「悪い男って素敵」と呟いたら、完璧な王子様だった婚約者が本性をさらけ出しました
「ああルシェル、寒いね?」
秋の昼下がり。
寮の自室についているテラスでお茶を飲みながら、ほんの少し肩を震わせただけで、彼が即座にショールをかけてくれる。
「ありがとうございます、セドリック様」
微笑み返せば、彼は満足そうに目を細めた。
ノーフォーク伯爵令息セドリック様は、完璧な婚約者だ。
整った顔立ちの美男子で、文武両道で、優しくて穏やかで、いつだって私を最優先にしてくれて。声を荒げることもなければ、無理を言うこともない。些細な変化にも気づいてくれて、私が望むことを先回りして叶えてくれる。
学友に「ルシェルはいいわねえ」と羨ましがられるのも当然の、自慢の婚約者。
「でも理想的すぎて、ちょっと刺激が足りないかも」なんて思ってしまったのは、些細なことがきっかけだった。
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「ねえルシェル、あれ読んだ?」
「ええ!面白くて一気に!」
「でしょう!」
数日前、学友コレットに借りた一冊の恋愛小説。
王子の婚約者エリザベスが、盗賊出身の将軍に略奪される物語。
私たちは今、その本の感想を語り合いながら音楽室へと移動している。
「ねえ、ルシェルはアルフォンス王子とディミトリ将軍のどちらが好み?」
「私は…正直に言うと、ディミトリ将軍かしら」
ディミトリ将軍は、エリザベスを守るためなら暴力的なこともしてしまう、ちょっと怖くて悪い男性。例えばエリザベスを虐める女官を人買いに売ってしまったり、エリザベスを襲った男性を斬ってしまったり。
「ということは、ルシェルも実は”悪い男”が好きなのね?」
「だって…」
常識や善悪や立場をものともせず、ただエリザベスのためだけに行動し、エリザベスに一途に想いをぶつけるところが、情熱的で。
「わかるわ!アルフォンスという完璧王子が立ちはだかっても、決してエリザベスのことを諦めずに追い続けるところとか…」
「そうなの!ディミトリが海辺の離宮までエリザベスを追ってきて言った、あのセリフ…」
「ああ!”俺から逃げられると思うな”ね!言われてみたいわよね!」
そして私は一番お気に入りのシーンを思い出して、両の頬に自分の手を当てる。
「王宮の廊下で端に追い詰められて、エリザベスは”やめて”って言うのに、”本当は望んでるんだろ”と言いながら他の人に見えないようにキスされるのも…」
強引さで「良識に囚われているエリザベスの心」をこじ開けるそのシーンには、とってもときめいた。
「わかる。私もそのシーンは、思わず叫んだわ」
…けれどセドリック様は、絶対にそんなことしないのだろうな。
とても穏やかで優しい人だから、仮に私が誰かに虐められても平和裏に解決するだろう。
それに品行方正で「他の生徒の模範」として表彰されるくらいだから、人前で強引なキスなんてしないだろうし。
だから私があんな恋をすることは、一生ない。
…現実世界では望めないような刺激的で激しい恋だからこそ、乙女は憧れてしまうもの。
「私も、ディミトリみたいな悪い男性に、強引に愛されてみたいな、なんて」
そう冗談めかして呟いてみたときだった。
「…へえ?ルシェルってそうなんだ?」
応えてくれたのは、今の今まできゃあきゃあ一緒に騒いでいたコレットではなかった。
「セドリック…様…?」
振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに立っていた、婚約者の姿。
端正な顔に、いつも通りの優しい微笑みを浮かべているのに、なぜかほんの少しだけいつもより空気が冷たい。
「ごめんね。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、面白そうな話だったから」
彼は穏やかに言いながら、コレットをすっと手で追い払って、慣れた手つきで私の手をとる。
自然な動きのはずなのに、仲間と引き離されて逃げ道を塞がれたような感覚になってしまう。
