第2話「英雄の裏側」
翌朝、我が家の食卓は、これ以上ないほどに「平和」という名の嘘で塗り固められていた。
「お父さん、見て! このリボン、アウルム様に褒めてもらったやつに変えてみたんだけど……どうかな?」
リリィが鏡の前でくるりと回る。
その笑顔は、朝日を反射してキラキラと輝いていた。
十六歳の少女が抱く、あまりにも真っ当で、無垢な恋心。
本来なら、父親として「悪い虫がつかないか」と軽口を叩きながら、温かく見守るべき光景だ。
「……ああ、よく似合っているよ、リリィ。アウルム様も、きっと喜んでくれるだろうね」
私はトーストを口に運びながら、努めて穏やかに答えた。
だが、私の網膜の裏では、昨夜の登記所の「監査ログ」が高速でフラッシュバックしている。
アウルムがこの町に滞在する理由。
表向きは「聖女候補の選別と護衛」だ。
だが、彼の歩行パターン、微細な挙動、そして靴に付着していたあの『死の黒百合』の種子。
それらすべてのデータが、一つの冷酷な結論を指し示している。
アウルムは、この町を「狩場」に選んだのだ。
「今日は、アウルム様と一緒に教会の聖堂へ行くことになってるの。お父さん、お仕事頑張ってね!」
「ああ。……リリィ、これを持っていきなさい」
私はポケットから、小さな、お守りのような小瓶を取り出した。
中には、私が独自に調合した「乾燥剤」に見せかけた試薬が入っている。
「それは?」
「ただの香油だよ。聖堂は少し埃っぽいからね、気分が悪くなったらその蓋を開けて、香りを嗅ぐといい。お父さんのお手製だ」
「ありがとう、お父さん!」
リリィはそれを宝物のように胸に抱き、家を飛び出していった。
その背中を見送りながら、私の表情から温度が消える。
あの小瓶の中身は、特定の「魔力吸引」に反応して変色する沈殿試薬だ。
もしアウルムがリリィに手を出し、彼女の魔力を「捕食」し始めたら、その瓶が黒く濁る。
それは同時に、私の「完全犯罪」を開始するカウントダウンでもある。
◇
私は登記官としての「巡回業務」という名目で、アウルムの後を追った。
現代日本の警察組織で、私が最も得意としていたのは、物証の分析だけではない。
犯人の「行動半径」を割り出し、その心理的な死角に潜り込むことだ。
異世界においても、その技術は驚くほど通用する。
この世界の強者たちは、己の「魔力探知」に頼りすぎているのだ。
魔力を持たない私が、環境のノイズに溶け込み、風下に立ち、気配を殺して歩けば、Lv.99の英雄ですら私の存在に気づくことはない。
アウルムはリリィを教会へ送り届けた後、一人で町の外れにある廃屋へと向かった。
かつては巡礼者の宿舎だった場所だが、今は魔物の汚染によって封鎖されている区域だ。
(……英雄が一人で立ち入る場所じゃないな)
私は、廃屋の影から様子を伺った。
アウルムは周囲を一瞥し、誰もいないことを確認すると、廃屋の床にある隠し扉を開けて地下へと降りていった。
私は数分待機した後、音もなく地下へ続く階段を降りた。
階段の壁には、微かな「生活反応」が残っている。
埃の堆積状況から見て、ここ数日間、定期的に人が出入りした跡。
そして、鼻を突くのは、あの香りの正体だ。
——腐敗した魔力の臭い。
地下の最奥。
魔法的な遮音結界が張られているが、物理的な「隙間」までは塞ぎ切れていない。
私は持参した小型の聴音器(前世の知識で作成した、金属の共鳴を利用した自作道具)を壁に当てた。
「……ああ、素晴らしい。やはり地方の『苗床』は鮮度が違う」
アウルムの、あの爽やかな声が聞こえてくる。
だが、そのトーンは、表で見せる慈愛に満ちたものとは似ても似つかない。
湿り気を帯びた、狂信的なまでの愉悦。
「おい、まだ死ぬなよ。お前の魔力は、ようやく私の『銀の魔力』へと変換され始めたばかりなんだ。……次の聖女候補、あのリリィとかいう娘が来るまで、持ってもらわなければ困る」
直後、くぐもった少女の悲鳴が聞こえた。
それは声にならない、喉を潰された者の絶望。
私は結界の隙間から、内部を視認した。
そこには、鎖で繋がれた一人の少女がいた。
肌は土気色に変色し、全身の毛穴から魔力が無理やり「抽出」されている。
彼女の胸元には、魔力を吸い出すための魔導具——『魔力の苗床』が突き刺さっていた。
アウルムはその横で、抽出された魔力を自らの体に馴染ませながら、恍惚の表情を浮かべている。
「聖女の魔力は、やはり最高だ。これを繰り返すだけで、私は『神』に近づける。王都の連中も馬鹿なものだ。私が国を守るたびに、少しずつ『部品』を間引いているとも知らずに……」
私の指が、壁の石材に食い込む。
これが、人類の希望。
これが、娘が憧れる男の真実。
彼は英雄として魔王軍を倒す力を得るために、守るべき弱者を「燃料」として消費していたのだ。
そのサイクルに、今、私のリリィが組み込まれようとしている。
アウルムが地下室を去るまでの三十分間。
