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レッドゾーンの向こう側

作者: jin kawasaki
掲載日:2026/03/30

ガレージの奥には、時間が沈殿している。

 そう思ったのは、シャッターを開けた瞬間だった。長年触れられていない空気の匂いと、薄く積もった埃。その中心に、そいつは眠っていた。

 赤いスポーツカー。

 かつては艶やかだったであろうボディはくすみ、タイヤはわずかに空気が抜け、まるで深い眠りに落ちている獣みたいだった。

「……まだ、生きてるか?」

 思わず、そんな言葉が漏れた。

 俺はそっとボンネットに触れる。冷たい金属の感触。だが不思議と、完全に死んだ機械には思えなかった。

 キーはグローブボックスに入っていた。試しに回す。

 キュル……キュル……

 スターターが弱々しく回り、すぐに止まった。

「やっぱ無理か」

 だが、諦める気にはなれなかった。

 ――こいつを、もう一度走らせたい。

 理由なんて、うまく言えない。ただ胸の奥がざわついていた。昔、峠を攻めていた頃の記憶。アスファルトの匂い。限界まで回したエンジン音。

 気づけば、俺は工具箱を開いていた。

     

 それからの日々は、妙に充実していた。

 固着したボルトを外し、オイルを抜き、プラグを交換する。劣化したホースを一本ずつ取り替え、燃料ラインを洗浄し、バッテリーを新品に換装する。

 面倒な作業のはずなのに、時間が飛ぶように過ぎた。

 最初にエンジンが目を覚ました瞬間は、今でも耳に残っている。

 キュル……キュル……

 ――ドォンッ。

 低く太い爆発音。

 そして、震えるようなアイドリング。

「……やるじゃねえか」

 思わず笑った。

 回転計の針が、かすかに揺れている。まるで、長い眠りから起きたばかりで体をほぐしているみたいに。

 試走に出た夜、アクセルを軽く踏み込んだだけで背中がシートに押し付けられた。

 ――速い。

 古い車のはずなのに、反応が鋭い。電子制御に頼らない、剥き出しの加速。

 その瞬間、決めた。

 こいつで、レースに出る。

    

 草レースとはいえ、サーキットの空気は独特だ。

 ピットロードに並ぶ車列。タイヤの焼ける匂い。緊張と興奮が混ざったざわめき。

 隣のグリッドには、最新型のマシンがいた。低く構えたボディ、カーボンの光沢。どう見ても、性能では向こうが上だ。

 ドライバーがちらりとこちらを見る。

 若い。自信満々の顔だ。

 ――上等。

 俺はヘルメットの中で小さく笑った。

    

 レースは、予想通り苦しい展開だった。

 直線では離され、コーナーで食らいつく。ブレーキングのタイミングを詰め、ラインを削り、何とか先頭集団に残る。

 だが、古い車は正直だ。

 周回を重ねるごとに、水温がじわじわと上がり、油温も高めで張り付いている。

 それでも、こいつは文句を言わなかった。

 アクセルを踏めば、応える。

 回せば、回る。

 ――そして、最終ラップ。

 俺は、あの最新型の背後にぴったりとつけていた。

 ホームストレートに入る。

 回転計の針は、すでに危険域の手前。

 エンジン音が、いつもより甲高い。

(……まだ、いけるか?)

 だが、次の瞬間。

 前の車が、踏み込んだ。

 排気音が一段高くなる。距離が、わずかに開く。

 回転計の針は、レッドゾーンの縁で震えている。

 ここで踏めば――

 壊れるかもしれない。

 長年眠っていたエンジンだ。限界は近い。ここで無理をさせれば、終わる可能性は高い。

 頭の中で、理屈が並ぶ。

 ――守れ。

 ――完走を狙え。

 ――次がある。

 だが、その全部を押しのけて、別の声がした。

 こいつは、何のために生まれた?

 ガレージで静かに朽ちるためか?

 違うだろ。

 スポーツカーだ。

 走るための機械だ。

 速く走るために、生まれてきた。

「……行くぞ」

 俺は、アクセルを踏み抜いた。

   

 エンジンが、咆哮した。

 回転計の針が、レッドゾーンに突入する。

 振動が一段と荒くなる。だが加速は止まらない。背中がシートに叩きつけられる。

 並ぶ。

 横に出る。

 相手のドライバーがこちらを見る。

 そのまま、前へ。

 チェッカーフラッグが視界に入った。

 ――トップ。

 ゴールラインを駆け抜けた瞬間、

 ガンッ!!

 鈍い衝撃。

 エンジン音が、不自然に途切れた。

「……あー」

 惰性でマシンをピットに戻す。

 キーをひねっても、もう二度と目を覚ますことはなかった。

    

 ボンネットを開けると、焦げたオイルの匂いが立ちのぼった。

 メカニック役を買って出てくれていた友人が、苦い顔をする。

「……派手にやったな」

「みたいだな」

 俺は、壊れたエンジンをしばらく見つめていた。

 後悔がないと言えば、嘘になる。

 直すのは大変だろう。金も時間もかかる。

 それでも。

 俺はそっと、フェンダーを叩いた。

「悪かったな」

 少しだけ間を置いて、続ける。

「……でも、お前」

 風が、ピットを抜けていく。

 遠くで、まだ別のレースのエンジン音が響いている。

「トップでゴールしたかっただろ」

 壊れたスポーツカーは、何も答えない。

 けれど、あの最後の咆哮だけは、確かに生きていた。

 だから俺は、もう一度だけボンネットに触れて、静かに笑った。

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