第4話「神を殺した日」
地下室の空気は、重く、淀んでいた。
カビと埃、そして過去にここで命を散らした少女たちの「絶望」が、目に見えない滓となって壁にこびりついている。
私は物陰から、懐中時計の秒針をじっと見つめていた。
十時四十二分。
アウルムが聖水を口にしてから、正確に二十七分が経過した。
部屋の中央では、祭壇のような冷たい石の台にリリィが横たわらされていた。
彼女の四肢は、拘束魔法を帯びた銀の鎖で固定されている。
「……アウルム様、あの、体が重いです。これ、本当に修行なんですか?」
リリィの声は震えていた。
ようやく、彼女の生存本能が「初恋の相手」への警鐘を鳴らし始めたのだ。
だが、もう遅い。
「そうだよ、リリィちゃん。魂の深層にある魔力を引き出すには、一度、肉体の感覚を遮断する必要があるんだ。大丈夫、すぐに終わる。君は、私の中で永遠に生きる『光』になるんだから」
アウルムは恍惚とした表情で、リリィの胸元に右手をかざした。
彼の指先に、眩いばかりの銀色の光が集束していく。
これが、数多の魔物を塵に帰してきた最強の攻撃魔法であり、同時に犠牲者の魔力を根こそぎ奪い取る「捕食の爪」だ。
十時四十四分三十秒。
(あと九十秒……)
私は、前世の現場で何度も味わった「あの感覚」を思い出していた。
鑑定の準備が整い、すべての物証が一つの真実に向かって収束していく瞬間の、あの静かな興奮。
私の胃の中では、毒薬のような冷たいアドレナリンが駆け巡っている。
「さあ、始めようか」
アウルムが詠唱を開始する。
銀の光が膨張し、地下室の闇を暴力的なまでに塗り替えていく。
リリィが恐怖に目を見開き、悲鳴を上げようとしたその時——。
「……ッ!? が、はっ……!?」
アウルムの詠唱が、無残に途切れた。
彼の指先に集まっていた銀の光が、まるでガラスが粉砕されるような不快な音を立てて霧散する。
「な、んだ……? 魔力回路が、逆流して……!?」
アウルムが自分の右手を見つめ、愕然とする。
彼の皮膚の下を、這いずる虫のような「黒い筋」が浮き出していた。
それが、私が仕掛けた「論理爆弾」の正体だ。
アウルムの体内にある『銀の魔力』は、極めて高い結晶構造を持っている。
私が投与した中和剤は、その結晶の結合点にピンポイントで入り込み、特定の周波数が加わった瞬間に「分子間力の反転」を引き起こすように設計されている。
魔法障壁とは、高密度の魔力を体表に固定することで成立する。
だが、その魔力そのものが「崩壊」を起こせば、障壁は最強の盾から、術者を内側から焼き切る「高熱の檻」へと変貌する。
「おのれ……何をした……!? 誰だ、そこにいるのは!」
アウルムは苦悶に顔を歪めながら、私の潜んでいる闇を睨みつけた。
私は、ゆっくりと姿を現した。
手には、登記官としてのバインダーではなく、一本の「ワイヤー」と、一瓶の「薬品」を携えて。
「登記官の定期監査ですよ、英雄様。貴方の『命の収支』があまりに不自然だったので、強制執行に伺いました」
「アーサー……? 貴様、なぜ……リリィの父親が、なぜここに……!」
「父親だからですよ。娘の未来を食い物にしようとする害虫を、駆除しに来ただけだ」
私は迷わず、アウルムに向かって駆け出した。
アウルムは反射的に聖剣を引き抜こうとしたが、彼の腕は痙攣し、鞘から抜くことすら叶わない。
魔力回路の崩壊による神経伝達の阻害。
「貴様のようなゴミが……魔法も使えぬ下級役人が、私に勝てると思っているのか!」
アウルムは左手で無理やり魔力を練り、私に放とうとした。
だが、放たれたのは光線ではなく、パチパチという虚しい火花だけだった。
「言ったはずだ。貴方の『システム』はすでにハッキングされている」
私は、彼の懐に飛び込んだ。
Lv.99の英雄といえど、魔法による身体強化を失い、さらに内側から魔力を焼かれている状態では、ただの「重い男」に過ぎない。
私はアウルムの背後に回り、手にした極細のピアノ線——前世の特殊捜査班が使用していたものと同じ強度のワイヤーを、彼の首に巻き付けた。
「が、はっ……あ、あ……!」
「無駄だ。これはただのワイヤーじゃない。貴方がもがけばもがくほど、頸動脈を締め上げ、脳への血流を遮断するように計算してある」
アウルムは私を振り払おうと暴れる。
その力は凄まじく、私の肋骨が悲鳴を上げるのが分かった。
だが、私は離さない。
前世で、死体の山を見てきた。
不当に奪われた命の重さを、私は知っている。
