表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/7

震える足で、最前線へ


エストラ中央駅は、夜でも眠らない。


王都エストラに鉄道が走り出して三十年。

石畳の街を蒸気機関車が横切り、煉瓦造りの駅舎に人と荷が集まる。

その光景はもう、ルーヴェン王国の新しい日常だった。


もっとも、この国では鉄道より先に覚えるものがある。

ヴェイル災害の避難鐘の音と、結界灯の点検表だ。


王都では、兆候だけなら珍しくない。

どこかの結界灯が一瞬落ちた。

空気が少し重い。

音が鈍い。

その程度なら、巡回が確認して終わる夜もある。


だが、中央駅は別だった。


人の流れそのものが、王都の血管みたいな場所だ。

ここで本当にヴェイルが開けば、明日の朝刊どころか、夜の号外まで飛ぶ。


高いガラス屋根の下を、蒸気と白い息が流れていく。

煉瓦造りの大柱のあいだを、夜行列車を待つ客、見送りの家族、荷車を押す駅員、号外を売る新聞売りが絶えず行き交う。

頭上ではルーメン灯が青白く揺れていた。


揺れて――もう一度、揺れた。


その二度目が、嫌だった。


ユリス・レインは、ホーム端で荷物箱を抱えたまま足を止めた。


灯りが揺れること自体はある。

古い駅だ。冬の夜ならなおさらだ。


けれど今のは違った。


明るさが落ちたんじゃない。

光そのものが、薄い膜を一枚かぶったみたいに濁った。


耳の奥で、音が一歩遠くなる。


ざわめきはある。

人の声も、列車の軋みも、駅員の笛も、たしかに聞こえている。


なのに、全部が少しだけ向こうへ引いていくようだった。


身体より先に、喉の奥が冷えた。


「ユリス」


呼ばれて、肩が跳ねた。


振り向くと、ホーム中央でレオル・ヴァンディスが手を上げていた。

長い外套の裾が揺れている。

青銀の徽章入りコート。

王都日報でもよく見かける、グレイヴァルの看板。

王都の若手ヴァンガードの星だ。


ヴァンガードは、ヴェイルの中へ入る職だった。


外を閉じるのは騎士団。

広く守るのは軍。

記録と権限で現場を締めるのは庁。

だが、濁った灯りの奥へ踏み込む役だけは、結局この職に回ってくる。


騎士団の封鎖班には短銃もある。

軍の倉には長銃も並んでいる。

人間相手なら、それで十分怖い。

だが、ヴェイルの中で伸びる影や歪んだ核には、ああいう火薬武器は決め手になりにくい。

結局、最後に濁った灯りの奥へ入るのは、剣とシジルを持ったヴァンガードだった。


だから人は、駅で彼らを見ると半歩ぶん安心する。

同時に、半歩ぶんだけ英雄譚の続きを期待する。


周囲の客が何人か振り返る。

それだけで空気が変わるような男だった。


「ぼさっとするな。箱を持って来い」


「……はい」


ユリスは小さく返して、急いで駆けた。


抱えているのは予備導索、応急灯、包帯箱、補助薬液のケース。

戦う人間のための荷物だ。


ユリス自身の武装は軽い。

短剣一本。

護身用ですら、頼りない重さだった。


グレイヴァルの前衛、グレンダル・ホルクが鼻を鳴らす。


「顔色わりぃな、おい。まだ始まってねぇぞ」


大柄な肩。

鉄板を何枚も重ねたような胸当て。

《鉄壁》のシジル持ち。

シジルとは固有技能のことだ。

いるだけで頼もしく見える男だった。


この国では、こういう分かりやすい戦闘系ほど扱いがいい。

配属も、報酬も、武器の質も違う。


派手で強い者には、最初から“強く見えるためのもの”まで集まってくる。


その横で、セレス・モーンが手袋の指先を整えながら、ユリスを一瞥した。


「いつものことでしょ。放っておきなさい。どうせ怖いのよ」


声音はやわらかい。

やわらかいだけに、刺さる。


ユリスは返せなかった。

怖いのは事実だったからだ。


ホームの向こう。

停車中の列車の窓が、一斉に暗く沈んだ。


誰かが悲鳴を上げる。


次の瞬間、駅舎全体のルーメン灯が、ぶつ、と音もなく半分ほど死んだ。


青白かった光が、濁った灰色に変わる。

天井のガラスの向こうにあるはずの夜空まで、煤を流し込まれたみたいに黒く沈んだ。