私は石像のように気配を殺し、すべての音と、彼の行動パターンを脳内の「捜査報告書」に記録した。
アウルムが立ち去った後、私は地下室に潜入した。
結界は彼が去る際に再構築されていたが、私には「物理」という武器がある。
特定の薬品を鍵穴に流し込み、分子結合を一時的に脆くさせ、音もなく開錠する。
中にいた少女は、すでに事切れていた。
魔力を根こそぎ奪われ、生命維持に必要な最小限の「魂の残滓」すら残っていない。
「……すまない。助けるのが遅すぎた」
私は彼女の瞼を閉じさせた。
そして、冷徹に「鑑識官」としての作業を開始する。
犯行現場には、必ず証拠が残る。
たとえ魔法で証拠を隠滅したつもりでも、物理的な「因果」は消せない。
私はピンセットで、床に落ちていたアウルムの白銀の甲冑の「破片」を回収した。
激しい魔力抽出の際、過負荷で剥離した微細な金属片だ。
さらに、少女の首筋に残った「指紋」の代わりとなる、魔力接触の痕跡。
私は小さな試験管に、現場の空気と土を採取し、特製の試薬を垂らした。
試験管の中身が、毒々しい紫に染まる。
これは、アウルム固有の魔力波長と、死体の腐敗ガスが反応した結果だ。
科学的に証明された。
この場所で、アウルムが殺人を犯したという揺るぎない「事実」が。
「だが……これだけでは足りない」
私は紫色の試薬を見つめながら、独り言を漏らす。
この証拠を突きつけても、今の王国のシステムでは、彼は裁けない。
「英雄がそんなことをするはずがない」という社会的バイアス、そして彼自身の圧倒的な武力が、すべての正義を無効化するだろう。
法が機能しないなら、私が「法」になるしかない。
私は少女の遺体を見つめ、静かに、だが熱い決意を込めて呟いた。
「君の無念は、私が引き受ける。……アウルムは、死体すら残さず、この世界から消去してやる」
私は登記官の職権で管理している「地籍調査報告書」を取り出した。
この廃屋の地下には、古い下水道が通っている。
そしてその先には、町の浄化施設がある。
リリィの「洗濯魔法」——物質を分子レベルで分解する、あの特異な魔法。
彼女はそれを「掃除のコツ」だと思い込んでいるが、あれは本来、高位の暗黒魔法か、あるいは……物質の理を書き換える「神の権能」に近いものだ。
その力を、私は「凶器」ではなく「処理機」として利用させてもらう。
計画の全容が、私の脳内で組み上がっていく。
1. アウルムを、この地下室という「密室」で暗殺する。
2. 彼の遺体を、リリィの魔法を応用した薬品で液状化させる。
3. 廃屋の下水道を通じて、町全体の魔力循環システムの中へと「放流」する。
4. 彼の装備は分解し、王都へ向かう街道に「偽の逃亡跡」として配置する。
証拠は、私が捏造する。
英雄は「裏切り者」として歴史に刻まれ、リリィの記憶の中では「遠くへ旅立った憧れの人」として、その美しさを保ったまま消える。
それが、父親としての、私の「愛」の形だ。
◇
家に戻ると、リリィが夕食を作って待っていた。
「お父さん、おかえりなさい! アウルム様ね、明日、私の魔力特性をもっと詳しく調べてくれるって。聖堂の奥にある『特別室』で!」
リリィは嬉しそうに、大きなオムレツを皿に盛った。
その無邪気な声が、私の耳には死刑宣告のように響く。
明日。
アウルムはリリィを「収穫」するつもりだ。
「そうか。……楽しみだね、リリィ。明日のお弁当には、特別な『眠り薬』……じゃなくて、元気がよく出るサプリメントを入れておこう」
「えへへ、お父さんの薬、いつも効くから大好き!」
リリィの笑顔を見つめながら、私はキッチンに立ち、密かに薬品の調合を開始した。
アウルムが常飲している「聖水」。
彼は毎朝、自らの魔力を安定させるために、教会の特製聖水を口にする。
その中に、私が今朝採取した「アウルムの魔力特性を逆転させる中和剤」を混入させる。
武力で勝てないのなら、システムをハッキングすればいい。
彼の「英雄としての加護」を、内側から崩壊させる。
明日の今頃、この町から「英雄」というバグは消えているはずだ。
私は、リリィの頭を優しく撫でた。
その手の震えを、彼女に悟られないように。
「おやすみ、リリィ。明日は……いい日になるよ」
アーサーの瞳の奥で、現代日本の鑑識官としての冷徹な「ロジック」が、獲物を狙う猛禽のように鋭く光った。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます!
アウルムのゲスっぷりが露呈し、ついにアーサーの「排除計画」が具体的に動き出しました。
「科学捜査 vs 魔法の英雄」。
力では絶対に勝てない相手を、いかにして「法」と「化学」で社会的に、そして物理的に抹殺するか。
次回、第3話「覚悟の毒(中和剤)」。
いよいよ決戦の幕開けです。アーサーが仕掛ける、一滴の試薬による「神殺し」。
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