そこにいたのは、誰だった
旧避難通路の奥には、まだ圧が残っていた。
恐怖支配型のドレッドそのものは崩れた。
だが、通路の先――半ば埋もれた旧ホーム側には、ノクトヴェイルの残滓みたいな重さが、まだ薄く残っている。
結界灯は戻りかけている。
けれど、青白さは薄い。
壁の継ぎ目にも、床の割れ目にも、消え残った口がかすかに揺れていた。
ヴァルターが短く言う。
「終わりではない。奥を確認する」
レオルが細剣を持ち直した。
肩で息をしている。
だが、その荒さを認めたくないみたいに、顔だけは強く作っている。
「俺が行く」
セレスがすぐに乗る。
「前列を立て直せば、そのまま押せるわ」
グレンダルは壁へ手をついたまま黙っていた。
リュカだけが、まだユリスを見ている。
ユリスは仮の救助剣を握ったまま、言葉を持てなかった。
何を言えばいいのか分からない。
恐怖支配型のドレッドは倒れた。
でも、自分が何をしたのかは、まだやっぱりよく分かっていない。
ヴァルターは前列と中列を見比べる。
「グレイヴァル前。アークライトはそのまま後ろにつけ」
レオルの口元がわずかに引きつる。
「後ろに、そいつらをつけるのか」
ヴァルターは即答した。
「つける」
短い。
それで十分だった。
レオルは唇を歪める。
「……俺一人でやれる」
ヴァルターの目が細くなる。
「却下だ」
「足手まといはいらない」
「却下だ」
同じ返答。
だが、レオルはもう聞いていなかった。
前列停止二度。
退却判断一度。
さっきついた傷は、腕よりもそっちの方が深かったのだろう。
レオルは細剣を強く握る。
「見せる。俺が行けば済む話だ」
「レオル」
今度はセレスの声にも、少し焦りがあった。
だが、止める声ではない。
巻き込まれたくない人間の声だった。
リュカが一歩出た。
「やめろ」
レオルは振り返らない。
「黙ってろ」
「違う」
リュカの声が、今度ははっきり通った。
通路の中の全員がそちらを見る。
リュカはもう視線を逸らさない。
「俺たちが強かったんじゃ――」
「黙れ!」
レオルの怒鳴りが、リュカの言葉を途中で叩き切った。
通路に残響だけが落ちる。
リュカは口を閉じた。
言いかけた形のまま、閉じた。
レオルは振り返らない。
次の瞬間、一人で前へ出た。
誰も止める前に、旧ホーム側の暗がりへ飛び込む。
速い。
さすがに強い。
踏み込みそのものは本物だ。
だが――二歩目で、止まった。
暗がりの奥に残っていた圧が、一気に噛みつく。
完全に閉じきっていないノクトヴェイルの残滓。
恐怖支配型ドレッドはもう崩れたのに、圧だけがまだ通路の奥へ残っていた。
さっきより薄い。
それでも、人の呼吸を止めるには十分な圧だった。
レオルの《断光》が細く揺れる。
白い筋が走りかけて、途中でぶれる。
「……っ」
足が出ない。
肩が固まる。
さっきまでより近くに、誰の声もない。
一人でヴェイルを抑え込めれば証明できる。
そう思った瞬間に、逆に何も噛み合わなくなった。
レオルがもう一歩踏み込もうとして、踏み切れない。
そして、残った圧に押されるみたいに、半歩だけ後ろへずれた。
それだけで十分だった。
一人で突破する。
その宣言は、そこで完全に折れた。
ヴァルターの声が飛ぶ。
「戻れ!」
レオルは戻れない。
戻るのに必要な足が、出ない。
セレスがそこで初めて本音を漏らした。
「無理よ、今のままじゃ」
グレンダルが睨む。
「今さら何だよ」
「事実を言ってるだけ」
冷たい。
それが余計に露骨だった。
「この位置で崩れたら、誰だって――」
「誰だって、じゃねぇだろ!」
グレンダルの怒声が通路に響く。
今度は彼がセレスへ噛みついた。
「お前も止まってたじゃねぇか!」
セレスは唇を引き結ぶ。
責任回避が、今度は隠しきれない形で出た。
ヴァルターが一歩前へ出る。
「グレイヴァル、戻せ」
命令は出る。
だが、命令だけでは戻らない。
レオルの肩が震えている。
剣先が細く揺れる。
英雄の輪郭が、そこで初めてひどく薄く見えた。
ユリスはその背中を見た。
昼の駅前。
「寄生先を変えただけ」
「邪魔だ」
「来るな」
その全部が頭をよぎる。
でも、それより先に、ここで止まればまた全員が潰れる、という感覚の方が強かった。
ユリスは前へ出た。
