第2章
最初に俺の意識を叩き起こしたのは、音だった。
ピッ、ピッ、という規則正しい電子音じゃない。
もっと不規則で、高低差があって、生命感に満ち溢れた、意味不明な音の連続。
なんだこれは。何のメロディだ?
次に、匂い。濾過機を通した無味無臭の空気じゃない。
湿り気を帯びた土の匂い、むせ返るような青臭い植物の香り、そしてなんだかよく分からない微粒子が混じった、ざらついた匂い。
身体が、脳が、未知の刺激に警報を鳴らす。
「……っ、ごほっ!げほっ!」
ゆっくりと目を開ける。
網膜に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
空。どこまでも青い、本物の空。
未来のドーム都市で見るスクリーンセイバーじゃない。
雲が、白い絵の具を雑に塗りたくったみたいに、ゆっくりと流れていく。
そして、緑。緑、緑、緑。
視界のすべてを埋め尽くす、暴力的なまでの生命の色。
葉脈の一本一本までくっきりと見える葉っぱが、風に揺れてざわめいている。
未来の教科書でしか見たことのない「自然」が、当たり前の顔をしてそこに在る。
「く、空気が……濃い!」
思わず叫んでいた。
深呼吸を試みた瞬間、肺が悲鳴を上げた。
なんだこの空気は!
清浄度が低すぎる!
無数の微粒子――花粉か?ホコリか?それとも未知の微生物か?――が気管を蹂虙し、俺は芝生の上に突っ伏して激しく咳き込んだ。
「おい、君、大丈夫か?」
頭上から、男の声が降ってきた。
見上げると、赤いジャージを着た初老の男性が、訝しげな顔で俺を見下ろしている。
なんて非効率的な格好で、なんて非効率的な行為を……まさか、これが「ジョギング」というやつか?
「は、はい! だ、大丈夫です!」
俺は慌てて上半身を起こす。
だが、その拍子に自分の身体の異変に気づいた。
なんだ? 視線が高い。それに、昨日まで着ていた白衣が、まるで親の服を借りてきた子供みたいにブカブカだ。
「そうは見えんがな。顔、真っ青だぞ。昨日の夜からここにいたのか?」
「いえ!たった今、着いたところです!」
「はあ?」
おじさんの眉間のシワが深くなる。
しまった。今の言い方はおかしい。
どうやら俺の脳も、この時代の濃すぎる酸素にやられて正常に機能していないらしい。
「そ、それより、質問があります!今は西暦何年、何月、何日、何曜日でしょうか!?」
「はあ!? なんだお前、記憶喪失か何かなのか?」
おじさんは呆れつつも、腕につけたアナログな時計――未来じゃ骨董品だ――に目を落とした。
「今日は2025年の4月1日、火曜日だが……」
にせんにじゅうごねん……。
俺の頭の中で、未来の演算装置が火花を散らす。
2087年から、62年。
正確には62年と75日を遡って過去に飛ばされた、と。そしてこの身体……俺は公園の隅にある池に駆け寄り、水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、俺であって、俺でない顔だった。
二十七歳の、効率化社会に疲弊しきった研究員の顔じゃない。
もっと若く、肌にはハリがあり、目にはまだ生意気な光が宿っている。
十七歳。無駄なことに夢中になり、まだ「効率」なんて言葉を知らなかった頃の、藤堂ユウトの顔だ。
「若返って……る?」
呆然と呟く俺の足元に、何かがすり寄ってきた。
茶色と白の毛玉。
四つ足で、にゃあ、とか細い声で鳴いている。
「うわ! 生き物が普通に歩いてる!」
俺は思わず後ずさる。
未来では、ペットでさえ遺伝子レベルで管理され、許可なく屋外を歩き回ることなど絶対にありえない。
恐る恐る手を伸ばし、その背中に触れてみた。
柔らかい。そして、温かい。生きている。
その当たり前の事実に、俺の思考は完全にフリーズした。
「はっはっは、猫に懐かれるとは、悪い奴じゃなさそうだな」
ランニングのおじさんが笑っている。
「まあ、何か困ったことがあったら、そこの交番に行くといい。じゃあな、若いの」
そう言い残して、おじさんはまた非効率的な走りに戻っていった。
一人、公園に取り残される俺。
混乱。驚愕。そして、ほんの少しの好奇心。
どうする。俺はどうすればいい?
そうだ、アレがある。
俺はブカブカの白衣のポケットを探り、一枚のカードを取り出した。
一見ただのプラスチックカードだが、これは俺の知識と未来のテクノロジーの結晶だ。
自己増殖するナノマシンで構成された、携帯端末であり、簡易的な情報スキャナーでもある。
カードを握りしめ、意識を集中する。
『起動。周囲の情報をスキャン』
カードが淡い光を放ち、俺の脳内に直接、情報の奔流がなだれ込んできた。
『……電波情報スキャン……Wi-Fi、Bluetooth、多数検知……』
『……言語データベース照合……日本語。語彙レベル、21世紀初頭標準……』
『……現在地特定……日本国、東京都、桜ヶ丘市……』
『……今日の天気、晴れ。最高気温、18度。降水確率、10%……』
『……周辺情報取得……桜ヶ丘学園……』
凄まじい情報量に、頭が割れるように痛む。
だが、同時に、自分が置かれた状況がクリアになっていく。
俺は六十二年前の過去、東京のどこかの市に不時着した。
身体は十歳も若返り、高校生にしか見えない。
「……面白い」
口から、そんな言葉が洩れた。
絶望的な状況のはずなのに、なぜか胸が躍っている。
未来にはなかったものばかりだ。
不規則な鳥の声、濃すぎる空気、本物の緑、野生の猫、そして、お節介なおじさん。
すべてが非効率的で、予測不能で、そして――どうしようもなく魅力的だ。
俺は立ち上がった。服はブカブカだし、所持金はゼロ。
帰れるあてもない。
でも、不思議と不安はなかった。
ポケットの中の古い写真を、そっと指でなぞる。
あの非効率的な笑顔が、俺を応援してくれている気がした。
「やってやるか」
不敵な笑みが、自然と口元に浮かぶ。
「この時代の『日常』ってやつを、俺が体験してやる。まずは、手始めに……」
俺は、スキャン情報にあった「桜ヶ丘学園」の方向を向いた。
「この時代の『高校生』とやらに、なってやろうじゃないか」
未来人、藤堂ユウトの、波乱万丈で最高に非効率的な現代生活が、今、始まろうとしていた。