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第7章

 ボロアパートの六畳一間。

 それが、俺の城であり、この時代における唯一の避難所だった。

 

 壁のシミはまるで現代アートのようだし、畳は湿気って、歩くたびにカビの胞子を空中に放出している気がする。

 だが、それでも良かった。少なくとも、ここには『効率こそ正義』なんていう、血も涙もない標語は浮かんでいない。


 俺はテレビ、という名の薄っぺらい箱から流れる、他愛もないバラエティ番組を眺めていた。

 芸人と呼ばれる人々が、非合理的なリアクションで、非生産的な笑いを生み出している。

 無駄だ。最高に無駄だ。

 俺は、いつの間にか自分の口角が上がっていることに気づき、慌ててそれを引き締めた。


 夕食は、もちろん未来から持ってきた最後の栄養錠剤。

 味も素っ気もない、ただのエネルギー源。

 それを水で流し込みながら、今日という激動の一日を反芻する。

 轟マキの暴力的なコミュニケーション、佐藤君の人の良さ、星野ヒカリの予測不可能な狂気。

 疲労困憊だ。だが、不思議と心は軽かった。

 未来の研究所で、完璧に管理された一日を終えた後の、あの空っぽな静けさとは違う。

 ざわついている。心が、まだ生きていると主張している。


「悪くない……」


 俺がそう呟いた、まさにその瞬間だった。


『緊急警報:高エネルギーの時空転移反応を至近距離で検知。衝突予測、三……二……一……』


 ポケットの中のカードからの精神感応テレパシーが、脳髄を直接突き刺す。

 ゼロ。

 そのカウントと同時に、轟音と衝撃が俺の城を襲った。


 ズガアアアアアンッ!


 悲鳴を上げる間もなかった。

 天井が、まるで巨大な拳で殴りつけられたかのように、木屑と土埃を撒き散らしながら崩れ落ちる。

 がらんどうになった天井の向こうに、星の瞬く夜空が見えた。

 そして、その夜空を背負い、一人の少女が、俺の部屋のど真ん中に、音もなく舞い降りた。


 銀色の髪が月光を反射して輝き、青い瞳は、この世のどんな感情も映さないガラス玉のようだ。

 身体のラインにぴったりとフィットした、未来的なデザインの黒い戦闘スーツ。

 その姿は、この昭和レトロなボロアパートにおいて、あまりにも異質で、冒涜的ですらあった。


「削除対象、YT-01。コードネーム、藤堂ユウト」


 彼女の唇から紡がれたのは、AIアシスタントと同じ、完全にフラットな音声だった。

 

「未来執行局・時空管理部隊、所属ナンバーM-31。あなたの存在を、この時空座標から完全に削除するため、参上しました」


 M-31――ミライとでも呼ぶべきか。

 彼女は感情の宿らない瞳で俺を捉え、その華奢な腕をゆっくりと持ち上げた。

 スーツの腕部が、滑らかな音を立てて変形し、青白い光を帯びた銃口が現れる。


「もう追手が……!早すぎるだろ!」

「あなたは、時空法第7条に違反した、第一級の時空犯罪者です。発見次第、即時削除が妥当と判断されました」

「待て!話を聞いてくれ!これは事故なんだ!」

「問答は不要。任務を、遂行します」


 言葉が終わる前に、銃口から光線が放たれる。

 俺は床を転がり、間一髪でそれを回避した。

 俺がさっきまで座っていた畳が、ジュッ、と音を立てて黒く焦げ付く。


「おい!一般人に被害が出たらどうするんだ!」

「この時代の建造物及び生命体への損害は、任務完了後、ナノマシンによる復元と、対象領域の記憶消去によって対処します。問題ありません」

「そういう問題じゃねえだろ!」


 隣の部屋から、ドンッドンッ、と壁を叩く音が響く。

 

「おい、夜中に何やってんだ!いい加減にしろよ!」


 ほら見ろ!問題しかないじゃないか!


 ミライはそんな一般市民の抗議など意に介さず、次々と攻撃を繰り出してくる。

 高周波ブレードが空を裂き、重力パルスが俺のなけなしの家財道具を紙屑のように吹き飛ばす。

 俺はただ、逃げる。避ける。転がる。この六畳一間で、命懸けの障害物競争だ。


 だが、数合打ち合ううちに、俺は奇妙な事実に気づいた。

 彼女の攻撃は、恐ろしく正確だ。

 だが、そのすべてが、なぜか俺の身体の数センチ横を通り過ぎていく。

 服は切り裂かれ、髪は焼かれる。だが、本体には傷一つない。


(こいつ……本気で俺を殺す気がないのか?それとも、ただのポンコツか?)


