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さくっと読める執着・ヤンデレ系集めました

「悪い男って素敵」と呟いたら、完璧な王子様だった婚約者が本性をさらけ出しました

作者: こじまき
掲載日:2026/04/08

「ああルシェル、寒いね?」


秋の昼下がり。


寮の自室についているテラスでお茶を飲みながら、ほんの少し肩を震わせただけで、彼が即座にショールをかけてくれる。


「ありがとうございます、セドリック様」


微笑み返せば、彼は満足そうに目を細めた。


ノーフォーク伯爵令息セドリック様は、完璧な婚約者だ。


整った顔立ちの美男子で、文武両道で、優しくて穏やかで、いつだって私を最優先にしてくれて。声を荒げることもなければ、無理を言うこともない。些細な変化にも気づいてくれて、私が望むことを先回りして叶えてくれる。


学友に「ルシェルはいいわねえ」と羨ましがられるのも当然の、自慢の婚約者。


「でも理想的すぎて、ちょっと刺激が足りないかも」なんて思ってしまったのは、些細なことがきっかけだった。


---


「ねえルシェル、あれ読んだ?」

「ええ!面白くて一気に!」

「でしょう!」


数日前、学友コレットに借りた一冊の恋愛小説。


王子の婚約者エリザベスが、盗賊出身の将軍に略奪される物語。


私たちは今、その本の感想を語り合いながら音楽室へと移動している。


「ねえ、ルシェルはアルフォンス王子とディミトリ将軍のどちらが好み?」

「私は…正直に言うと、ディミトリ将軍かしら」


ディミトリ将軍は、エリザベスを守るためなら暴力的なこともしてしまう、ちょっと怖くて悪い男性。例えばエリザベスを虐める女官を人買いに売ってしまったり、エリザベスを襲った男性を斬ってしまったり。