「れ、恋愛小説の話ですわ。ちょっとその…夢想してみただけで。現実には”悪い男性に強引に愛される”なんて、あり得ないとわかって…おります…し…」
言いながら、だんだん声が小さくなる。
「悪くて強引な男、か」
セドリック様は小さく繰り返した。手がきゅっと強く握られる。
「ルシェルの心を捕らえたその男は、具体的にどんなことをするのかな?」
世間話として、小説の登場人物のことを聞かれているだけなのに、この気づまりな雰囲気は何だろう。
「えっと…ディミトリはエリザベスを廊下の端に追い詰めて…たくさんの人がいる前なのに、無理やり、その…唇を奪うのですわ…」
「そうなんだ。ルシェルは、ヒロインが無理やりキスされるシーンにどきどきしたんだね?」
相槌は穏やかなのに何だか後ろめたくて、つい逃げるように言葉を続けてしまう。
「でもでも!無理やりと言いましても、本当はエリザベスも嫌がってはいなくて…」
「そうかそうか」
「それにディミトリはエリザベスよりもずっと身体が大きくて!だから他の人には二人がキスするのは見えないので、なんとかセーフなのですわ!」
「はは、そうなんだ」
くいっと手を引かれて、セドリック様のほうに身体が倒れ、抱きとめられる。
「僕のルシェルは、そういうキスをやってみたいんだね?」
「あ、あくまでお話の中のことですからっ!現実ではそんなの無理だと…」
「無理じゃないよ」と、顎を掴まれる。
「セドリック…様…?なに…」
「ここ、どーこだ?」
一生懸命説明しているうちに廊下の隅に誘導されていたのだと、今更気付く。セドリック様はするっと身体を入れ替えて、私を廊下の隅に閉じ込めた。
「こうやって覆いかぶさってルシェルを隠して…キスすればいいんだよね?」
真っすぐに見つめられながら、聞かれる。
「…そうだよね、ルシェル?」
品行方正で手以外にはほとんど触れてこないセドリック様が、どうしてこんな…
「だ、だめ、セドリック様…こんなところで…」
だってここは小説の中ではないもの。
「”本当は望んでるんだろ”?」
ディミトリのセリフ。
だめなのに、すっごくどきどきする。
「でも、こんなところを誰かに見られたら…っ」
噂になって、品行方正なセドリック様の評判に傷がついて、先生にも怒られる。
ぎゅっと目をつぶったとき、「ふっ」という小さな笑いが聞こえた。
「ごめん、冗談だよ。早く教室に行かなきゃ遅れちゃうね」
「…あ、はい」
ほっとしたような、残念なような…
ふっと笑いかけられて、その気持ちを全部見透かされたような気がした。
いつもより強く手を握られて、それだけでどきどきしてしまう。
「ねえ、ルシェル」
真っすぐ目を見られなくて、上目遣いにセドリック様を伺う。
「ルシェルがやりたいなら、今度本当にやってみようか」
「え…っ?」
そんなの、冗談のはずなのに。
誰よりも優しくて穏やかで…ディミトリよりもむしろアルフォンスに似ているセドリック様が、そんなことするはずないのに。
「ご冗談を」と返そうと思ったのに、言葉は出なかった。
音楽室まで私を送り届けて、セドリック様は「じゃあね」と手を振る。
彼はいつも通り優しく微笑んでいるのに、どうしてだか目が笑っていないような気がして…私はうまく笑みを返せなかった。
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昨日のことを、何度も思い出してしまう。
「今度、本当にやってみようか」
あんなの、冗談に決まっているのに。
だってセドリック様は優しくて、穏やかで、爽やかで…
貴族学園の女子生徒たちが毎年ひそかに行っている「婚約者にしたい男子生徒ランキング」で三連覇した、「完璧な王子様」なのだもの。
女性から強引に唇を奪うなんてこと、するような人では決してない。それはいつも大切にしていただいている私が、一番よく知っている。
そのはずなのに。
「今度、本当にやってみようか」
どうしてだか、あの声が耳に残って離れない。「はしたない」と思うのに、期待で身体が熱くなってきてしまう。
