第1章
「実験体YT-01、準備完了です」
ああ、またその声か。
完璧に調律された、感情の起伏を一切感じさせない合成音声。
まるで汚物でも見るかのように俺を「実験体」と呼ぶその声が、俺はこの無機質な白い部屋の次に嫌いだ。
壁という壁には、青白いホログラムの標語が幽霊みたいに浮かんでいる。
『効率こそ正義』『無駄は罪』。
ご丁寧にも明朝体だ。
誰の趣味なんだか。
効率を求めるなら、もっと視認性の良いゴシック体にでもすればいいのに。
俺、藤堂ユウト、二十七歳。
職業、第三区画研究所「効率化推進局」所属、しがない研究員。
そして、この効率至上主義社会における、札付きの「効率化不適合者」だ。
「聞こえているのかね、藤堂研究員」
背後からの声に、俺は白衣のポケットに隠し持っていたモノを強く握りしめた。
声の主はタナカ主任。
今日も今日とて、ランチタイムを五秒で終わらせるための特製栄養錠剤を、水なしで嚥下している。
カリカリ、という乾いた咀嚼音が、やけにこの静かな部屋に響く。
「……はい、聞こえています」
「君のその『日常体験シミュレーター』とやら、本当に意味があるのかね? 上層部もかなり懐疑的だ。こんな非生産的な研究に、これ以上リソースは割けないとね」
俺は目の前の巨大な装置を見上げた。
銀色に鈍く輝くリングが幾重にも重なり、その中心で青い光球が静かに呼吸している。
俺の夢と、そして崖っぷちのキャリアのすべてが、この鉄の塊に詰まっている。
「意味はあります。人類には『無駄』が必要なんです。意味のない会話、寄り道、馬鹿みたいに笑い合う時間。そういう非効率的なものの中にこそ、人間性の本質が——」
「ポエムは結構だ」
タナカ主任は俺の言葉を冷たく遮る。
彼の瞳には、俺が人間ではなく、修正すべきプログラムのエラーとして映っている。
それがありありと伝わってくる。
「いいかね、藤堂君。我々人類は、感情という非効率的なバグを克服したんだ。嫉妬も、怒りも、そして君が執着するくだらない感傷も、すべて過去の遺物だ。アップデートの終わった我々には、もう必要ない」
「それは克服じゃなく、ただの機能削除でしょう」
「いずれにせよ、これが最後のチャンスだ。上層部は君を『効率化不適合者』と判定している。この実験が失敗に終われば、君の身柄がどうなるか……言わなくても理解しているだろう?」
理解している。もちろんだ。
この社会で「不適合者」の烙印を押されることの意味を。
それは、社会からの完全な排除。
思考も、感情も、存在そのものも、すべてを矯正施設で「最適化」される。
元の自分では、二度といられなくなる。
ポケットの中で握りしめた写真の角が、汗ばんだ指に食い込む。
そこに写っているのは、今では閲覧すら違法とされている「集合写真」。
古いデータアーカイブの深淵から、命がけでサルベージしたものだ。
男も女も、子供も老人も、みんな歯を見せて、肩を組んで笑っている。
なんて非効率的で、なんて無駄で……そして、なんて眩しい光景だろう。
俺は、この笑顔の正体が知りたい。
ただ、それだけなんだ。
俺は覚悟を決め、コンソールの前に立った。
指先が微かに震えるのを、誰にも気づかれないように祈りながら。
「日常体験シミュレーター、起動シークエンス開始」
俺の声に呼応し、AIアシスタントが応答する。
「承認。シークエンス、スタート」
静寂が破られた。
装置の中心にある光球が、心臓のように脈動を始める。
重低音が部屋を震わせ、壁のホログラムがチカチカと瞬いた。
コンソールの画面に、膨大な量のコードが滝のように流れ落ちていく。
正常だ。ここまでは、シミュレーション通り。
「第一次臨界点、クリア。時空座標、安定」
リングがゆっくりと回転を始め、光球は徐々にその輝きを増していく。
美しい。俺が心血を注いで作り上げた、たった一つの希望。
この装置は、記録されている過去のデータ――特に、非効率の塊だったという二十一世紀の日常を、仮想空間で体験させてくれるはずなんだ。
「出力上昇。第二次臨界点へ移行します」
その時だった。
『エラー!エラー! 時空座標定点に異常発生!』
けたたましい警告音が、思考を麻痺させる。
コンソールの画面が、見たこともない赤い警告表示で埋め尽くされた。
「なんだ!? どうなっている!」
タナカ主任の冷静さが初めて剥がれ落ちる。
装置の回転が不規則に速度を増し、青い光はいつしか、危険なプラズマの稲妻を撒き散らす青白い光へと変貌していた。
空気が焦げ、オゾンの匂いが鼻をつく。
「緊急停止だ! 今すぐ止めろ、藤堂!」
「だめです! 制御不能!」
俺が叫んだ瞬間、凄まじい引力のようなものが身体を捉えた。
まるで巨大な掃除機に吸い込まれるように、足が床から浮き上がる。
「うわっ!」
身体が宙を舞い、装置の中心へと引きずり込まれていく。
ポケットから滑り落ちた例の写真が、光の渦の中でひらひらと舞った。
非効率的な笑顔が、やけに鮮やかに見える。
タナカ主任の絶叫が遠のいていく。
歪む視界の端で、壁の標語がぐにゃりと捻じ曲がっていくのが見えた。
『効率こそ正義』
その文字が、まるで奇跡のように、別の言葉へと書き換わっていく。
『笑顔こそ正義』
ああ、そうか。それだよ。
俺がずっと探していた答えは。
暴走するエネルギーに意識が焼かれる寸前、俺の口から洩れたのは、悲鳴ではなく、どこか間抜けな本音だった。
だが、心の奥底で、もう一人の自分が囁いていた。
もし本当に、そんな世界があるのなら。
笑顔が、ただそれだけで肯定されるような、無駄に満ちた世界があるのなら――。
そこで、俺の意識は完全にブラックアウトした。