「ということは、ルシェルも実は”悪い男”が好きなのね?」

「だって…」


常識や善悪や立場をものともせず、ただエリザベスのためだけに行動し、エリザベスに一途に想いをぶつけるところが、情熱的で。


「わかるわ!アルフォンスという完璧王子が立ちはだかっても、決してエリザベスのことを諦めずに追い続けるところとか…」

「そうなの!ディミトリが海辺の離宮までエリザベスを追ってきて言った、あのセリフ…」

「ああ!”俺から逃げられると思うな”ね!言われてみたいわよね!」


そして私は一番お気に入りのシーンを思い出して、両の頬に自分の手を当てる。


「王宮の廊下で端に追い詰められて、エリザベスは”やめて”って言うのに、”本当は望んでるんだろ”と言いながら他の人に見えないようにキスされるのも…」


強引さで「良識に囚われているエリザベスの心」をこじ開けるそのシーンには、とってもときめいた。


「わかる。私もそのシーンは、思わず叫んだわ」


…けれどセドリック様は、絶対にそんなことしないのだろうな。


とても穏やかで優しい人だから、仮に私が誰かに虐められても平和裏に解決するだろう。


それに品行方正で「他の生徒の模範」として表彰されるくらいだから、人前で強引なキスなんてしないだろうし。


だから私があんな恋をすることは、一生ない。


…現実世界では望めないような刺激的で激しい恋だからこそ、乙女は憧れてしまうもの。


「私も、ディミトリみたいな悪い男性に、強引に愛されてみたいな、なんて」


そう冗談めかして呟いてみたときだった。


「…へえ?ルシェルってそうなんだ?」


応えてくれたのは、今の今まできゃあきゃあ一緒に騒いでいたコレットではなかった。


「セドリック…様…?」


振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに立っていた、婚約者の姿。


端正な顔に、いつも通りの優しい微笑みを浮かべているのに、なぜかほんの少しだけいつもより空気が冷たい。


「ごめんね。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、面白そうな話だったから」


彼は穏やかに言いながら、コレットをすっと手で追い払って、慣れた手つきで私の手をとる。


自然な動きのはずなのに、仲間と引き離されて逃げ道を塞がれたような感覚になってしまう。


「れ、恋愛小説の話ですわ。ちょっとその…夢想してみただけで。現実には”悪い男性に強引に愛される”なんて、あり得ないとわかって…おります…し…」


言いながら、だんだん声が小さくなる。


「悪くて強引な男、か」


セドリック様は小さく繰り返した。手がきゅっと強く握られる。


「ルシェルの心を捕らえたその男は、具体的にどんなことをするのかな?」


世間話として、小説の登場人物のことを聞かれているだけなのに、この気づまりな雰囲気は何だろう。


「えっと…ディミトリはエリザベスを廊下の端に追い詰めて…たくさんの人がいる前なのに、無理やり、その…唇を奪うのですわ…」

「そうなんだ。ルシェルは、ヒロインが無理やりキスされるシーンにどきどきしたんだね?」


相槌は穏やかなのに何だか後ろめたくて、つい逃げるように言葉を続けてしまう。


「でもでも!無理やりと言いましても、本当はエリザベスも嫌がってはいなくて…」

「そうかそうか」

「それにディミトリはエリザベスよりもずっと身体が大きくて!だから他の人には二人がキスするのは見えないので、なんとかセーフなのですわ!」

「はは、そうなんだ」


くいっと手を引かれて、セドリック様のほうに身体が倒れ、抱きとめられる。


「僕のルシェルは、そういうキスをやってみたいんだね?」

「あ、あくまでお話の中のことですからっ!現実ではそんなの無理だと…」


「無理じゃないよ」と、顎を掴まれる。


「セドリック…様…?なに…」

「ここ、どーこだ?」


一生懸命説明しているうちに廊下の隅に誘導されていたのだと、今更気付く。セドリック様はするっと身体を入れ替えて、私を廊下の隅に閉じ込めた。


「こうやって覆いかぶさってルシェルを隠して…キスすればいいんだよね?」


真っすぐに見つめられながら、聞かれる。


「…そうだよね、ルシェル?」


品行方正で手以外にはほとんど触れてこないセドリック様が、どうしてこんな…


「だ、だめ、セドリック様…こんなところで…」


だってここは小説の中ではないもの。


「”本当は望んでるんだろ”?」


ディミトリのセリフ。


だめなのに、すっごくどきどきする。


「でも、こんなところを誰かに見られたら…っ」


噂になって、品行方正なセドリック様の評判に傷がついて、先生にも怒られる。


ぎゅっと目をつぶったとき、「ふっ」という小さな笑いが聞こえた。


「ごめん、冗談だよ。早く教室に行かなきゃ遅れちゃうね」

「…あ、はい」


ほっとしたような、残念なような…


ふっと笑いかけられて、その気持ちを全部見透かされたような気がした。


いつもより強く手を握られて、それだけでどきどきしてしまう。


「ねえ、ルシェル」


真っすぐ目を見られなくて、上目遣いにセドリック様を伺う。


「ルシェルがやりたいなら、今度本当にやってみようか」

「え…っ?」


そんなの、冗談のはずなのに。


誰よりも優しくて穏やかで…ディミトリよりもむしろアルフォンスに似ているセドリック様が、そんなことするはずないのに。


「ご冗談を」と返そうと思ったのに、言葉は出なかった。


音楽室まで私を送り届けて、セドリック様は「じゃあね」と手を振る。


彼はいつも通り優しく微笑んでいるのに、どうしてだか目が笑っていないような気がして…私はうまく笑みを返せなかった。



---



昨日のことを、何度も思い出してしまう。


「今度、本当にやってみようか」


あんなの、冗談に決まっているのに。


だってセドリック様は優しくて、穏やかで、爽やかで…


貴族学園の女子生徒たちが毎年ひそかに行っている「婚約者にしたい男子生徒ランキング」で三連覇した、「完璧な王子様」なのだもの。


女性から強引に唇を奪うなんてこと、するような人では決してない。それはいつも大切にしていただいている私が、一番よく知っている。


そのはずなのに。


「今度、本当にやってみようか」


どうしてだか、あの声が耳に残って離れない。「はしたない」と思うのに、期待で身体が熱くなってきてしまう。


「ルシェル、迎えに来たよ」


名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。


「考え事?」


目の前には、いつも通りのセドリック様。柔らかな笑みに穏やかな声に、整った顔立ち。背は高くて肩は広くて、すべてを持ち合わせながら私を大切にしてくれる、非の打ち所のない理想の婚約者。


