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第3章

 桜ヶ丘学園の校門前に、俺は立っている。


 春の太陽が容赦なく降り注ぎ、空には昨日見たのと同じ、のんびりとした白い雲が浮かんでいる。

 耳をつんざくのは、けたたましい笑い声、意味のないお喋り、そして時折混じる甲高い悲鳴。


 なんだ、この無秩序な音の洪水は。

 未来の教育施設なら、指向性スピーカーによる個別連絡と、サイレントモードでの移動が義務付けられているというのに。


 ヒソヒソとした会話が耳に届く。

 どうやら俺の擬態は、完璧すぎたらしい。

 

 この制服は、ポケットの中のナノファイバーカードで即席に作り上げたものだ。

 この時代の学生服のデータをスキャンし、素材の分子構造から完璧に再現した一品。

 

 黒はどんな染料よりも深く、白はありえないほどに潔い。

 俺としては完璧なカモフラージュのつもりだったが、逆に浮いてしまっているとは。

 計算外だ。


 まあいい。重要なのは、俺がこれから「高校生」という名の未知の生命体を、研究者として、いや、当事者として観察できるという事実だ。

 胸の高鳴りを抑えきれない。


 職員室は、俺の想像を絶するカオス空間だった。

 鳴り響く電話のベル、飛び交う教師たちの怒号に近い雑談、そして鼻をつく安いコーヒーの香り。

 効率の欠片もない。素晴らしい。

 ここはまさに、俺が研究すべき「無駄」の聖地だ。


「君が藤堂ユウト君かね?」


 俺を迎えたのは、見るからに疲弊しきった様子の教頭先生だった。

 脂汗の浮いた額、くたびれたスーツ、そして分厚い眼鏡の奥で疑念に細められた瞳。

 彼の前には、俺が未来のネットワークをハッキングして文部科学省のサーバー経由で送りつけた、ペラペラの転入申請書が置かれている。


「はい、藤堂ユウトです」

「ううむ……」教頭は唸りながら、書類を指で弾く。「教育委員会からの正式な書類ではあるんだがね……あまりにも情報が少ない。まず、保護者の欄が空欄だ。これはどういうことかね?」


 問題ない、想定内の質問だ。

 俺はスキャンしたデータベースの中から、最も無難な回答を引き出す。

 

「両親は、現在、長期の海外出張に出ておりまして。ええと、秘境の地で地質調査を行っているため、一切の通信が遮断された環境にいます。はい」

「地質調査……」


 教頭の眉間のシワが、さらに一本増えた。

 どうやらこの言い訳の説得力は、Cマイナスといったところか。


「まあ、それはいいとしよう。だが、この出身中学はなんだね?『東京都立 第三中学校』?すまんが、聞いたことがないな」

「……!」


 まずい。ナノマシンが参照したデータベースは、六十二年前の時点でさえ、すでに古かったらしい。

 完全に失策だ。

 だが、ここで動揺すればすべてが終わる。

 俺は脳をフル回転させ、瞬時に次の嘘を構築した。


「ああ、それですか。実は、そこは国家主導の教育改革のための実験的なパイロット校でして。ええ、ごく少数の生徒しか在籍していなかったんです。で、先月、その……プロジェクトの終了に伴い、組織改編で別の教育機関に吸収されてしまいまして。はい、ですので、記録には残っていないかと」

「国家主導のパイロット校……?」


 教頭の目が、疑いからわずかな困惑へと変わる。

 国家だの、プロジェクトだの、それっぽい単語を並べれば、こういう権威に弱いタイプは思考が停止する。

 俺の計算通りだ。


「しかし、それにしても、だ。君の身元を証明するものが何もない。成績証明書の原本なり、何か……」


 これ以上は、口先だけでは誤魔化しきれないか。

 俺は仕方なく、最後の手段に出ることにした。

 

「ああ!そういえば、カバンの奥にしまい込んでいたかもしれません!少々お待ちを!」


 俺はわざとらしく自分のカバンを漁るふりをし、机の陰でナノファイバーカードを起動させた。

 

『命令。桜ヶ丘学園の標準的な生徒手帳、及び第三中学校からの転校証明書を生成。素材は周囲の有機物から調達。使用感、レベル3。軽度の汚損、レベル2を付与せよ』


 意識の中でドキュメントのレイアウトを設計する。

 証明書には、かすれた校長印と、ごく自然なインクの滲みを。

 生徒手帳の顔写真には、少し緊張した面持ちの十七歳の俺のデータを。完璧だ。

 

 カードが微かに振動し、俺の手の中に、まるでずっとそこにあったかのような質感の書類一式が実体化する。

 仕上げに、指で証明書の隅にわずかなシワをつけ、本物感を演出する。


「ありました!これです!いやあ、お恥ずかしい」


 俺が差し出した書類を、教頭は虫眼鏡でも使いそうな勢いで精査し始めた。

 だが、ナノマシンが分子レベルで再構成した物質に、欠点などあるはずもない。

 完璧な紙の繊維、絶妙な経年劣化、そして手書き風の署名。


「……ふうむ」


 長い沈黙の後、教頭は諦めたように大きくため息をついた。

 

「……わかった。手続きを進めよう。君のクラスは、二年B組だ。担任は山田先生だから、後で挨拶に行くように」


 ガチャン、と無機質なスタンプの音が、俺の「勝利」を告げた。

 第一関門、クリアだ。


「ありがとうございます!これからお世話になります!」

 

 俺は、この時代で最も好感度が高いとされる、爽やかな笑顔を顔面に貼り付けて深々と頭を下げた。


 俺は自分の教室――二年B組のプレートが掛かったドアの前に立つ。

 ドアの向こう側からは、先ほど校門で聞いたのと同じ、無秩序で、活気に満ちた喧騒が漏れ聞こえてくる。


 ごくり、と喉が鳴った。

 これから、俺の本格的なフィールドワークが始まる。


 未来人、藤堂ユウト。十七歳。本日、桜ヶ丘学園二年B組に転入。

 研究テーマは、『二十一世紀の非効率的日常における幸福度の最大値』。


 さあ、この扉の向こうには、一体どんな「無駄」が満ち溢れているんだろうか。


 俺は期待に胸を膨らませ、教室のドアに手をかけた。

 

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