第7話「偽りの逃亡」
完璧な犯罪とは、単に証拠を消し去ることではない。
それは「誤った真実」を、警察や世間という名の巨大な観測者に「納得させる」プロセスだ。
午前四時。
町がまだ深い眠りの中にある時間、私は登記所の宿直室で、一人の男を「演じる」準備を整えていた。
鏡の中に映るのは、四十を過ぎた、どこにでもいる辺境の公務員――アーサーの顔だ。
だが、私の手元にあるのは、前世の鑑識現場で学んだ「復顔」と「特殊メイク」の技術を、この世界の材料で再現した禁断の道具セットだった。
「……骨格の補正には、蜜蝋と松脂の混合物。皮膚の質感には、微細な魔力石の粉末を混ぜた白粉か」
私は、自分の顎のラインを蜜蝋で鋭く作り変え、鼻筋を数ミリ高くした。
アウルムという男は、彫りの深い、いかにも「正義の味方」らしい顔立ちをしている。
暗がりであれば、あるいは視認距離が十メートル以上あれば、人は「見たいものを見る」という心理的バイアスに従い、それをアウルムだと誤認する。
さらに、私はアウルムの遺品から密かに抜き取っておいた、彼の髪の毛数本を触媒に、低級の「幻惑魔法」のスクロールを起動させた。
この世界の光学魔法は、空気中の魔力密度を操作して光の屈折率を歪めることで成立する。
私は前世で学んだ「全反射」と「蜃気楼」の原理を応用し、自分の体表に、アウルム特有の「銀色の輝き」を薄く纏わせた。
次に、衣装だ。
アウルムの白銀の甲冑は、昨夜下水道で分解し、一部を破棄したが、予備の「旅行用マント」と「銀の軽装鎧」は手元に残してある。
これを身に纏い、フードを深く被る。
仕上げは、彼の愛馬だ。
アウルムが町の宿屋の厩舎に預けていた、伝説の白馬「アルビオン」。
私は裏口から宿屋の厩舎へ忍び込んだ。
馬は鋭敏な生き物だ。主人の臭いではない私を警戒する。
だが、私は前世で学んだ「動物の行動学」と、特定のハーブを用いた鎮静剤を知っている。
「静かにしろ、アルビオン。お前の主人は、もうどこにもいない。……だが、今日だけはお前の『忠誠心』を利用させてもらう」
私はアウルムの魔力特性を模倣した「擬似的な刻印」を、馬の鼻先に押し当てた。
馬は一瞬困惑したように鼻を鳴らしたが、私の変装と魔力の偽装に騙され、静かに私を背中に乗せた。
◇
私が向かったのは、町の北西、隣国との国境へと続く「霧の渓谷」の街道だ。
ここでの目的は、二つ。
一つは、アウルムが「自らの意志で町を離れた」という物理的な痕跡を残すこと。
もう一つは、彼が「隣国のスパイと密会し、亡命を図った」という物語の裏付けを、第三者の目撃証言によって補完することだ。
私は街道をあえて派手に走らせた。
アウルムの馬は特殊な蹄鉄を履いている。
その蹄の跡は、他のどの馬とも違う。
私はわざと泥濘を選んで走り、その「証拠」を等間隔で地面に刻み込んだ。
一時間ほど走ると、街道沿いに一軒の寂れた宿場が見えてきた。
ここには、金に困っているが口の軽い、私の「協力候補」がいる。
「……たのもう」
私はフードを被ったまま、アウルム特有の、少し傲岸不遜な低音を真似て声をかけた。
宿屋の主人が、眠そうに目を擦りながら出てくる。
「へいへい、こんな時間に……。っておおっ!? もしかして、英雄アウルム様でございますか!?」
主人が目を見開く。
私はあえて顔を完全には見せず、白銀の甲冑の「輝き」を強調するように立ち位置を調整した。
「急ぎの任務だ。……一時間だけ休ませろ。それと、誰かが来たら、私は『東』へ向かったと言え。いいな?」
私は、アウルムの紋章が入った金貨を一枚、テーブルに放り投げた。
「へ、へい! もちろんでございます! 東ですね、東! 口が裂けても国境側へ向かったとは言いませんとも!」
――これでいい。
人は、「口止めされた」という事実を含めて、饒舌になるものだ。
私が「東へ行ったと言え」と命じ、同時に「北西への街道」の泥をブーツに付けていれば、後から来る捜査官は、この主人の言葉を「アウルムが意図的に流した偽の情報」だと推測し、自信満々に北西(私が実際に向かった方向)へと追いかけるだろう。
真実を隠すコツは、追跡者に「自分の力で嘘を暴いた」という快感を与えることだ。
宿場を出た後、私は国境付近の断崖へと向かった。
そこには、かつて隣国の密偵が隠れ家として使っていた、現在は廃墟となっている洞窟がある。
私はそこで、アウルムの残りの装備を「演出」した。