「い、いいえっ…」


慌てて首を振る。昨日のことを思い出してドキドキしていたなんて、恥ずかしくて…言えるはずがない。


「…行こうか」

「ええ」


今日は実力テストの成績優秀者発表パーティー。貴族学園では将来の社交に備えて、何かにつけてパーティーが開催されるのだ。


彼は廊下を歩くときも、さりげなく人混みから庇うように位置を変えてくれる。


そしていつものように、男子クラスで起きた面白おかしいことを教えてくれたり、さりげなく私のネックレスの位置を直してくれたりして。


ただ、いつもより少しだけ距離が近い。婚約者だもの、当然だけれど…前はこんなに近かっただろうか、なんて。


「ルシェル」


ほっと気づいて周りを見ると、講堂についていた。


廊下の隅ではないことに、ほっとするような…ほんの少しだけ残念なような。


そしていつの間にか隣にぴったりと寄り添われていて、腰に手が回っている。


「一位は誰だろうね」


聞かれているのは、あまりに簡単なこと。


「当然セドリック様でしょう」とか「その質問は、何だか嫌味に聞こえますわ」とか、いつもなら即座に答えられるのに。


今日は耳にかかる吐息のせいで思考がまとまらない。


「ああ…可愛い」


褒められているはずなのに、あまりの声の低さに、なぜかときめきではなく恐怖で胸がどくりと鳴る。


すいっとセドリック様は私の手を引き、さざめいている生徒たちの間を抜けた。


「あ…」


もしかして、壁際に?


こんなに人の多いところで…?


