第5章
昼休み。
その単語が意味する喧騒の渦に、俺は眩暈を覚えていた。
食堂は、まさにカオスのるつぼだ。
あちこちで巻き起こる馬鹿げた大声の会話、トレイの上で繰り広げられる炭水化物と脂質の茶色いパレード、そして時折、誰かがこぼした味噌汁の香りが、この空間の非効率性を高らかに宣言している。
未来では、昼食は五分以内。
メニューは、全栄養素を最適に配合した栄養調整ペースト一択。
会話は禁止。すべては、午後の生産性を最大化するために。
それに比べて、なんだ、この生命力に満ち溢れた無駄のオンパレードは。
「ユウト、メシ行こうぜ!今日はA定食のカツカレーがマジでヤバいらしいぜ!」
「……すまん、佐藤君。俺は、ちょっとパスだ」
タケシのありがたい誘いを断り、俺はポケットの中の一粒を固く握りしめた。
直径一センチほどの、灰色の錠剤。
これこそ未来人の昼食。
これを人前で嚥下すれば、騒ぎになるのは目に見えている。数学の二の舞はごめんだ。
静かな場所。誰にも見られず、この味気ない固形物を胃に流し込める場所……。
俺は、校舎の最上階、屋上へと続く階段を上っていた。
錆びついたドアノブが、ギシリと文句を言う。
太陽の光が目に痛い。静寂と、孤独を求めて、俺は扉を押し開けた。
「来たな、転入生」
だが、そこに広がっていたのは、俺が求めた平穏ではなかった。
屋上のフェンスを背に、一人の少女が仁王立ちしていた。
吹き抜ける風が、彼女の黒髪と制服のスカートを激しく揺らしている。
轟マキ。その手には木刀が握られていた。
「轟さん。何か用かな?俺はただ、静かな場所で昼食を摂りたいだけなんだが」
俺はあえて、手のひらの上の小さな錠剤を見せつける。
彼女の眉がピクリと動いた。
「昼食?そんな豆みてぇなのがか?笑わせんじゃねえよ」
マキの目が、俺を頭のてっぺんからつま先まで、舐めるように観察する。
「とぼけんじゃねぇよ、藤堂ユウト。アタシの勘が、朝からビンビンに警報を鳴らしてんだ。お前は何か、とんでもねぇ秘密を隠してるってな!」
会話をする気はないらしい。
次の瞬間、彼女の身体が沈み込み、地面を蹴った。
速い。だが、遅い。
俺の動体視力は、彼女の踏み込み、筋肉の収縮、木刀の軌道を、完璧に捉えていた。
ブンッ、と空気を切り裂く音が耳元をかすめる。
俺は最小限の動きでそれを避ける。
だが、身体が、脳の指令を無視して、勝手に最適化を図りやがった。
地球の重力は、俺が慣れ親しんだ未来コロニーのそれより、およそ30パーセントも重い。
だが、危機的状況下で、俺の筋肉は故郷の低重力を基準に出力を算出してしまったのだ。
「うわっ!」
地面を蹴った足が、俺の身体を冗談みたいに宙へと打ち上げた。
視界がぐんと高くなる。
眼下には、目を丸くして空を見上げるマキの顔。
俺は空中で体勢を制御し、屋上に設置された給水タンクの上に、音もなく着地した。まるで、猫のように。
一瞬の静寂。
「……ぷっ、あはははは!やっぱりな!」
マキは腹を抱えて笑い出したかと思うと、すぐに獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「普通の人間が、そんな動きできるわけねぇだろ!お前、さては忍者か何かの末裔か!?」
「断じて違う!」
俺がタンクの上から叫んだ、その時だった。
「おーい、ユウトー!こんな所にいたのかー……って、えええええええ!?」
屋上のドアが再び開き、間の悪いことに、佐藤君が顔を覗かせた。
彼は、給水タンクの上の俺と、木刀を構えて臨戦態勢のマキを交互に見て、完全に思考を停止させている。
「佐藤君!助けてくれ!見ての通りだ!彼女が一方的に襲いかかってきて……!」
「いや、見ての通りって言われても!状況がまったく理解できねえよ!なんでお前、そんなとこにいるんだ!?」
「話せば長くなる!今は彼女を止めてくれ!」
俺の必死の訴えも虚しく、佐藤君はオロオロと狼狽えるだけだ。
その隙に、マキが再び動き出す。
「無茶言うな!俺がマキに勝てるわけねえだろ!」
逃げる俺、追いかけるマキ、そして「やめろよー!」と叫びながら、なぜか俺とマキの間をうろちょろする佐藤。
完全にカオスだ。
これが、俺が求めていた「日常」だというのか?だとしたら、あまりにもハードすぎる!
