれだけ明るく照らしてくれたか。……ところで、新居の寝室の『洗浄』は、もう終わったかい?」
灰青の瞳が、いたずらっぽく、そして熱く濡れてセラフィナを見つめてくる。
その意味がわからないわけではないから、セラフィナはあたふたと目を泳がせた。
出会った日に呪いを解いてからというもの、ギデオンから熱烈なアプローチを受けている。たじたじになりながらどうにか婚約について同意すると、彼は今度はセラフィナの〝心〟も自分のものにできないかと頑張り始めたのだ。
「ギ、ギデオン様!?」
「寝室がきれいになったのなら、そこでゆっくり休もうじゃないか」
「お、お昼寝ならひとりでなさってください! 私、まだお掃除したいところがありますし……」
「だめだ。俺の大事な女神を働かせすぎないでいるのも、俺の大事な役目だ。どうしても掃除をしたいというのなら、この腕の中から逃げ出してからな」
ギデオンは、楽しそうにセラフィナを抱きかかえて運び始めた。真っ赤になりながらも、セラフィナはその広い胸にしっかりと抱きついた。
かつて冷たい大聖堂で全てを奪われた少女は今、最果てのピカピカな宮殿で、世界一の騎士からの極上の溺愛を全身に浴びている。
二人の行く手には、一切の曇りもない、どこまでも澄み切った青空が広がっていたのだった。
(おわり)