「ルシェル姉様!」


従弟のジュリアンに声をかけられて、ほっとした、その瞬間。


「ジュリアン、ルシェルに何の用?」


先に声を発したのは、セドリック様だった。


穏やかな口調なのに、ほんのわずかに棘がある。


「え?ただ大好きな姉様に挨拶を…」

「君ももう高等部の二年生だろう。ルシェルがいくら優しいからと言っても、いつまでも従姉べったりでは…クラリス嬢にどう思われるだろうね?」


セドリック様がそっと手で示した方向で、ジュリアンの婚約者のクラリス様が、ぎりぎりと顔に青筋を立てていた。


「あっ、まずいかも…!姉様、またあとでね」


ジュリアンはパタパタとクラリス様に向かって走り去り、細い救いの糸が遠ざかっていってしまう。


「君の大切な従弟に、きついことを言ってしまったかな」


セドリック様はこちらを向いて、少し眉を下げた。


彼がよく見せる、人のいい、申し訳なさそうな表情。


例えば学友たちとのお茶会から、理由をつけて私を連れ出すとき。私が先生に質問しているときに、「自分もそこがわからなかった」と割り込んでくるとき。


ふいに私は悟った。


この顔は、嘘なんだって。セドリック様は「申し訳ない」なんて、微塵も思ってないんだって。


ぞわりと、背中を冷たいものが伝う。


「い…いいえ…本当のことですから」

「そう?」

「ええ、本来なら私が注意すべきところ…セドリック様にご指摘いただき痛み入ります」

「ならよかった」


そう言って、セドリック様はまた私の手を引き始める。


強く引っ張られているわけではない。手を離そうと思えば離せるはずなのに、指先に力が入らない。


「ルシェル」


静かに名前を呼ばれて、顔を上げた瞬間、ぐっと距離を詰められる。背中には冷たい壁の感触。


「昨日のこと、覚えてるよね?」


問いかけられて、また心臓が跳ねる。


答えられないまま、視線だけが絡む。


「僕が迎えに行ったとき、考えてたでしょ?顔が赤かったもの」


覆いかぶさるように前を塞がれて、逃げられない。


「だめ…」

「本当は望んでるんだろ?」


ディミトリのセリフなのに、セドリック様が演技しているようには見えなくて。


そっと、頬に手が触れる。


彼の顔にはいつもの穏やかで優しい思いやりじゃなくて、暗くて確かな愛が浮かんでる。


「誰も見てない。隠してあげるから」


こんなに明るくて、昨日の廊下よりも生徒も先生方もたくさんいる場所。


「絶対にだめ」と思うのに。


「本当に嫌?」


軽く顎を持ち上げられる。


「やめて」って言わなきゃいけないのに言葉が出なくて、視線を逸らすことすらできなくて。


彼の影に完全に閉じ込められた次の瞬間。


「時間切れ」


嬉しそうな声とともに、唇が重なった。


逃げられないように、しっかりと捕まえられて。


「…っ、ま、って…っ」


何とか息をして頼んでも、「待たない」と即座に返されて、楽しそうな唇にまた塞がれる。


「ん、う…」


怖いのに、恥ずかしいのに、溶けるくらいに甘くて。


「目を逸らさないで、見て」

「ふ…はっ…」


ようやく離れられたときには、息を整えるのに精いっぱいで、目には涙が溜まって。


「ああ…可愛すぎるだろ、僕のルシェル…」


うっとりとそう言われても、何が起きて今どうなっているのかすら、うまく理解できない。


「どうだった?強引なキス」


目の周りが熱く痛くなる。


「…こんな…はしたない…っ!」

「だって、望んだのはルシェルだろう?」


そうかもしれないけど。


「でも…っ」


「第三学年第一位、セドリック・アルバート・ノーフォーク!」という声が会場に響いて、セドリック様の顔からは、さっきまでの熱が跡形もなく消える。


彼は「理想の王子様」の表情を取り戻して、くるりと身を翻した。


その顔こそが「仮面」なのだとは…認めたくない。


だって彼は何事もなかったかのように、「やっぱり今回もセドリックが一位かぁ」という声に、爽やかに穏やかに凛々しく、「今回は本当にまぐれだよ」とか「お前にだけは負けないな」なんていつも通りに応えているのだから。


