第4章
ガラッ、と乾いた音を立てて教室のドアが開く。
その瞬間、それまで無秩序な熱量を持って渦巻いていた喧騒が、まるで真空に吸い込まれたかのようにピタリと止んだ。
数十の視線が、好奇心と、値踏みするような探究心と、ほんの少しの警戒心を混ぜ合わせた、複雑な矢となって俺に突き刺さる。
「えー、皆、静粛に。今日から我々のクラスに新しい仲間が増えることになった。転入生の藤堂ユウト君だ」
担任の山田先生が、やけに張り切った声でそう言った。
若い。たぶん、教師という非効率的な職業に就いてまだ数年といったところだろう。
その証拠に、彼の熱意は教室の気怠い空気に見事にスルーされている。
俺は教壇の横に立ち、クラス全体を見渡した。
机の上には意味不明なキーホルダー。
壁には誰かの落書き。
未来の教育施設が採用している、集中力を最大限に高めるためのアイソレーション・デスクとは似ても似つかない、無駄と情報過多に満ちた空間。
素晴らしい。観察対象としては最高だ。
「藤堂ユウトです。よろしく」
俺はインプットしたデータベースに基づき、最も簡潔で効率的な自己紹介を口にした。
目的は達成された。必要最低限の情報は伝達したはずだ。
だが、なぜだろう。教室の空気が、さらに三度ほど下がった気がする。
生徒たちはどう反応していいか分からないといった顔で、互いに視線を交わしている。
非効率的だ。こういう時は「了解」の一言で済ませるのが、未来の常識なのだが。
その凍りついた沈黙を、けたたましい声が破壊した。
「センセー!」
声の主は、窓際の席にふんぞり返って座る一人の女子生徒だった。
緩く着崩した制服。肩にかかる艶やかな黒髪。
そして、机の横に無造作に立てかけられた、一本の木刀。
その存在が、彼女の周囲に「半径五メートル以内、立ち入り禁止」という不可視のオーラを放っている。
山田先生が、あからさまに「うわ、面倒なのがきた」という顔をした。
「な、なんだね、轟さん」
「転入生に質問がありまーす!」
轟――彼女はそう呼ばれていたか――は、俺から一切視線を外さずに、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
「お前、ケンカ強そうだな。武道経験は?」
教室が、どっと沸いた。
なんだその質問は。
初対面の相手に対するコミュニケーションとして、あまりにも突飛で非合理的だ。
「いや、特には……。俺は暴力という、非生産的な問題解決手段を好まないんで」
俺はあくまで冷静に、当たり障りのない回答を返す。
だが、彼女の洞察力は、俺の想定をわずかに上回っていた。
「ふーん、でもその立ち方、素人じゃねぇな。背筋が寸分の狂いもなく伸びてて、重心がまったくブレてない。いつでも、どっちにでも動けるって感じだ」
クソっ!
内心で悪態をつく。
これは未来の低重力コロニーに適応するための、基礎身体訓練の賜物だ。
骨格と筋肉に染み付いたこの姿勢は、意識しないとすぐに現れてしまう。
俺は慌てて少しだけ猫背になり、気だるそうな高校生を装った。
「轟さん!転入初日から、変な質問をするのはやめなさい!藤堂君、すまないな。席は……あそこだ。佐藤の隣が空いている」
山田先生に促されるまま、俺は教室の中程にある空席へと向かった。
俺が席に着くなり、隣の席の、人の良さそうな、しかしどこか気苦労の多そうな顔をした男子生徒が、こっそりと話しかけてきた。
「あー……災難だったな。アイツ、轟マキ。うちのクラスのラスボスで、学園最強の問題児。強い奴とか、面白い奴には目がねーんだよ」
「轟マキ……」
「俺は佐藤タケシ。よろしくな。まあ、マキに目をつけられたってことは、ご愁傷様ってこった」
佐藤タケシ君は、そう言ってなぜか遠い目をした。
彼がこれまで、どれほどの災難に巻き込まれてきたのか、手に取るように分かる。
彼とは仲良くやれそうだ。
主に、俺が面倒事を押し付ける相手として。
一時間目のチャイムが鳴り、山田先生による数学の授業が始まった。
黒板にチョークが叩きつけられる音。
数式が、まるで古代の象形文字のように書き連ねられていく。
俺は内心、あくびを噛み殺した。
(なんだ、この問題は……。未来じゃ、初等教育課程の暗算ドリルレベルじゃないか)
非効率の極みだ。俺なら、この問題の証明に三行もいらない。
そうこうしているうちに、山田先生がクラスを見渡した。
そして、その視線が、悪意を持って俺にロックオンされた。
「では、腕試しに、転入生の藤堂君、やってもらおうか。さあ、前に」
クラスの視線が、再び俺に集中する。
特に、轟マキの視線が、ナイフのように突き刺さる。
試されている。このクラスにおける俺の序列が、この一問で決まる。
面倒なことこの上ない。
俺はため息を一つついて席を立ち、教壇へと向かった。
チョークを手に取り、黒板に書かれた数式を見上げる。
「先生」
「ん?なんだね、藤明君」
「この公式ですが、より高次元に存在する、虚数空間ベクトルの次元解析理論を応用することで、以下のように、より簡潔かつ美しく証明することが可能です」
俺はそう宣言すると、黒板の数式をチョークで大胆に消した。
「なっ!き、君、何を!?」
山田先生の悲鳴をBGMに、俺は流れるような動きで、まったく新しい数式を書き連ねていく。
それは、この時代の数学体系には存在しない、未来の理論。
冗長な計算をすべてすっ飛ばし、問題の本質だけを抜き出して解体し、再構築する、芸術的なまでの解法。
一行。
二行。
三行。
証明、完了。
教室は、水を打ったように静まり返っていた。
いや、先ほどの沈黙とは違う。
畏怖と、驚愕と、完全な理解不能が支配する、絶対的な静寂。
山田先生は、チョークを持ったまま化石のように固まっている。
そして、俺は見た。
教室の窓際。轟マキが、それまでのふてぶてしい態度を捨て、身を乗り出すようにして黒板を、いや、俺を見つめていた。
その唇の端が、三日月のように吊り上がっている。
瞳は、最高の獲物を見つけた肉食獣のように、爛々と輝いていた。
(まずい)
心のサイレンが、けたたましく鳴り響く。
(普通の高校生を演じるつもりが、初日の午前中で、学園最強の問題児にロックオンされてしまった……!)
これから始まるであろう、面倒で、非効率的で、そして多分、最高に面白い日々の幕開けを、俺は確かに予感していた。