ヴァルターは今度は止めない。
ただ、低く言う。
「前列を追い越すな」
「はい」
ユリスはレオルのすぐ後ろまで行く。
壁際に浮いた口を仮剣で引っかける。
剥がす。
もう一つ。
細剣の先は揺れている。
呼吸は浅い。
肩だけが力んでいる。
ユリスは、さっき待避所側でやったのとは少し違う声を、今度はレオルの背中へ向けて飛ばした。
「まだ終わってません」
レオルの肩が動く。
でも、振り向かない。
ユリスは続ける。
「ここで止まったら、後ろまで止まります。前へ出てください」
その声に、後ろが変わる。
ガルドの盾が一段深く残る。
フィオナの火が暗がりの薄い口だけを正確に焼く。
ノエルの札が、退くためではなく次の踏み位置を作る。
ミレナの指示が一拍も遅れず落ちる。
「ガルド、そのまま」
「フィオナ、左壁二つ」
「ノエル、レオルの右足後ろ」
「ユリス、切らさないで」
短い。
だが、全部が噛む。
レオルの喉が動く。
「一歩でいいです」
ユリスの声がもう一度落ちる。
セレスの導索が戻る。
グレンダルの肩の力が横ではなく前へ抜ける。
ユリスはもう一度、今度ははっきりレオルへ向けて言った。
「まだ終わりません。行きましょう」
レオルが、ほんの一瞬だけ歯を食いしばる。
悔しさと苛立ちが、そのまま顔へ出る。
だが、その次に足が出た。
細剣が前へ走る。
セレスの導索がその動きへ噛む。
グレンダルが押し込む。
リュカが叫んだ。
「床と壁の境目! そこが核だ!」
残っていた圧の核――旧ホーム側の暗がりの奥、壁の継ぎ目に寄り集まった歪みの中心。
リュカの示した一点へ、レオルの《断光》が深く沈んだ。
フィオナの火が、周囲の薄い口を一気に縫い切った。
ガルドの盾が最後の反撃を受け止める。
ノエルの札が、崩れかけた足元を支える。
残っていた圧が、一度だけ大きく歪む。
そして、暗がりの奥から最後の鳴き声が消えた。
旧ホーム側の空気が、ようやく抜ける。
誰もすぐには動けなかった。
レオルが細剣を引き抜く。
肩で息をしている。
顔には勝った安堵より、別のものが濃く残っていた。
リュカが、今度は誰にも遮られず言った。
「分かっただろ」
通路の中に、はっきり響く。
さっき途中で叩き切られた言葉が、ここで最後まで出た。
「違うんだ。俺たちが強かったんじゃない」
一拍置く。
「ユリスが前に出た時だけ、俺たちは動けてたんだ」
今度は、誰もすぐには否定しなかった。
レオルが振り返る。
その顔には、怒りと、認めたくないものを見せつけられた時の歪みが、そのまま出ていた。
だが、言い返せなかった。
一人で突破しようとして、止まった。
後ろからユリスの声が入って、また前へ出られた。
その事実が、さっきこの通路で全員の目の前で起きたばかりだった。
セレスの唇が引き結ばれている。
グレンダルは壁へ手をついたまま、誰の顔も見ていない。
さっきと同じように、ヴァルターは事実だけを記録する。
「旧避難通路ノクトヴェイル、閉鎖確認。恐怖支配型ドレッド一体撃破。残滓処理完了。単独突破試行、失敗。中列介入により前列復帰」
レオルの顔は険しいままだ。
さっきの記録に加えて「単独突破試行、失敗」まで残る。
ユリスはそこまで考えていなかった。
ただ、通路の奥を見ていた。
さっきまであんなに重かった圧が、もうない。
壁の継ぎ目も、床の割れ目も、ただの石に戻っている。
膝が重かった。立っているのに、立っている気がしない。
終わった。
今度こそ、本当に。
ガルドはもう一つだけ言った。
「お前が前にいる時だけ、俺は踏める」
短かった。
飾りがない。
フィオナは導具を下ろしたまま、何も言わなかった。
ノエルも黙っていた。
ミレナだけが、少し離れた位置からユリスを見ていた。
ユリスは答えられなかった。
自分がすごい。
そうはまだ言えない。
言えるほど、本人の理解は追いついていない。
それでも、さっきこの通路で起きたことは、もう誰の頭の中でも消せない。
旧避難通路の奥で、結界灯がもう一つ戻った。
灯りが青白さを取り戻していく。
通路は、ようやくただの通路へ戻り始めていた。
だが、ここで起きた記録は、もう誰かの手で書き取られている。
それが何を変えるのか、ユリスにはまだ分からなかった。