これが本当の彼で、さっきまでのが演技のはず。


「壇上へお願いします!」


セドリック様は「完璧な王子様」「理想の婚約者」として、憧れの眼差しを浴びながら壇上に向かう。


そっと耳に口を寄せて「続きはあとで」と囁かれたことは、私以外誰も知らない。



---



パーティーの途中で、セドリック様は「ルシェル、何だか顔色が悪いね。中庭で外の空気を吸う?」なんて、それらしいことを言う。


もちろん「続き」をするために。


「セドリック様、もう止めて…」


私はなんとかキスの途中で彼の唇から逃れて、そう言う。


「本当に止めていいの?ルシェルもどきどきしてくれているみたいだけど」


セドリック様は見たことがない顔で笑う。どこか歪んだ笑顔が、怖い。


「もうお芝居は不要ですからっ」と彼の胸を押す。


彼は「怖い男に愛されたい」という私の戯言をなぞっているだけ。でもこんな恥ずかしい思いは、もう十分。


「本物の…いつもの優しいセドリック様に戻ってくださいませっ!」


だけど、セドリック様はびくともしない。


「あは」と笑って、私を一層強く抱きしめる。


「本物の僕?優しくて穏やかなセドリックのこと?」

「ええ」

「…違うよ、ルシェル」


セドリック様の目に、暗い光が灯る。


「こっちが本物の…俺なんだよ」


その低い声に、「俺」という言葉に、背中が冷えていく。


「俺はずっとルシェルの”理想の男”を演じてた。ルシェルが”白馬の王子様が好き”というから、親に白馬まで買わせてさ」


ぞわりとする。


「息が詰まりそうだったよ。だけどルシェルのためなら、何でもできたからさ。ルシェルが俺を好きでいてくれるなら、何だって我慢できた」

「…そんな」


「嘘だよ、びっくりした?」「ごめん、冗談」って言ってほしいのに、彼の目が「本気だ」と雄弁に語っている。


「だけどルシェルが”強引で悪い男が好き”っていうなら、もう我慢しなくてもいいよな?」


本当のセドリック様が悪い男だなんて。


だって彼はいつだって優しくて、穏やかで、品行方正で、平和的で。


必死に「彼の言葉が嘘である証拠」を探そうとする私に、セドリック様は「ふっ」と笑う。


「ルシェルが読んでた本を、俺も読んでみた。正直ディミトリとかいう奴にはかなり感情移入できたよ。行動も似てるし」

「行動…?行動って…?」

「ルシェル、考えてみろよ」


セドリック様は淡々と説明する。


「婚約者にしたい男子生徒ランキング」の絶対的王者を婚約者にしている中堅どころの伯爵令嬢が、なぜ小さな僻みひとつ受けず、平和にのほほんと学園生活を送れているのか。


答えは、セドリック様が私に嫉妬の感情を抱いた女子生徒たちや、よこしまな感情を抱いた男子生徒たちを排除してきたから。


「変な時期に転校したり退学したり…それに不幸な事故にあったりした生徒たちがいただろう?アイルソン侯爵令嬢とかさ」

「そんなの、う、嘘…」


アイルソン侯爵令嬢シャルロット様は、馬車の事故で半身不随の大怪我を…


「セドリック様が、そんなひどいことを…」


そんなこと、するはずがないのに。


「仕方ない。放っておいたらルシェルが危なかった」


迷いのなさすぎる言葉に、私は渾身の力で彼の身体を押して、何とかその腕から逃れた。


「ルシェル、どこ行くんだ?」


怖い。


慣れ親しんだ学園の中のはずなのに、どこに逃げたらいいかわからない。簡単に追い詰められて、壁にどんと背がつく。


「ルシェル、俺から逃げられると思うのか?」


こんなセドリック様は、知らない。


「ううっ…うう…」


泣きたくなんてないのに、嗚咽が私の口から洩れる。


「…あなたなんて知らないっ!あなたはセドリック様なんかじゃないっ!私のセドリック様を返してよっ!」


セドリック様は、優しくて穏やかで。こんなことする人じゃない。


セドリック様の顔が、苦しそうに歪む。


「返せ…?優しいセドリックを手放したのは、ルシェルだろ?」


悲しそうで、悔しそうで。


「湖でボートを漕いで、バラ園で愛を囁いて、ケーキの中に指輪を隠して…俺が君のためにやってきたこと全部、無駄だって言ったのはルシェルだよな?」


どれも私とセドリック様が二人で紡いできた、煌びやかで大切な思い出。


「そんなっ…そんなつもりじゃ…」

「じゃあどういうつもりだったんだ!?女心を先読みしてくれる優しい男より、怖くて強引な男がいいって言ったのは…ルシェルだろ…っ!?君が…ああ言ったから…」


彼が声を詰まらせながら俯いて、私はようやく気付く。


軽率な一言が、彼の十何年もの努力を踏みにじって、深く深く傷つけてしまったこと。


だから彼は…本当の自分に戻らざるを得なくなったんだってこと。


「ごめん…ごめんなさい、セドリック様…そんなつもりじゃなかったの…」


セドリック様は私の手をとった。


驚くくらいに優しいその手は、ほんの少し震えている。


「謝罪を聞きたいわけじゃない」

「じゃあ私は…どうしたら…」

「選べ。本当の俺を知ってもそばにいるのか、俺を捨てて逃げるのか」


怖くて逃げたい。


だけど同時に、「離れられない」と思ってしまう。


だって彼を一人にしたら、きっと壊れてしまうから。彼も、私たちの美しい思い出も、全部。


私が、私たちを守らないと。


「セドリック様…」


私は彼の首に腕を回す。


「…愛してます」


だから、私を許して。


「ごめんなさい、ごめんなさい…ずっとそばにいるから…」



◆◆◆



俺は泣き疲れて眠ってしまったルシェルの髪に、キスを落とす。甘く頼りない、俺だけが嗅ぐことを許された香り。


「ルシェル、知ってるか?本当に悪い男が、どんな男か」


本当に悪い男は、愛する女の気持ちや事情なんて気にしない。


ただ愛する女を自分のそばに置いて、逃がさないことしか考えていない。


そのためならどんな手でも使う。


俺は君に「軽率な一言で、俺の十何年もの努力と愛情を踏みにじった」と思わせた。必要もない罪悪感を抱かせて、俺を選ばせるために。


これで君は俺から逃げられない。


「俺のすべてを知ったうえでもなお、自分で俺の隣を選んだ」と思い込んでいるのだから。「自分が望んだ」と。


「かわいそうに…こんな男に愛されて」


心にもないことが口から出て、俺はふっと笑った。


世間一般から見たら、きっとルシェルは十分かわいそうなのだろう。他の奴らの考えることなど、どうでもいいが。


「俺から逃げられると思うなよ」


これが俺の本性なのだから。


――最初から、ずっと。


「そしてこれからも、ずっとな」

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