「ルシェル、迎えに来たよ」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。
「考え事?」
目の前には、いつも通りのセドリック様。柔らかな笑みに穏やかな声に、整った顔立ち。背は高くて肩は広くて、すべてを持ち合わせながら私を大切にしてくれる、非の打ち所のない理想の婚約者。
「い、いいえっ…」
慌てて首を振る。昨日のことを思い出してドキドキしていたなんて、恥ずかしくて…言えるはずがない。
「…行こうか」
「ええ」
今日は実力テストの成績優秀者発表パーティー。貴族学園では将来の社交に備えて、何かにつけてパーティーが開催されるのだ。
彼は廊下を歩くときも、さりげなく人混みから庇うように位置を変えてくれる。
そしていつものように、男子クラスで起きた面白おかしいことを教えてくれたり、さりげなく私のネックレスの位置を直してくれたりして。
ただ、いつもより少しだけ距離が近い。婚約者だもの、当然だけれど…前はこんなに近かっただろうか、なんて。
「ルシェル」
ほっと気づいて周りを見ると、講堂についていた。
廊下の隅ではないことに、ほっとするような…ほんの少しだけ残念なような。
そしていつの間にか隣にぴったりと寄り添われていて、腰に手が回っている。
「一位は誰だろうね」
聞かれているのは、あまりに簡単なこと。
「当然セドリック様でしょう」とか「その質問は、何だか嫌味に聞こえますわ」とか、いつもなら即座に答えられるのに。
今日は耳にかかる吐息のせいで思考がまとまらない。
「ああ…可愛い」
褒められているはずなのに、あまりの声の低さに、なぜかときめきではなく恐怖で胸がどくりと鳴る。
すいっとセドリック様は私の手を引き、さざめいている生徒たちの間を抜けた。
「あ…」
もしかして、壁際に?
こんなに人の多いところで…?
「ルシェル姉様!」
従弟のジュリアンに声をかけられて、ほっとした、その瞬間。
「ジュリアン、ルシェルに何の用?」
先に声を発したのは、セドリック様だった。
穏やかな口調なのに、ほんのわずかに棘がある。
「え?ただ大好きな姉様に挨拶を…」
「君ももう高等部の二年生だろう。ルシェルがいくら優しいからと言っても、いつまでも従姉べったりでは…クラリス嬢にどう思われるだろうね?」
セドリック様がそっと手で示した方向で、ジュリアンの婚約者のクラリス様が、ぎりぎりと顔に青筋を立てていた。
「あっ、まずいかも…!姉様、またあとでね」
ジュリアンはパタパタとクラリス様に向かって走り去り、細い救いの糸が遠ざかっていってしまう。
「君の大切な従弟に、きついことを言ってしまったかな」
セドリック様はこちらを向いて、少し眉を下げた。
彼がよく見せる、人のいい、申し訳なさそうな表情。
例えば学友たちとのお茶会から、理由をつけて私を連れ出すとき。私が先生に質問しているときに、「自分もそこがわからなかった」と割り込んでくるとき。
ふいに私は悟った。
この顔は、嘘なんだって。セドリック様は「申し訳ない」なんて、微塵も思ってないんだって。
ぞわりと、背中を冷たいものが伝う。
「い…いいえ…本当のことですから」
「そう?」
「ええ、本来なら私が注意すべきところ…セドリック様にご指摘いただき痛み入ります」
「ならよかった」
そう言って、セドリック様はまた私の手を引き始める。
強く引っ張られているわけではない。手を離そうと思えば離せるはずなのに、指先に力が入らない。
「ルシェル」
静かに名前を呼ばれて、顔を上げた瞬間、ぐっと距離を詰められる。背中には冷たい壁の感触。
「昨日のこと、覚えてるよね?」
問いかけられて、また心臓が跳ねる。
答えられないまま、視線だけが絡む。
「僕が迎えに行ったとき、考えてたでしょ?顔が赤かったもの」
覆いかぶさるように前を塞がれて、逃げられない。
「だめ…」
「本当は望んでるんだろ?」
ディミトリのセリフなのに、セドリック様が演技しているようには見えなくて。
そっと、頬に手が触れる。
彼の顔にはいつもの穏やかで優しい思いやりじゃなくて、暗くて確かな愛が浮かんでる。
「誰も見てない。隠してあげるから」