いま、私の腕にかかっているのは、この男に殺された少女たちの総量であり、そして何より、リリィの「明日」の重さだ。
「……く、そ……魔法さえ、魔法さえ戻れば……!」
「戻りませんよ。そのための『追撃』だ」
私は空いた手で、アンプルの中身をアウルムの顔面に浴びせた。
それは強力な「揮発性麻酔薬」と、酸素との結合を阻害する「化学反応剤」の混合物だ。
アウルムの周囲の酸素が、一瞬にして奪われる。
魔法による加護を失った彼の肺は、ただの脆弱な肉の袋だ。
彼は大きく口を開け、金魚のように虚空を求めて喘いだ。
「神を殺すのに、大袈裟な魔法は必要ない。……十分な時間、酸素を奪い、脳の機能を停止させれば、生物学的に『死』は訪れる。それが英雄であっても、魔王であっても変わらない、この世界の『唯一の平等』だ」
アウルムの抵抗が、次第に弱まっていく。
彼の銀色の瞳から光が消え、絶望と、信じられないという困惑が混ざり合ったまま、焦点が合わなくなっていく。
一分。
二分。
三分。
完全に動きが止まっても、私はワイヤーを緩めなかった。
鑑識官として、私は知っている。「確実な死」を確認するまでが、現場の基本だ。
やがて、アウルムの体が力なく崩れ落ちた。
石畳に叩きつけられた白銀の甲冑が、虚しい音を立てる。
私はワイヤーを解き、アウルムの頸動脈を確認した。
脈拍、ゼロ。
瞳孔、散大。
対光反射、なし。
「検視完了。……死亡時刻、十時五十二分」
私は静かに告げた。
目の前に転がっているのは、もはや英雄ではない。
ただの「有機物の塊」であり、これから私が処理すべき「最優先の廃棄物」だ。
「お、お父さん……?」
背後から、微かな声がした。
リリィだ。
拘束魔法が術者の死によって弱まり、彼女の意識が戻りかけていた。
私は瞬時に、表情を「父親」のものへと書き換える。
私は足元に転がっている「英雄の死体」を、祭壇の影へと素早く蹴り込んだ。
「リリィ! ああ、よかった。無事かい?」
私はリリィに駆け寄り、彼女を固定していた鎖を、隠し持っていた「腐食液」で溶かして外した。
「お父さん……どうしてここに? アウルム様は……? すごく光って、それから……」
「アウルム様は、急な魔力の暴走が起きてね。君を助けようとして、そのまま……自分を抑えるために、外へ飛び出していったよ」
「えっ……? そんな、アウルム様が……大丈夫なの?」
リリィの瞳に、心配の影が差す。
私は彼女の肩を優しく抱き寄せ、その視線を「死体」から逸らさせた。
「大丈夫だよ。彼は英雄だ。きっとどこかで自分を癒しているはずさ。……それより、リリィ。君は少し、この地下の空気に当てられて眠ってしまったんだ。さあ、地上に戻ろう。お家で温かいスープを飲もうね」
「うん……。でも、アウルム様に、ちゃんとお礼を言いたかったな」
リリィは名残惜しそうに周囲を見渡したが、私の巧みな誘導によって、祭壇の影に隠された「かつての恋人」の死体に気づくことはなかった。
地上へと続く階段を登りながら、私は背後の闇を一度だけ振り返った。
そこに残されたのは、血も流さず、魔法的な痕跡も残さず、ただ「窒息」という物理現象によって命を絶たれた英雄の残骸。
さて。
ここからが本番だ。
殺すのは、準備に過ぎない。
この男の存在を、この世界から、そして「公的記録」から完全に消去してこそ、私の勝利は確定する。
私はリリィの手を強く握った。
その温かさが、私の汚れた手を、わずかに救ってくれるような気がした。
第4話をお読みいただき、ありがとうございます!
ついに、アーサーの手によって「英雄」が物理的に、ロジカルに抹殺されました。
最強の魔法使いであっても、酸素がなければ生きられない。
魔力障壁が内側から自壊すれば、ただの人間以上に脆い。
この「圧倒的な力に対する、卑近な物理法則による勝利」こそが、本作の真骨頂です。
しかし、物語はここで終わりではありません。
「死体なき殺人」を完遂するためには、ここからの隠蔽工作こそが、アーサーの鑑識官としての真の腕の見せ所となります。
次回、第5話「死体なき殺人の証明」。
リリィの「洗濯魔法」が、恐るべき形でアーサーの計画に組み込まれます。
そして、英雄の死体を「分子レベル」で消去する、前代未聞の死体処理が始まります。
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アーサーの孤独な戦いを、ぜひ見届けてください。