「そこまでだ、藤堂ユウト!」
マキがフェンスを蹴って三角飛びのような動きを見せ、俺のいる給水タンクへと跳躍する。
だが、濡れた配管の上に着地したのが運の尽きだった。
「あ、やべっ」
ツルリ、と彼女の足が滑る。
体勢を崩したマキの身体が、スローモーションのように屋上の縁へと傾いでいく。
フェンスの向こう側へ。校舎の五階。地面までは、絶望的な距離。
時間が、引き伸ばされる。
俺の脳が、再び、忌々しいほど効率的に計算を開始する。
落下速度、風の抵抗、俺の筋繊維が出せる最大出力、彼女の手を掴むべき最短座標――。
思考より先に、身体が動いていた。
俺は給水タンクの上から、ためらいなく身を躍らせた。
今度は失敗しない。
地球の重力を計算に入れ、最適化された、ただ一点への最短距離を飛ぶ。
風が顔を叩く。
眼下には、驚愕に目を見開くマキの顔。そして、伸ばされた彼女の白い手。
掴んだ。
指先が触れ、手首をがっちりと掴む。
落下しようとする彼女の体重が、俺の腕に衝撃となって突き刺さる。
だが、構うものか。俺は全体重を使い、空中ブランコのように彼女の身体を内側へと引き寄せ、二人分の衝撃を殺しながら、屋上のコンクリートに音もなく着地した。
そこには、言葉のない時間が流れた。
佐藤君が口をパクパクさせているのが視界の端に見える。
俺の腕にぶら下がるような形になっていたマキは、はっと我に返ると、勢いよく俺の手を振り払った。
「……大丈夫か、轟さん。怪我は?」
「……うるさい」
彼女は床に手をつき、ぜえぜえと息を切らしている。
助けられたことへの感謝はないらしい。
だが、俺を見上げるその瞳は、朝の好戦的な光とは違う、何か複雑な色を帯びていた。
驚き、困惑、そして、ほんの少しの……悔しさ?
「……チッ」
マキは大きく舌打ちをすると、乱暴に立ち上がり、制服の埃を払った。
そして、落ちていた自分の木刀を拾い上げると、一度もこちらを振り返らずにドアへと向かう。
だが、ドアノブに手をかけたところで、ぴたりと足を止めた。
そして、肩越しに、射抜くような視線を俺に送る。
「藤堂ユウト。お前、面白いヤツだな。また、すぐにでも相手してやるよ」
バタン!と、まるで彼女の激情を代弁するかのように、ドアが閉められた。
嵐が、去った。
屋上には、俺と、まだ幽体離脱している佐藤君と、そして床にぽつんと転がった、俺の哀れな昼食だけが残された。
「あーあ……」
ようやく魂が身体に戻ってきたらしい佐藤君が、ふらふらと俺の元へ歩いてきた。
そして、その手で、俺の肩を力なくポンと叩く。
「……完全にロックオンされちまったな、マキに。ご愁傷様」
その言葉を締めくくるかのように、昼休みの終わりを告げるチャイムが、やけに間延びした音で、学園中に響き渡った。