こんなに明るくて、昨日の廊下よりも生徒も先生方もたくさんいる場所。
「絶対にだめ」と思うのに。
「本当に嫌?」
軽く顎を持ち上げられる。
「やめて」って言わなきゃいけないのに言葉が出なくて、視線を逸らすことすらできなくて。
彼の影に完全に閉じ込められた次の瞬間。
「時間切れ」
嬉しそうな声とともに、唇が重なった。
逃げられないように、しっかりと捕まえられて。
「…っ、ま、って…っ」
何とか息をして頼んでも、「待たない」と即座に返されて、楽しそうな唇にまた塞がれる。
「ん、う…」
怖いのに、恥ずかしいのに、溶けるくらいに甘くて。
「目を逸らさないで、見て」
「ふ…はっ…」
ようやく離れられたときには、息を整えるのに精いっぱいで、目には涙が溜まって。
「ああ…可愛すぎるだろ、僕のルシェル…」
うっとりとそう言われても、何が起きて今どうなっているのかすら、うまく理解できない。
「どうだった?強引なキス」
目の周りが熱く痛くなる。
「…こんな…はしたない…っ!」
「だって、望んだのはルシェルだろう?」
そうかもしれないけど。
「でも…っ」
「第三学年第一位、セドリック・アルバート・ノーフォーク!」という声が会場に響いて、セドリック様の顔からは、さっきまでの熱が跡形もなく消える。
彼は「理想の王子様」の表情を取り戻して、くるりと身を翻した。
その顔こそが「仮面」なのだとは…認めたくない。
だって彼は何事もなかったかのように、「やっぱり今回もセドリックが一位かぁ」という声に、爽やかに穏やかに凛々しく、「今回は本当にまぐれだよ」とか「お前にだけは負けないな」なんていつも通りに応えているのだから。
これが本当の彼で、さっきまでのが演技のはず。
「壇上へお願いします!」
セドリック様は「完璧な王子様」「理想の婚約者」として、憧れの眼差しを浴びながら壇上に向かう。
そっと耳に口を寄せて「続きはあとで」と囁かれたことは、私以外誰も知らない。
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パーティーの途中で、セドリック様は「ルシェル、何だか顔色が悪いね。中庭で外の空気を吸う?」なんて、それらしいことを言う。
もちろん「続き」をするために。
「セドリック様、もう止めて…」
私はなんとかキスの途中で彼の唇から逃れて、そう言う。
「本当に止めていいの?ルシェルもどきどきしてくれているみたいだけど」
セドリック様は見たことがない顔で笑う。どこか歪んだ笑顔が、怖い。
「もうお芝居は不要ですからっ」と彼の胸を押す。
彼は「怖い男に愛されたい」という私の戯言をなぞっているだけ。でもこんな恥ずかしい思いは、もう十分。
「本物の…いつもの優しいセドリック様に戻ってくださいませっ!」
だけど、セドリック様はびくともしない。
「あは」と笑って、私を一層強く抱きしめる。
「本物の僕?優しくて穏やかなセドリックのこと?」
「ええ」
「…違うよ、ルシェル」
セドリック様の目に、暗い光が灯る。
「こっちが本物の…俺なんだよ」
その低い声に、「俺」という言葉に、背中が冷えていく。
「俺はずっとルシェルの”理想の男”を演じてた。ルシェルが”白馬の王子様が好き”というから、親に白馬まで買わせてさ」
ぞわりとする。
「息が詰まりそうだったよ。だけどルシェルのためなら、何でもできたからさ。ルシェルが俺を好きでいてくれるなら、何だって我慢できた」
「…そんな」
「嘘だよ、びっくりした?」「ごめん、冗談」って言ってほしいのに、彼の目が「本気だ」と雄弁に語っている。
「だけどルシェルが”強引で悪い男が好き”っていうなら、もう我慢しなくてもいいよな?」
本当のセドリック様が悪い男だなんて。
だって彼はいつだって優しくて、穏やかで、品行方正で、平和的で。
必死に「彼の言葉が嘘である証拠」を探そうとする私に、セドリック様は「ふっ」と笑う。
「ルシェルが読んでた本を、俺も読んでみた。正直ディミトリとかいう奴にはかなり感情移入できたよ。行動も似てるし」
「行動…?行動って…?」