遠くの時計塔の鐘が鳴る。

ひとつ、ふたつ。


そこで音が途切れた。

三つ目があるはずの場所を、沈黙だけが通り過ぎた。


「――来たな」


レオルが笑った。


怖がりもしない。

むしろ待っていたような声だった。


「中央駅区、第三ホーム一帯。ノクトヴェイル発生だ」


駅員の怒鳴り声が飛ぶ。


「動かないでください! その場で待機! 案内に従ってください!」


落ち着ける空気じゃなかった。


中央駅は要監視区域だ。

灯りの揺れや、線路脇の冷えくらいなら、駅員も慣れている。

記録して、保守へ回して、終わりにする。


けれど今夜のそれは、そういう“嫌な感じだけの夜”ではなかった。


ホームの端が、少し伸びた。


いや、伸びたように見えた。


いつもなら十数歩先にあるはずの支柱が、霧の奥へ半歩、もう半歩と遠ざかっていく。

床のタイル目地がじわじわ歪む。

停車中だった列車の窓に、乗客の顔ではなく、黒い影だけが映り始めていた。


ノクトヴェイル。


現実が深層に喰われる災害領域。

王都に住む人間なら、誰でも知っている名だ。


知っている、というのが大事だった。


誰もが存在は知っている。

警報訓練も、危険区域の掲示も、結界灯の点検日も知っている。


だが、中央駅の第三ホームみたいな、人の多い真ん中で本当に開くのは珍しい。


だから悲鳴は遅れて広がる。


想定していたはずなのに、自分の番だとは思っていなかった顔で。


そして、実際にその場に立つと、肺がうまく動かない。

吸ったはずの空気が胸の上で止まる。

指先が冷えていく。

膝の裏が震え始める。


逃げたい。


本気でそう思った。


ここから離れたい。

人の多いところも、濁った灯りも、伸びるホームも、全部見たくない。

今すぐ背を向けて、駅舎の外まで走って、明るい通りへ出たい。


なのに、足の裏だけが床に貼りついたみたいに動かなかった。


「グレンダル、前。セレス、右の導索を繋げ。リュカ、視界を取れ」


レオルの声が飛ぶ。


リュカ・フェインが短く「了解」と返し、《遠視》を起動する。

瞳に薄い光が走った。

だが、その直後に彼の顔が強張った。


「……奥が見えません。距離がずれてる」


「構うな。見える範囲でいい」


レオルは言い切り、腰の細剣を抜いた。

刀身に白い線が走る。

《断光》。

斬撃そのものに切断の光を乗せる、分かりやすく強いシジルだ。


刀身は庁支給の量産品ではない。

鍛冶系シジル持ちに調律された細剣だった。


王都では、派手な戦闘技能ほど上等な武器と結びつきやすい。

強い者はますます強く見え、そうでない者は最初から道具の格で置いていかれる。


周囲の客たちは、もう列を失っていた。

泣く子ども。

座り込む老人。

荷物を抱えて動けない女。

出口へ走ろうとして、逆に柱へぶつかる男。


ヴェイルは、まず人の足を止める。

恐怖で。

空間の歪みで。

呼吸の浅さで。


グレイヴァルの四人が前へ出る。

ユリスだけが、その半歩後ろに取り残された。


いつもの位置だった。


補助。

運搬。

予備。


いてもいなくても大差ない場所。


レオルたちが行けば終わる。

そういう役割分担だ。

そう何度も言われてきた。


――なのに。


ホーム奥の暗がりで、黒い塊がゆっくりと立ち上がった。


人影に似ていた。

似ているだけだった。


列車の扉の隙間からこぼれた影を、何百枚も縫い合わせたような、背の高い塊。

肩も首もある。

だが輪郭が決まらない。

顔のある場所だけが、妙に深い穴みたいに暗い。


ヴェイルの中で生まれる異形――ドレッド。


その穴が、こちらを向いた。


それだけで、ホームにいた何十人もの呼吸が一斉に詰まった。


空気が重くなる。


重い、なんてものじゃない。

胸の上に鉄板を落とされたみたいな圧だった。

喉が閉まる。

心臓が一拍ずつ遅れる。

視界が狭くなる。


怖いと理解するより先に、身体が「無理だ」と言い始める。


グレンダルの足が止まった。

さっきまで頼もしく見えた大きな肩が、微かに震えている。

右手が盾の縁を握り直して、また握り直す。

