第1話「娘の初恋は死の香り」
その男が、辺境の登記所に現れた時、真っ先に私の鼻を突いたのは死の香りだった。
それは血生臭い、剥き出しの殺意ではない。
もっと静かで、湿り気を帯びた、古い土と腐敗が混じり合ったような——法医学の現場で嫌というほど嗅いできた、あの特有の「終焉」の残り香だ。
「アーサーさん! 見てください、アウルム様が! アウルム様がわざわざ私たちの町に!」
受付で声を弾ませたのは、私の最愛の娘、リリィだった。
今年で十六歳になる彼女は、この辺境の地では珍しいほどの魔力適性を持ち、「次代の聖女候補」として教会からも注目されている。
だが、親の目から見れば、彼女はただの心優しい、少しお転婆なだけの少女だ。
そのリリィが、頬を林檎のように赤く染め、一人の男を見上げている。
「君がリリィちゃんだね。噂通りの清らかな魔力だ。……ああ、君のような子がこの国を救う『光』になる。僕は確信しているよ」
男——『白銀の英雄』アウルムが、眩いばかりの笑みを浮かべてリリィの手を取った。
白銀の甲冑、腰に差した聖剣、そして何より、見る者を平伏させるような圧倒的なカリスマ。
魔王軍の幹部を三人も討ち取ったという、現人類最強の守護者。
リリィは、いわゆる「初恋」というやつに落ちていた。
瞳には崇拝と憧れが混じり、アウルムの言葉一つ一つに全身を震わせている。
「お初にお目にかかります、英雄様。この町の登記官を務めております、アーサーと申します」
私は努めて冷静に、一介の低級官吏として頭を下げた。
現代日本において、警視庁鑑識課で二十年、死体と向き合い続けてきた記憶を持つ私にとって、この「異世界」はあまりにシステムが杜撰だった。
魔法という便利なブラックボックスのせいで、論理的な推論や物証の積み上げが軽視されている。
だからこそ、私の目には「視えて」しまうのだ。
他の誰にも、そして過去視の魔術師にさえも見えない「ノイズ」が。
「ほう……君が彼女の父親か。いい娘を持ったね、登記官殿。彼女の『聖女』としての登録手続きについて、少し確認したいことがあってね」
アウルムが私の方を向き、爽やかに、だが値踏みするような視線を送ってきた。
その瞬間、私は彼の全身を「スキャン」した。
髪型、爪の間の汚れ、皮膚の質感、そして——靴。
「光栄です。ですが、あいにく本日の業務時間は終了しておりまして。詳細な監査ログの照合には、少々お時間をいただきたいのです」
「……はは、真面目だね。官僚の鑑だ。いいよ、急ぎじゃない。明日、また来よう」
アウルムはリリィの頭を優しく撫でると、風のように去っていった。
リリィは彼が消えた扉をいつまでも、うっとりと見つめていた。
「お父さん! 今の見た? アウルム様、私の名前を呼んでくれたの! それに、私の魔力を『光』だって……!」
はしゃぐ娘の姿を見ながら、私の心臓は、氷水を注がれたかのように冷え切っていた。
リリィ。
すまない。
お前のその「初恋相手」は、英雄なんかじゃない。
——ただの「殺人鬼」だ。
◇
夜。
リリィが眠りについた後、私は登記所の地下にある私的な作業場にいた。
机の上には、アウルムが踏んだ床のタイルから密かに採取した「塵」と、彼が去り際に残した僅かな痕跡を分析したメモが並んでいる。
「……間違いない」
アウルムの靴に付着していたのは、泥だけではない。
そこには、極めて珍しい高山植物の種子が混じっていた。
『死の黒百合』。
この大陸で、その植物が自生している場所は限られている。
標高三千メートルを超える断崖か、あるいは——「強力な結界によって日光を遮断された、教会の秘密処刑場」のいずれかだ。
この辺境にそんな高山はない。
ならば、彼はつい最近まで「処刑場」にいたことになる。
英雄がなぜ、そんな場所に?
私は、登記官という職権を行使し、王都から回ってきた最新の「魔力残響記録」を魔導端末で展開した。
そこには、過去三ヶ月間に「行方不明」となった聖女候補たちのリストがある。
公式発表では「魔物の襲撃による殉職」。
だが、その全員が、アウルムと任務を共にした直後に消えていた。
「アウルムの歩幅、靴の擦れ方……右足の踏み込みが僅かに深い。何か、重いものを担いで運んだ跡だ」
私は、前世で培った歩法鑑定と行動心理学を脳内で回す。
アウルムがリリィを見た時の視線。
あれは、美しい少女を慈しむ男の目ではない。
良質な果実を、いつ「収穫」すべきか品定めする、農夫の冷酷な目だ。
彼は聖女候補たちの魔力を「吸い出し」、自らの糧にしている。
そして、空になった「殻」を、あの処刑場で処分しているのだ。
そして次のターゲットは、間違いなく私の娘、リリィだ。
「……許さない」
怒りで指先が震える。
だが、同時に私の脳は極めて冷静に「処理」を開始していた。
アウルムはLv.99の英雄だ。
物理的な武力で挑んでも、羽虫のように捻り潰されて終わるだろう。
この世界の騎士団も、教会も、そして王室さえも、彼の「英雄」というメッキに騙されている。
告発?
無意味だ。
証拠はすべて、彼のカリスマと「聖女の犠牲」という物語の下に隠蔽される。
ならば、方法は一つしかない。
「『完全犯罪』だ」
アウルムを殺し、その死体をこの世から消去する。
彼が最初から存在しなかったかのように、あるいは「不慮の事故でどこかへ消えた」かのように、世界を書き換える。
私は、登記官として使うための「修正液」を手に取った。
これは魔力定着を剥離させる、強力な化学薬品だ。
そして、私はかつて、これと似た成分を使って「ルミノール反応を完全に無効化」した事例を知っている。
英雄を殺すには、剣も魔法もいらない。
必要なのは、一本の試薬と、緻密な計算。
そして、娘を想う親の、狂気にも似た決意だけだ。
「リリィ。明日の朝食には、お前が好きなベリーのパイを焼こう」
私は、暗闇の中で独りごちた。
アウルム。
お前がこの町を選んだのは、お前の人生における最大の「エラー」だったと教えてやろう。
私は、ただの登記官じゃない。
私は、お前の「死」を管理する、最期の鑑識官だ。
夜の帳が降りる中、私はペンを走らせ、明日から始まる「英雄消去計画」の第一行目を書き記した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
最愛の娘を守るため、前世の知識をフル動員して「最強の英雄」をロジカルに追い詰める父の戦い、いかがでしたでしょうか。
次回、第2話「英雄の裏側」。
アーサーが掴む、アウルムのさらなる戦慄の正体。
そして、ついに牙を剥く「英雄」の魔の手から、父はどう娘を救い出すのか。
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次回の更新をお楽しみに。