「ルシェル、考えてみろよ」
セドリック様は淡々と説明する。
「婚約者にしたい男子生徒ランキング」の絶対的王者を婚約者にしている中堅どころの伯爵令嬢が、なぜ小さな僻みひとつ受けず、平和にのほほんと学園生活を送れているのか。
答えは、セドリック様が私に嫉妬の感情を抱いた女子生徒たちや、よこしまな感情を抱いた男子生徒たちを排除してきたから。
「変な時期に転校したり退学したり…それに不幸な事故にあったりした生徒たちがいただろう?アイルソン侯爵令嬢とかさ」
「そんなの、う、嘘…」
アイルソン侯爵令嬢シャルロット様は、馬車の事故で半身不随の大怪我を…
「セドリック様が、そんなひどいことを…」
そんなこと、するはずがないのに。
「仕方ない。放っておいたらルシェルが危なかった」
迷いのなさすぎる言葉に、私は渾身の力で彼の身体を押して、何とかその腕から逃れた。
「ルシェル、どこ行くんだ?」
怖い。
慣れ親しんだ学園の中のはずなのに、どこに逃げたらいいかわからない。簡単に追い詰められて、壁にどんと背がつく。
「ルシェル、俺から逃げられると思うのか?」
こんなセドリック様は、知らない。
「ううっ…うう…」
泣きたくなんてないのに、嗚咽が私の口から洩れる。
「…あなたなんて知らないっ!あなたはセドリック様なんかじゃないっ!私のセドリック様を返してよっ!」
セドリック様は、優しくて穏やかで。こんなことする人じゃない。
セドリック様の顔が、苦しそうに歪む。
「返せ…?優しいセドリックを手放したのは、ルシェルだろ?」
悲しそうで、悔しそうで。
「湖でボートを漕いで、バラ園で愛を囁いて、ケーキの中に指輪を隠して…俺が君のためにやってきたこと全部、無駄だって言ったのはルシェルだよな?」
どれも私とセドリック様が二人で紡いできた、煌びやかで大切な思い出。
「そんなっ…そんなつもりじゃ…」
「じゃあどういうつもりだったんだ!?女心を先読みしてくれる優しい男より、怖くて強引な男がいいって言ったのは…ルシェルだろ…っ!?君が…ああ言ったから…」
彼が声を詰まらせながら俯いて、私はようやく気付く。
軽率な一言が、彼の十何年もの努力を踏みにじって、深く深く傷つけてしまったこと。
だから彼は…本当の自分に戻らざるを得なくなったんだってこと。
「ごめん…ごめんなさい、セドリック様…そんなつもりじゃなかったの…」
セドリック様は私の手をとった。
驚くくらいに優しいその手は、ほんの少し震えている。
「謝罪を聞きたいわけじゃない」
「じゃあ私は…どうしたら…」
「選べ。本当の俺を知ってもそばにいるのか、俺を捨てて逃げるのか」
怖くて逃げたい。
だけど同時に、「離れられない」と思ってしまう。
だって彼を一人にしたら、きっと壊れてしまうから。彼も、私たちの美しい思い出も、全部。
私が、私たちを守らないと。
「セドリック様…」
私は彼の首に腕を回す。
「…愛してます」
だから、私を許して。
「ごめんなさい、ごめんなさい…ずっとそばにいるから…」
◆◆◆
俺は泣き疲れて眠ってしまったルシェルの髪に、キスを落とす。甘く頼りない、俺だけが嗅ぐことを許された香り。
「ルシェル、知ってるか?本当に悪い男が、どんな男か」
本当に悪い男は、愛する女の気持ちや事情なんて気にしない。
ただ愛する女を自分のそばに置いて、逃がさないことしか考えていない。
そのためならどんな手でも使う。
俺は君に「軽率な一言で、俺の十何年もの努力と愛情を踏みにじった」と思わせた。必要もない罪悪感を抱かせて、俺を選ばせるために。
これで君は俺から逃げられない。
「俺のすべてを知ったうえでもなお、自分で俺の隣を選んだ」と思い込んでいるのだから。「自分が望んだ」と。
「かわいそうに…こんな男に愛されて」
心にもないことが口から出て、俺はふっと笑った。
世間一般から見たら、きっとルシェルは十分かわいそうなのだろう。他の奴らの考えることなど、どうでもいいが。
「俺から逃げられると思うなよ」
これが俺の本性なのだから。
――最初から、ずっと。
「そしてこれからも、ずっとな」