彼の聖剣の鞘、一部が欠けた銀の軽装鎧、そして彼が愛用していた「聖女への贈り物」の空箱。
それらを、あたかも「誰かと争った形跡」があるように配置する。
ここでのポイントは、アウルム自身の血痕ではなく、彼が「相手」を傷つけたと思わせる「他者の血液」だ。
私は昨夜用意しておいた、豚の血液に魔力的な加工を施した「偽の証拠品」を、岩肌に僅かに付着させた。
返り血の飛び散り方を、物理法則に基づいて計算する。
剣を振り下ろした際の「引き切り」による放射状の血痕。
そして、相手がよろめいて壁を触った際の「塗擦血痕」。
これらすべての配置が、一つのストーリーを語り始める。
「アウルムはここで誰かと合流し、何らかのトラブルが発生したが、最終的には相手を制圧し、国境を越えた」
私は、最後の一仕上げとして、アウルムの馬「アルビオン」を放した。
「行け、アルビオン。王都へ戻るなり、野に下るなり好きにしろ。だが、お前が一人で彷徨っていれば、誰もが『主人は馬を捨てて逃げた』と思うはずだ」
馬は寂しげに一度嘶き、霧の向こうへと消えていった。
◇
すべての工作を終え、私が自分の家に戻ったのは、朝日が完全に昇りきった午前八時だった。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。だが、私の心は奇妙なほどに凪いでいた。
一晩のうちに、私は一国の英雄を「名誉の戦士」から「逃亡した疑惑の男」へと、その社会的地位を完全に書き換えたのだ。
私は勝手口から音を立てずに家に入り、登記官の制服に着替えた。
そして、リビングへ向かう。
「お父さん、おはよう! 今日は早いんだね」
リリィが、朝食の準備をしていた。
彼女の顔には、昨日のショックはもうほとんど残っていない。
若さゆえの立ち直りの早さか、それとも父親が「アウルム様は旅立った」と言った言葉を、心から信じているからか。
「ああ、おはよう、リリィ。……アウルム様から何か連絡はあったかい?」
私はあえて、その名を口にした。
「ううん、全然。でも、お父さんの言った通り、きっと急ぎの任務だったんだよね。アウルム様、すごく忙しそうだったし」
リリィは少し寂しそうに笑いながら、サラダを皿に盛った。
「そうだな。……いつか、彼がどこかの空の下で、幸せに暮らしていることを願おう」
私はそう言いながら、自分の指先に残った「偽の血痕」の僅かな汚れを、ナプキンで丁寧に拭い取った。
その時。
町の教会の鐘が、激しく打ち鳴らされた。
通常の礼拝の時間ではない。
緊急事態を知らせる、鋭い鐘の音だ。
「何かしら、この音……?」
リリィが不安げに窓の外を見る。
私は知っていた。
王都から派遣された、あるいは近隣の砦に駐屯していた聖騎士たちが、アウルムの「失踪」に気づき始めた合図だ。
そして、その数時間後。
私たちの家の前に、一人の男が馬を止めた。
全身に黒いローブを纏い、片手に不気味な水晶を携えた男。
その瞳は、すべてを見透かすような冷徹な光を宿している。
「失礼する。辺境登記官アーサー殿だな」
男は低く、だが鋼のように硬い声で言った。
「私は王宮直属、特務捜査官ヴァージル。……英雄アウルム閣下の行方について、少々『視させてもらう』ために参った」
ついに、来たか。
私はリリィを自分の背中に隠し、捜査官に向かって深々と一礼した。
「お待ちしておりました、ヴァージル様。一介の登記官として、できる限りの協力をさせていただきます」
口元に笑みを湛えながら、私は心の中で、最後の一片を噛み合わせた。
ようこそ、私の構築した迷宮へ。
どれほど優れた過去視(魔法)であっても、私が用意した「論理」の壁を突破することはできない。
アーサー対ヴァージル。
物理的な暴力ではない、情報と推論による「生存競争」の幕が上がった。
第7話をお読みいただき、ありがとうございます!
ついにアーサーによる「偽りの逃亡劇」が完遂され、物語は第2章の心理戦編へと突入します。
「あえて偽の情報を流し、追跡者に『自力で真実を暴いた』と誤認させる」というテクニックは、古典的なミステリーやサスペンスの手法ですが、異世界の魔法捜査と組み合わせることで新鮮な緊張感が生まれますね。
そして、ついに登場した強敵、ヴァージル。
彼が持つ「過去視」の魔法に対し、アーサーが前世の鑑識知識でどう対抗していくのか。
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