 俺が思考を巡らせた、その一瞬の隙。

 ミライの蹴りが、俺が持っていたコンビニのビニール袋を正確に捉えた。

 袋が破れ、中身が畳の上に散らばる。

 それは、今日の帰りがけ、未知の文化への探究心から、つい買ってしまった菓子パンだった。


 その瞬間、部屋に充満していた火薬とオゾンの匂いを、甘く、香ばしい匂いが上書きした。

 ミライの動きが、ぴたりと止まる。


 彼女の完璧な無表情が、初めて、わずかに揺らいだ。

 青い瞳が、床に転がったメロンパンに釘付けになっている。


(……これか)


 俺の脳が、勝機を弾き出す。

 未来では、天然素材による食品は超高級品だ。

 まして、こんな砂糖とバターの塊のような、非効率的な嗜好品。

 執行局の下っ端である彼女が、口にしたことがあるはずない。


 ぐぅぅぅぅぅ………。


 静まり返った部屋に、盛大な腹の虫の音が響き渡った。

 音の発生源は、言うまでもなく、目の前の美しき暗殺者だ。


 気まずい沈黙。

 ミライの白い頬が、ほんのりと赤く染まっているように見えた。


「未来は、栄養錠剤しかないもんな」


 俺の同情に満ちた言葉が、引き金になった。


 ぐうぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜っ!


 今度は、先ほどよりさらに長く、そして哀愁を帯びた音色だった。

 結局、俺たちは、半壊した俺の部屋で、ちゃぶ台を挟んで正座し、そのメロンパンを分け合って食べるという、あまりにもシュールな休戦協定を結ぶことになった。


「こ、これは……!」

 

 一口食べたミライの目が、驚愕に見開かれる。


「砂糖と油脂が織りなす、背徳的な甘さの多重奏!なんて非効率的で……なんて、美味しい……!」


 初めて見る彼女の人間らしい表情に、俺は思わず苦笑した。

 こいつ、本当に俺を削除する気があるのか?


 だが、パンの最後の一欠片を名残惜しそうに飲み込むと、彼女は再び完璧な無表情を取り戻した。

 

「……ご馳走様でした。エネルギー充填、完了。では、削除を再開します」

「おい!恩を仇で返す気か!」


 再び始まる、ドタバタの追いかけっこ。

 俺はアパートの窓から飛び出し、夜の街を全力で疾走する。

 背後からは、菓子パンの包み紙を大事そうに胸ポケットにしまいながら、完璧なフォームで追いかけてくる未来の暗殺者。


 ああ、俺の「普通の高校生活」は、どこへ向かっているんだ。


 ◇


 息が、続かない。肺が、焼け付くように痛い。


 俺は、見覚えのある公園のベンチに、崩れ落ちるように座り込んだ。

 今日一日の疲労が、一気に全身を叩きのめす。


 ゆっくりと、ミライが暗闇から姿を現した。

 その手には、再び青白い光を帯びた武器が握られている。


「逃げても、無駄です。あなたは、未来の秩序を乱すバグ。ここで、削除されなければなりません」

「……なあ」


 俺は、荒い息を整えながら、夜空を見上げた。

 

「お前も、未来が息苦しいと、思ったことはないか?」

「……え?」

「効率、効率、効率。笑うことも、寄り道することも、全部『無駄』だからって、切り捨てられて。そんな世界、正しいのかもしれないけど……ちっとも、面白くない」

「……それが、どうしたというのですか」

「今日、俺は笑ったんだ。マキに追いかけられて、佐藤君に呆れられて、星野さんには変人扱いされた。最悪の一日だ。でも……楽しかったんだ」


 ミライが、固まった。

 

「楽しい?非効率的な行動が、ですか?」

「ああ。理屈じゃない。これが、俺が研究してた『日常』ってやつなんだと思う。無駄で、面倒で、でも、温かい……」


 俺は立ち上がり、彼女と向き合った。

 

「だから、俺はもう少し、この時代にいたい。たとえ、お前に追われることになったとしても」


 ミライの武器の銃口が、俺の胸を正確に捉える。

 だが、引き金にかけられた彼女の指が、微かに震えていた。

 その青い瞳に、任務への忠誠心と、メロンパンの味と、俺の言葉とがせめぎ合って、激しい矛盾の嵐が吹き荒れているのが見えた。


 長い、長い沈黙の後。

 彼女は、ふっと武器を下ろした。


「……システムに、原因不明のエラー。論理回路に、致命的な矛盾が発生しました」


 彼女はそう呟くと、俺に背を向けた。

 

「……削除実行の猶予を、二十四時間だけ、与えます。明日、また来ますから」


 その言葉を残し、彼女の姿は、まるで幻だったかのように、闇の中に溶けて消えた。


 一人、公園に残された俺は、再びベンチに座り込んだ。

 ポケットから、くしゃくしゃになった古い写真を取り出す。

 そこに写っているのは、この時代の高校生たちが、ファーストフード店で、馬鹿みたいに笑い合っている、ありふれた一枚。

 俺が、未来でただ一つ、宝物にしていた「研究資料」だ。


 上等じゃないか。

 追跡者付きとは、思ったよりスリリングで、面白そうだ。


「この最高に無駄な日常、とことん、味わい尽くしてやる」


 俺は決意を新たに、夜の街へと歩き出した。

 明日になれば、また轟マキが勝負を挑んでくるだろう。

 星野ヒカリは、もっと突拍子もない仮説をぶつけてくるに違いない。

 そして、あのポンコツな暗殺者は、きっとまた、コンビニスイーツ片手に俺を追いかけてくる。


 それでいい。それがいい。


 それが、俺の新しい「日常」なのだから。


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