EP1
磨かれた革靴に視線を落としてアスファルトを歩く。
岡田ハガネはポケットに手を突っ込む。指先に触れたジッポライターを取り出して、カチッと蓋を開けると火をつける。少し蒼い炎を眺めて蓋を閉めると、またポケットに突っ込んだ。
古い町並みに商店街の看板が見える。橋のようにかけられた看板をくぐって道なりに行くと、商店街の終わりに一軒だけ開いている煙草屋がある。
煙草屋は津場砂と書いてツバサと読む。津場砂竹千代という老婆が一人で店をやっている。ハガネの産まれる前からある店で、彼女は亡くなった母の友人でもある。ポケットのジッポライターの元の持ち主だ。
ゆっくりと津場砂へ向かう。昔ながらの店構えでショーケースには今は懐かしい紙煙草、電子煙草が並んでいる。店の前には小さなベンチが置かれ、竹千代はそこで紙煙草をふかしていた。
「アイリスか」
ハガネを見るなり竹千代は眉を少しだけ上げて笑う。七十を超える老婆のわりに随分と若く見えるのは人種のせいらしい。
「こんにちは、竹千代さん」
ハガネが軽く会釈すると、竹千代は指先で煙草の灰を落とした。
「昨日約束したろう?覚えてるかい?」
「え?ああ、はい」
そうだ、昨日散歩の途中で寄った時に、竹千代が焼き菓子を用意しておくと話していた。世間話で考えていたから軽く流していたが、本当に守ってくれたらしい。
「なんだ、期待してなかったのかい?小さい頃はもっと喜んでくれたのになあ」
「いえ、そんな。無理に、とかではなかったですか?」
「アハハ、そんなことはない。アイリスは気にしいだな」
竹千代は煙草を銜えると店の隣の路地を指さした。
「ウチ分かるだろ?裏から入って。私も後で行く」
「それなら待ってますよ。……一緒に」ハガネが言い終わる前に竹千代が顎をしゃくって視線を前方に飛ばした。その先に遠くを歩く老人が見える。
「あの爺さんは歩くのが遅い、電子煙草を買いに来るんだ。開けててやらないとな。キッチンの使い方は知っているだろ?お茶を入れておいてくれると助かる」
「分かりました」
ハガネは頷いて店の隣の路地を進む。一本道で右に折れると垣根が現れる。そこを道なりに行くと小さな裏口があり、そこを開けるとこじんまりした綺麗な庭に出る。小さな生垣を超えると一軒家の縁側のガラス戸は少しだけ開いており、靴を脱ぐと戸を開いて中に入った。
廊下から襖、そこを抜けると畳の客室があり、その向こうにもう一部屋、その向こう側がキッチンだ。小さい頃は縁側から襖を開けて部屋を通り抜けてキッチンへと向かっていた。それが近道だったから。
さすがにそうはいかず廊下をぐるっと回って、キッチンへと歩き出そうとした時、襖の向こうで女の声がした。誰かと話しているようでよくは聞こえない。竹千代は誰かがいるなんて話はしていなかった。
まさか……泥棒?と身をかがめて襖を少しだけ開く。少し鮮明になった女の声は誰かと話しているようだった。
「いいじゃん、ね?お婆ちゃんいないじゃん」
「……そうだけど」
どうやら女と男が話しているらしい。
耳を澄ませていると畳を擦る音がした。少しだけ覗き込むと奥のほうで、もそもそと人が動いている。視線の先に赤い服が畳の上に投げられた。細い腕に長い髪が揺れて女の背中が見える。
その向こうから女の体を抱くようにして手が伸び、その肩越しに男の顔がこちらを見た。乱れた髪の奥で視線が合った気がしてハガネは体を隠した。
ドッと心臓が走り顔が紅潮する。ぎゅっと目を閉じると襖の奥で、言い争う声とパチンと何か弾けるような音、バタバタ走る音がして、静かに畳を踏む音が聞こえるとゆっくりと襖が開いた。
襖を開いたのはさっき目が合った男で、肌蹴たシャツにジーンズ姿でハガネを見下ろした。
「……お客さん?」
ハガネが真っ赤な顔で彼を見上げると、男は口元をにこりとした。
「婆さんのお客さん?入って。ごめんね、見苦しいもの見せて」
男はそう言うと踵を返して部屋の奥へと消えて行く。
どぎまぎしながらハガネは立ち上がり、男を追うように部屋の奥へと進む。キッチンにたどり着くと男は流しで頭を洗っていた。
