第6章
今日の授業、という名の拷問がようやく終わりを告げた。
終業のチャイムは、俺にとってゴングの音だ。
一日中、轟マキの挑戦的な視線と、クラスメイトたちの「アイツ何者なんだ?」という好奇の視線、その二つを全身で受け止めるという、過酷な耐久レース。
精神的な疲労感が、鉛のように身体にのしかかる。
未来の就業後には、脳の疲労物質を分解し、最適化されたリフレッシュ・プログラムが提供されるというのに。
この時代は、なんて精神力頼りの非効率な社会なんだ。
「よう、ユウト!お疲れさん。部活とかどうすんだ?」
「……いや、俺はいい。今日は帰るよ」
佐藤君の誘いを断り、俺は一人、とぼとぼと校舎を出た。
夕日が差し込む渡り廊下が、やけに長く感じる。
今日のハイライトを再生するまでもない。
数学での大失態、屋上での命懸けの攻防。
俺が目指す「平々凡々な高校生」への道は、初日にして早くも崖崩れで通行止めだ。
校門を出て、茜色に染まる通学路を歩く。
運動部の掛け声が遠くに聞こえる。
ああ、無駄だ。なんて無駄で、尊いエネルギーの浪費だろう。
俺がそんな感傷に浸っていた、その時だった。
「ねぇ、転入生さん」
鈴を転がすような、という比喩は、まさにこの声のためにあるのかもしれない。
振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
逆光の夕日を背負い、その輪郭が黄金色に輝いている。
色素の薄い髪、陶器のように白い肌、そして、まるで天使が悪戯で作り上げたかのような、完璧な微笑み。
星野ヒカリ。クラスメイトの一人だが、昼間は遠巻きにこちらを観察しているだけだったはずだ。
「藤堂ユウト君、よね?」
「ああ、そうだが……君は、星野さん、だったか」
「ふふっ、覚えててくれたのね。嬉しいわ」
彼女はくすくすと笑いながら、俺との距離を詰めてくる。
甘い花の香りが、ふわりと鼻先をかすめた。
だが、その天使のような見た目とは裏腹に、彼女の瞳は、獲物を前にした研究者のように、冷徹な好奇心で俺を分析していた。
「今日のあなた、ぜーんぶ見てたわ」
「……そうか」
「数学の授業で披露した、あのありえないほどエレガントな解法。お昼休みに、マキを軽々とあしらった、あの人間離れした身体能力。ねぇ」
彼女は俺の目の前でぴたりと止まる。
そして、その完璧な笑顔のまま、小首をかしげた。
「普通の高校生じゃないわよね?」
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
こいつ、まさか。
彼女はさらに一歩踏み込み、俺の耳元で囁いた。
その声は、悪魔の誘惑のように甘く、そして恐ろしかった。
「ねぇ、教えて?あなたは、エリア51でグレイに改造された、対異星人用の決戦兵器?それとも、プレアデス星団から地球の文化を調査しに来た、平和の使者かしら?」
「………」
「あ、もしかして……時空の歪みから現代に不時着した、未来からの孤独な監視者だったりして?」
思考が、凍りついた。
なんだ、こいつは。
エスパーか? 俺の脳内情報をハッキングしているのか? いや、未来でさえ、実用化されたテレパシー技術など存在しなかった。
非科学的だ。非科学的だが、しかし、なんだこのピンポイントすぎる的中率は!
「は、はは……」
俺の口から、乾いた笑いが漏れる。冷や汗が、背中を一筋伝っていくのが分かった。
「面白い冗談を言うんだな、星野さん。見ての通り、俺はどこにでもいる、ごくごく普通の高校生だよ」
「そう?ならいいの」
星野ヒカリは、あっさりと一歩下がる。
だが、その瞳の奥の探究心は、少しも衰えていない。
彼女は自分の学生カバンから、何やら銀色に光るものを取り出した。
それは、丁寧な手つきで折り畳まれた、一枚のアルミホイル。
彼女はそれを、まるで手品のようないくつかの動作で、あっという間に円錐形の小さな帽子へと変形させた。
「でも、気をつけて。この桜ヶ丘市の上空には、思考盗聴を目的とした諜報衛星が、常に三機は周回しているから」
「……はあ」
「これ、私の特製なの。高純度のアルミホイルが、あらゆる有害電波と思考スキャンをシャットアウトしてくれる。あなたにも、一つあげるわ♪」
差し出された銀色のトンガリ帽子を前に、俺は完全に言葉を失った。
やばい。轟マキとは違うベクトルで、とんでもなくやばい奴に関わってしまった。
こいつは、天然の狂気だ。
「い、いや、遠慮しておく。俺は特に、盗聴されたい思考もないんでね」
「ふふ、残念。また明日ね、ユウト君。あなたのその謎、この星野ヒカリが、絶対に解き明かしてあげるから♪」
彼女はそう言い残すと、天使の微笑みを浮かべたまま、軽やかな足取りで去っていった。
一人残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
なんだ、今の時間は。
轟マキとの鬼ごっこの方が、まだ予測可能でマシだったかもしれない。
俺は、星野ヒカリを「接触禁止リスト」の筆頭に記載し、重い足取りで家路についた。
今日の出来事を反芻する。
轟マキ、佐藤タケシ、そして星野ヒカリ。あまりにも個性が強すぎる。
非効率的だ。だが、不思議と不快感じゃない。
その時だった。
ポケットの中のナノファイバーカードが、熱を持って激しく振動した。
脳内に、直接、警告が響き渡る。
『緊急警報:高エネルギーの時空振動を近距離に感知。座標、上空1500』
全身の血が、一瞬で凍りついた。
追手か!?もう来たというのか!早すぎる!俺がこの時代に来て、まだ半日も経っていないというのに!
俺は反射的に空を見上げた。
街並みを茜色に染め上げていた夕焼け空が、一瞬、パリン、と音を立てたような気がした。
ガラスに走るヒビのように、空間そのものに、青白い亀裂が閃く。
それは、ほんの一瞬。
瞬きをする間に、亀裂は跡形もなく消え去り、空はまた何事もなかったかのように、穏やかな夕暮れの表情を取り戻していた。
「……気のせい、か?」
だが、手のひらの中のカードの振動は、まだ微かに続いている。
道行く人々は、誰も空の異変に気づいた様子はない。
俺だけだ。俺と、この未来のテクノロジーだけが、この時代に訪れようとしている「本当の異変」を捉えたのだ。
まずい。非常に、まずい。
星野ヒカリの言う「監視者」は、あながち間違いじゃなかったのかもしれない。
ただし、監視しているのは、俺の方ではなく――。
俺は、得体の知れない恐怖に突き動かされるように、走り出していた。
今だけは、あの古びたアパートの、安っぽいドアが、世界で一番安全な場所に思えた。
だが、その時の俺はまだ、本当の悪夢が、そのドアの向こう側で待ち構えていることなど、知る由もなかったのだ。