足が出ない。


セレスの指先が震えた。

導索を掴もうとした手が空を切る。

やり直す間に、呼吸がひとつ詰まった。


リュカが舌打ちを飲み込めず、半歩下がる。

射線を取ろうとした目が泳いで、定まらない。


そしてレオルでさえ、一瞬だけ止まった。

剣を構えた姿勢のまま、足先だけが前に出ない。


ほんの一瞬。

だが、それで十分だった。


ドレッドの腕が、影の帯みたいに伸びる。


ホームの上にしゃがみ込んでいた駅員へ向かう。

逃げられない位置だ。

男は笛を握ったまま凍っていた。

頭をかばうことすらできていない。


誰かが助けなければ、死ぬ。


ユリスの身体が冷たくなった。


無理だ、と思った。


怖い。

あれに触れたら終わる。

あの暗さに飲まれたら、自分も動けなくなる。

嫌だ。

行きたくない。


なのに、駅員の後ろで、まだ小さな女の子が泣いていた。


赤い靴。

片方だけ脱げている。

たぶん、母親の手を離したまま動けなくなっている。

声も出せず、肩だけが上下していた。


その小ささを、見ないふりはできなかった。


ユリスは荷物箱を落とした。


木箱が床にぶつかって、乾いた音を立てる。


レオルが怒鳴る。


「ユリス、またか! 下がってろ!」


下がれるなら、下がりたかった。


本気でそう思ったまま、ユリスは前へ出た。


一歩。


靴底が、歪んだタイルを踏む。


その瞬間だった。


胸の中で暴れていた恐怖が消えたわけじゃない。

むしろ、はっきりした。

怖い。

逃げたい。

足も震えている。


なのに、その震えの奥で、一本だけ別の線が通った。


切れかけていた糸を、誰かが結び直したみたいに。


呼吸が入る。


視界の輪郭が、急に戻る。


駅員までの距離。

女の子の位置。

ドレッドの腕の軌道。

グレンダルの肩。

レオルの剣先。

セレスの導索。


全部が、一拍だけ早く見えた。


ユリスは走った。


考える余裕はなかった。

怖い。

怖いのに、身体だけが前へ出ていた。


駅員の襟を掴む。

体重を後ろへ引く。

重い。

怖い。


ドレッドの影の腕が肩先を掠める。


冷たい。


皮膚の上を氷水じゃなく、“夜そのもの”が這ったみたいな感触に、吐き気が込み上げる。


だが、その瞬間にはもう、後ろで何かが変わっていた。


「うおおおッ!」


グレンダルの大盾が割り込んだ。

さっきまで足すら出なかった男が、信じられない速度で盾を振り上げている。

影の腕を真正面から叩き返した。

濡れた布を無理やり引き裂いたみたいな、嫌な音。


セレスの導索が光る。


白い線が床を走り、駅員と女の子の足元に結界の輪を描いた。

さっきまで震えていた指先が、嘘みたいに正確だった。


「リュカ、左!」


「見えてる!」


リュカの短弓から放たれた針光が、ドレッドの輪郭の薄い部分を正確に射抜く。

影が崩れる。

さっきまで泳いでいた目が、もう定まっている。


そしてレオルが踏み込んだ。


速い。


《断光》の白い筋が、濁った駅の空気を一直線に裂いた。

ドレッドの胸にあたる部分へ、光の斬撃が深く沈む。

さっきまで厚かった影が、一気に裂けた。


レオルが笑う。


「だから言っただろ。俺たちがいれば足りる」


終わっていなかった。


裂けた影の奥で、コアの気配が脈打つ。


侵食が深くないヴェイルだ。

核は近い。

ホーム奥、停止した列車の先頭車両、その運転席側だ。


リュカが息を呑む。


「コア、列車の中です!」


「なら壊すだけだ」


レオルは迷わない。


凄まじい速さで一直線に進む。

グレンダルが道を開け、セレスが導索を繋ぎ、リュカが影の薄い箇所を撃ち抜く。


全員が噛み合っていた。

いつもの強いグレイヴァルになっている。


――いつも、こうだった。


ユリスは息を整えるのにも必死だった。

怖さは消えていない。

喉は乾いている。

手も震えている。


なのに、身体だけがまだ前を向いていた。


列車先頭部の窓が内側から弾け、黒い塊が噴き出す。

だが、レオルはもう止まらない。


《断光》が二度、三度と走る。