「お邪魔します」
「……うん」
テーブルにあったタオルを頭に被り、椅子に座って男は小さな溜息をつく。
ハガネはとりあえず薬缶に水を入れて湯を沸かす。焜炉の火を見ながら、男に視線をやると彼はハガネを見つめていた。
「ええと」
「ああ、ごめんね。俺はヨシノ。藤木ヨシノ。婆さんは俺の母の親族にあたるんだ。あんたは?」
ヨシノは頬杖をつくと頭からかぶったタオルを首にかける。濡れた髪のせいかさっきはよく見えなかった顔がようやく見えた。縁取りの濃い目に黒い瞳、バランスの良い顔だ。少し陽に焼けた体は程よく筋肉がついている。
「僕は岡田ハガネです。竹千代さんは母の友人で……小さい頃からの知り合いなんです」
「そう。ハガネでいい?」
「はい」
「さっき見たことナイショで。婆さんに言ったら怒られるから」
「ああ」
ヨシノは歯を見せて笑うと立ち上がり、ハガネの傍に寄り添った。ハガネよりも頭一つ分大きな彼は、手を伸ばしてハガネの後ろの焜炉の火を止めた。いつの間にか沸騰していたらしく薬缶は湯気を上げていた。
「あ、すいません。気付かなくて」
「別に。昔は薬缶も沸騰するとピーって音が鳴るんだって婆さんが言ってた。もうないらしいけどね」
ヨシノはコーヒー缶を取り出すと手際よく準備を始めた。
「今じゃ珍しいみたいだ。こうやって飲み物を用意するのだって。便利になると何でも手間に感じるんだってね」
「そうですね。ボタン一つで何でもできるから」
今はロボットが主流で人が手でお茶を入れたり料理をしたりというのは珍しくなっている。竹千代の家にもロボットは存在するが、簡単なことだけがプログラムされていて殆どは彼女が自分で行っている。理由はボケるからだそうだ。
コーヒーに湯を落としながらヨシノは笑う。
「俺さ、この家に来るのは半年ぶりなんだ。ハガネはよく来てんのかな?偶然ってあんまないんだな。今日みたいのはちょっと俺にも都合悪いけどさ。こうやって自分でコーヒー入れたりなんかするのな、俺好きなんだ。うちはもう何かするってのはなくて」
「うちもそうです。だから僕はここが好きで……」
ハガネが笑うとヨシノは少し驚いた顔をして俯くとはにかむように笑った。
「ああ……そっか」
コーヒーをマグカップに入れてテーブルに運ぶ。二人で席に着くと竹千代が入ってきた。
「お?ヨシノいたのかい」
「うん。お客さん来るなら教えといてよ」
ガハハと笑いながら竹千代はオーブンを開く。余熱で暖められたクッキーを取り出すと皿に放り出した。昔ながらの形のいびつなクッキーが山盛りに積まれた皿がハガネの前に置かれた。
「ゆっくりしておいきよ。あたしはまだ店のほうにいる。ヨシノ、あたしは今日は店のほうに泊まるからちゃんと戸締りしておきな」
「わかった」
竹千代がまたキッチンを出て行き、二人きりになるとヨシノがクッキーを一つ摘んだ。
「婆さんってさ、不思議な人だよね」
「……確かに、そう」
ハガネも一つクッキーを摘んだ。
時刻は竹千代の家に来てからもう二時間経っていた。不思議と話が弾んで二度コーヒーをお代わりして、何気ない世間話を繰り返していた。
ハガネはコーヒーがなくなると立ち上がり流しへ持っていく。綺麗に洗うとヨシノが少し残念そうに言った。
「帰っちゃう?」
「え?……ああ、そうだね」
「そっか」
ヨシノは立ち上がりキッチンの棚を開けるとタッパーを取り出して、そこへ皿の上のクッキーを流し込んだ。蓋をしてハガネへと差し出す。
「はい、おみやげ」
「で、でも」
両手を振るハガネに強引にタッパーを押し付けた。
「持っていって。そして返しに来て。そしたらもう一度会える」
「……ええと?」
ヨシノはハガネの顔を覗きこむ。その目がなんだか寂しそうでハガネは小さく頷いてタッパーを受け取った。
「うん、わかった。でも……返しにくるのはいつかわからないよ?」
「うん。いいよ……それでも」
「それでも?」
タッパーに触れていた手を引いてヨシノは俯いた。
「もう一回、会いたいから」




