レッドゾーンの向こう側
ガレージの奥には、時間が沈殿している。
そう思ったのは、シャッターを開けた瞬間だった。長年触れられていない空気の匂いと、薄く積もった埃。その中心に、そいつは眠っていた。
赤いスポーツカー。
かつては艶やかだったであろうボディはくすみ、タイヤはわずかに空気が抜け、まるで深い眠りに落ちている獣みたいだった。
「……まだ、生きてるか?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
俺はそっとボンネットに触れる。冷たい金属の感触。だが不思議と、完全に死んだ機械には思えなかった。
キーはグローブボックスに入っていた。試しに回す。
キュル……キュル……
スターターが弱々しく回り、すぐに止まった。
「やっぱ無理か」
だが、諦める気にはなれなかった。
――こいつを、もう一度走らせたい。
理由なんて、うまく言えない。ただ胸の奥がざわついていた。昔、峠を攻めていた頃の記憶。アスファルトの匂い。限界まで回したエンジン音。
気づけば、俺は工具箱を開いていた。
それからの日々は、妙に充実していた。
固着したボルトを外し、オイルを抜き、プラグを交換する。劣化したホースを一本ずつ取り替え、燃料ラインを洗浄し、バッテリーを新品に換装する。
面倒な作業のはずなのに、時間が飛ぶように過ぎた。
最初にエンジンが目を覚ました瞬間は、今でも耳に残っている。
キュル……キュル……
――ドォンッ。
低く太い爆発音。
そして、震えるようなアイドリング。
「……やるじゃねえか」
思わず笑った。
回転計の針が、かすかに揺れている。まるで、長い眠りから起きたばかりで体をほぐしているみたいに。
試走に出た夜、アクセルを軽く踏み込んだだけで背中がシートに押し付けられた。
――速い。
古い車のはずなのに、反応が鋭い。電子制御に頼らない、剥き出しの加速。
その瞬間、決めた。
こいつで、レースに出る。
草レースとはいえ、サーキットの空気は独特だ。
ピットロードに並ぶ車列。タイヤの焼ける匂い。緊張と興奮が混ざったざわめき。
隣のグリッドには、最新型のマシンがいた。低く構えたボディ、カーボンの光沢。どう見ても、性能では向こうが上だ。
ドライバーがちらりとこちらを見る。
若い。自信満々の顔だ。
――上等。
俺はヘルメットの中で小さく笑った。
レースは、予想通り苦しい展開だった。
直線では離され、コーナーで食らいつく。ブレーキングのタイミングを詰め、ラインを削り、何とか先頭集団に残る。
だが、古い車は正直だ。
周回を重ねるごとに、水温がじわじわと上がり、油温も高めで張り付いている。
それでも、こいつは文句を言わなかった。
アクセルを踏めば、応える。
回せば、回る。
――そして、最終ラップ。
俺は、あの最新型の背後にぴったりとつけていた。
ホームストレートに入る。
回転計の針は、すでに危険域の手前。
エンジン音が、いつもより甲高い。
(……まだ、いけるか?)
だが、次の瞬間。
前の車が、踏み込んだ。
排気音が一段高くなる。距離が、わずかに開く。
回転計の針は、レッドゾーンの縁で震えている。
ここで踏めば――
壊れるかもしれない。
長年眠っていたエンジンだ。限界は近い。ここで無理をさせれば、終わる可能性は高い。
頭の中で、理屈が並ぶ。
――守れ。
――完走を狙え。
――次がある。
だが、その全部を押しのけて、別の声がした。
こいつは、何のために生まれた?
ガレージで静かに朽ちるためか?
違うだろ。
スポーツカーだ。
走るための機械だ。
速く走るために、生まれてきた。
「……行くぞ」
俺は、アクセルを踏み抜いた。
エンジンが、咆哮した。
回転計の針が、レッドゾーンに突入する。
振動が一段と荒くなる。だが加速は止まらない。背中がシートに叩きつけられる。
並ぶ。
横に出る。
相手のドライバーがこちらを見る。
そのまま、前へ。
チェッカーフラッグが視界に入った。
――トップ。
ゴールラインを駆け抜けた瞬間、
ガンッ!!
鈍い衝撃。
エンジン音が、不自然に途切れた。
「……あー」
惰性でマシンをピットに戻す。
キーをひねっても、もう二度と目を覚ますことはなかった。
ボンネットを開けると、焦げたオイルの匂いが立ちのぼった。
メカニック役を買って出てくれていた友人が、苦い顔をする。
「……派手にやったな」
「みたいだな」
俺は、壊れたエンジンをしばらく見つめていた。
後悔がないと言えば、嘘になる。
直すのは大変だろう。金も時間もかかる。
それでも。
俺はそっと、フェンダーを叩いた。
「悪かったな」
少しだけ間を置いて、続ける。
「……でも、お前」
風が、ピットを抜けていく。
遠くで、まだ別のレースのエンジン音が響いている。
「トップでゴールしたかっただろ」
壊れたスポーツカーは、何も答えない。
けれど、あの最後の咆哮だけは、確かに生きていた。
だから俺は、もう一度だけボンネットに触れて、静かに笑った。