光が交差し、運転席の奥で脈打っていた暗い核を貫いた。


駅全体が、深く息を吐くみたいに揺れた。


濁っていたルーメン灯が、ぱちりと元の青白さを取り戻す。

遠くなっていた音が戻る。

人の泣き声も、駅員の怒鳴りも、列車の蒸気も、一気に現実へ戻ってくる。


ノクトヴェイルの閉鎖だった。


一拍遅れて、歓声が上がった。


「グレイヴァルだ!」


「助かった……!」


「レオル様だ、レオル様が討った!」


誰かがレオルの名を叫ぶ。

別の誰かがその肩を叩く。

駅員が礼を言う。

見覚えのある新聞売りが走ってくる。


号外ではない。

まだ間に合わない。

だが、その目はもう明日の一面の見出しを書く目になっていた。


レオルは剣を払って鞘に収める。

外套の裾を翻し、灯りのいちばん明るい場所に立った。


駅員が「ありがとうございます」と頭を下げる。

客たちの視線が集まる。


レオルは小さく頷いてみせた。


セレスはもう導索を巻きながら、整った横顔で被害状況を見ている。

グレンダルは大声で周囲を下がらせ、リュカは黙ってコア残滓を確認していた。


ユリスは、まだホームの床に片膝をついたままだった。


助けた駅員が何か言っている。

おそらく礼だ。


「さっきはありがとう、君のおかげで」


だが、その言葉は途中で途切れた。


男の視線がユリスを通り越して、後ろへ向く。

灯りの中にいる、グレイヴァルの面々へ。


「……あのヴァンガードの方たちに、お礼を」


駅員は立ち上がって、レオルの方へ歩いていった。


当然だった。


最後に核を壊したのはレオルだ。

前を切り開いたのはグレンダルだ。

結界を張ったのはセレスだ。

弱点を射抜いたのはリュカだ。


自分はただ、震えながら飛び出して、駅員を引いただけ。


――そういうことだ。


ユリスは本気でそう思っていた。


みんなが強かったから助かった。

自分は、たまたま手が届いただけだ。


レオルが振り向く。


「ユリス」


声だけは笑っていた。


「補給箱。落としたままにするな」


「……はい」


レオルたちが行けば終わる。

補助は後ろ。

荷物持ちはもっと後ろ。

怖くなっても勝手に前へ出るな。


それは、もう何度も言われてきた。


ユリスは立ち上がった。

膝が少し遅れて、ようやく自分のものになる。


床に落ちた木箱を拾う。

さっきぶつけた角が少し割れていた。

包帯箱の蓋もずれている。

指先がまだうまく動かない。


その横を、駅員たちが走る。


避難誘導の声。

被害確認の怒鳴り合い。

記録係が走る。

写真師まで呼ばれていた。


全部がもう、「終わった後の世界」の速さで動いていた。


次に来る顔は、たいてい決まっている。


結界灯の保守員。

駅の帳場。

騎士団の封鎖班。

庁へ上げる記録。

そして、ひどい案件なら監査だ。


誰が何をしたかは、その場の記憶より先に紙になる。

紙になったものが、明日からの事実になる。


ホームの先で、女の子が母親に抱きついて泣いていた。

赤い靴が片方ない。

さっきの子だ。


母親は何度も何度も頭を下げていた。

だが、それもレオルたちの方へだった。


――当たり前だ。


ユリスは木箱を抱え直す。


ただ、胸の奥に、さっき踏み出した時の感触だけが薄く残っていた。


怖かった。

今も怖い。


なのに、あの一歩だけは止まれなかった。


なぜかは、分からないままだった。


ホームの端――さっきまでヴェイルの闇が濃かった場所で、消え残った影が一筋だけ、柱の根元へ沈んだ。


誰も気づかないほど小さな揺れだった。


ただひとり、ユリスだけが、首筋の奥でそれを嫌な冷たさとして感じた。


夜は、まだ終わっていない。


そしてエストラ中央駅の大時計の下では、新聞売りが帳面に走り書きをしていた。


レオルの名前と、駅名と、討伐の二文字。


明日の朝、この街の誰もが読む見出しの下書きだった。


その見出しに、ユリス・レインの名はない。


荷物箱を抱えたまま、ユリスは灯りの外へ歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