第一話 「もし、死んだら」
朝のチャイムは、いつも少しだけ音がずれている。
正確じゃない音。
それが一日の始まりだと思うと、理由もなく気分が沈んだ。
窓際の席、三列目。
俺の席は一年の最初から変わっていない。
変わらない、ということが良いのか悪いのか、考えたことはない。
窓の外は曇り空で、校舎の向こうにあるはずの山は、存在を主張しないみたいに輪郭だけを残していた。
ガラスに映った自分の顔は、寝不足で、表情が薄い。
――今日も、ちゃんと生きてる。
そう思った瞬間、なぜか違和感があった。
確認する必要なんてないはずなのに。
「相馬くん、教科書」
声に反応するのが一拍遅れた。
隣の席を見ると、月城ひかりがこちらを見ている。
差し出された教科書。表紙の角が少し折れている。
「あ、ありがとう」
指が触れた。
ほんの一瞬。
それだけで心臓が、きちんと音を立てた。
――ああ、俺は今、生きてる。
そういう実感は、いつも些細なところで生まれる。
授業は頭に入ってこなかった。
黒板の文字を写しながら、昨日の夜のことを思い出す。
布団の中で、スマホを片手に見ていた動画。
量子力学。多世界解釈。
正直、理解できたとは言えない。
でも、ひとつだけ、妙に引っかかった。
『人は自分が死んだことを、自分で観測できないから人は死なない』
もし、途切れなかったら。
もし、意識が次の世界に続いたら。
――その人にとって、死は存在しない。
馬鹿げている。
完全に机上の空論だ。
なのに、授業中も、その一文だけが頭の中で反芻されていた。
昼休み。
購買のパンは少し温かくて、袋が手のひらに張り付いた。
屋上は風が強かった。
フェンスが低く唸る音を立てている。
遠くで、誰かが笑っている声が聞こえた。
俺はフェンスの近くに立って、下を覗く。
道路は思ったよりも遠い。
車は流れていて、クラクションの音だけが遅れて届く。
――落ちたら、死ぬ。
当たり前の事実なのに、言葉にすると急に現実味がなくなる。
死はいつも、考えるための言葉でしかなかった。
怖さは、まだない。
それは「今すぐ起こること」じゃないからだ。
「何してるの?」
背後から声をかけられて、肩が跳ねた。
振り返ると、月城が立っている。
「いや、別に」
「ずっと下、見てたから」
「考え事」
それ以上は聞かれなかった。
彼女は隣に来て、同じようにフェンスにもたれる。
風が吹いて、髪が揺れる。
パンの袋がカサ、と鳴る。
「相馬くんってさ」
「なに」
「たまに、ちゃんとここにいない感じする」
返事に困って、笑うしかなかった。
否定も肯定もできない。
この瞬間は、妙に現実的だった。
金属の冷たさ。
人の体温。
風の音。
だから、思ってしまう。
――もし、これが全部、突然終わったら。
放課後。
駅前は相変わらず人が多い。
信号待ちの列に並びながら、俺はスマホを見るふりをする。
動画の続きを再生する気にはなれなかった。
代わりに、画面を消す。
青信号。
人の流れが、一斉に動き出す。
俺も歩き出した。
特別なことは何も考えていなかった。
ただ、帰ろうと思っただけだ。
そのとき、背中に何かが当たった。
強く押されたわけじゃない。
でも、足がもつれるには十分だった。
「――っ」
声にならない音が、喉から漏れる。
視界が斜めに傾く。
足が、地面を踏み外す。
――危ない。
そう思った瞬間、強い力が横からぶつかってきた。
硬い。
熱い。
体の内側まで揺さぶられる衝撃。
息が、肺から一気に抜けた。
地面に叩きつけられる感覚は、はっきり覚えている。
背中。
肩。
頭。
痛い、と思った。
でもその「痛い」は、言葉だけが浮かんで、実感が追いついてこない。
視界が、ぐにゃりと歪む。
空とアスファルトが、混ざる。
耳鳴りがする。
高い音。
世界が遠ざかっていく音。
体を動かそうとした。
指先に力を入れようとした。
――動かない。
焦りが、遅れてやってくる。
息を吸おうとして、むせた。
喉の奥が、ひどく熱い。
誰かが叫んでいる。
近い。
でも、内容が分からない。
視界の端で、車のタイヤが止まるのが見えた。
逆さまに。
――ああ、俺、轢かれたんだ。
その理解は、不思議なほど冷静だった。
体の感覚が、少しずつ消えていく。
まず足。
次に腕。
重さだけが残る。
寒い。
いや、冷たい。
呼吸が浅くなる。
胸が、うまく動かない。
数を数えようとした。
一、二、三。
三までいかなかった。
視界が暗くなっていく。
周りが狭くなる。
音が、水の中みたいに歪む。
この感じを、俺は知っている気がした。
眠る前に、意識が落ちる直前の感じに似ている。
違うのは――
戻れないと、分かっていること。
――もし、死んだら。
ああ、これか。
最後に浮かんだのは、
月城ひかりの、昼の屋上での横顔だった。
ちゃんと、現実だったな。
そう思ったところで、
考える力が、ぷつりと途切れた。
*
目を開けると、天井があった。
自分の部屋の天井。
見慣れすぎている模様。
スマホのアラームが鳴っている。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
息が、荒れていた。
心臓が、異様な速さで脈打っている。
体を動かす。
指。
腕。
足。
全部、動く。
痛みは、どこにもない。
なのに。
胸の奥にだけ、
さっきまで確かにあったはずの、
「途切れていく感覚」が、残っていた。
――俺は、今、目を覚ました。
それは分かる。
でも。
――俺は、確かに、あそこで、死にかけていた。
いや。
死んだ。
その確信だけが、
何の説明もないまま、
この部屋に置き去りにされていた




